告白
昼休みの校舎裏。
こういう所に呼び出されるシチュエーションは創作の世界ではよくあることだ。
もちろんその目的は決まっているだろう。昨日、夜の定時連絡で沢木ほのかから「お昼休みに大池のところで待ってて」と指示されていた。
とうとうほのかに告られるときが来たのか。
毎日電話で話をし、デートもした。手も繋いだ。こういうことって男の方から告げるべきなのだろうか? オレの方が二個も歳上なんだし。
ウソ気だったはずの付き合いが、いつしか本気の思いになる。男と女の心は理屈じゃ推し測れない。
フッカのことを思うと、心が押し潰されそうになるが、ほのかの存在はそれを忘れさせてくれる大切なものだ。
オレにとって今必要なのはきっとほのかなのだ。
フッカは…………。
オレがほのかと付き合えば、久坂もフッカだけのものになる。
前にほのかが言ってたじゃないか。
それがいいんだ。一番だ。
何も迷うことなんかない。
彼女の気持ちを受け止めて……。
しかし、ここは予想通り、人が多い。昼休みのかくれんぼ、鬼ごっこの騒ぎ声にこの寒いのに花壇の手入れまでする奴がいる。常時、数名が周りをうろついているのだ。
きっとほのかは少女漫画のシチュエーションに感化されているんだ。
告白は校舎裏。
彼女にとって『月刊少女ちゃかぽこ』は恋愛のバイブルでもあるんだろう。
いま、二年生の女の子がオレの陰に身を潜めて鬼をやり過ごそうとしている。腰に取り付いて、立てた人差し指を唇に押し当て、目で「黙っててね」と見上げている。知ってる人間を盾に使うとはなかなかの策士だ。この子は集団登校で一緒の班の秋本輝星ちゃんだ。
輝星と書いてきらりと読む。
キラキラネームだ。
確かにキラキラ元気がいい。
オレたちも、この子のようにキラキラとはしゃぎ回れたら……。
男も女も関係なく、愛だの恋だの、そんな大人みたいな面倒くさいことに悩まずに、みんな友達でいられたらどんなにか楽ちんだろうか。
児童文学の恋はたいていそんなふうに、大人の世界への憧憬から〝子供らしい〟世界に戻っていく。でも、子供から大人への成長は不可逆なものなのに、心だけが後戻りすることは不可能だ。
オレはもう、いまさら純真な子供に戻ることなんてできない。覚えた性の解放は忘れられないし、女を見るとムラムラしてくる変態野郎だ。
フッカがいないとほかの女が欲しくなる。そういう男だ。最低だ。
せめて、フッカと純粋な気持ちで友達になれたら…………。
「……友達になりたい」
「いいよ」
オレのつぶやきに、傍らでキラキラの笑顔が見上げている。
なんだ、まだいたの?
息を弾ませながらオレの正面に回って手を取ってきた。その途端、男の子が駆け寄ってきて、きらりちゃんの背中を派手にタッチした。
「あっ!」
きらりちゃんはすぐに身を翻して逃げていく男の子を追って走り出した。
「がんばれよ」
声を掛けると、10メートルほど先で一瞬振り向いてこちらに小さく手を上げた。
オレも右手を上げたけど、彼女はもうずっと先で校舎の陰に見えなくなってしまった。
あー、純粋な友達ができた。
しかし、これは……、まるっきりムードはない。雑踏に心を乱されないよう、目の前の池に視線を落とした。
こうしていれば、ほのかの方から「高森くーん(ハートマーク!)」って、声を掛けてくるだろう。
大池は校舎の裏庭にある乗用車ぐらいの大きさの楕円形の池だ。積み上げた石で周りを囲んで、水面は地面より三十cm高い位置にある。中央には噴水もあるのだが長く使われないままだ。
真冬の池の水はそれほど濁っていないのに暗く底が見えない。夏に池の掃除をした時には、深さは先生の膝ぐらいで案外浅いなと思った記憶があるが、いまは底なしのように感じる。確か鯉とかでかい金魚がいたはずだが、目を凝らしても姿は見えなかった。
腰を屈めて池に指を突っ込んでみる。
水は痛いほど冷たい。
そういえば、〝爪が痛い〟が転じて〝冷たい〟になったと何かで読んだ覚えがある。こんな暗く冷たい水の底にいるのはどんな感じなんだろうか。
思い切って手首まで沈めて、振ってみる。
一瞬で手首が千切れそうになる。痛みは生きている実感だ。
鯉がこの池の底で水の温むことを信じて待つように、いつかオレの痛みが和らぐ時が来るのだろうか。
この身を裂くような激痛から逃れるには池から手を抜けばいいだけだ。オレの手をほのかならきっと温めてくれるだろう。
あの暖かな胸に抱いて……。
「お兄ちゃん、何やってるの!?」
いきなりのフッカの声に顔を上げた。
当たり前だがすぐそこにフッカがいた。
「あ、いや、冷たいかなぁって……」
ごにょごにょと口ごもりながら立ち上がる。フッカの隣には、ちゃんとほのか……、沢木さんもいた。
大人しく待ってるもんだと思ってただろうが、まさかこの寒空の下、水遊びに興じているとは予想外だったはずだ。
「もう、お兄ちゃんはアホウだねえ……」
フッカが呆れたようにボソリとつぶやく。声が温かく浸み込んできて、胸が痛んだ。
「はい」
沢木さんがタオルハンカチを差し出す。手が濡れていることを思い出した。
「ああ、大丈夫」
手を振って水を切ると、ズボンのお尻からハンカチを抜いた。手に感覚が戻ると痛みも戻ってくる。グーパーを繰り返して指先の感覚を確かめる。これは、きっと霜焼けになる。
「……ごめん」
ちょっと間の抜けた空気になってしまい小さく頭を下げた。
けど、なんで沢木さんはフッカを連れてきたんだ。
彼女の目の前で告白するつもりか。
オレに白井文香か沢木ほのかか白黒つけろというのだろうか。
オレとフッカの生温い関係に終止符を打とうということか。
「文香、もう知ってると思うけど。わたし、日曜日、高森くんとデートしたんだけど、やっぱり文香に返す」
えっ、何言ってんだ、沢木さん!?
でかいマスクに覆われて見えないが、フッカは間違いなくポカンと口を開けている。
「だって、初めてのデートのランチがカップラーメンだよ。酷くない? アスレチックでスカートの中覗こうとするし、いきなり手握ってきたり、あちこちベタベタ触るし、なんか凄いエロいし……」
それは違うだろう。合意の上で、それに沢木さんだって凄く喜んでたはずだ。
「……キスだって下手くそだし!」
えっ? えっ!? えっ! おいぃっ!
その一言にフッカが目を丸くする。言った本人も一瞬〝あ、しまった〟という顔になったが勢いを止めなかった。
「ちょっと一緒に遊んだだけですぐに〝オマエ〟とか〝ほのか〟って呼び捨てにしたりするし」
それは、そういう関係になってきたから……。
「それに、すぐ泣くし。わたし、すぐ泣く男の子って面倒臭くてイヤ!」
そんな、優しく慰めてくれたじゃないか。暖かな胸で癒してくれたじゃないか。
「デート中、ずっとフッカならこうするとかフッカはこうだったとかいちいちいちいち元カノのこといわれて、正直、キツイの! フッカ、フッカばっかり言うんだったらその女と付き合ったらいいよ!」
沢木さんがフッカの腕を引っ張ってオレの身体にぶつけてきた。
よろけるフッカの肩を持って支えた。
「ほら、文香だったらおっぱいでもお尻でも、どこでも好きなだけ触っていいから!」
「ちょっと、ほのか……」
フッカの抗議をスルーして、沢木さんは駆けて行ってしまった。
沢木さんは絶対に少女漫画に出てくる恋のライバル役のつもりだ。でも、『キスだって下手くそ』はフッカの前で言うことじゃないだろ! ひょっとしてバツが悪くてこの場から逃げただけなのか? この状況でいきなり放り出されたら……、仕方ない。
「あの、これは、さ……」
フッカを目の前に、上手い言い訳が見つからない。沢木さんも事前に言っておいてくれればスマートな回答を用意できたのに。
そうじゃない。
なんだ、オレは不倫がバレたゲス男か?
違うだろ、そもそもフッカがあんな野郎と……。
いや、言い訳だ。言い訳ばっかりだ。つい3分前まで、沢木ほのかと共に生きることを選ぼうとしていた。選んでいたといっても過言ではない。なんなら数日前から選ぶことに決めていた感すらある。
オレはフッカから逃げようとしたんだ。
身を切る冷たさに耐えきれず、目の前の温もりにすがってしまった。
マスクと前髪の隙間からフッカがあの目をしている。呆れているのか、哀れんでいるのか、いや、そんな目じゃないんだ。
フッカと気持ちが通じ合えたら。
前みたいに、見つめるだけで心の中が分かったら…………。
ああ、そうか、いままでも勝手に気持ちが分かったと思っていただけなんだ。何もわかっちゃいなかった。
でも、やっぱりオレはフッカが好きだ。こんな形で、自分勝手だけど、フッカが好きなんだ。抱き締めたいし、キスもしたい。裸だって見たいし、隅々まで触りたい。
もっと、心も体も一つになりたい。
「あのさ、フッカ、オレさ……」
ああ、チクショウ! 言葉が出てこない!
小さな肩に手を置いて、いままで読んだ物語の全ての言葉を検索してみても、ひとつも先に進まない。
フッカが首が千切れそうなほど激しく頭を振った。
「だめ」
小さいけれど、はっきりと聞こえた。
フッカにはオレの気持ちが分かるのか? オレの手を振りほどいて走り去る彼女の背中を固まったまま見送った。
視界の端に人影が見えて、そちらに目を動かすと、鬼ごっこ中の女の子が二人、足を止めて舞台演劇でも見てるような顔でこちらに注目していた。
ああ、新しいお友達のきらりちゃんか。
名前の通り星が好きでヘアピンや持ち物はいつも星のアイテムで飾られている。新しく始まったアニメが星の世界の話で一層気合が入っている。
結構可愛いじゃないか。
ねえ、一緒に登校してるウサギさんのアイテムのお姉ちゃんも案外可愛いところがあるんだよ。お兄ちゃんはね、その子のことが……。
『お兄ちゃんはアホウだねえ』
きらりちゃんたちのあんぐりと口を開けた顔がゆらりと滲んだ。
二人の姿が流れ落ちる前に、池の中に頭を突っ込んだ。途端に、頭を絞られるような激痛が襲ってきた。額や頬が細かく刻まれて血が噴き出しているように感じる。
痛みで涙どころではない。水から頭を抜いて、犬が水を切るように頭を振った。
驚きを隠せない顔のきらりちゃんたちが一歩後ろに下がる。
髪に付いていた水が飛沫になって飛んで行ったのだろう。周りの空気がさらに頭を冷やしてくるが、顔だけがやけに熱く火照った。
「ふうっ、スッキリした」
大きく息を吐いて、観客の見守る中、オレは舞台をはけた。
割れるような頭の痛みに、こんな頭はいっそ割れてしまった方がいいと毒づいた。身体を伝って流れる水がシャツやパンツにまで凍える冷たさを運んで来る。
仕方なくトイレの個室に入ってタオルハンカチで身体を拭いて、少し泣いた。
「もう、今日は早く寝なさい」
晩御飯の後、いつもの習慣でリビングでぼんやりとニュース番組を眺めていたときだ。派手なくしゃみが三回続いて、母さんが食器の片付けの手を止めて風邪薬と水の入ったグラスを目の前のテーブルに置いた。
別に風邪というわけでもない。くしゃみと、少しの熱と頭痛と身体のだるさがあるだけだ。
「寒いのに裸で寝てるからよ」
オレが風邪をひくたんびに同じようなことを言うけど、オレの就寝時のスタイルはもうかれこれ六年になる。その間、風邪をひきっぱなしって訳じゃない。かえって病気にならないぐらいだ。クラスの連中がインフルエンザでバタバタ休んでる時もオレだけ元気でピンピンしてた。
今回の症状はちょっとしたアクシデントがあったせいだ。アクシデントの詳細は伝えられないので黙秘を決め込んだ。
風邪薬のパッケージを開けて4錠を手のひらに乗せた。マスクを顎にずらして口に錠剤を放り込む。中途半端なオレンジ味が舌の上から口の中に広がっていく。急いでグラスの水で飲み下した。
小さな粒が食道を流れ落ちていく。薬が胃に納まったのを感じてマスクを戻した。
大人のマスクはそれが女性用でもでかくて、顔が暖かい。両手でマスクごと顔を押えて、鼻で息を繰り返した。
そうするとマスクに付いた匂いを感じるような気がする。別に、マスクに何があるという訳でもないのだが、そうしてみたくなる。
マスクの右アゴの辺りを指で撫でてやった。自分では見えないが、ここには『丸にふの字』の印がサインペンで書いてあるんだ。
最初にくしゃみが出たのは六時間目の国語の時間になってからだ。当てられて教科書を音読するのに立ち上がったら、いきなり続けてくしゃみが出て止まらなくなった。
前席の金井からは唾が飛ぶとクレームが入る。鼻を摘んで何とか収まったが、声を出そうと息を吸うと鼻がムズムズしてくる。
結局、音読は先生にパスされて、オレは金井が投げつけてきたポケットティッシュで鼻を押さえ、ひたすら息を殺してくしゃみに耐えた。
下校時、少しの寒気を感じながらいつものようにいつもの時間に校舎の出口で待っていると、いつものように猫背でとぼとぼとフッカが現れた。
あんなことがあって、さすがに今日は来ないだろうと思っていたんだけど、向こうも待ってると思わなかったみたいにオレと似たような表情を浮かべている。
オレの姿を見て、フッカはランドセルを置いてかぶせを開いた。それから手前のポケットからマスクの入ったチャック付きのポリ袋を取り出した。
やはりオレには素顔をさらけ出したくないらしい。
そうか、フッカはいつも使い捨てのマスクを幾つか持っていた。
この症状だ、余分をひとつ貰えばいい。いくら冷えきった不穏な関係にあっても、人道的な支援はしてもらえるだろう。
「なあ、ちょっとマスク貸して」彼女の背中に声をかける。
「えっ、これ?」
振り向いて袋から取り出したマスクを渡してきた。女性用のピンク色のマスクだが色はまあいい。女性用なら普通の大人用より子供の顔にはフィットするだろう。
「ありがと」
マスクなんて何年ぶりかだ。プリーツを広げてゴムを耳に掛ける。
「あっ、それ、わたしの!」オレの行動にフッカが固まったまま声を上げた。
「えっ、新しいのじゃないの?」どおりで鼻当てが柔らかく顔に馴染むと思った。匂いも新品のそれとは微妙に違って生っぽい。
「しようと思って出したんだよ」
「ごめんごめ……」謝ろうとしてでかいくしゃみが一発出た。
それで、立ち上がろうとしてたフッカが驚いて後ろに下がった。
「新しいのあるから……」
フッカがランドセルから予備のマスクが入った別の袋を取り出して中の一枚を抜いた。
「はい、これ」
「いいよ、もう、これで」
「だめ、それ、汚いから替えて」
「もったいないし、いいよ」どちらかというとこっちがいい。
「いやだぁ、お願いだから、替えて!」半泣きになって訴えてきた。
「わかったよ、ごめんごめん」
外したマスクをポケットに突っ込んで、受け取った新品のマスクに付け直した。
「これでいい?」
泣きそうな目が不満げに落ち着いた。
彼女も手にした袋から新しいのを取り出して顔に馴染ませる。
立ち上がってランドセルを背負った顔はまた八割が隠されている。今の件に抗議しているのか、目を合わそうとしない。
そのまますたすたと歩き出したので、急いで横に並んで手を取った。
時々チラッとこちらの様子を伺うようにするが視線が厳しい。
「マスクって、暖かいね」
このマスクが特別なのかもしれないけど、顔で暖まった血液が全身を巡って体温を上げてくれるようだ。
フッカが横目で何か言いたげにこちらを睨んだ。目しか見えないから、そこからフッカの感情を推察するしかない。
かなり怒ってるな……。
フッカは表面上サラッとしてるが根が執念深い。
「オレも冬の間マスクしょうかな」努めて普通の言葉を掛ける。
「息苦しいよ」
「えっ?」
「マスク、息苦しいよ」
フッカがまたあの目をした。
なんだろう、でも、つい最近、この目とおなじようなのを見た気がする。
「フッ……」声を掛けようとして喉に絡んで咳払いをする。知らない間に口の中がカラカラになっていた。
「ほのか、可愛いでしょ」
そうだ、マスクのことで忘れていた。
昼休みの一件。
「あれは、図書館に返すのを忘れてた本があって……」
「聞いた」
返事が早い! 聞いたって、どこまで聞いたんだろう。
沢木さんが「知ってると思うけど……」って言ってたけど、事前情報なのか、それともあの後彼女を問い詰めたのか。
今朝のフッカがやけによそよそしいような気もしたが、最近常によそよそいしからよそよそ慣れしてしまってたのか。
「全部」
だめだ、フッカはオレの目を見て心を読んでいる。全部ってことは沢木さんとの関係の全てってことか。
「昨日、学校でね……」
フッカは、ポツポツときのうクラスであった今日の昼休みの一件に繋がる騒ぎを話し始めた。
概略はこうだ。
昨日、クラスメイトがオレと沢木さんがこども公園で遊んでいる写真を持ってきたんだそうだ。あの場所に知ったやつなどいないと思ってたのが間違いだった。
その写真がまるで抱き合ってるような感じに写っていて、結構な騒ぎになったらしい。
沢木さんはまったく否定しなかったそう――まあ、じっさい抱き合ってたわけだし、そもそもそういう噂を作るためのウソ気作戦だったんだけど――なんだが、その流れで、沢木さんは久坂と付き合ってたのではないかという話が出てきたんだそうだ。
清純可憐な沢木さんが二股がけだとしたら、それはおおいに盛り上がることだろう。
「ほのか、可愛いからちゃん捕まえとかないと取られちゃうよ」
「オレは、フッカが好きなんだよ!」
言えた。久しぶりに、とうとう、言った。
オレは心の中で自分を褒めた。
フッカが隣から睨みあげてくる。
三日前には沢木さんとあんな関係になっておきながら説得力がないか。やっぱり沢木さんの『下手くそだから』発言は致命的だったか?
目だけなのでフッカの真意が掴めない。が、恐ろしい目だ。
マスクで覆われたオレの顔をじっと見詰めて「ほっ」と吐き捨てるようなため息をついた。
呆れ果てられたのかもしれない。
その後は、二人とも言葉を掛けることもなく、オレのくしゃみが三回出ただけで、フッカの家の前に辿り着いてしまった。
「お兄ちゃん、風邪、気をつけなよ」
「あ、ありがとう」
フッカが門扉を開けて中に入っていく背中を優しい言葉に感動しながら見送る。
玄関ドアを開く彼女に「バイバイ」と声を掛けた。
フッカは上半身だけドアの外に体を残してこちらを見た。それで、マスクの右のアゴのところを人差し指でちょんちょんと叩いた。
「お兄ちゃん、なんか付いてるよ」
「えっ?」
マスクを外して確かめてる間に、フッカはドアの中に消えてしまった。
あのときフッカから新品のマスクを貰ったが、彼女がランドセルを背負い直してる間に、こっそり元のマスクに付け替えたんだ。
新品のマスクより『小学生女児の使用済みマスク』の方が断然価値が高いだろう。フッカのならなおさらプレミア付きだ。風邪なんていっぺんで治ってしまう。
けど、まさか使用中マスクにこんなマークを付けていたとは思いもよらなかった。
「ほら、これ飲んで寝ちゃいなさい」
今度はばあちゃんが小さなカップを風邪薬の箱の横に置く。
〝お薬〟だ。
ザラメを入れたホット梅酒をこの辺りの地域では――たぶん我が家と隣の家の二軒だけだが――健康にいい〝お薬〟と称して未成年者に飲ませている。
いかにも薬っぽい10ミリリットルという量まで決まっている。これは効果的な市販薬が大人用処方だけのため、子供が服用できないからなのだ。製薬会社が儲けの薄い小児薬の研究を怠っているからにほかならない。
だいたいこんなもので病気が良くなるのなら医者なんかいらないじゃないか。そう思うが、体調が悪くなっても翌朝にはスッキリしてしまうのはこいつのせいなのかもしれない。
「いま、ザラメないからそのままでいいね」
それって、もはやただの梅酒じゃん。
「これ飲むと眠くなるんだよね」
コイツの副作用はすぐに眠くなることだ。半時間もせずに記憶がなくなる。
「なあに? 彼女さんからの電話待ってるの?」
ばあちゃんが元気すぎるのも考えもんだ。まあ、その元気さのおかげで母さんも三月からは仕事に復帰できそうなんだけど。ニュースが終わったんだから、さっさと部屋にこもって映画でも見てればいいものを。
定時連絡までまだ三十分もある。しかも、あんなことがあったんだから……。
「掛かってこないよ」ポツンと吐いて、カップを掴んでグイッとあおる。
「なに、喧嘩でもしたん?」
ばあちゃんの笑いながらの問いに母さんも洗い物の途中でこちらを伺う。
言い返そうとして、口の中から喉の奥まで焼ける刺激に、咳き込んだ。どうもこういうチンキ剤は好きになれない。勢いで「掛かってこない」なんて言わなきゃ良かった。
これ以上は無視に限る。倒れる前に部屋に上がろう。
ボソボソと二人にお休みを言ってソファからお尻を浮かせたら、電話が鳴った。
ひょっとして、とリビングの電話に手を伸ばしたが、ばあちゃんがダイニングの子機をサッと取って話し始めた。
近所のばあさん仲間に違いない。
風呂場のヒートショックで目眩がするという危うい高齢者あるあるで高笑いする恐ろしい連中だ。
やっぱ、沢木さんからは掛かってこないよな……。
もし彼女からだったら言ってやりたいことは山ほどあったんだけど。
長話になりそうなばあちゃんを横目にリビングを後にした。
「啓ちゃん」
廊下で、ばあちゃんの声に振り向くと、いまにも吹き出しそうな顔で子機をこちらに差し出している。
「はい、元カノさんから……」
子機をひったくって頬に押し当てた。
「もしもし?」
『元カノでーす!』
酷い頭痛がした。
子機を握りしめて全力で階段を駆け上がった。
「なんだよ、いったい!」
『だって、お父ちゃんが先にお風呂入っちゃったんだもん』
沢木さんの言ってることを理解するのに少し時間がかかった。
『なんで文香と仲直りしなかったの?』
「いきなりあの状況では無理だろ」いきなりでなくても無謀な気がする。
『だって、文香、大変だったんだから』
「大変だったのはオマエの方だろ」
ああ、また〝オマエ〟って言っちまった。
まあいい、どうせ彼女とは別れたんだ。いや、ウソ気だったんだ、付き合ってたわけじゃない。とにかく、きちんとした説明責任を果たしてもらおう。
沢木さんとオレとの密会現場をスクープされたというのはフッカから聞いてわかった。
もともと沢木ほのかと久坂が付き合ってるという噂が存在してたなら、これは色事の話題に興味だけは一人前の小学生にとって大問題だろう。
はからずもオレとのウソ気付き合いが表沙汰になったわけだが、表向き清純派の彼女がそのことをどう説明したのか気になるところではある。
だがしかし、フッカが大変だったってどういうことだ?
沢木さんとオレの密会騒ぎで沢木さんは久坂と付き合ってたんじゃないかという噂が出てきたとき、そばで聞いてた女の子が「あれ? 久坂くんって白井さんと付き合ってるんじゃないの?」と言ったのだ。
フッカの家に久坂の自転車が止まっているのをしょっちゅう見かけるらしい。
オレとフッカの家の前を日曜日の夕方にわざわざ通るなんていったいその子はどこに行ってるんだ? 山で修行でもしてるのか?
それで久坂は、フッカの家に行ってるのは図書委員の相談事があるとフッカに呼び出されているから仕方なくで、そんなふうにみんなに疑われるならもう行かないと言って、日曜日にフッカに借りたという本をその場で返したらしい。
その返し方がポンと投げつけるみたいな乱暴な感じで、本を受け取ったフッカがいきなり泣きだしてしまい、その場にいた全員がフッカが久坂に片思いしてただけ、という結論になった、ということらしい。
それで沢木さんは振られたフッカを気遣ってオレとよりを戻させようとしたのだ。
「でも、オレに〝ダメ〟って言ったんだぜ」
『まだ、久坂くんのこと好きなのかなあ』
くそっ、総合的に考えてそうなのだろうか。
『じゃあ、高森くん、やっぱりもう一回わたしと付き合っちゃう?』
「ああ、…………」
大欠伸で言葉が続かない。いまさらなんだよ、ウソ気なんだろ。一度だって……、オマエと付き合ったこと……、ふわぁ、んかないだろうが…………。
『わたし、あんがい高森くんのこと好きかもしんないよぉ』
「はいはい…………」
『だって、ほらぁ、あの写真だってさぁ…………』