王子さま
ああ、しまったなぁ……。
スウェットのヨレヨレになった左の袖口を右手で押さえて隠しても、右の袖口や襟首を同時には隠しようがない。足首だけは女の子座りで誤魔化したけど、もうちょっとましなのを着とけばよかった――。
いよいよ冬休みも最終日。早朝に大阪方面に向かうパパを――滋賀県の南草津っていうところに住んでるってことを、今朝、初めて知った。草津といっても温泉はないらしい――ママの車で駅まで送っ行った後、昼前まで二度寝した。
で、起きて昼ご飯にパパがいるときには絶対食べさせてもらえない超特大カップ焼きそばを食べてお腹いっぱいになって、ベッドにごろんとなったら、気が付いたらまた寝てたらしい。
「あー、ねむ……」
どろんとした気分で起き上がったら、枕の横にメッセージカードが置いてあった。
「えーっ!?」
思わず頭を掻きむしった。こんなカードを置くのはアイツしかいない。寝ている間にヤツが来たんだ。うちのママは、あのアホウを超気に入ってて、パパがいないときは平気で家に上げるし、わたしの部屋にも「どうぞ、どうぞ」だ。
わたしは急いで着ている服を確かめた。上下共に不審な乱れはない。下着も、その中も問題なし。
「ヨシ!」駅員みたいに指差し確認だ。
まったく、あんなのを寝ている女の子の部屋に入れるなんて、腹ぺこオオカミの前に子兎を差し出すようなもんだ。まあ、よくよく考えたらアイツにそんな度胸はない。もしヤツにそんなまねができるなら、あのイブの夜にわたし達はひとつになって永遠の愛を誓いあっていたはずなんだ。
改めて周囲を確認してヤツの痕跡を探す。すぐに枕元の棚にヤツのポーチが突っ込んであるのが目に入った。ポーチと言っても20cmほどの端切れを二枚合わせて三方を波縫いしただけのただの袋でしかない自称『ポーチ』だ。端の折返しもかがりもしていないから布地のほつれが酷くて見るに堪えない。まったく、不器用な女からの誕生日プレゼントを後生大事に使っているのには感心する。紐を通して巾着袋にする壮大な計画は誕生日に間に合わず断念したんだ。
「今度作り直すからね」って言いながら、なかなか今度が来ない。
その袋の口からコードが延びて枕元のコンセントにACアダプターが刺してある。抜いてやろうかと思ったけど、去年、夏祭りに行ったときデジカメの充電が出来てないって騒いでた記憶が甦って思いとどまった。まあ、デジカメの充電ぐらい大目に見てやろう。
ため息一つ吐いて、いつまでも枕の横に居座ってるカードに手を伸ばした。色画用紙を二つ折りにして、カードサイズに切ったものだ。山吹色はアイツの一番好きな色で、しゃくに障るけど、わたしもいい色だと思う。あの『ポーチ』と同じ色だ。カードにはいつものように、表に『To』と書いてウサギさんのシールが貼ってあって、『From』には〝K〟とだけ書いてある。
アイツは常々わたしを『可愛いウサギさん』だと思っているんだ。わたしが幼稚園の生活発表会で、ウサギの耳としっぽを付けて、ぴょんぴょんダンスしてたのがよほど気に入ったらしい。
……アホウだ。
裏側は見なくても分かる。きょうの日付。妙なところが几帳面。典型的なB型だ。好きなことにだけは、まめなヤツだ。
二つ折りのカードを開いた。
『オーロラ姫
お目にかかれて光栄です
フィリップ』
慌ててカードを放り出して、両手で口を押さえた。
まさか、お目覚めの……、とか、してないでしょうねぇ!
そう考えて、頭を振った。いやいや、どうせそんな度胸なんてないんだから……。
何となく、イラッとして、2回深呼吸。
カードを雑巾みたいに摘まみ上げると、ベッドを降りてゴミ箱に向かった。机の2段目の引き出しに、ゴミ箱が入っている。『ゴミ箱!』って表に書いた、紫色の表紙のポケットアルバムだ。百均で買ったヤツに色画用紙でブックカバーみたいに表紙を付けた。お姫さま自らの手作りだ。感謝して欲しい。
取り出して、パラパラとめくる。中にはいままでにもらったカードが一枚ずつ広げて捨ててある。脳天気な王子さまが、ことあるごとにカードをくれるんだ。本に挟んだり、プレゼントに忍ばせたり、いきなり手渡したり、それにきょうみたいにこっそり置いたり。
おかげでこんなゴミ箱がもう七冊目になる。赤い表紙の一冊目から並べた背表紙の色は橙・黄・緑と続いていまや見事なレインボーカラーだ。このカードを中に捨てたら、あと残り三枚でこの七冊目もいっぱいになる。
もし虹色の七冊が揃ったらなにか願い事でも叶えてくれるのかな? でも、アイツ的な〝ご褒美〟とかだったらご遠慮しとこう。きっとなんか、とてつもなくエッチだ。
カードに書かれた内容も意味不明のものが多くて人知を超えたものを感じる。
キミトのオープニングイベントで、
『キミトはオレの想いだ』――わたしに言われても?
わたしの10歳のお誕生日に、
『さあ、キミも冒険の旅に出よう!』――わたしは剣も魔法も使えませーん。
去年の夏祭りの夜に、
『月がきれいですね』――ベタベタに曇ってた。
ああ、そうだ、例のイブの夜の翌朝に渡されたのは、
『全ての罪を背負ってでも、僕は君を守る』――わりかしストレートなのはいいんだけど、それだけの覚悟があるならあのときあと2センチ唇を突き出してくれてれば良かったんだ。お願いだからいくら邪魔でもパパを始末しないでね。
アイツの頭の中は、きっとお花畑が一面に広がってて、そこで、わたしと一緒にぴょんぴょんダンスを踊ってるんだ。きっと中二病ってヤツだ中二病。小六にして中二病。なんだ、2年も進化してるじゃん。
ゴミ箱のホルダーにカードを突っ込んで、もう一度カードを睨んだ。自然と口がとんがる。
『フィリップ王子
わたしはお目にかかれてません!
オーロラ』
ゴミ箱を、バシッ! って閉じて引き出しに戻す。それで、机の上の写真立てに一撃必殺のパンチ! キリッと格好付けたフィリップ王子が前後にカタカタと揺れて、一瞬「そんなぁー」って情けない顔になって、パタンとうつ伏せになった。
茨の園で百年寝てろ!
そのまま写真立てをほっといて、窓に掛かったレースのカーテンを開けた。雲一つない青空。こんないいお天気なのに、もう日が傾き始めてる。ちらっと机の時計に目を移した。
「三時かぁ」
時計をみると、なおさら、一日を無駄に過ごしたように思う。夕べ夜更かしして、今朝は五時半に叩き起された。朝早くのJRで出る予定のパパが、
「朝食をファミレスで一緒に食べよう!」なんて言い出すもんだから。わたしはそんな朝早くに見送るつもりなんかさらさらなかったんだけど、言うこと聞かないと不機嫌になるから仕方ない。ファミレスに朝食メニューがあることを今日初めて知った。
完全に睡眠不足だったけど、少なくとも、焼きそば後のお昼寝は余計だった。ここまで来たのならカードなんか置かずに起こしてくれれば良かったのに。
『お目覚めの……』だって、思い切ってやっちゃえば建前上怒った振りぐらいはするけど、別に嫌いになったりはしないんだから。
あのアホウにキミトに連れてってもらう計画が台無しだ。あそこの旅行会社なら、きっとウユニツアーのパンフレットもあるはずだから、今のうちにアイツにも予備知識っていうのを持っといてもらおうと思ったのに……。
まあ、先は長い。新婚旅行までまだ六年はある。その間に、少しはワクワクするような新たな進展だってあるだろう。
よし、久々にオセロでもやるか。
いま、向かいの部屋にはアイツがいるはずだ。女の勘ってヤツだ。カードを見たわたしが「フィリップ王子サマァァン」って甘えた声で遊びに来るのをいまかいまかと待ちわびているに違いない。ヤツは勝負事に弱い。何かが賭かると必ず負ける。特にオセロは。
よし! お年玉、巻き上げてやろう!
気合を込めて、ぐっと拳を握りしめる。札束を鷲掴みにするイメージだ。わたしがオセロしようっていったら、アイツはきっと泣いて喜ぶに違いない。お金は賭けちゃいけないけど、ふわふわパンケーキおごって貰うんだ! ほのかがクリスマスに食べたって、ふわふわで美味しかったって言ってたもんなあ。ああ、贅沢はアイツのおごりに限る。
アイツのとこに行くなら特に支度は要らない。
持ち物不要。
しょっちゅう入り浸ってるから向こうの家にもわたしの日用品だって揃ってるんだ。台所の食器棚にはコップもお箸もお茶碗も入ってるし、洗面台には歯ブラシもローションも置いてある。もう今日からでもアイツと同棲を始められそうなほどだ。では、なぜ一緒に暮らさないかというと、敷きっぱなしのヤツの布団が最近微妙におっさん臭いからだ。特に枕は可憐な乙女の頭を乗っけるにはあまりにも失敬だ。でも、わたしが「布団がおっさん臭い」なんて言ったらただでさえ打たれ弱いアイツがドロドロにどんよりしてとてつもなく面倒臭いことになりそうだから黙ってる。それさえなければ、着替えのパンツ持って転がり込んでやってもいいんだけど。
まあ、当面はお泊まりなしの御休憩だけだね。アイツが言うには平日の夕方までの御休憩はサービスタイムでお得なんだそうだけど、ナンノコッチャ、意味がわかんない。
この時間ならすぐ隣なんで走っていけば上着も要らないね。一応、姿見でスタイルチェック。
ふん、起き抜けで髪ボサボサだけど、まあ、手で三回ぐらい撫でつけとけばいいや。唇がカサカサで白く皮が浮いてるのはひとまずなめとこう。あ、ちょっと焼きそばソースの味がする。歯に青ノリが付いてないかは確認しとこう。
服装は冬場の部屋着の定番、グレーの無地のスウェット上下。もう一着赤のスエットもあるけど、あれはテスト前の勉強とか気合を入れる時に着る、いわば勝負パンツみたいなもんだ。つま先のところがウサギさんの顔になってるパステルカラーのもこもこソックスは、フィリップ王子さまからのありがたいクリスマスのプレゼントだ。
こういうぶりぶりに可愛い系はわたしには似合わないと思うのに、お花畑の王子様は何かというとわたしをきらきらウサギさんで飾り付けようとする。ミッフィーのハンカチもだし、ヘアピン、ヘアゴム、カチューシャにシュシュ、ブレスレットとかネックレスとか、おサイフ入れただけでパンパンになるちっちゃなポシェットとか。あ、あとパンツも。
まあ、パンツはわたしがおねだりしたことになるのかも知れないんだけど。
あれは去年のホワイトデーだ。バレンタインのお返しにって、アイツにモスバーガーおごってもらって。マックじゃないよ、モスだよ。わたし、シャキシャキのレタスにすっかり上機嫌になって、つい気を許して、お気に入りのパンツがすり切れて穴が開いてたことを打ち明けてしまった。
だって、ママは、
「新しいの? 何枚か買い置きがあったでしょ」っていうんだもん。
「お気に入りって、ついついそれを穿いちゃうんだよね。だからすぐに傷んできちゃう」
わたしは、アイツの言葉にうんうん頷いた。
「他のがあるっていうお母さんの言い分も分かるけど、やっぱり、お気に入りって特別な想いがこもってるもんね」
アイツの余りに心を見透かしたような悪魔の囁きに、わたし、感激してモスバーガーの隅っこのボックス席で、ズボンのウエストをちょこっと下げて、パンツの右側の縫い目に二つ並んで開いた穴を見せてしまった。
「ほらぁ、こんななっちゃってて」
アイツは真剣な顔でわたしのパステルピンクのボーダーを鑑賞して――まさに穴が開くほどだ――すっかり堪能したように大きく頷くと、
「じゃあ、オレが買ってあげるよ。お気に入りの一枚」って。で、そのままイオンで二人してパンツを選んだ。
ワゴンに山盛りになってる『女児ショーツ』をアイツは一枚一枚真剣な目で広げたり伸ばしたり。それで「これだ!」って。遠目には水色のドット柄なんだけど、そのドットがよく見るとウサギさんの顔の形になってる。やっぱりウサギなんだけど、アイツが選んだそれが、スゴく可愛いと思った。瞬間でお気に入りになった。
一枚350円。三枚買うと千円になるんだけど、アイツはもうモスバーガーでわたしにシェイクまでおごらされて、パンツ一枚分しかサイフに残ってなかった。
ちょっと恥ずかしかったのは、アイツがレジの人に「プレゼントにしてください」って言ったこと。確かに、ホワイトデーでラッピング無料だったんだけど。赤い袋と金色のリボンを選んで、きれいに包んでもらったのを、他のお客さんもいっぱいいる中で「ハイ」って渡されて。
どう見ても小学生の男の子が、絶対小学生にしか見えない女の子に、ホワイトデーにパンツをプレゼントするって、後で思い返すと顔から火が出るほど恥ずかしい。
けど、その時はもらったパンツを胸に抱いて、
「ありがとう、こんど遊びに行くとき穿いてく!」って、その場の勢いって恐ろしい。でも、そのパンツは余りにもお気に入りすぎて、恐れ多くて、もったいなくて引き出しに仕舞ったままだ。結局、パンツはママが買い置きしていた、趣味の悪ーい、ネイビーとかチャコールグレーとかの濃い色のを辛抱して穿いている。
あのウサギパンツはこのまま一度も脚を突っ込まれることなく、やがてわたしのお尻を納めきれなくなってしまうだろう。そうなったら、額に入れて玄関ホールにでも飾ってやろう。手前にお賽銭箱でも置いてやったら、アイツが毎日拝んで十円玉を入れてくれるかも知れない。
「では、姫は隣の国に侵略にいってまいりまーす」写真立てに声をかけたら、まだ寝てた。うつ伏せ寝の情けない王子さまを指ではじいたら、思いのほか滑って、本立ての下の隙間に入り込んでしまった。
「あっ」
首を傾けて隙間を覗いたら、綿埃の中にフィリップ王子が埋もれてる。見えるところしか掃除をしないからこうなるんだ。わたし!
「もう、出かける前に手間かけさせないでよぅ」
何となく素手では触りたくなくて、モノサシでもつっこんで取ろうかと引き出しを開けようとしたとき、下からママの声がした。
「文香、お友達、来てるわよ」
「はーい」友達って誰だろう? 咄嗟に返事はしたけど、わたしの家を訪ねてくる友達などいないはずだ。だって、わたしに友達はいない。ほのかならママは「お友達」なんて呼び方はしないし、アイツならわたしの許可なく勝手に上がってくる。
頭の中で〝?〟マークを五、六個並べながら、とりあえず、部屋を出て階段を降りた。階段の途中で、玄関ホールの様子が見えて、わたしは足が止まってしまった。
ホールに立ってるママの背中越し。向こう側でこちらを見てるクラスメイトの姿があった。
「白井さん、こんにちは」
「……」
あんまり爽やかな声に「久坂くん」って呼ぼうとしたわたしの野太い声が思わず引っ込んでしまった。
わたしの部屋は、お客様向きじゃない。
アイツが来たときは勝手にベッドに転がってるんだけど、クラスメイトの男の子だと、そういうわけにはいかない。女子ならともかく男子なんだ。なんならリビングなんかのオープンスペースでお話ししても良かったのかも知れない。でも、相手は久坂くんだ。森下くんや河村くんならリビングでも玄関先でも追い返してもいいだろうけど、久坂くんだからつい部屋に招き入れてしまった。
カーペットに直座りしてもらって、ベッドを背もたれ代わりに並ぶ。二人の前に、ママが持ってきてくれた飲み物とクッキーの乗ったトレーが置かれて、教室の隣の席よりは近い微妙な間隔になってる。
それで、わたしはヨレヨレの袖口を押さえてるんだ。ボサボサ髪も気になるけど、どうしようもない。
カサカサの唇には、やっぱりリップクリームぐらい塗っとくんだった。ちょっと前に唇がひどく荒れたとき「これ、いいんだって」ってアイツが買ってくれたニベアのリップクリームがあるのに面倒くさくて使ってなかった。初めて塗ったときは、プルプルツヤツヤになって、鏡見て我ながらいい女になった感じで思わずニンマリ。
「すげー! 石原さとみの唇だぁ」なんて、アイツも大喜びしちゃって、あわやキスされそうなほどの勢いで、思わずワクワクしてしまったほどだ。
でも、ものぐさなわたしには習慣付かなかった。いまは、アイツと出かけるときだけ付けてやってる。そうしてやると、すごく機嫌がいいんだ。そう、わたしのオシャレはアイツへのサービス。冴えない男へのボランティア活動の一環だ。服なんか着られればいいし、見た目も清潔であればいい。オシャレしたわたしを誰に見せるっていうのか。見てるくれるのはアイツぐらいなもんだ。
まあ、女の子なら可愛く見られたいとか、周りからどう見られてるのかとか、そういったことが普通は気になるものなんだろうけど、わたしはそういった面では積極性がない。なにしろ、いつもいつも隣にアイツがいて、しょっちゅう、好きだの可愛いだのと言われているんで、そういう言葉に有難味を感じないんだ。食傷気味なのだ。
そういうと「リア充自慢」とか「お高くとまってる」とか思われるかもしれないけど、そうじゃない。わたしは自分の容姿ぐらいきちんと客観視できる。
ブスだ。自分でもガッカリするぐらい。チビでスタイルも良くないし猫背だ。どんなにスキンケアを頑張っても肌はガサガサ。それにフケ症。表向きの性格の良さぐらいしかアピールポイントが見当たらない。しかも内面の腹黒さも自覚してる。男子がわたしに寄ってくるのなんて宿題を見せて欲しいときか虐めに来るときぐらいなものだ。
それなのに、アイツは、初めて合ったときから「可愛い」、「好きだ」を言い続けてる。わたしはそれを当たり前のように受け止めてきたから、そういう言葉の意味を見失っているのかもしれない。
わたしはアイツに「好き」と言ったことは一度すらない。そういう気持ちを伝えるのって、どんな感じなのだろう。アイツに対する感情は、「好き」っていう――「好き」というのはお兄ちゃんとしてではなく異性としてだ――気持ちなんだろうか?
でも、もしそれが好きだという感情だとしたら、ぜんぜんつまんない。恋をしたときの、噂で聞くようなドキドキもないし、胸のトキメキとか切ない想いなんかが、まーったくないからだ。当たり前のようにこれからの人生もアイツと一緒にいて、いつかキスして結ばれて憧れのお嫁さんになってって思ってたけど、ホントにそうなの?
「今日も可愛いね」
「ハイハイ」
「好きだよ」
「落ち着いてネ」
「遊びに行こうよ」
「文学館はイヤ」
「お昼おごるよ」
「うん、行く行く」
それが、いま隣にいる久坂くんに対して、ひどくドキドキしている。ドキドキしすぎて、さっきから幾つか言葉を発してるんだけど、なんて言ったかすら覚えてない。ちらちら見てたら視線が合って、にっこりと微笑んできた。わたしは口の中がカラカラに乾いてて、アセってファンタグレープの入ったグラスを持ち上げた。
「あっ」
久坂くんが小さく声を上げたので、なんだろうと思って、グラスを持ったまま手を止めた。そしたら、久坂くんもコーラの入ったグラスを急いで持ち上げて、わたしのグラスにコツンとあてた。
ハンドベルみたいな澄んだ音が響いた。
「カンパイ! だね」
ハンドベルみたいにさわやかな笑顔。
「う、うん。カンパイ」
緊張と、なんだか分からない気持ちで、ひきつった笑顔になる。男の子と二人でカンパイだなんて……。
アイツとは何か飲むたび、カンパイしてるから、ありがたみがない。マックシェイクでも、映画館のジュースでも、水筒のお茶でも何でもかんでもカンパイだから、逆にみんながカンパイしないのを不思議に思った時期もあった。
ああ、でも、いま、ドキドキしてる。久坂くん――――。
四年の始めに東京の三鷹ってところから転校してきた久坂和希くん。家はバイパス沿いに新しくできた久坂内科医院でお父さんが院長先生。で、久坂くんも将来はお医者さんになるらしい。
毎日のように塾や習い事に行ってて、お勉強もスポーツも何でもできる。でも、カッコつけたり自慢なんか全然なくて、男子にも女子にも人気がある。特に女子。高学年の子が教室を覗きにくることもあるぐらい。めちゃくちゃカッコいいんだ。
優しい顔立ちにさらさらの髪。
背が高くてスマートでオシャレで。
身長は六年生のアイツとほとんど変わらないし、脚の長さなら絶対久坂くんが勝ってる。アイツが勝つのは鼻の下の長さぐらいなもんだ。
ほのかも、久坂くんのことが好きなんだって、打ち明けられたことがあった。わたしは、
「ほのかならお似合いだよ」って応援したんだ。
男子に縁のないわたしにだって、久坂くんが相手なら、ほのかの気持ちはよくわかる。きっと、ほのかはこんなドキドキを毎日学校で感じているんだろうな。
久坂くんがコーラを一口飲んで、グラスを両手で包むようにして胡座を組んだ脚の上に置いた。
「いきなり来てゴメンね」
「ううん」わたしは俯きかげんに首を振る。いままで見た恋愛ドラマで女の子がどんな仕草をしてたか、思い出しながらだ。
「図書委員のことって?」
さっき玄関で久坂くんが言ってた「図書委員会のことで、ちょっと相談したくて」というのを尋ねた。それに、それ以外に思い付く気の利いた話題がなかったからだ。
「ああ、うん、白井さんのお母さんがいたから、そういったけど……」
久坂くんが口ごもって、手にしてたグラスをトレーに戻した。
わたしもグラスを握ってたことを思い出して、久坂くんに頷きながら、急いでグラスをトレーに並べた。
「きょう、新しいスマホ、買ってもらったんだ。お父さんとお母さんが買い替えるから一緒にって……」ジャケットの内ポケットからスマホを抜き取って、わたしの前に差し出した。ピカピカのスマホだ。わたしの手のひらより画面がでっかい。テレビのコマーシャルでやってる最新のやつだと思う。
はい、と手渡されたけど、もちろん操作方法はわからないし、指紋が付きそうで、うかつに画面に触れない。もう掌が汗でベトベトなんだ。
「わぁ、すごいねぇ」
それぐらいの感想しか出ない自分が恥ずかしい。わたしはスマホどころかキッズ携帯すら持ってない。
「だから、このスマホで、一番最初に、白井さんと一緒の写真、撮りたいなって思って……」
久坂くんが恥ずかしそうに微笑んだ。
それって…………。わたしはこめかみがズキズキするくらい、身体中の血が頭に集まってくるのを感じた。わたしも微笑んだけど、きっと、顔がひきつっている。
「いいかな?」
〝一緒に写真〟がどんな感じなのか、分からなくて、ちょっと不安もあったけど、運動会とか遠足でも男子と一緒に集合写真なら撮ったことはある。
「う、うん」
久坂くんがお尻の位置をわたしの方にずらしてピッタリ寄り添うようになった。
あっ、て思う間もなく、久坂くんの手がわたしの肩を抱き寄せて、もう片方の手でスマホをわたしたちの前にかざした。自撮りっていうのだと知ってる。
それぐらい知ってるんだけど……。
「いくよ、笑って」
久坂くんの頭が、わたしの頭にコツンと当たる。目の前の小さな画面の中でわたしと久坂くんがくっついている。わたしは訳がわからないままに、胸の前で小さくピースサインを出した。
久坂くんがスマホの画面を何度か指先で撫でて、撮り終えたわたしのひきつり笑いを見せてくれた。
「白井さん、学校ではあんまり笑わないけど、笑顔が素敵だよね」
ううん、きっと、久坂くんはお世辞で言ってる。並んで写る久坂くんの笑顔はとっても自然で、素敵で、ダサダサなわたしと全然釣り合わない。
久坂くんが写真を見ながら、わたしの頬っぺたやおでこを指差して、いろんな話をしてくれる。
「ほら、これなんかすごく可愛いよ」
かかか、かわいいって!? 頭の中でどもった。そんなこと言っちゃダメだよ久坂くん、相合傘の右側に入れられちゃうよ!
画面には大きくなったわたしの顔が映ってる。彼がその頬っぺたを指先ですっと撫でてトントントンと三回触れた。
「えっ、うそ!?」
「うそじゃないって」
顔を上げたら久坂くんの優しい笑顔があった。その、彼の唇の位置は昨夜のメクルメク高さにあった。
わたしは瞬時に赤くなった。鏡なんか見なくてもわかる。慌てて彼の視線を逃れて画面に顔を向けた。身体中の血液がふつふつと沸騰するように、熱い、目眩がするぐらい熱い。身体の奥がトロトロに溶けて流れ出してしまいそう。
そうだ、赤城山も榛名山も火山だ。火山の下には巨大なマグマ溜まりがあって! 違う、それはこのあいだ見たNHKの番組だ。わたしの赤城・榛名の下にも熱いマグマが溜まってて、違うって! もう、何考えてるの、わたし! 落ち着け、まず深呼吸! 彼に気づかれないように、そおっと二回、大きく息を吸って吐き出した。
「……でね、僕の……って……」
でも、やっぱり何を言ってるか頭に入ってこない。ああ、もう彼の声はただの心地よい音楽だ。普通の、ありきたりの言葉なのに、優しくて甘くて、身体中にメイプルシロップを掛けられたみたいにわたしを包み込んでくる。パンケーキみたいにわたしの身体に久坂くんのシロップが染み込んでいく。わたしも、もっと可愛く笑いたい。ドキドキしながら、いろんなお話をしたい。
「…………でしょ?」
「へ?」ろくすっぽ聞いてないから、おマヌケな返事が精一杯。
「だから、図書委員会に出すレビュー、実はまだなんだ、いろいろ本も持ってきたから、これから一緒にやらない?」
あ、ああ、そうか、そうだった、彼は用事があってきてたんだ。久坂くんの用事って……。何気なく久坂くんと目が合った。
一瞬、久坂くんの瞳の奥がギラっと光った気がした。
(お兄ちゃん、たすけて……)
「えっ!?」
「ん、どうかしたの?」
目の前で久坂くんが首を傾げてる。
「ううん、なんでもない」もう、お兄ちゃん、いきなり出てこないでよ!
「わたしもまだ書いてなかった」推薦文は明後日までにできればいいやと思ってたけど、断る理由は見当たらない。断らない理由は恥ずかしくてとてもじゃないけど言えない。
「じゃあ、もう一回、写真、撮ってからでいい?」久坂くんが人差し指を顔の前に立てて微笑む。
「うん」わたしは思いっきり頷いた。さっきより、もっともっと笑顔になりたかった。
「ごめんね、あんまりゆっくりできなくて。冬休み中はずっと塾の補講があって、きょうもなんだ」
久坂くんが自転車にまたがって、右手を上げた。
「ううん、忙しいのに、来てくれてありがとう」
火照った頬っぺたに真冬の空気が気持ちいい。
「二人だけの秘密にしようね」
彼が顔をぐっと近づけて甘く囁く。わたしもちょっと顔を近づけた。
「うん、内緒だね」
あと、5センチ顔を寄せたら、そのままキスしてしまいそう。久坂くんが優しく頷く。
「じゃあ、また明日」
自転車がすっと動き出す。わたしは彼の背中に向けて慌てて手を振った。
「バイバイ」
また明日……。
バイバイ……。
わたしは彼の背中が豆粒みたいに小さくなって、右曲がりの農道の先に消えるまで見送った。
それで、わたしは部屋に上がって、ベッドにうつ伏せになった。途中でママが何か言ってたような気がする。お風呂に入ったような気がするし、晩御飯も食べたような気がする。
『秘密にしようね……』
『内緒だね……』
二人だけの秘密。いまも、心臓がドキドキし続けている。そのドキドキが熱をもって、じわじわと身体中に広がっていく。いま熱を測ったらきっとインフルエンザって言われてしまう。
これは、好きのドキドキ? お化け屋敷に入るときのドキドキみたいに。フィールドアスレチックの一本橋を渡っているときのドキドキみたいに。解らない問題を先生に当てられそうなときのドキドキみたいに。予防注射の順番を待っているときのドキドキみたいに。
これが、好きのドキドキ?
これが、恋のトキメキ?
転がって天井を見上げて深呼吸。ドキドキを抑えようとしても、身体の奥から温泉みたいにこんこんと湧いてくる熱は治まらない。
顔の真ん前に、右手を持ってきてかざしてみた。何となく、まだ指先に久坂くんが残ってるみたいだ。久坂くんもいまごろ自分の手を見てわたしを思い出してたらどうしよう。そう思うと身体が彼の指先を思い出してきてムズムズとする。
彼が持ってきた本の中にあった、あの『フシギノート』…………。
……よかったんだ。たぶん。これで……。きっと、夢にみた旅人がようやくわたしを見つけてくれたんだ。二人だけの秘密。わたしが久坂くんの秘密になるんだ。これから、二人だけの秘密を幾つも幾つも重ねあって!
ああ、まるで本当にインフルエンザにかかったみたい。なんだか頭がぼうってしてきた。
あした、どんなふうに挨拶しよう。
おやすみなさい、久坂くん……。