真剣勝負
フッカが盤面に白と黒の石を並べている。
「フッカからでいいんだな」
フッカが顎を引いた。
初めてのことだ。
でも、もう手加減はしない。
これが最後のゲームだ。
オセロはフッカと知り合ってからもう何百回、何千回とやってきた。簡単なルールで奥の深いオセロはフッカを夢中にさせた。幼いフッカが「もう一回」「もう一回」と繰り返す笑顔に付き合って、オレは何度も何度も相手にしてきたんだ。
「ホンキでやろ」
〝ホンキ〟、それはたいてい何かを掛けようというフッカのメッセージだ。
「じゃあ、何か掛けるか?」
フッカが真剣な目でこちらを見据える。
「何でもいうことをきく、とか? どうだ」
「何でも?」
「ああ、何でもだ」
「お年玉全部渡す、とか?」いたずらっぽくいうが、目が笑っていない。そんなものじゃないんだろう、フッカの掛けたいものは。
「どうせなら貯金通帳丸ごとでもいいんだぜ」
フッカがニヤッと頬を動かす。
オレは『あいつと別れろ』か『オレとつき合え』か、いいや『オレと……』
「泣いて後悔しても知らないぞ」
フッカは首を振って石を一つ掴んだ。
フッカは白が好きだ。それでオセロも白石を持つことになる。必然的にオレが黒石になる。オセロのルールでは黒石が先手だ。先手、後手ぐらいはニギリでもジャンケンでもいいと思うんだが、フッカは自分が先手、オレが後手にこだわっている。
オセロの先手・後手のどちらが有利か大差はないようだが、フッカは後手で打つ方が理論的にわずかに有利だということを知っているのだ。フッカは弱いオレにハンデとして先手を打つと決めているのだろう。
なぜならオレがフッカに負け続けているからだ。
最初の頃は、それこそミエミエのオマケで勝たせてやっていたんだが、フッカが勝ったときの「お兄ちゃん。弱い!」って喜ぶ笑顔が愛らしくて、それで、オレはフッカに巧妙に勝たせ続けてきたんだ。
記憶にある限り、オレが勝ったのは一年ほど前に一回あったきりだ。
でもきょうは勝たせてもらおう。ホンキで勝って、フッカにオレの思いをぶつけてやるんだ。
『何でもいうことをきく』
ちょっと卑怯だけど仕方ない。
「フッカからでいいんだな」
フッカが顎を引いた。
そして、掴んだ石を白を表に盤面を叩いた。
挟んだ黒を裏返す。
白四、黒一。
こんなことでも、オレたちの区切りにはできる。こんなことだからこそ、ハッキリとできる。
フッカの白石に寄り添うようにオレは黒石を並べた。
オレとフッカ。オセロと同じだ。寄り添わなければ進めない。
フッカがテーブルに突っ伏して泣きじゃくっている。見事なまでの小学生の泣きっぷりだ。
いままでぬくぬくとした勝負を続けてきた報いに違いない。
ホンキの、全力を出し尽くした結果がこれだ。序盤から一方的な展開だった。残り四マスを残してもう石を置く場所もなくなった。
フッカに掛ける言葉が見つからない。
ちょっと考えればわかることだった。
将棋や囲碁の天才でもない普通の小学生同士が何百回もオセロをやって、一回しか負けないなんてはずがないのだ。
あの一年前にオレが勝ったとき、フッカは悔しそうにしながらも「よかったね、お兄ちゃん。初勝利の感想は?」なんて笑ってくれた。
それなのにオレは勝ってしまった自分とフッカの笑顔をみられなかったことにがっかりして不機嫌だった。たぶん酷くつまらなそうな顔をしていたと思う。
そんなオレの様子を見て、おそらく、フッカは気付いたのだろう。オレがわざと負け続けていたことを。
さぞ、悔しかっただろう。恥ずかしくもあったかも知れない。いままで自分の力で勝ったと思っていたものが、実はお情けの勝利だと知ったとき、どんな気持ちになったか。
それなのに、その後もフッカはオレとのオセロを続けてくれた。オレに負けさせてくれていた。オレに「お兄ちゃん、弱い!」って笑顔を見せてくれていた。そんなフッカの気持ちも知らず、きちんと向き合うことをしなかった。
アイツが現れて、フッカの気持ちが離れていったんじゃない。オレがフッカの気持ちにキチンと寄り添って来なかったんだ。
『ホンキでやろ』
その言葉に込められた思い。
盤面に埋め尽くされた白の海の中にどこにも繋がらない黒が三つ空しく浮かんでいる。
慢心、油断、焦り、自滅…………。
どうしようも、ない……。オレは…………。
オレは顔を上げられない。
ただ、このオレの小学生らしい泣きっぷりだけはフッカに負けていないと思う。
ふつう、二人いればどちらかが慰める役をするもんだろう。
オレはフッカの前では絶対に泣かないんだから、今回ぐらいフッカが慰めてくれてもいいもんだと思うが、二人とも泣いてるせいで15分近く号泣し続けることになってしまった。
しかし、気の済むまで泣くと案外落ち着くものなのかも知れない。
涙が止まっても鼻水だけはだらだらと溢れてくる。それを袖で拭って顔を上げると、すでにフッカは泣きやんでこちらを不機嫌そうにふくれっ面で見つめていた。
フッカの前には堆く積まれたティッシュの山が築かれている。オレもテーブルに置かれたボックスティッシュに手を伸ばした。
「お兄ちゃんは……、ひどい……」
「ごめ……」
声を出すと鼻水が噴き出して慌てて鼻をかんだ。謝っても謝りきれない。オレの罪は重い……。
「……泣いてるのに、ぜんぜん慰めてくれない……」
「あ……」そっちのほう?
「わりぃ、あんま、ボロ負けらったんれ、つい」丸めたティッシュが重い。フッカの築いた山のてっぺんに手を伸ばして乗っけた。
オレのティッシュにちらっと目をやって、グッと睨んでくる。
「もう、お兄ちゃん、弱すぎ!」フッカの頬がゆるんだ。
その言葉に、すごく嬉しくなって思わず笑い返した。
そのとたん、オレの顔を見たフッカが思いっきり吹き出してしまった。しぶきがオレの顔まで飛んでくる。フッカの顔もテーブルもオセロも、どこにこれだけ溜まっていたんだろうと不思議に思うほどの量の鼻水でドロドロになった。
フッカが焦ってティッシュを掴んでテーブルの鼻水を塗り広げ始めた。
「なにやってんだよ」フッカの隣に回ってティッシュで顔を押さえてやる。
フッカが思い切り鼻をかんだ。
「あーあ、せっかく風呂入ったのに」
フッカの顔もオレの手もべとべとだ。
「だって、お兄ちゃんが変な顔するから……」フッカが山の標高をさらに高くする。
笑ったつもりのオレは一体どんな顔をしてたんだろう。久しぶりに触れたフッカの頬はべとついてはいたがふっくらと柔らかな弾力があった。
ふと思って、頬に触れた指先をこっそり口に運んでみたら、やっぱり塩っぱかった。
オレとフッカがスッキリとするには顔を洗う必要があった。
フッカが洗面台に向いているあいだ、小さな背中を見ていると、後ろからギュッてしたくなるのを我慢するのは結構大変なことだった。
こんなのが一晩中傍にいるのかと思うと、体が風呂上がりのように熱くなる。
二人してダイニングテーブルに戻ると、本題を切り出した。
「さあ、勇者よ、お前の望みを申すがいい」
大仰なセリフにフッカが慌ててティッシュを掴んで鼻に押し当てた。
ティッシュの中で小噴火。まだマグマが残っていたのか。
フッカが頬っぺたを膨らませて抗議するが目元が笑っているからヨシとする。フッカが積んだティッシュで山が崩れて広大な高原になった。ここで造山運動の実験が出来そうだ。
少し間を置いて、フッカが小さく息を吐いて真顔になった。
「どっか、行きたい……」
「どっか?」明日から三連休で天気もよさそうだ。出掛けるにはいいだろう。オレとでよければ大歓迎だ。
「キミトとか?」首を振る。
「ああ、るなぱあくはどう? 前に行きた――」
言い終わらぬうちに睨み返された。
「どっか、行きたいところあるのか?」女のややこしい注文はこちらから聞くのが手っ取り早い。
「……遠く」
「遠くったって……」オレたち小学生が朝出て夕方までに帰れる場所は限られている。
ディズニーランドも行って帰るだけで一日が終わってしまう。都内ぐらいなら遊べるか。
「そうだ、渋谷とか原宿って、いっぺん行ってみるか?」
「もっと、遠く……」
「もっと、って。なんだよ、駆け落ちか?」
思いつきの冗談に頷いたのか項垂れたのか、フッカの頭ががくっと落ちた。
駆け落ちって、オレの持ち金でコイツとどれだけ暮らせる?
一瞬、駆け落ちという文学的で魅力ある言葉に頭の中で通帳の残高を思い浮かべた。男と女の逃避行。いまの時期、野宿ってわけにもいかない。しかし、子供同士じゃホテルどころかネカフェだって泊まれない。年を誤魔化すのもオレたちでは無理だ。頼る友達もやっぱり子供ばかりだ。
クソっ、何も考えずバカやっちまいたい。
「行きたい……」フッカの言葉はどこか諦めたような色が滲んでいた。
フッカも無理を承知なんだ。それだからこそ『何でもいうことをきく』なんだ。
「あっ」不意にひとつ、考えが頭に降ってきた。これならいけるかも知れない。
「伊香保とか、どうだ?」
「伊香保?」
フッカが、なんだ? というように顔を上げてこちらを見た。
「うん。ほら、ウチのじいちゃんが渋川の山奥に住んでるだろ。そこに泊めてもらえばさ、ハイランドパークとかグリーン牧場とかで遊べるし、伊香保温泉だって近いし、フッカ、露天風呂とか好きだろ? 二人でゆっくり出来るよ、残念ながら混浴はないけどね」
渋川あたりはここからかなり近いし、目新しいスポットでもないが、それでも日帰りとは違う気分になれると思うのだが。
「どうかな?」
フッカはオレの話をじっと聞いていたが、だんだんと涙目になって、しまいには唇を震わせてポロポロと泣き出してしまった。
やはり女の子に伊香保温泉はないか。竹久夢二記念館とか、興味、そりゃないよなぁ。
「行きたい、お兄ちゃんと伊香保温泉、行きたい……」
「あ、いいの?」不評かと思ったが意外な反応に戸惑う。
フッカはまたティッシュで目と鼻を押さえている。隣に行って頭や肩や背中や、いろんなところを撫でてやった。
「伊香保温泉……、伊香保温泉……」鼻を啜りながら魔法の呪文のように繰り返す。
「でも、じいちゃんがOKしてくれたら、だぜ」
フッカが縋るような目で袖を引っ張ってくる。何がいいのか伊香保温泉にこんなに喰い付いてくるとは思いもしなかった。
「じゃあ、電話してみっから」
もうかなり遅い時間だけど、フッカの目を見るとそうも言ってられない。
「一泊でいいよな?」
「ふたつ……」
フッカが指を二本立てる。
……まあ、オレも、その方がいいけど。
キッチンの子機をスタンドから抜いた。
『はい、野木です』
電話口で若い男の人の声。
渋川のじいちゃんだ。電話だけだと父さんより若くハリがある。昔からカラオケでかなり鍛えてるらしい。
野木は母さんの実家だ。そんなに遠くでもないけど、年に二、三度顔を出すぐらいしかない。
そう言えば、この年末年始はばあちゃんの具合が悪くて出掛けられず、新年の挨拶は電話だけだった。
「高森の、啓示です」
ナンバーがディスプレイに表示されてるはずなので、それで分かるだろう。
『ああ、啓示か。おばあちゃんは大丈夫だったか?』
母さんから連絡が行ってるのか。それなら話が早い。
「うん、意識は戻ったみたいだけど、しばらくは入院になりそう」
『翔子は付き添いか?』
翔子は母さんの名前だ。普段オレには『お母さんは……』と言ってくるけど、お湯割りが二杯以上入ると『翔子』になる。
「うん、そう」
『お父さんも出張だって? 一人で不便はないか?』
「それなんだけど、明日からそっちに行ってもいいかな?」
『泊まりでか?』
「うん、月曜まで。今日は隣のおばさんが気を使って晩御飯作ってくれたんだけど、ずっとってわけにもいかないし」
『ああ、いいよ、部屋は空いてるし』
「ほんと? 友達も、一緒でもいいよね。伊香保温泉に遊びに行きたいんだ」
『なんだ、うちはホテル代わりか? 何のもてなしもないぞ』
「うん、それでいいよ」
『なら駅まで迎えに行こうか』
「うん、明日の朝、渋川に着いたら電話する。そのまま伊香保まで送ってよ」
『ちゃんと翔子に言っとくんだぞ』
「わかった、ありがと」電話をスタンドに戻してフッカにOKサインを出す。
満面の笑みで拍手を返してくれた。
とりあえず母さんの許可も必要だ。絶対にじいちゃんからも母さんに確認の電話がいく。
子機を手にして思い立った。
『文香ちゃんの家はオーケーしたの?』
そう聞かれるはずだ。
「フッカ、ママさんのお許しを貰えるか?」子機をフッカに差し出す。
明日にはパパさんが帰ってくるはずだ。じいちゃんの家とはいえ、泊まりで三日も出られるのか。
フッカが子機を受け取るとさっきの番号にリダイヤルした。
「あ、ママ、わたし。明日からお兄ちゃんと旅行に行くから……、うん、伊香保温泉……、そう、伊香保温泉なの、二人で……」
「じいちゃん家に泊まるって言えよ」小声でアドバイスしてやるが、向こうの話に「うんうん」と頷くだけだ。
「わかった。そうする」
切ボタンを押して通話を終えたフッカが顔を上げる。
「ママさん、なんて?」
「明日の朝、六時半にパパを迎えに駅まで行くから、それまでに出掛けなさいって」
意外な返事に言葉が出なかった。
さて、そうなると最大の難関は母さんかも知れない。躊躇いつつ覚悟を決めて携帯に電話を入れるが、話中でしばらく待ってからリダイヤルした。
「ああ、母さん。明日から文香ちゃんと渋川のじいちゃんとこに行っていいかな。じいちゃんはオーケーしてくれたし、文香ちゃんのママさんもいいって言ってくれてるんだよ。ねぇ、いいでしょ、家にいても退屈だしさ」思いっきり早口でまくし立てた。
母さんは電話の向こうで大きくため息をついた。
『ホントは反対したいところだけど、いま文香ちゃんのお母さんからよろしくお願いしますって電話があったから仕方ないわね。おじいちゃんにはお母さんからもお願いしとくわ』
信じられないことだが許された。
なぜ許す?
なぜ認める?
オレと沢木さんは部屋に二人でいることすら難色を示された。
オレとフッカは今日を入れれば三泊四日だ。
まるで新婚旅行だ。
今夜なんかまるっきり二人だけの夜なんだぜ。飯を食った、風呂も入った、二人の気持ちをぶつけあった。あとは枕を共にするだけだ。
オレとフッカの体格差、体力差を考えれば、無理矢理コイツのズボンの中に手を突っ込むことだって容易いことなんだ。
それをどうして?
世界がオレたちを祝福してくれてるわけでもあるまいし。
オレはフッカにオーケーサインを出した。
それで、また彼女が泣き止むまでティッシュの山を積むことになった。
「じゃあ、明日早いし、もう寝ようぜ!」勢いよく言って〝どこで寝る?〟になった。
フッカを客間に寝かせてオレは自分の部屋か。それはせっかくの泊まりなのに寂しい。しかし、フッカが客間でオレも隣にっていうのはがっつき過ぎか? オレの部屋に誘うのはいかにもで論外だろうか。
やはりフッカを客間にして「寂しい」と言うのを期待してみるか。
きっとフッカなら――――。
「お兄ちゃん、寝る前のお薬ってある?」
「えっ」
〝お薬〟って、あれだよな……。
「冷蔵庫に入ってるけど、まだ飲んでるの?」
「うん、お兄ちゃんは?」
フッカがキッチンに回って冷蔵庫を物色する。
「オレは飲んでないよ。飲んだらすぐ寝ちゃうんだ」
「そなの」山崎のボトルに入ったお薬を嬉しそうに取り出す。
「カップは食器棚にあったはずだよ」
カップといっても、元々は養命酒に付いてた計量カップだ。この間は、あの量でオレは朝まで意識を失った。
「あ、でも、ザラメって、いま、ウチ、なかったと思うけど」
「うん、いい……、氷、貰うね」
氷?
キッチンカウンターの陰でフッカの肩から上しか見えない。カラカラと氷の回る音がする。グラスをそっと持ち上げて口元に運ぶ。
あれ? 見覚えのあるブルーの薩摩切子。それオヤジのロックグラスじゃないか。
溢れそうな〝お薬〟を口から迎えにいって表面張力の分をその場で啜ってからそろそろとダイニングに回ってテーブルについた。
「なんだよそれ、そんなに飲んでんのか?」
規定量の十倍以上は入っている。もし親父がこれだけの量を入れたら母さんに飲み過ぎだと小言を言われる。
「うん、最近はこれぐらい……。でも、ちょっと入れすぎたかな」
「そんな、ダメだって」
「じゃあ、ちょっと飲んでよ」
少しでもフッカの量を減らしてやらなければならない。
差し出されたグラスをひったくると、一口グイと喉に流し込んだ。
「……もう。大丈夫?」
激しくむせるオレの背中をフッカが笑いながらさする。
「ほら、もう寝なさい」
なんだよ、母さんみたいなこと言うなよ。
焼けるような喉のヒリヒリした刺激に咳き込みながら顔を上げると、フッカが真夏に麦茶を飲むみたいにグラスをあおっていた。