ままごと遊び
明日からの三連休もまたつまらないものになりそうだ。
誰に気兼ねもない、気楽といえば気楽なのかも知れないが。
金曜の晩飯。
かねてからチャレンジしてみたかった〝完全メシ〟を買いに外へ出る決心をようやく固めたところだった。
きょう、学校から帰るとダイニングのテーブルの上に母さんからのメモがあって、婆ちゃんの具合が急に悪くなったので入院することになったらしい。母さんはその付き添いで帰ってこないということだ。トイレ前の廊下に残るほんの微かな異臭が吐瀉物のものだとわかる。
婆ちゃんといっても義理の母親なので母さんも何かと大変だろうと思う。
その母親の本当の息子はというと、今夜から例の元教え子と本格的な不倫旅行だ。あきれて物も言えない。
このだだっ広い空間に三日間もオレ一人では、思い詰めて間違いを起こしかねない。
ロープや紐の類は家の中にたっぷりとあるし、アウトドアナイフのオピネルも出番を待ちかねている。赤いポリタンクの中身をぶちまければリビングでキャンプファイヤーだってできるんだ。
なので、少しでも気を紛らわせるために外に出た方がいいだろう。三十分も歩けばバイパス沿いにでかいドラッグストアがある。いい運動と暇つぶしだ。
いまから行って帰れば八時過ぎには戻って来れる。ついでにツタヤで映画でも借りて帰ろう。ド派手なアクション物がいい。どうも最近は本を読む気になれないのだ。
外の冷え込みは厳しそうだ、ダウンに……。
マフラー。
マフラーか、仕方ない。ひと月ほど前まで使っていたグレーのチェックのマフラーをタンスから引っ張り出した。
昨シーズンのキミトのバーゲンでフッカが四時間掛けて選んでくれた、そのドタバタとした過程が思い出されてしまうため固く封印していたものだ。
マフラーを巻いて玄関で靴を履く。
もう、身の回りの至る所にフッカがある。いちいち避けていてはこの先、生きてはいけないのだ。痛みに耐えてそれに慣れるしかない。そうすれば、いつか何も思わずマフラーを巻けるときがくるだろう。
できればこれを巻くのはフッカにやって欲しかったけれど。
オレが感情をぶちまけて、二人の関係は終わった。あのとき、オレは自分のことだけを考えていた。
最悪だ。
きのうの朝。もう手を繋ぐこともないだろうと、項垂れていたオレの右手にフッカはわざとらしく左手をぶつけてきて、それでそのまま小指を絡めあって歩いた。
けさも同じようにどちらからともなく小指を繋いだ。
たった指一本。
でも、それを離してしまったら何もかもなくなってしまう気がする。きっとフッカもそう思ってるんだろう。本当は、離してしまった方が楽なのかもしれない。でも、それは怖い。
集団登校で吉田商店を過ぎて、学校までずっと繋がっていたのはフッカが一年生のとき以来だった。
男と女が黙ったまま小指を絡めて寄り添い歩く姿は、みんなからは特別な関係に映るだろう。
確かに、きらりちゃんはフッカのことを呪い殺さんばかりの形相で睨みつけていたっけ。
手を顔の前に出して小指を見つめた。まだ指先にフッカが残っているような気がする。
フッカもオレの指先を感じていてくれれば。
ため息で、ダウンのポケットからウールの手袋を抜いてはめる。
この手袋は…………。もう、いいか。
準備はヨシ!
引き戸を開けて外に出た。
「寒ぶっ」あまりの気温差に思わず身震いがでる。
見上げると空には雲一つない。放射冷却で今夜は更に冷えるだろう。
天空にオリオンの三ツ星がギラギラと瞬いて、その少し下に小さく並んだ小三ツ星の真ん中の星が淡くぼやけて見える。オリオンの大星雲だ。
あの日もこんな天気のいい、寒い、そして美しい夜だった。天上にきらめく神々の話をしながら、フッカと寄り添い肩を抱いたあのクリスマスの夜。あのとき優しく唇を重ねることができていたら、今頃オレたちは違う未来を生きていたのだろうか。
ごめん、オレはガキだった……、それはいまも…………。
こみ上げてくる感情にきつく瞼を閉じた。目頭に溢れる熱に慌てて俯いて両手でぐっと押さえた。
もう泣くのは嫌だ。
泣かないから、もう泣かないから、もう一度、もう一度だけでいいからオレにチャンスをくれよ……。
手袋に滲むものを圧迫止血のように強圧する。そのまま深呼吸すると、不思議と涙が止まった。押さえていた手袋をそっと離す。
強く圧しすぎていたのか、解放されても目の奥がイルミネーションのようにチカチカと点滅している。
……目を開けて前を見るんだ、これからの、まだまだ、必ず、きっと未来があるんだ。オレにも、フッカにも……。
顔を上げると、そこにフッカがいた。
「救急車?」
「うん、ママがそう言ってたよ。近所中大騒ぎだったって」
フッカは、脱いだ白いロングのダウンコートをダイニングの空いたイスに置くと、赤いスウェット姿ででかいトートバッグからタッパーウェアを取り出しテーブルに並べ始めた。
赤のスウェットはフッカの部屋着で鮮やかでいい色だと思うんだけど、あまり気に入っていないのか、普段はグレーのばかりで滅多に見かけることがない。
そういえば、マスクのないフッカの顔を見るのも久しぶりだ。
フッカが伝えてくれたママさん情報はこうだ。
今朝、オレたちが学校に出てしばらくして、ばあちゃんの具合が急に悪くなり吐いた後、意識がなくなったらしい。
それで慌てて救急車を呼んだということのようだ。
母さんは、救急車で付き添った後、容態が安定したのを見て一旦家に戻って入院の準備をして、また車で病院に向かったそうだ。
ばあちゃんはいまは意識も戻って命に別状はないようだが、しばらくは母さんが付き添うことになるらしい。
フッカのママさんは一人になるオレを心配して晩飯を用意してくれて、それをフッカが届けて、いま食事の準備の真っ最中というわけだ。で、オレは自分の席でただフッカの動きを見ているだけだ。
おかずはタッパーに詰めたままだが、ご飯と味噌汁は食器棚から食器を出してそれに移している。
「あ、そうか、二人分か」
オレの向かいの席にフッカが赤い塗り箸を並べるのを見て、ようやくそれに気付いた。あの箸は、オレが修学旅行で行った鎌倉で買ったお土産の夫婦箸の相方だ。マイ箸で持ってきたのか。
一応、うちにもフッカが来た時のための彼女用の食器が揃っているのだが、いまの二人の関係では、てっきり用が済んだら直ぐに帰るもんだと思い込んでいた。
「うん、ママが一緒に食べて、もうそのまま片づけて来いって言って……」
「そっか、なら、寂しくなくていいよ」そういうと、フッカは少し頬をゆるめて小さく頷いた。
いま二人で食事をすることで寂しさが紛れるのかどうかわからないけど。
ただ、温かいご飯と味噌汁に唐揚げは子供なら必ず元気が出る。
「いただきます」のあと、ひたすら無言で食べ続けているのは、確かに気まずいこともだが、純粋に『空腹と美味しい物の組み合わせ』と言うこともあると思う。
「おかわりは?」フッカの茶碗が早くも空になっていた。
「ま、むん……」口の中からご飯と唐揚げと千切りキャベツの混じった物が飛び出しかけたのを箸を持った手の甲で押さえつけている。
前と変わらぬ彼女のテーブルマナーに少し安心して、向かい側の茶碗に手を伸ばした。
「もっと落ち着いて、味わって食えよ」
口の中がいっぱいで声が出せず、三回の頷きで返事をする。涙目なのは詰め込みすぎのせいだ。
キッチンに置かれた容器から茶碗にご飯をよそってやる。少し冷めていたのでレンジで暖めてからフッカの前に返した。
冗談みたいな山盛りにしてやったのに普通に食いだす。兎に角、一口が大きいんだ。負けずにオレもご飯を追加した。
夫婦茶碗に夫婦箸。汁椀も湯呑みもフッカのが一回り小ぶりなお揃いがテーブルに踊る。
新婚さんの二人っきり、ままごと遊びの夕飯。
どれほど憧れたことだろうこの食卓の情景に、向かい合った二人の届かない距離だけが哀しい。
「ごちそうさまでした」
食べ終えて、質、量ともに満足な晩ご飯だった。それに、やっぱり寂しくなかったし。
多めに持ってきてたご飯まで残らず食べたせいで、かなり苦しくなった。お腹をさすりながら、フッカが器を片づける動きを眺めていた。
フッカもおへその辺りがポッコリと出っ張っている。やはりフッカは大食いだ。あれは絶対に胃下垂だ。
以前ならお腹を叩いて「お目出度ですか?」ってからかってやるのだが。
「お兄ちゃん、先にお風呂入ってきたら?」
重ねたタッパーをシンクに運んでフッカがスポンジを手にする。
「わたし、洗い物やっとくから」
風呂の給湯器のリモコンパネルがキッチンの照明スイッチと並んでいる。いつの間にか操作していたのか。
「ああ、お風呂入れてくれてたんだ」
「ちゃんとお風呂掃除してあるのも確認済み!」
大手家電メーカーに勤めてるフッカのパパさん――昔はママさんもそうだったのだが――の社員割引のおかげでうちの家電や住宅設備は充実している。二年前に水回りをリフォームしたときもパパさんのおかげで予算内で最新設備を入れることができた。
ただ、それを使いこなすのは文系の我が家ではなかなか難しく、どれもフッカの方が詳しいのだ。トラブルがあってもメーカーのカスタマーサービスに電話するよりフッカの方が早い。
お風呂はもう少しお腹がこなれてからと思ったが、フッカの勧めもあるので先に頂くとしよう。
「あの、その給湯器の時計がなんかゼロになっちゃったんだけどさ」
取説を見ればわかるんだろうが、母さんがどこかに突っ込んで所在不明になっている。
フッカはちらっとそっちの壁に目をやって「うん、やっとく」と微笑んだ。
前と変わらないフッカがそこにいて、それで、ふと、どうしようもない寂しさを感じた。
満腹での入浴は体に悪いらしいが、気分的には非常によいものだった。温めの湯温設定に浴室暖房は至れり尽くせりだと思う。もっとも、小学生が心不全や脳梗塞を心配することもないだろうけど。
パジャマ替わりのスエットに着替えダイニングに戻るとフッカは洗い物を終えて先ほどの席にちょこんと座っていた。
「いいお湯だったよ」隣に寄って声を掛けた。
こちらに顔だけ向けて無言で頷く。笑顔だが、やはりどこか届かない微妙な距離を感じる。
「あ、そうだ。さっきお母さんから電話があったよ」
「えっ、そうなんだ。なんか言ってた?」
「明日のお昼頃に一旦帰るって」
「そう……。それだけ?」
「あ、えっと……、うん、そう……」
家に電話したらフッカが出て、オレは風呂に入ってるって、母さんはどう思っただろう。フッカの様子だと、絶対なにか言われてるはずだ。
でも、聞き返せない。
『なんだ、襲われないように注意しなさい、とか言われたか?』以前ならそんな軽口だって言えたんだけど。
「そっか……」口から出たのはそれだけで、また息苦しい空気が漂い始めた。
洗った器は来たときと同じようにでかいトートバッグに片付けたようだ。
あとは帰るだけか。
「フッカも入ってけば?」
もう少し一緒に過ごしたい気がして、ただそれだけの理由だった。
「……うん、じゃあ入ってきていい?」
「え、ああ、うん、暖房は切っちゃったけど」
誘っておきながら、OKされると思ってなくて一瞬とまどってしまった。
フッカがテーブルに両手をついて「よいしょ」と席を立った。彼女のババア臭さが懐かしい。
ダイニングから廊下に出る彼女の背中を見送る。
ドアのところで何か考えてるようにしばらく立ち止まって、こちらを振り向いた。
「まっててね」
「え、ここオレんちだよ」
フッカは「そっか」と吹き出すように笑って廊下に消えていった。
待つさ、いつまでも。いままでだって……。
フッカが空けたイスに腰掛けてみる。風呂上がりのオレのお尻よりも座面の温もりを感じる。
ここにフッカがいる。フッカがいた。
放浪の果てに帰る場所がオレの傍らならどんなに幸せなことだろう。
隣のイスに置かれたダウンコートをそっとなでてみた。サラサラとした生地の感触とダウンの柔らかな弾力が掌に伝わってくるだけだ。
ふと、なでている部分がちょうど胸の辺りなのに気付いて、きゅっと押してみたがもちろん何にもならなかった。
「まっててね、か……」
待たされた。
女の子のお風呂が長いということはよく聞くことだ。
確かに思春期を迎える女の子が、オレみたいに全身をガシャガシャかき混ぜるように洗って浴槽で百数えれば十分ってわけにもいくまい。
髪だってオレの何倍もあるんだから。
だけど、どこをどう洗えばこれほどの時間になるんだろう。
家族でスーパー銭湯に行ったとき、壺湯や岩風呂、ジェット風呂、超音波風呂に打たせ湯と、いくつもある浴槽が面白くてかなりの時間を掛けて回ったことがある。が、うちの浴槽はひとつっきりだ。ジェットも超音波もレーザー光線も出ない。浴槽に一時間も浸かれば小学生といえども心不全や脳梗塞のリスクは大丈夫か?
中で倒れてないか。
心配になって――本当に心配でこっそり覗こうなんてつもりなど毛頭ない――風呂場の前まで行ってみたが、確かにどこかを洗っているような水音が聞こえてくる。
さすがに手前の脱衣場のドアを開ける勇気はない。なんと声を掛けて良いのか分からないからだ。
「湯加減はどう?」なんて給湯システムの取扱にかけては向こうがプロなんだから。
かといって、無言で脱衣場のドアを開けたら、下着を物色しに来たと思われかねない。
何やってんだ、オレ……。
すごすごと引き返して、またフッカのいたイスに座る。
ダウンコートはなで飽きた。
拡げて小ささを確認した。
袖を通してみた。
胸に抱えて顔を埋めてみた。これは予想通りかなり気に入った。結構フッカを感じる。汗や体臭、スキンケアローションとかボディソープにシャンプー、それと衣類の洗濯洗剤。
様々な香りが渾然一体となってここにフッカがいるように想像できる。
「もしもーし、フッカぁー、聞こえますかー」
『わー、お兄ちゃんきこえる!』
糸電話だ。
あれは何メートルだったっけ? 本当の数字は丸めてしまって、18mと44cmにした。野球のピッチャーとキャッチャーの距離だ。オレとフッカをバッテリーになぞらえたんだったな。
二人とも興奮してお互いが好きに喋るからなに言ってるか分からないザーザー、ガーガー。
『お兄ちゃん、好き!』
そう言ってたぞ。それだけは聞こえたぞ。あんとき確かに……。
オレだって好きさ。大好きさ。
「おーい、フッカー」
「お兄ちゃん……」
顔を上げたらフッカがいる。フッカがいた。
置いていた着衣に顔を埋めて名前を叫んでいる男をみた少女はいったいなにを思うのだろう。
慌ててダウンコートを元の位置において自分のイスに戻ったが、フッカは立ったまま〝見てはいけないものを見た〟という風に顔を逸らしている。頬が赤く色づいているのは長湯で上気しているからだと切に願う。
ここは仕方ない。
「湯加減、どうだった?」しらばっくれるしかないだろう。
「あ、うん、ちもきよかった……」なるほど、動揺してるのがよくわかる。微笑みも心なしかひきつってるようにも見える。
前みたいに「お兄ちゃんのヘンタイ!」とか、かわいい声で責めてくれた方が心が安まるのに。
「あの……、ローションって、まだあった?」
「えっ、ああ、うん、ちゃんと……」
フッカのスキンケア用品も、脱衣場の洗面化粧台の棚に置いたままでよかった。
感情にまかせて、目に付くフッカ用品を片っ端から排除しようと思った時期があったからだ。結局、何ひとつ捨てられない女々しい未練心がたまたま役に立った。
しかし、わずか三秒の無言が息苦しい。
その間に、フッカがちらっとダウンコートに目をやった。
明らかにフッカが置いたときと畳みかたが違う。いや、もうオレが抱き締めて顔を擦り付けてたのを見られてるし。
フッカはようやくダウンコートの隣に腰を下ろした。コートの乱れをなおして、手にしていたオレンジの布を畳んだコートの隙間に挟み込んだ。オレンジ色はさっきまでスウェットの下に着ていたTシャツだろう。
彼女の風呂上がりの習慣を考えれば、手にしていたのはTシャツだけではないはずだ。その習慣を教えたのはオレで、いまオレのスエットの中も普通に素肌だ。
フッカも赤いスウェットだけということか。
何となく、意識してしまい体温が上がる。
「あっと、もう、九時だけど、いいのか?」
「あぁ……」フッカがダイニングの掛け時計に目をやった。
重たい空気に耐えられず、時間を言ってしまって、それでもう帰ってしまうのかと、哀しくなった。
フッカの手がテーブルに置いたでかいトートバッグに伸びる。
「モう、泊まってクか?」あと少し、ほんの少しだけでもそばにいて欲しくて、必死で冗談めかしたら声が裏返った。
「えっ?」ぽかんと口を開くぼんやり顔のフッカは好きだ。
「ほら、外、寒いし、湯冷め、しちゃう、から……、さ」口腔内がカラカラに乾燥しているため、ゆっくり区切って喋らないと舌がもつれてしまう。
「うん……、そうする」頷いたフッカは、泣きそうな顔で笑っていた。
フッカがキッチンのカウンターに置いてある電話の子機を持って番号を押した。
「あ、ママ、わたし。きょうお兄ちゃんとこ泊まってくから」電話を切って、スタンドに置く。言い切って大きくため息をついた。
わずか五秒。
おそらく、ママさんは一言も返事をしていないはずだ。
いいのか?
「いいって」
ホントかよ? まあ、ダメなら飛んでくるだろう。隣なんだし。
しかし、前にフッカが泊まったのっていつだっけ? パパさんが確か出張中だかの、おととしの夏休みだったな。もちろん、それは二人っきりってのじゃない。
――――俺たちの間を天使たちが通り過ぎていく。
フッカは向かいの席で俯いたまま、いや、ちらちらと例のダウンコートを見ているか……。
「オセロでもするか?」
フッカがぼんやりと顔を上げた。