フッカ
「おはようございまーす」
『SHIRAI』と書かれた表札のすぐ横にあるドアホンのチャイムボタンを押しながら、大声で挨拶する。モニターで確認するより声の方が手っ取り早いだろう。家の中から小さくチャイムの音が漏れ聴こえてくる。いつも、それを合図にするみたいに、フッカの朝の支度がスタートする。これから20分ほど彼女のお出かけ準備が完了するまで待つことになる。長丁場だ。
オレが待っている間に、フッカは朝御飯を食べ、歯磨きをし、顔を洗って髪を解かし、着替えて、トイレにも行って、普通の女の子が20分で出来ようはずがない朝の戦闘を繰り広げているんだ。
いつものように中で待たせてもらおうと門扉に手を掛けたらドアホンからカチャッという小さなスイッチ音がした。
『ちょっと待っててね』
落ち着いたアルトの音階。詩の朗読をさせたら一級品だろう。たとえば夜中にこっそり秘密の電話をしたい声。
フッカの声だ。だが、どういうことだろう。
「あ、おお」焦っておかしな返事になったが、もう向こうからの反応はない。
このドアホンに通話機能があることを改めて思い出した。ここ数年、朝のお迎え時にドアホンからフッカの声を聴いた記憶がない。いつもなら勝手に玄関に入って中で待たせてもらうからだ。
毎日毎日あまりにもフッカがオレを待たせるもんだからママさんが気の毒に思って玄関のロックを解除してくれるようになったのは、彼女が小学校に入って間もなくのことだった。ごくたまに鍵が閉まってるときがあるが、そういうときはだいたいパパさんが家にいる。
『ちょっと待っててね』というのは、ここで待てということか、それともいつものように中で待てということなのか。どうしよう。このままではこの状態で20分間待つことになりそうだ。
きょうから三学期がスタート。毎朝のお迎えが始まりフッカに会える期待感で高揚していたところに、いきなり声を聞かされて幸せすぎて冷静な判断ができない。
念のため、もう一度ドアホンのカメラを覗き込んでみたが変化なし。もちろん向こう側が見えるわけでもない。
「フッカー……」マイクに話しかけても音沙汰なしだ。
「ふ~みかちゃ~ん、愛してるよ~」まずはアニメの口真似から。調子に乗って幾つか過激な言葉も並べてみたが、一分と暇が潰れるものではない。
よし、とりあえず、中に入ってみようか。ひとまず、この氷点下に近い寒気からも逃れたい。一瞬、パパさんがいるのかとも思ったが、昨日朝早くに単身赴任先に出かけていったんだった。ママさんだけならダメとは言われないだろう。
そう決心して、表札の前から行動を起こしたとき、玄関ドアが勢いよく開いた。ドアの前にいなくて命拾いだ。派手に開いた玄関から飛び出してきた見慣れぬ女の子がオレの目の前まで駆け寄ってくる。
なんだこの子は!?
いや、フッカだ。フッカ以外の何者でもないこの子は誰だ!? キラキラした女の子の姿に思わず頬が緩む。いったい、読者モデルの選手権にでも応募しようっていうのか? もしフッカが雑誌の読モに載ってたら三冊買ってもいい。〝読む用〟と〝保存用〟と、それに〝汚してもいい用〟だ。
目の前の煌めくフッカにいつもの澱んだ姿を思い浮かべる――寝癖を手櫛で三回撫で付けただけのボサボサ髪。薄皮の浮いた唇に指一本入るぐらいだらしなく開いた口元。力なく下がった頬はかさついて、血色の悪さと相まって表情を薄めている。せっかくの愛らしい二重の目はどことなく自信なさげに瞼が下がって視線が定まらない。平均身長より7センチ低いのに猫背のせいでさらに小さく見えて、遠目に御伽噺のお婆さんのようだ。服装はいつも両サイドに二本ラインが入った赤いジャージでプーマとナイキの二着をローテーション。靴もプーマとナイキでコーディネートはされているが、二学期は気に入ったナイキの方ばかり履いていた。冬場はその上に膝下まである白のダウンコートでカーマインレッドのランドセルを背負えば通学服の完成だ――。
「おっはよー」
右手を上げて飛び込んでくる光の少女にオレも手を上げて応えた。澄んだ音が響くハイタッチ! 背筋の伸びたフッカの手はいつもより十センチ位置が高かった。
「おはよう」
オレはもう顔が緩みっぱなしだ。玄関の中で見送りに出てきたママさんも、
「行ってらっしゃい」といつも以上に笑顔が弾けている。
ここから、バス通りの吉田商店前までの330メートルが二人だけのプロムナード――地元の人は農道と言うが――だ。そこで、他からの児童十人と集まって、学校へ向かうことになる。
いつものように、並んで小さな手を取った。朝のハイタッチが済んでお互い手袋を付けたけど、家から出たばかりのフッカの手はホカホカとして手袋越しにも心の中まで温められる。
この、隣で微笑む――いつもはもっと無表情だが――黒髪の乙女が白井文香、オレの大切なフッカだ。オレの二つ下で市立山北小学校――通称、山小――の四年一組。7月23日のふみの日生まれの獅子座、O型。身長百三十三センチメートル。体重とスリーサイズについては非公開になってるが、オレには測るたんびにグラム単位、ミリ単位で詳細に教えてくれる。最近は胸囲の伸びを気にしているようだが、残念なことに現状を視察させてもらったことはない。
フッカはオレが小学校に入学する春に世田谷から家の隣に引っ越してきた。
オレは、もうすぐ入学式という時期で、リビングで真新しいランドセンを開けたり閉めたり、背負ったり抱えたり、また開けたり閉めたりしてウキウキ、ニヤニヤしていた。部屋の中をウロウロ徘徊して、何気なくリビングの掃き出し窓のカーテンを開いて中庭を覗いた。
中庭の真ん中にはこの家のシンボル的なでっかい岩が居座っていて、その、庭石の上に女の子が突っ立っていた。まるで、テレビに出てくるお嬢様のようにお洒落で洗練されたスタイルだ。
その子はオレに気付くと真剣な眼差しで手招きをした。庭に降りて近寄るとオレの視線よりずっと高くから見下ろされる格好で、まるで女神の降臨かヴィーナスの誕生のワンシーンのようだった。もう、この子の言うことなら何でも聞かなきゃいけないような、そんな気持ちになった。
「お兄ちゃん、たすけて」
女神さまからの最初のご神勅は「ここから降ろして欲しい」だった。どうやら庭石に登りはしたが降りられなくなっていたらしい。
断崖絶壁の上で助けを求める姫君を勇者は命を賭して受け止め抱き締めた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
腕の中でホッとして無邪気に微笑む小っちゃくて柔らかな少女がすっかり気に入って、そのまま自分の部屋に〝お持ち帰り〟した。チョコレートをあげて、一番上等のリンゴジュースでおもてなしして、オセロを一緒にやった。
キラキラと笑顔が輝く愛くるしい都会育ちのお嬢様がオレの人生の真ん中に突然舞い降りたんだ。それからの付き合いだ。
そんな都会のお嬢様も、地元の幼稚園に通うようになるとすっかり土の匂いのする村娘になったが、いまだに好きで好きでたまらない。
『時の流れに褪せることのない変わらぬ愛』という文学的なシチュエーションに酔い痴れているだけかもしれないと思った時期もあったが、最近のフッカに対する内面から湧き上がる感情はもっと生々しいものになってきている。
真剣に『フッカに告白するか?』という計画を練ったこともあるが、よくよく考えればオレはしょっちゅうフッカに好きだとか愛してるとか言っている訳だ。いまさら改めて告白もないだろうし、言ってみればもう付き合ってるも同然ではないか。毎日のようにこうして手も繋いでいるし、家に遊びに来てはオレの布団で一緒に昼寝もしてる。
当面の課題は『いかにして初めてのキスをするか』なのだ。
いままでに何度かそういう機会を逃してきたが、今年のバレンタインあたりは絶好のチャンスではないかと踏んでいる。意外とフッカは肉食系女子のところがあって〝その手の話題〟に結構食いついてくるからだ。そのうえ、ことしはあのパパさんが家にいないのだから。
そう遠くない未来への淡い期待を胸に、並んで歩く少女に視線を送った。
目の高さに真っ黒なストレートの髪が、念入りに手入れされてキラキラと天使の輪が輝いている。耳の上のところに留まってるウサギを模したヘアピンはキミトのオープニングイベントの後に二人して二階のファンシーショップで買ったもので、メッセージカードを添えてプレゼントした。
そんなふうにフッカとはどこでどう過ごしたかも克明に記憶している。もう、オレの知能と体力の殆どを――あと小遣いも――彼女に傾注していると言っても過言ではない。オレの人生のすべてをこの愛する女に捧げるのだ。それほどにフッカは、どうしようもなく愛おしい存在なのだ。理由なんてない。なぜなら人が人を好きになることに理由なんかないからだ。
「ん?」
視線を感じたのか、たまたまか、オレがじっと見ていることに気付いて、眉をあげた。
「いやぁ、きょうは一段と可愛いなって……」
「もう、なに言ってるの、お兄ちゃん!」
フッカが繋いだ手を引っ張るようにしてオレの身体に肩をぶつける。口をきゅっと一文字にして、まんざらでもなさそうに、目で笑っている。フッカ版のアヒル口だと思う。
いつもオレが可愛いとか言うと、眉を寄せて下唇を尖らせ困ったような顔で睨んでくるのに、よほど新学期が嬉しいのだろうか。
意外な女の子な反応に心臓を鷲掴みにされて呼吸困難に陥りそうだ。
もしオレが倒れたら迷わずマウストゥマウスで人工呼吸して欲しい。
「あ、そうだ、お兄ちゃん」
フッカが急に思い出したように真顔になる。
子供を叱る母親に似た顔つきは、ガキっぽいオレの行動に対してよく見せる表情だ。年下の女の子のちょっとした母性はおませなままごと遊びのようで微笑ましい。
「さっきのドアホン、中で通話切ってなかったからまる聞こえだったよ」まったく恥ずかしいんだから、と膨らました頬を指で突っついてやりたいがそれどころではない。
オレの『ふ~みかちゃ~ん、愛してるよ~』他、放送禁止に近い言葉の数々が白井家のリビングに響いていたかと思うと心がざわつく。耳が熱くなる。ママさんが見送りの時にオレを見て思いっきり爆笑していたのはそのせいだったのか。笑ってくれたのがせめてもの救いだが、新年早々の黒歴史だ。というか、自分の娘にあんなこと言われてんのによく笑っていられる。たいしたもんだ。パパさんだったら間違いなく絞め殺されていただろう。
「お風呂なんか、絶対一緒に入ってあげないからねー」
繋いだ手を解いて跳ねるように一歩前に出て、舌を見せた今日のフッカは実に表情が豊かだ。
「冗談に決まってるだろ、冗談!」男が本心を語って滑った時の言い訳№1は、大人も子供も変わらない。
からかうように2メートル向こうでくるっと回る元気な姿を目で追った。ふわっと揺れる裾から覗く膝小僧とふくらはぎまで隠れる白いハイソックス。
おいおい、スカートだ。フッカが通学でスカートを穿くのは年に何度あるだろうか。お尻まで隠れる明るいブラウンのダッフルコートから見えるのは白いスカートの裾部分だけだ。コートの下に何をコーディネートしているのか気になる。
「なあ、ちょっと脱いで見せてよ」
フッカの動きがぴたっと止まって、鼻の頭にしわを寄せて睨みつけてくる。
「エッチ、見せない!」両手でコートの襟をギュッと締めた。
きっとさっきのドアホンへの熱いメッセージのせいだ。いくらオレでもこの寒空の下、通学途中の道路脇で女の子に「おっぱい見せて」なんていうわけがないだろう。
「いや、コートの中になに着てるか教えてってことだよ」可愛い格好をしているから気になったんだと、宥めるように説明する。
「なあんだ、そっか……」当人もさすがに勘違いだと分かってくれたようだ。フッカの後ろに回って、背中からランドセルを受け取る。重みのなくなった肩を2回ぐるっと回すとコートのトグルボタンを外しに掛かった。
女の子が胸のボタンを外す仕草はどことなく艶めかしい。たとえそれがオーバーコートのでもだ。ダッフルコートの前合わせは普通のボタンではなくループをトグルに引っ掛けるタイプなので手袋着用でも楽に外せるはずなのに妙にゆっくりした動きでじらされてるようで見ていてムズムズする。どうやら、デザインが気に入って買ったのはいいが現品限りでサイズの合っていないぶかぶかのミトンの手袋と去年のクリスマスにサンタさんにプレゼントしてもらったばかりの真新しいコートのループがまだ固いことに加え、フッカの天性の不器用さが相まって悪戦苦闘しているようだ。が、この気温では手袋を外すという選択肢は彼女にはないのだろう。一つ目のトグルをようやく外してフッカが力尽きた。
「もう、お兄ちゃん、見たいんだったら脱がせて!」
そういう台詞はもっと違うロマンチックな場所と時間に聞かせて欲しい。手早く済ますために手袋を外してポケットに突っ込んだ。
女の子の服を脱がしているところは余り近所の人に見られたくないからだ。このシチュエーションだけで気持ちが高まってしまう。少し前屈みになって、フッカの顔が至近距離にあるのもドキドキする要因の一つだ。トグルを外す手元を見ているのか、どさくさに紛れて胸に触らないように監視しているのか、視線を落としてて、二重のラインがくっきりと一段と愛らしい。ふっくらした頬もきょうはいつものローションでも塗ってきたのか茹で卵のようにツルンと張りがある。なにより、濡れたようにぷるんとした唇が朝の光の中で赤い宝石のようにきらめいている。
(キスって、どんな感じなんだろ……)いきなりそんなことが頭に浮かんだ。
彼女の前髪がちょっと太めの眉をいい具合に隠す長さでサラサラと風に揺れた。
フッカがハッと上目遣いにオレと目を合わせると口元に手をやっていきなり吹き出した。
「お兄ちゃん、鼻息荒い!」
どうやら高鳴る胸のときめきが前髪を揺らす風になっていたみたいだ。
「ごめん」顔が熱くなって、それを隠すためにしゃがんでトグルに取りかかった。両手で顔を覆うようにして本格的に身体を揺らして笑う少女のトグルをなんとか外し終えてコートを預かった。
「こんな感じ」笑いの余韻のまま軽く腕を広げるフッカから一歩離れて全体を見る。丸襟のブラウスの上にペールピンクのスクールセーター。緩いドレープの入った膝丈の白いスカート。
可愛い。このまま学校サボってキミトにデートに行きたい。
いや、まだ営業時間外だ。食品売り場だって9時からなのだ。学校終わってからでいい。どうせきょうは始業式の後は学活に社会と国語の午前中だけだ。この格好なら昼飯おごってもいい。
オレの感嘆符付きの溜息に、フッカが笑顔で右足を軸にくるっと一回転。バランスを崩してよろけるところがフッカらしいが、フッカらしからぬ自信に満ちた微笑みは今日の自分が輝いていることをちゃんとわかっているのだろう。
そうだ、写真だ、カメラだ! この姿を残しておきたい。家に帰ればデジカメがあるが、いまからでは無理だ。スマホでもあればすぐにでもメモリー一杯まで撮ってやるのに、オレもフッカもスマホどころかキッズ携帯すら持っていない。
『家庭の方針』ってやつだ。
「子供がスマホなんか持ったらろくなことがない」というのだ。
ろくなことをしていないろくでもない親父に言われたくはないが、全くその通りなので反論もできない。
「オレがスマホを持ったらろくでもない!」
自信を持って宣言できる。フッカだってきっとそうだ。『18歳以上ですか?』に、ためらうことなく『はい』をタップする。
オレもフッカもちゃんとした子供だ。ダメと言われたらバレないようにする。
スマホは中学に入ってからという約束で、その分六年になってから毎月の小遣いを増額してもらっているが、それも全てフッカのおやつ代となって彼女の胸囲と体重の増加に役立てられている。
「どう?」
腰に手をやってポーズをとる。もう写真も放課後でいい。この姿は直ちに網膜に焼き付けてやる。もう一生目は洗わないと誓おう。
「すげえ、可愛い」
駆け寄るオレに、フッカは両手を前に出して壁を作った。おそらく朝っぱらから抱きつくとでも思ったんだろう。さすがだ。もちろん、そのつもりだったけど。思いつく限りの褒め言葉を並べながらコートを着せてやる。可能な限りそれとなくフッカの体に触れながらだ。
「こんな服、持ってたのか?」
いま手触りを確かめたのは見覚えのないワードローブばかりだ。
「パパが買ってくれてたんだけど、なんか似合いそうになかったんだもん」
着ないとうるさいから、パパさんがいるときに家で着ていたらしい。ベッドの奥のクローゼットにはオレが見たことのないパパさんからの贈物が並んでいるのだろう。その中から改めてチョイスしてコーディネートしてみたら案外いけるとなったわけか。確かにいい感じだ。通学服としても派手じゃない。これならフッカの親友の沢木ほのかと並んで歩いてもいつものような引き立て役にはならないだろう。
「オシャレの才能あるんじゃないか?」少なくとも赤ジャージの無頓着さからは脱皮できそうだ。
「スカウトとか、されたらどうしよ?」フッカもまんざらでもなさそうに頷きながら腕組みをする。霧生の駅前に芸能事務所のスカウトはおそらくいないだろうが、褒められると乗って来るのはフッカらしい。
「そりゃあ、フッカぐらい可愛けりゃアイドル間違いなしだよ」オレ以外に握手会に並ぶファンはいそうにないけれど。
「そしたら、一番でサイン書いてあげるね」右手の人差し指をクルクル回して宙に訳の分からないサインを描く。その仕草がアニメに出てくる魔法少女のようで、あまりに愛らしく、本気でアイドルなんか目指したらどうしようと心配になってしまう。何しろフッカを可愛いと思う男なんてオレぐらいなもんだろうけど、とにかくフッカは間違いなく超絶可愛いからだ。
「おい、あんまり有名になんなよ。一緒に遊べなくなるだろう」
「もう、ホントになれるわけないじゃん。お兄ちゃんはアホウだねえ」フッカがぱっと駆け出す。
「あ、待て」慌てて後を追った。
右に左にからかうように逃げ回るフッカを虫取り少年になって追いかける。蝶のようで、蜻蛉のようで、ユスリカのようで、カナブンのようで。
どんなに逃げてもフッカとの二歳の差はオレの心にいつでも捕まえられるという余裕を生んで、自由に飛び跳ねる自然の姿を楽しむことができる。フッカのランドセルを持ったまんまでもハンディキャップにもならない。
フェイントをかけてオレの横をすり抜けようとした左の二の腕を掴んで引き寄せた。よろけたフッカをそのまま抱き留める。動いて汗をかいたのか、髪の香りが蒸気のようにふわりと立ち上って鼻をくすぐる。ばれないようにそっと髪に頬ずりをした。こうやって手を伸ばせばいつでもフッカを捕まえられる。
「朝から疲れたあ」フッカの息が弾んでいる。
「お兄ちゃん、遅すぎ」
「しょうがないだろ、フッカのランドセル持ってんだから」フッカの抗議も腕の中からなら心地よい。きょうからまたこうして毎日二人でじゃれ合いながら学校に通うんだ。
平凡な日常の中にこそ幸福が隠れているそうだが、オレの幸福は目に見える形でいまここにある。
息を整えたフッカがオレの胸をそっと押した。背中に回した手を緩める。もう少しぎゅっとしてたかったが、あまりにもがっついてるみたいでこの場は控えよう。フッカが離れると胸の辺りがスースーする。
「あ、ランドセル……」
オレの左腕に通した肩ベルトに気付いて手を伸ばした。
「ちょっと持ってて」
受け取るのかと思ったが違った。フッカの指示通りランドセルを胸に抱える格好になる。
「『ハーブ魔女』読んだんだよ。面白かった……」
フッカがランドセルのかぶせを開けにかかった。
「そう、あれはジャレットが一生懸命を楽しんでるって感じがいいんだよね」
「あ、そうか。だからか……」
なにか思い付いたように、一人で納得しながらランドセルの中を探って中からノートを引っ張り出した。
「ちゃらららーん! どこでもノオトォ!」アニメの口真似で、高くノートを掲げる。
「なんだよそれ」これじゃ上機嫌を通り越して有頂天だ。もう一度ハグしてやりたくなる。手にしているのは、読書ノートだ。
「推薦文書いたの、図書委員の」ほい、とオレに渡す。
ノートは読んだ本一冊が一ページにまとめられていて、タイトルや作家、出版社とか、読み始めた日と読み終わった日、それに思ったことなんかが書いてある。読書ノートと言っても特別なものじゃない、普通のキャンパスノートだ。ただ、UL罫という罫線の間が10ミリある、幅の広いもので、小学生でも書きやすくなっている。オレが四年で図書委員になったときに、使い始めたのと同じのを、フッカが図書委員になったときに一冊あげたものだ。
フッカはこのノートを「四年生のうちに一杯にする」と宣言して、本を読み始めた。そのノートも残りのページの方が少なくなっている。八か月ほどで40冊は読んでるんだ。毎週一冊読んでもそんなにはならないんだから、大したもんだ。何しろフッカは名の知れた名著ばかりを選ぶ傾向にあるからだ。
漱石、康成、三島、賢治、モンゴメリ……。子供向けに纏められていても、概してそいつらは一般の児童書に比べて理解し辛い。
パラパラと捲りながら、最後に書かれたページを開いて、目を走らせた。
『ハーブ魔女のふしぎなレシピ』
ちょっと右下がりの癖がある丸っこい文字をおいかけた。
これだ。オレを虜にするフッカの感性。
読書ノートを書き始めて改めて分かった。この一冊がまるで詩集のようだ。隣のページに書かれた『モモ』の感想の一節。
『三回読んだ56ページにもう一度目を落として、本を閉じた。次にこの本を開くときには、きっと私は十センチ背が伸びているだろう』
力尽きたのか。思わず吹き出しそうになる。
「……いいね。この推薦文、読んでみたくなるよ」
「ホント?」
「フッカの文って、なんか、こう、もどかしいんだよね。実際に読んで確かめてみたくなる」
「えーっ、それって悪いってことじゃないの?」
「違うよ。例えば、本当に楽しいとか、悲しいとか、嬉しいとか、悔しいとか、そういったときって、上手く言葉に出来ないじゃない。そんな風に、面白いことを伝えようとしてるんだけど、言葉に出来ないもどかしさっていうのが、フッカの推薦文から感じられるんだよ。だから、読んでみたくなる」
「でも、お兄ちゃんはいっつもちゃんと上手に書いてるじゃん」
「それは、ホントの感動を言葉でごまかしてるだけだよ。難しい言葉とか、目新しい表現なんかを使ったら、スゴいように見えるけど、実際は、書けば書くほど気持ちから遠くなっていくのがわかるもん。ああ、オレは詰まんねぇ文章書いてるよなって」
「そうかなぁ」
「そうだよ。オレ、フッカの書く推薦文ワクワクするもん。フッカはオレの読んでワクワクする?」
「うーん、ちょっと難しい?」
「だろ? そうなんだって」
「うん、へへへ。ありがと」
きょうのフッカはレスポンスが素直だ。ノートを返そうとしたら、ページの間から、一枚の紙が落ちた。咄嗟に手を振ったら、指の間に紙が挟まって、空中でキャッチできた。自由帳かなにかを切ってメモがわりにしたもののようだけど、見ると、本の推薦文だった。
「なに?」
「あ、それ、ウチのクラスの図書委員の子が書いたの。上手だったから写させてもらった」
「図書委員ってあのちっこい子?」クラス毎に男女一人ずついる図書委員のうち、フッカのクラスの男子はまだ二年生ぐらいに見える子だった。
「山越くんは前期の子。今は久坂くん」オレは一身上の都合により前期で辞めたので後期の委員は知らない。
紙に書かれたフッカの文字に目をやりながら、ふと昨日のことを思い出した。フッカの家の前に男物の自転車が止まっていたっけ。
「なんだよ、彼氏か」からかう気で、何気なく声に出した。
「もう、そんなんじゃないよぉ。ただの友達だってぇ」フッカの声は、いつもより高い周波数成分が多く含まれていて、ノイズが少なかった。気になって顔を上げたら、きゅっと結んだ口元から、微笑みがこぼれていた。
「で、それ、どう? 上手いと思わない?」
瞳がキラッと光ったように見えた。
推薦図書は青い鳥文庫の『岩窟王』。作者はアレクサンドロ・デュマ。大デュマともいう。彼の代表作である長大な『モンテ・クリスト伯』をジュブナイルとして読みやすくまとめた作品だ。いや、そんなことどうだっていい。どうだっていいんだ!
「うん、しっかり書けてるな。四年とは思えないよ」オレは動揺を悟られないように、無理やり笑顔を作って小さく深呼吸を繰り返した。
「でしょう。彼ね、勉強もスポーツも何でもできるんだよ。スゴいんだ」
〝彼ね〟? なんだよそれ?
立ち止まってしまったオレの手から、ノートと紙を大事そうに抜き取って、胸に抱いた。オレは、フッカの気持ちを思って、言葉にできなかった。
これって、ネットのレビューのコピーじゃないか。
以前、オレがネットのレビューサイトに投稿したコメントの一部とそっくりそのままだ。
コイツ、どこかでそれを見たのか!?
いや、ほんとに『巌窟王』なんか読んだのか?
「なかなかこんなに書けないよねぇ。お兄ちゃんの方が上だけど」
フッカがオレを誉めることなんか滅多にない。なんだ、この余裕は?
「オレは、フッカが好きだから……」
クソッ、言ってやりたい。そいつのデタラメをフッカにぶつけてしまいたい。
フッカがノートをランドセルに片付ける。
「へへ、ありがと」
オレの手からランドセルを受け取ると、肩ベルトに腕を通した。推薦文のことじゃないんだぜ。オレはフッカが……。
「高森! 遅い!」
吉田商店の前で登校班班長の金井彩菜が大声で手を振ってる。
「ごめーん」
フッカが手を振り返しながら、オレを置いて駆け出した。
背中にランドセルが揺れてる。
あんな楽しそうな、いや、幸せそうなランドセルを見るのは初めてだ。
フッカが、恋をした。