お兄ちゃん
1リットルの紙パックから20mLの液体を正確に量り取るのはかなり難しい。
両手で持っても紙パックの重さにプルプルするし、キッチンのワークトップに置いた計量カップの目盛りがまっすぐ目の高さになるまで膝を曲げて腰を折って背中を丸めないといけない。紙パックは中身の量で、注ぎ口から出てくる〝お薬〟の勢いが違ってくる。慎重に傾けていかないと、一気に飛び出す液体で周辺は悲惨なことになる。万一に備えてシンクのすぐ脇で作業をしてるけど、一日の締めくくりを失敗で終わらせたくない。
注ぎ口からツーッと糸を引くみたいにお薬がカップの中に流れ込む。
家の計量カップはカクテルなんかを作るときに使う小さなガラス製のヤツで、最初の頃は養命酒に付いてたプラスチックのカップを使ってたんだけど、電子レンジや食洗機対応の方が手間がいらないからって、料理道具好きのママが――決して料理好きではない――通販でお洒落なのを見つけてポチッたやつなんだ。
飴色の液体の表面がふるふる揺れながらも、20mLを示す赤いラインでぴたりと止まる。我ながら、見事なもんだ。最近は慣れたもので、もうこのラインを外すことはないけど、毎日が緊張の連続だ。
お薬の紙パックをワークトップにドンと置いた。
「もう、話しかけないでよぉ」対面キッチンの向こう側のダイニングテーブルでノートパソコンに向かってるママに文句を言う。
お薬作業中は耳をお休みさせてても、空気を読まないママは遠慮なく話しかけてくる。キーボードのカチャカチャだけでも、張りつめているときは耳障りなのに。
「で、宿題は終わったの? 冬休みは明日で終わりよ」ママが笑いながらこちらに顔を向けた。それでも、両手のカチャカチャを休まないのがすごい。しかも、わたしがでたらめにキーボードを叩くよりも、断然スピードが速いんだ。
計量カップの底にあらかじめ入れてあった10粒のザラメ糖をマドラーを突っ込んでかき回す。飴色の液体の中をザラメがシトリンの欠片みたいにくるくる踊る。
「もう、ぜーんぶ終わりました」高らかに宣言した。
どんなもんだ!
最終日を待たずに長期休みの宿題が完了したのは、この白井文香が小学校に入学して以来、夏冬通じて初めてのことだ。
思わず、マドラーを手にしたまま拳を突き上げた。
NHKの大河ドラマが終わって、パパはお風呂に行った。
ママはその間に日記や家計簿なんかのパソコン仕事をしてる。
わたしは食洗機に下洗いした晩御飯の食器を詰め込んで運転の準備をしてから、寝る前のお薬タイム。例年なら、そろそろ宿題のラストスパートを掛けようかな、ってぐらいのときだ。そういうときはたいていパパに泣きつく。
最後まで残る宿題は、やっぱり難易度が高い問題が多いから、普段のわたしでは考えられないぐらいせいいっぱいの猫なで声で「パパぁ、わからないよぉ」って甘えるんだ。そうしたら、
「こんな問題もできないのか?」とか言いながら、喜んで教えてくれる。教えてくれるというより、全部やってくれる。いかに自分が優秀な人間かを娘に見せつけようとする。いい年した大人が小四の算数で見せつけてもしょうがないと思うんだけどね。
けれどもママだとこうはいかない。
「自分で考えないとダメよ」と言って、〝答え〟じゃなくて、〝解き方〟を教えてくれるんだ。それじゃあ、埒が明かない。
宿題は時間との戦いだ。
手っ取り早いのはパパなんだ。かなり上から目線なのは気に入らないところだけど、背に腹は代えられない。肩に手を掛けたり、背中から抱きついたり、腕を絡めたり、知る限りの誉め言葉や尊敬を込めた美辞麗句を並べ立てる。
コーヒーだってメンドクサイのを我慢して粉から挽いてあげる。
そうやって、甘えれば甘えるほど効果的なんだけど、あとでぐったりと甘え疲れがする。こういうのをきっとバーンアウトっていうんだろう。でも、ことしは違うのだ。パパの助けはいらなかった。
わたし自らの力で……。
「今年はお兄ちゃんにずいぶん教えて貰ったもんねぇ」
ママがノートパソコンに目を戻しながら含み笑い。
「あ、うん……」
それは違う。
わたしがアイツの勉強を見てあげてたぐらいだ。わたしが教えてもらった事実など欠片もない。でも、男っていうのはやたらとプライドを気にする生き物だから、わたしが教えて貰ったってことにしといてやる。うん。
あんなヤツでも、手懐けとけばいろいろと役に立つときがある。
えっと、なんだっけ?
あ、そうそう〝情けは人の為ならず〟だ。ありがたいことに、このことわざも、ヤツが自慢げに教えてくだらっしゃられましたよ。あれ?
「お兄ちゃんも、今年は中学生だもんねえ……」
はいはい、『……』の先は、みなまで言うな。その続きで「文香も五年生になるんだからしっかり勉強しなさいよ」ってなるんでしょ?
ママはアイツの二学期の通知票をちゃんと見てないから、そんなこと言えるんだ。あれだけ1がたくさん並んでいると、ひょっとして1が一番いい評価なのかなって勘違いしてしまう。ちなみにわたしは通知票に1(がんばろう)が付いたことなんか一度もない。アイツも前はもう少しましな成績だったと思うんだけど、六年になってがたっと落ちた。よくある、勉強のレベルに付いていけなくなったってやつだな。
計量カップをレンジに入れて、20秒セット。
「でも、お兄ちゃん、ジュケンはしないって言ってたよ」
レンジスタート!
「へえ、ちょっと前まで聖隷受けるって言ってたんじゃない?」ママが興味深げにこちらを向いて、キーボードの手を休めた。ママがパソコンの手を止めるって、よっぽど関心があるんだ。ちょっと前って、もう半年以上も前だけど。
ママが言う〝聖隷〟は、ちょっと遠いけど女子の制服が可愛いことで有名な、中学と高校が一緒になってる学校だ。でも、入学するのに難しいテストがあって頭のいい子だけがいけるらしい。あそこの制服を着た女の子はこの辺じゃ〝聖隷乙女〟って呼ばれて憧れの的になってるんだ。
「白井みたいのでもアレ着てたら物好きのオッサンが声掛けてイタズラしてくれるんじゃないか?」ってクラスの男子にいわれたことがあるんだけど、そんなオヤジいらないし、イタズラして欲しくないし!
お兄ちゃんが聖隷に行こうと思ったのも、どうせ目当ては女子女子女子!
「うん、あそこは7割が女子だから行けたらいいなって……」
ママが吹き出した。
少し前まであそこは女の子だけの学校だったから、いまでも女子の方が多いらしい。
わたしは、ジュケンってよく知らないけど、そんな理由で学校を決めてたらほんとにアホウだということはわかる。まあ、ヤツの脳ミソでは、逆立ちしたってあんなところに入学はできない。
「じゃあ、このままコーリツに行くのね」
「コーリツ?」アイツが行くのはきっと近くにある山中だ。コーリツってとこじゃないと思う。
「ああ、コーリツっていうのは、ふつうの……、山中のこと」
わたしが首を傾げたので、ママは何か説明をしようと思ったみたいだけど、ほぼ全てを省略した。ママは、ちょっとしたことでも噛み砕いて説明しなくちゃいけないようなことがあると、まだまだ子供だし、どうせよく分からないだろうからと、すぐに説明を省いてしまう。それで、わたしは、何となく意味を理解する。曖昧に、まあ、分かったかなって感じで。
「でも、よかったじゃない……」ママが、ぼそっと付け足して、ディスプレイに目を戻した。
何となく、意味が分かる。ママの言いたいこと。そだね、アイツが山中に行くってことは……。
「……お兄ちゃんと一緒の学校に通えて」
ママ、それは口に出して言っちゃいけないことだ。
まったくぅ。
言葉に余韻を持たすのが日本語の美しさなんだけどな、なんて、アイツの言いそうな台詞が頭に浮かんだ。
アイツ=お兄ちゃん。
お兄ちゃんと言っても、ホントはわたしと血は繋がっていない。かといって、義理の兄妹でもないし、複雑な家庭の事情もない。
ただの〝隣の家のお兄ちゃん〟だ。
正式名称は、高森啓示。山小6年2組出席番号17番。アイツ、ヤツ、アホウはわたしの頭の中での呼び名の数々だ。
他にもいろいろあるけど、どれも声に出しては言えない呼び方ばかり。もしそれをうっかりノートに書いたりして誰かに見られでもしたら親が学校に呼び出されて校長室で三時間はお説教されてしまう。
わたしは4歳のとき、パパの仕事で東京からこの街に引っ越してきた。それで遊び相手になってあげたのが、隣の家に住んでた二コ上のアイツだった。
引っ越した最初の日に「お兄ちゃんと遊んだ」って、ママに報告したのがお兄ちゃんって呼び方の始まりだ。
それ以来、ヤツはうちのママに取り入って、わたしと疑似兄妹になることで、ホットケーキやドーナッツ、クッキーなどの大量のママの手作りお菓子をまんまと胃袋に納めることができるようになった。
それに、友達のいないジメジメとした根暗な生活から、一転、純情可憐な美少女と二人っきりで遊ぶという特権まで手に入れたんだ。きっと女の子と手を繋ぐなんて、わたし以外じゃ体育の授業で整列するときぐらいなもんだろう。
うちのママがヤツを気に入った理由は、お行儀よくて、言葉使いが丁寧で、字がきれいなことだ。それ、全部、わたしに欠けるもの。さすが、お父さんが高校の国語の先生をやってるだけのことはある。
ヤツは、どうやれば周囲の大人が喜ぶか分かってやってるんじゃないかと思うぐらい、ハッキリ言って、友達のいないタイプの男の子だ。長年一緒にいてわかったけど、ホントに友達はいなかった。
たぶん、話しかけてくれる女子なんかクラスの中に誰ひとりいなくて、だから、
「フッカと一緒の中学に行きたいんだ」なんて言うんだ。そうでなきゃ、マトモな男の子がいまのわたしみたいな女の子と一緒にいたいなんて思うわけがない。
ヤツがアホウなのは、わたしとヤツが一緒の中学校に通えるのは、二年後にわたしが中学一年生になる一年間だけだっていうことに気付いていないことだ。
レンジからグラスを取り出すと、手にほんのりと温かさが伝わってくる。熱めのお風呂ぐらいの感じだ。もう一度マドラーでかき回したら、ほぼザラメの姿はなくなった。
グラスを口元に運んだら、甘い優しい香りがする。クピッて一気にお薬を口の中に流し込んだ。
たったの20mL。
それが、コップ一杯のコーラをイッキ飲みしたのより、ガツンと来る。口に入れたとたん、さっきの香りが何百倍にもなって、頭の中に染みこんでいく。甘くて美味しいシロップのとろけるような感覚と、口いっぱいの刺すような刺激――きっとこれがアルコールってやつだ――が、液体の流れと共に、喉の奥へと拡がっていく。そして、それは、一旦胃袋を熱くすると、瞬く間に身体全体に染み渡っていって、日向ぼっこをしたときのように、わたしをポカポカと温める。
「あー」
思わず息を吐くと、肺の中から戻ってきた甘い香りが鼻に抜けて、ちょっと幸せな気分になる。
「なあに、また、立ったまま飲んで」
わたしの「あー」に画面を見つめたまま、ママが苦笑いする。
わたしの「あー」は、温泉で頭にタオルを巻いたオバサンがお湯に浸かって、
「あー、生き返るぅ」って言うときの「あー」と同じらしい。
わたしって、オバサン?
「だって、たったの10ミリリットルだもん」お薬の入っていたカップを顔の高さに持ち上げて、ママに振って見せる。
両手でキーボードを叩きながら、ちらっとこちらを見て、やれやれって感じで鼻から息を吐いた。
「じゃあ、片付けはママがやっとくから、もうお休みなさい」
「はあい」口の中に残ったお薬を舌でなめながら、カップを水ですすいで食洗機に放り込んだ。きっとこの後、ママも本格的にお薬を飲むんだろう。
紙パックを冷蔵庫に戻して、ダイニングのママに声を掛けた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、そうだ、ちょっと待って……」ママが、キーボードのカチャカチャを止めて、マウスを使って何か操作し始めた。ママはパソコン操作でマウスは使わない。マウスはわたしに何か見せるとき用に置いてあるものだ。
「そう、これ」ノートパソコンを少し回して、わたしの方に画面を向けた。
「あ」そこに映し出された画像に思わず声を上げた。
「ウユニ塩湖よ。南米の、ボリビアって国にあるんだって」
真っ白な平原に真っ青な空は、まるで映画に出てくる異世界みたいだ。
「いつも夢で見るのって、こんな感じじゃないの?」
「うん……」頷きながら、ママからマウスを奪って、画面をスクロールしながら説明を読んだ。
絶景だ。こんなところが地球にあるなんて信じられないくらいだ。
小さい頃からずっと夢に出てくる真っ白な世界の話をうっかりママにしちゃったのはお正月のお屠蘇気分のせいだった。でも、夢で見るのとはちょっと違うかもしれない。夢に出てくるのは、周りが全部真っ白なのに、見上げたら真っ青な空って感じだから。けど、ここも地面が真っ白な平原で空は真っ青だし、どこかでここの写真を見たイメージが頭の中に残ってて、そんな夢を見続けてるのかもしれない。
「行ってみたい……」
もう一度拡大画像を見てたら、自然と呟いてた。
「安いツアーでも50万ぐらい掛かるみたいよ」
ママの言葉に、「わあー」ってため息が出たけど、50万円がどれくらいの金額なのか、ホント言うと『高いんだろうな』ぐらいしかよくわからない。去年ママがパパに内緒で買い換えたこのちっこいノートパソコンはもっと高かったような気がする。
「新婚旅行で連れてってもらったら?」
ママがからかうように一段高い声で言う。豪華な旅行と言えば、やっぱり新婚旅行なのかな?
「新婚旅行かあ」パパとママが行ったっていう、モルディブにも憧れてたんだけどなあ。でも、アイツは泳ぎがからっきしだから、マリンリゾートは厳しいかも、とは思ってた。
「お兄ちゃんにお願いしといたら?」
そうだなぁ、ここなら溺れる心配もないか、って顎に手を当ててウユニの写真を眺めてたら、驚愕の事実を思い出した。
「ああ、ダメだ。お兄ちゃん、飛行機怖いって言ってた」思わず両手で頭を掻いた。これじゃあ、地続きでないと憧れのハネムーンに行けない!
「そうね、お兄ちゃんって、海外旅行って感じじゃなくて、どっちかって言うと温泉旅行よね」ママが手を叩いて「ほら、伊香保温泉とか」って声に出して笑う。
冗談じゃない。新婚旅行が伊香保温泉って、いつの時代だよ!
わたしは明治の文豪じゃないんだ。おばあちゃんだってハワイに行ったって聞いたぞ。だいたい、伊香保なんて車で2時間もかかんないとこじゃないか!
文芸オタクのアイツにはお似合いだろうけど、そんなとこ『小学生女子が新婚旅行に行きたい場所ベスト100』にも出てこない。
嫌だ! わたし、絶対、ウユニに行ってやる! ヤツがどんなに怖がって泣き叫んでも飛行機のシートベルトにくくり付けてやるんだ。
「JTBのツアーもあるって。〝キミト〟のJTBならパンフレットあるかもね」ママがツアーのサイトをカチャカチャとめくっていく。
〝キミト〟っていうのは、駅前の大きなショッピングモールで、イオンやいろんな専門店がたくさん入ってて、なんて会社か知らないけど、確かに旅行のパンフレットが一杯並んだお店があった。
「そっか。あした、お兄ちゃんと行ってみようかなぁ」
アイツにこんな世界があるって教えてやろう。妄想の世界にしか興味のないアイツには、こういう美しい世界が現実にあるってことを知る必要があるんだ。事実は小説より奇なりってやつだ。
「さっそく?」
「だって、あしたはお兄ちゃんと遊ぶ約束してるんだけど、『今年の抱負についてインタビューする』っていうんだもん。キミトに連れてってもらった方が絶対いいって」
「インタビュー?」ママが首を傾ける。
「うん、なんかほら、ちっちゃい録音するヤツ? レコーダー? お父さんから古いのを貰ったって。あれで、わたしの話を録音するの」
「なに、それ?」ママがクスって笑う。
「それで、話したことをパソコンでまとめて、本みたいにして『フッカファンブック』を作るんだって、写真も撮るって言ってるんだよ」
アイツのことだ、どんなポーズを要求してくるか、わかったもんじゃない。
「もう、ホントに好きねぇ……」ママがため息混じりに呆れてる。
「そうなんだよ。ホント、お兄ちゃんそういうこと好きなんだよねぇ」わたしも、もともと呆れてたけどママに合わせて腕組みして態度で呆れてみせた。
「そうじゃなくて、文香のことが好きなんだねってこと」
ママの言葉にさらにため息がでた。
まあ、そうなんだろうけど、行き過ぎだ。
「録音してたら、いつでもわたしの声が聞けるからって。それってヘンタイだよね!」わたしは思いっきり唇を尖らせる。
「確かに、ちょっと危ないお兄ちゃんね」
あんなのが大事な娘の周りをうろついているっていうのに、ぜんぜん心配してない。肩が震えてるもん。ママはヤツを信用しきってるんだ。
やれやれ、って思ってたら、バスルームのドアが開く音がした。
ヤバい。パパはわたしが男の子の話をするのを、ロコツにいやがる。特にお兄ちゃんに対しては。
小さいときは二人で遊んでても、ニコニコしてたのに、三年生になったぐらいから変わってきて、最近は不機嫌さの度合いが増して、まるでヤツを害虫扱いだ。名前が出ただけでお風呂場でアシダカグモにでくわしたときみたいな顔になる。だから、ヤツとはパパがいないときにしか普通に遊べない。
年末からはずっとパパが家に居座ってたから、アイツと逢おうと思うと『友達ん家で宿題をする』ぐらいの理由をつけてごまかさないと家から出してもらえなかったんだ。それで、ことしは宿題が早く終わってしまったんだ。
パパはわたしが宿題で甘えてくるのを少し期待してたのかも知れないけど、毎年父娘で過ごしてた濃密な時間は、ことしは隣家の二階でアイツと二人っきり、たっぷり濃密させて頂きました。
一緒に宿題してる相手を親友の沢木ほのかと思い込んだのがあんたの敗因なのさ。
わたしみたいな立派な子供はね、親にダメと言われたら隠れてするんだよ、パパ。いちおうママには隠してないけどね。
まあ、その分ママと濃密して下さい。なにしろパパはママにもいろいろ厳しい。パパはヤキモチ焼きの束縛男子で、ちょっと、いや、すっごくナルシスト。なので、ママは男の人との接触を禁じられてるんだ。
こっちに引っ越してきたときに、ママは勤めてた会社も辞めなきゃいけなくなった。きっと、ママを昼間はお年寄りと子供しか男がいないこの田舎町に押し込めておくつもりだったんだ。もともと二人は職場結婚だったそうなのに、まったくのバカだ。
郵便屋さんでも、お店の店員さんでも、近所の人でも学校の先生でも男の人と普通に用事で会っただけでも、全部パパに報告しなくちゃいけないらしい。
……メンドクサイ。
去年の春から、パパは大阪だか京都だか、どっかあっちの方に仕事で、えっと出張じゃなくて、なんてったっけ――最初に説明があったんだけど、パパうるさくてあまりにも面倒くさいからスルーしちゃってた――お休みの日しか帰ってこれないから、余計にママのことが心配なのか、そりゃあもう大変。毎日毎日心配で心配で仕方ないパパからの大量のメールと電話で、ママは通販会社のコールセンターのお姉さんみたいになってる。だから普段の日は、ママは晩御飯の後、その日一日の男性関係をパソコンで報告書にまとめて、パパにメールで送ってるんだ。ママはパソコンが上手で、そんな報告書なんかあっていう間だ。
で、ときどきそんなママの対応が冷たいって、
「何かあるんじゃないか」って怒って、それこそ大変なことになる。つまり、電話の向こうでパパが泣き出すんだ。あちゃあ……。もう、男に電話口で泣かれるって、なんか最悪じゃん。想像しただけで鳥肌が立つ! 女々しいし、キモチワルイ!
男の子が泣くなとはいわないけど、女の子に泣きつくのはダメだと思う。やっぱり男の子がしっかり女の子を護らなきゃ。
その点、アイツはいままで泣いたところを見たことがない。それだけは褒めてあげてもいいんだけど調子に乗るといけないから褒めない。
学校でジェンダーとかって習うけど、わたしは別に男女が平等じゃなくていい。こっちの都合に合わせて得になるようにして欲しいんだ。
ちやほやされたい……。そんなこと、みんなの前では絶対に言わないけど。
まあ、あんな男でよくママは我慢してるよ。よっぽど惚れてるんかね。
そんなパパは家に戻ってくると、
「僕は君のことを愛しているからこそ心配してるんだ」って、おいおい、ドラマのセリフかよ、って突っ込みたくなるような言葉を一言一句そのまんまママに言う。恥ずかしげもなく言えるところが実にすごいと思う。しかも十歳にもなる娘の前でだ。
「嬉しいわ、ありがとう」って、ママが頬を赤らめ、瞳を少女漫画の女の子みたいにキラキラさせて――そういうお化粧のテクニックがあるんだ――パパの相手をする辺りから、わたしは自分の部屋に戻る。
お土産の関西限定のお菓子をもらえればあとはママに任せる。ママはパソコン以外は浮世離れしたお嬢様タイプだから、パパみたいにドンドン引っ張ってく人の方が楽なのかもって思うんだけど。でも、パソコンで例の報告書を打ち込んでいるときの画面を見つめるママの顔は、サスペンスドラマで犯人が脅迫状を打ってるときみたいに冷たく無表情なんだ。まったく、夫婦ってよく分からない。
とっとと、ママにオヤスミを言って、ついでに、リビングの奥のバスルームに向かって、「オヤスミナサイ」と声をかけて――言っとかないと後でパパがわざわざ部屋までオヤスミを言いに来てさらに面倒臭いことになる――さっさと二階に上がった。
二階のわたしの部屋は、冬の間、一日中付けっぱなしのオイルヒーターのお陰で、ほんのりと暖かさを保っていた。
部屋に入って灯りを点けると、まず学習机の上の写真立てに右ストレートを喰らわすのがわたしのルーティーンだ。小四女子のパンチでも、だらしなくパタンとノックアウトされるところがアイツらしい。テンカウント数えてから、起こしてやるんだけど、面倒だからできれば自分で立ち上がって欲しい。起こしてやると、なんとなくホッとしたような顔に見える。
萩原朔太郎って人の記念館の前で撮ったヤツの写真だ。その人の名前が入った看板が写ってるからとりあえずわかるけど、マニアックすぎる。写真の右下に去年のゴールデンウィークの日付が入ってて、アイツ一人で行ってきたんだ。
ホントはわたしも誘われてたんだけど、丁寧にお断りした。どう考えても小四女子が楽しめる場所とは思えない。もし仮に、わたしが女子高生だったとしてもちっとも楽しくはないだろう。ただ、〝るなぱあく〟にも立ち寄ったって聞いて、それなら行けばよかったかと思った。まったく、帰ってから言うんだからずるい。
「まさか、四年にもなって〝るなぱあく〟に行きたいとは思わなかったなあ」って、じゃあ、六年のアンタは何しに行ったんですか? 幼稚園女子目当てのナンパですか?
だいたい、世の中のみんながみんな絶叫マシーンが好きってわけじゃないんだ。わたしにはあのほんのりとした乗り物ぐらいが楽しいんだ。乗ってたらなんか『ニヤリ』としてしまう微妙さが心をくすぐられるんだ。それに、一緒に行けば、全部オゴリだし、お土産なんかも買ってもらえるんだし。なにしろ、アイツはわたしのことが好きで好きでたまらないんだ。
最初からるなぱあくに行こうって言えば「えーっ、もお、しょうがないなぁ」って付き合ってやったのに、オンナゴコロの分からない、まさしくアホウだ。
そんなアイツの写真がどうしてわたしの部屋の学習机の上に居座っているかというと、それは去年の夏休みのことだ。
わたしが友達のほのかとプールに行ったときの写真――もちろん青年誌の表紙を飾るような水着姿だ、どんなもんだ!――を見せてやったら、どうしても欲しいって、ペコペコ、ペコペコと、頭を下げて、あんまりしつこく頼むから、仕方なく一枚をあげたら「代わりにオレの写真もあげるよ」って押し付けられたのがこれだ。
「そんなのいらないよう!」なんて、心の優しいわたしが言えるはずもなく、お陰でもともと写真立てに入れてた家族で鳥取砂丘の馬の背に登ったときの写真を抜かなきゃいけなくなったし、ママに見られて「よかったわねぇ」なんてからかわれるし、パパは不機嫌になるし、机が狭くなってしょうがないし、ホント迷惑ったらありゃしない。
きっとアイツは、わたしがこの写真に「オヤスミ、チュッ(ハートマーク!)」みたいなことをしてくれるのを期待してるんだと思うけど、パンチだ、パンチ!
ああっ! アイツ、まさかわたしの写真に……。
アイツの部屋の壁にでっかく引き伸ばされたわたしのセクシーグラビアが貼ってあるけど、そいつに夜な夜なヤモリみたいに張り付いてるヤツの姿が頭に浮かんだ。
それで、なんか急にムカっときて、思わず、写真にデコピンしてやるけど、かえって喜んでるようにも見える。
「なんか言えよ。アホウ」つい独り言が出た。まったく、写真相手じゃ張り合いがない。
ふと横に目をやったら写真立ての隣に置いたデジタル時計が21時20分を表示している。
よし、ここは、ひとまず10時まで、読書タイムだ。
机の本立てに突っ込んだ学校の図書室で借りた本に手を伸ばした。手に取って、パラパラとめくる。
うちの学校は、読書活動に力を入れてる。朝の読書会や、読書マラソンとか。図書委員は毎月、お薦めの本を一冊読んで推薦文を書いて図書室前の掲示板に貼り出したり、図書館だよりに載せたりすることになってるんだ。
そう、わたしは図書委員なんだよ。冬休み明けの最初の委員会のときに、休み中に読んだ本の推薦文を持ち寄ることになってるんだ。
この本は、冬休み前に借りて、ほとんど毎日のように読み続けているんだけど、いまだに栞は63ページだ。しかも内容は……、記憶にございません。
図書委員になって結構本を読むようになったけど、こいつはどうも、内容が頭に入ってこない。高学年向けの本は、わたしにはレベルが高すぎたか。『モモ』って、アオリだけで読んじゃダメなんだ。
もとはといえば、図書室で本を選んでいたときに、
「エンデはオレでも難しいよ。図書委員のレビュー用に読むんなら、こっちにしたら?」なんて、『オレでも』がカチンときて、
「これ読みたいの!」って、たいして興味のなかったモモを勢い余って借りてしまったんだ。
チクショウ! アホウが! あー、思い出したら腹立ってきた。わたしにも意地ってもんがあるんだ。
で、63ページに目を落としたけど、こんなとこ読んだっけ? って感じで曖昧だ。遡ってみたら、56ページまでは読んでたような記憶があった。おそらく、この56ページはきっと三回は読んでるに違いない。やれやれ、ここからまた63ページまで読むのかと思うと気持ちがへこむ。こうやって、毎日毎日読んでは戻り戻っては読み。なんなんだろう、徒労感っての?
くそっ! コイツこそホントの『時間どろぼう』だ!
あ、わたし、ウマイ! こんどアイツに言ってやろ。なんて思ってる場合じゃない。落ち着け、文香、冬休み明けの最初の図書委員会まであと三日ある……。ある……、けど、無理だ。自信を持っていおう。無理だ!
モモを机に置いて、本立てのもう一冊を手に取った。
「いいから、読んだことないなら、これも借りとけって。絶対面白いから」そうアイツに言われて渋々借りた本だ。
ああ、これを読むなんて悔しい。でも、背に腹は代えられない。
『ハーブ魔女のふしぎなレシピ』
くそっ! タイトルと表紙見るだけでわたしの好きそうな本だ。ページを開くと、ああ、可愛い挿し絵が嬉しい。3ページ目まで立ち読みして、そのままイスに腰掛けた。
…………。
ほわぁ、読み終わった……。
目の前の時計は、22時27分。一時間も集中して読んでたんだ。
ストーリーにスッと入っていけて、面白かった。もうちょっと小さい子向けの本かもしれないけど、わたしにはピッタリだった。
うーん、あんびるやすこ。なかなかいい。
「この『あんびる』って本名なんだぜ」そんなこと言ってたな。
日本人だよね? どんな字だ? いや、外国の人か? この挿し絵もあんびるさん?
この主人公が、なんだろう……、なんていうか、いい言葉が浮かばない。
面白いっていう感想じゃ、まるで幼稚園の子のようだ。
でも、これなら水曜日までには課題の推薦文を練ることができると思う。このシリーズって図書室に十冊ぐらいあったかなぁ。全部読んだら読書マラソンもかなりポイントが伸びそう。きっとアホウはそこまで考えて薦めてくれたんだろうな。乗せられた自分がなおさら悔しい。
わたしは読む本を名作とか有名な作者とかで選んでしまうから良くないんだ。だからいつも読むのに時間がかかって苦労するし、読書マラソンのポイントも上がらない。アイツが言うように学年別のコーナーにある図書をもっと読んだほうがいいのかもしれない。
まあ、明日、顔見たら一言ぐらい礼を言ってやろうか。わたしの口から「ありがとう」なんて言葉を聞いたら、きっと泣いて喜ぶだろう。
「あ、10時!」
しまった!
慌ててイスから立ち上がって、窓に駆け寄った。急いで遮光カーテンとその下のレースのカーテンを開いて外の様子を伺う。
わたしの部屋の向こう側は隣の家の二階で、つまり、アイツの部屋がある。あっちの窓までの距離は、間に隣の家の中庭を挟んで18メートルと44センチ。一年生の時に作った糸電話の長さだ。糸をピンと張って、窓のところでマジックで印をつけてアイツが長さを測ってくれた。
純真無垢だったわたしは――いやいや、いまでもわたしはまるっきり純真無垢なんだけどね――ホットラインができて嬉しかった。嬉しすぎて大声で喋るから糸電話なしでも聞こえるぐらいだった。
でも、喜んで窓を開けっぱなしで寝てたら夜の間に部屋の中に雨が吹き込んで水浸しになって、それで、あっけなく電話回線が廃止になっちゃった。それ以来、窓はきっちりと閉めて寝ることにしてる。
まあ、向かいのアホウは正真正銘の変態だから、隙を見せたら絶対に覗く。一度なんか双眼鏡まで引っ張り出してきてバードウォッチングみたいに観察してたことがあった。もう、スケッチでもしてるんじゃないかってぐらい真剣にこっちを見て。そこまでやって気付かれてないと思う辺りが、まるっきりのアホウだけど、そのときはちょっと機嫌がよかったから、サービスして大人週刊誌の袋とじグラビア風ポーズ――袋とじの中は見たことないけど男子の喜びそうなものは想像で分かる――をとってあげたのが間違いだった。味をシメたのか、その時間帯になるとこっちを覗くようなってしまった。
だから、毎晩10時になったら、こうやって窓から覗いてないかチェックするんだ。たいてい、向こうは窓を開けてこっちを覗き見している。
わたしを認めると、まるで遠足の時に集合場所に立ってる先生みたいに手を振ってくる。仕方ないからこっちも手を振ってやると満足したみたいに窓を閉めて引っ込んでいく。もう、ほとんどボランティア活動だ。
六年の教室には常に、よりどりみどり十何人もの女子がいるにも関わらず、挨拶以外誰とも言葉を交わすことのない一日を無為に過ごす哀れな男の子に僅かばかりでも夢を与えてあげているんだ。
だいたい、わたしより二コも上のくせに、算数の宿題を教えてくれって聞きに来る。
計算で九九を間違える。
分数でたすき掛けが理解できていない。
+と×が混じった式はフリーズする。
0点のテストなんて、ギャグマンガの世界だけと思ってたら、実物を見せてくれる。
そのくせ態度は偉そうだし、何かというと、頭撫でるし、肩抱くし、すぐあちこち触るしーのセクハラ行為ばっかり。でも、さすがに最近は、胸とかお尻は触らないし、そこまでの度胸はない。
わたしのこと、好き好きアピール全開のくせに、同じ集団登校班の金井さんの胸ばっかり見てる巨乳好きの浮気者!
国語だけは得意で、エッチな行動を難しい言葉ですぐごまかそうとする。
将来の夢は売れそうもない詩人でわたしに「稼いでくれよ」って言うヒモ男。
アウトドアファッションが好きで小物なんかもいろいろ揃えているくせに、カッコばかりで運動は残念なほどできない。熊鈴買って遠足のときリュックに付けてく痛いヤツ。
球技はダメ、身体が固い、逆上がりできない、二重とびできない、跳び箱は五段まで。
自転車乗れない、スケートはお尻で滑る、クロールすると溺れてるみたいに見える、潜水したら浮いてこない、でも泳げないくせに水着姿見たくてプールに誘う。
ちゃらんぽらんでなんでも「まあいいか」
片付けしない、布団は敷きっぱなしの万年床で枕から異臭がする。
服は脱いだら脱ぎっぱなし、靴下もパンツも部屋の隅っこで裏返ってる。
偉そうな態度のクセにすぐに甘える、すぐすねる。
ええい、もう、他にないか、他に?
ああ、そうだ、オセロめちゃくちゃ弱い!!
ヤツの部屋の明かりはすっかり消えていて、しばらく見てても覗いてくる気配がみられない。
たった30分遅くなっただけで、せっかくこっちが確認してやってんのに、覗かないんだから。まったくぅ。
わたしが一気に一冊読んじゃたって聞いたら、あのアホウはきっと、目を丸くして驚くはずだ。きっと「フッカ、やるじゃん!」って、笑って頭をヨシヨシって撫でてくる。
あー、馴れ馴れしい!
思っただけで頭に手が乗っかってる感触でムズムズして頭を掻いた。
サッシの掛け金を回して、窓を少し開けてみる。
とたんに外の冷気がふわぁって部屋のなかに押し寄せてきた。
「アホウ! ちょっと顔貸せ!」と、怒鳴ろうかと思ったけど、思っただけ。ため息混じりにちょっと顔を上げたら、オリオンの三ツ星が並んでた。
三ツ星の下に小さく並んだ小三ツ星の真ん中の星がぼうっと滲んだように見えるのはオリオンの大星雲だと、隣の家の中庭にある大きな岩に座ってギリシャ神話の話を聞きながら肩を抱かれたのは、おととしの、小三のときのクリスマスイブだ。
その日のアイツは言葉の一つ一つが優しくて、見上げた星がすうっと降りてきた。この世界にわたしと彼だけがいて、星たちが二人の聖なる夜をお祝いしてくれてるみたいに、ゆっくりとわたしたちの周りを回ってる。
あのひとが、わたしのために優しくて美しい歌を歌ってくれた。わたしはその調べをうっとりと彼の肩にもたれて聴いていた。澄んだ透明な歌声が心と体に染み渡っていく。
歌い終わるとわたしの目をじっと見つめて、彼の瞳の中に、小さな星たちと一緒にわたしがキラキラと煌めいていた。
もう、全てを彼に委ねようって、そっとまぶたを閉じた。りーん、という清らかな星空の静寂の中で、あのひとの熱くて甘い息遣いがゆっくりと近付いてきた。
ああ、きっと彼はこのままわたしをさらって知らない世界へ連れていってしまう。
そしたら、もう彼は優しいお兄ちゃんじゃなくなる。
わたしも子供のままでいられない。
ああ、目を閉じてても身体中で彼を感じる。
わたしたち、ひとつになるの! って感じだったんだけど、
「いったい何時だと思ってるんだ!」仕事から帰ってきたパパの怒鳴り声が懐中電灯の光とともに雷鳴のように轟いて、わたしたちの世界はガラス細工みたいに脆くも砕け散った。
それで、アイツはいまもお兄ちゃんのまんま。
わはははは、いまでも思い出すと涙が出そうなほど笑える。
あのときみたいにいい天気だ。その分明日は「ホウシャレイキャクゲンショウ」で寒くなりそう。
ああ、なんて星がきれいなんでしょう、とか、ちらっと思うけど、1分を待たずにブルッときて窓を閉めた。
寒っ! ふん、どうせ、わたしにはロマンチックな夜は似合わない。
ほっと吐いた息で、窓ガラスに白い曇りがふわっと広がった。
何気なく人差し指を窓にくっつけてくるって回したら、なんとなく相合い傘っぽい形になって、おっ、と思ってその傘の左側に『ふみか』って入れてみた。それで、右側に指を置いて、ちょん、と、一画目の縦棒を書いたら、ニヤケてる自分が窓に映ってるのに気がついて、それが何となくムカッときて『アホウ!』と殴り書きしてから、手のひらでぐちゅぐちゅって消した。
もう一度、向かいの部屋を睨み付けて、覗いてないことを再確認する。やっぱり向こうの部屋のカーテンは厚く閉ざされてピクリとも動かない。
ああ、つまらない。
前開きになったワンピースパジャマの七つのボタンを全部外してやる。
それで、思いっきり前を開いて腰に手を当てたり髪をかき上げる挑発的な仕草をしてみたり。
これが前にアイツにサービスしてやった大人週刊誌のグラビア風ポーズってやつだ。
「おーい、いま覗くとお得だよー」
絶対に聞こえない音量で叫んでやる。
ふん、あなたはこの数年間ですっかり大人の女になったわたしを鑑賞するチャンスを逃したことを生涯後悔することになるでしょうねっ!
あきらめて、カーテンをしっかりと、隙間なく閉めて、それからベッドにどすんと腰かけた。その間、ずっと心の中で「アホウ! アホウ! アホウ! アホウ!」を繰り返した。
いつの間にか鼻息も荒くなってる。いかんいかん、興奮すると血圧があがるぞ。ストレスはお肌の大敵なんだった。気持ちを切り替えて、ベッドの枕元の棚からローションのボトルを取り出す。
キュレルスキンケアローション。いままでこれを何十本使っただろう?
わたしがカユカユ病に罹患ったのは幼稚園の年長組の頃だった。
――カユカユ病――
恐ろしい、思い出すだけで総毛立つ、原因不明の病気だ――病名はアイツが適当に付けた。
ある日、突然に身体に赤いブツブツが出来て、痒くてたまらなくなった。
最初はお尻とか、肘や膝の裏っ側とか皮膚の柔らかい部分がぷつぷつと赤くなって、あせもじゃないかって言われてたんだけど、小学校に入って急激に悪化した。
全身が痒い。
特に夜中がひどくて、寝てる間にかきむしって、朝起きたらパジャマや下着、シーツが血だらけになってる。両手もべっとり血まみれで捜査一課の取り調べを受けてもおかしくないような状態だった。
病院では、アレルギー性皮膚炎――いろんな検査をされたけど原因は不明で、分かったのは、わたし実は犬アレルギーなんだって! ヨカッタ、わたし、犬、大っ嫌い!――ですって言われて、お薬をもらって、塗ったり飲んだりしても痒みはいっこうに無くならない。
「ストレスかも知れませんね」って、紹介状を持って行った十階建てのでっかい病院の皮膚科の先生。まったく、医者ってヤツは分からないことがあると何でもストレスのせいにするんだから信用ならない。
で、掻き傷だらけで、ブツブツもイッパイあって、学校ではからかわれるし妖怪みたいに言われるし、それでわたしは無表情になった。笑うと顔のカサブタが突っ張って、余計に痒くなるからなんだけどね。
体操して汗かいたら痒いし、毎日頭洗ってもフケ出るし髪の毛抜けるし、痂皮っていうらしいけどオデコや頬っぺたの薄皮がポロポロ剥がれ落ちて悲しくて、もう出家して尼さんにでもなろうかと思った。
その頃「尼さんにでもなれば?」ってアホウが言うから、何も知らずに「そんな方法があるんだ!」って思って、ママに「尼さんになりたい!」って駄々をこねた。
わたしが尼さんへの夢を諦めたのはママの一言「尼さんになったらお嫁さんになれないのよ」だった。儚い、1時間ちょっとの、夏休みのアニメ映画より短い夢だった。
小学一年生のわたしは、強くお嫁さんに憧れてたんだ。可愛いエプロンを着けて、美味しいご飯を作って、旦那様の帰りを待つの。
「ただいま、フッカ、エプロン姿可愛いね、ご飯美味しいよ、いつもありがと、大好きだよ」チャハハハ。
そうだよ。あのとき、梅雨でジメジメして蒸し暑かった。死ぬほど痒くて症状が一番ひどかった時期だったんだ!
「白井みたいなブツブツ女とケッコンするヤツいてるん?」
わたしが自由帳に描いてた、エプロン姿でお料理してるお嫁さんの絵を、木川の野郎が見つけて大声でからかったんだ。周りの男子も調子に乗って「しーん、誰もいませーん!」って騒ぎ出して、そしたら女子まで「文香ちゃん、不潔にしてるから、そんなふうになるんでしょ?」とか、もう、みんなして。
きっと、それまで何にも言わなかっただけで、友達と思ってた女の子も、わたしを汚い子だと思ってたんだ。
震えて声が出せなかった。
頭が、カアッて熱くなってきて、たぶんほのかがかばってくれてたんだと思うんだけど、悔しくて涙が溢れそうになった。朝、校舎の脇で見かけた工事のトラックに積んであった鉄パイプが閃くように頭に浮かんで、それで丸めた新聞紙でゴキブリを叩き潰すみたいにみんなを打ちのめしてやる映像が頭に浮かんだ。けど、身体が言うことを利かなくて、脳ミソがホワイトアウト状態になってしまった。
もし、あのとき助けてもらえなかったら、どうなっていたんだろう。
でも、その後すぐ、自分で考えたおまじないをしてみたら、あっという間に痒くなくなって発疹も消えたんだ。
へへへ、嘘みたいでしょ?
パパとママは、ベッドに使ってたマットレスとかお布団が原因だったって言うんだけど、マットレスとお布団を全部新しく換えたのは三度目だったし、痒みが止まるまで三週間もかかってた。
絶対におまじない効果。
それ以来、夏の暑い時期にあせもで、ちょこっと痒くなるときはあるけど、朝起きたら爪の間に血が付いてるなんてサスペンス劇場はなくなった。
ただ、そのカユカユ病のせいか、それ以来お肌がガサガサになっちゃって――サメハダって言うんだって、サメ触ったことないけど、サメの皮はザラザラしててワサビすり下ろすのにいいらしい。わたしの二の腕でワサビ下ろすなんてなんか絶対ヤダ――毎日、寝る前のスキンケアだけは頑張ってる。やっぱり、女の子だし、スベスベがいいよね。
「フッカの肌、スベスベだね。綺麗だよ」なんて撫でられたら、もう、やだ、エッチだぁ!
キャハハハハ!
って、もう、アホウめ、エロい真似は止めろ!
冬の暖房も、エアコンやストーブは空気が乾いて肌によくないからって、デロンギのオイルヒーターを弱目に点けるだけ。
お陰で寒さに強い子になった。インフルエンザで学級閉鎖になるみたいなときも、わたしだけピンピンしてる。ここ数年くしゃみひとつした記憶もない。
これは、棚からぼた餅、じゃない、一挙両得じゃない、なんだっけ? まあいいや、明日、アイツが来たときに聞こう。
ローションのボトルを手元に置いて、棚の上の鏡の角度を調整した。ローションを手に取って、まずはお顔から、マッサージを兼ねて丁寧に塗り広げる。ミルクみたいな白いトロッとしたヤツ。これは顔にも体にも使えてわたしの肌にも合ってるんだ。このとき、鏡を見ながら、口の端を持ち上げるように、笑顔の練習もしながら、優しく、じっくりとマッサージするのがポイント。
かわいくなあれ、かわいくなあれ……。
でも、少しやってると、なあんも面白いことないのに、ニコニコ顔を作ってるのが、馬鹿馬鹿しくなってきて、鏡の向こうで笑ってるヤツに「ばーか」って言ってやる。言われた向こうがムッとした顔になる。
いつものわたしの顔だ。ふん、自分で言うのもなんだけど、可愛くない。
こんなブスッとした女の子を可愛いなんて言ってくれる男の子がいたら奇跡だ。もし、そんなヤツがいたら、わたしの相合い傘の右側の名前を、そいつの名前にしてやってもいい。
あ、でも、アイツみたいな捻れた性格のヤツだったらやっぱりイヤかな。カッコいい、イケメンがいい! なんて、ホント、バカみたい……。
ヤツもこんな無愛想な女によくもくっついてくるよ。
感心する。
きっと、アイツはわたしがカユカユ病に罹患る前の小さい頃を知っているからだ。
昔のわたしは、シンデレラがカボチャの馬車に見えるくらい、お姫様みたいに可愛いかった。そんな写真がアルバムの隅に残ってる。ヤツはそのうちわたしがパカッと二つに割れて中からキラキラ輝くスーパーフミカが登場するとでも思ってるに違いない。
世の中、そんなに甘くないよ、お兄ちゃん。
わたしはずっとこのまんま。
可愛くなんかなってやらないよーだ。
きっと中学に入ってよその小学校からも女の子がわんさか集まってきたら自分が追いかけてる女の子がいかにダサい田舎娘なんだと気付くに違いない。そしたらわたしはポイッと捨てられて侘しく余生を過ごすことになるんだ。
あーぁ、だからあんときさっさとキスしとけばよかったんだよなぁ。まったく、ヘタレなんだから!
こっちからガツンといっときゃ良かったのかも知れないけど、あの頃はわたしもまだまだあどけない三年生のちびっ子で女の子はワクワクしながら待っとくもんだと思ってたんだ。
親に殺意を覚えることが本当にあるって、あのとき初めて知ったよ。
ため息ひとつで気持ちを切り替えてボディケアにかかる。
さっきの出血大サービスでボタンを外してたから作業も楽々だ。プロボクサーがガウンを脱ぐみたいにがばっとパジャマを脱いで、一気に生まれたまんまの姿に。
晩御飯前にお風呂に入って、それからはなるべく体を締め付けないように、このワンピースタイプのロングパジャマだけを着ることにしてる。
パンツのゴムのところが痒くなる嫌な思い出があるんだ。腰の廻りに細いライン状にブツブツが出来て、まるでミシン目の入った切り取り線みたいになった。
あのときは、この線からパカッて上下に千切れたらどうしようって、真剣に怖かった。だから、それ以来、下着なし!
これもアイツの入れ知恵で、アイツも寝る時は裸らしい。もちろん実際に寝てる姿を見たことも見られたこともないけれど。
最初はアイツがわたしの秘密の肌を覗き見するためになにか企んでるんじゃないかとか思ってちょっと抵抗あったんだけど、やってみてこんなに快適だとは思わなかった。もう、朝、起きてパンツ穿くのが苦痛で苦痛で。学校も、弛いジャージだけで行けたらいいんだけど、さすがにパンツなしでの学校はコワイ。
でも、もうちょっとしたら、ブラジャーとかもしなきゃいけなくなるんだろうなぁ。
なんか、キツそう。
ローションを手に取る。冬場はこのひと塗り目が冷たくて覚悟がいる。ローションを乗っけた手のひらで、胸をぺしゃって叩いた。
「ひゃっ」冷た! 思わず悲鳴を上げた。
いきなり心臓のところはまずかったか。
この辺り、去年の秋頃から何となく盛り上がって来たような気がする。間違いなく、標高5ミリ以上はある。
右が榛名山で左は赤城山だ。
小さい頃、わたしの胸を見たアイツが、
「フッカのも、そのうち赤城山とか榛名山みたいにぼーんっておっきくなるよ」と言って、自分の胸の前に手で山を作って見せて、それで二人してヘラヘラ笑ってた記憶から命名したんだけど、考えてみればとんでもなくエロい。黒歴史だ。
そもそも、どういう経緯でわたしはヤツに胸を見せたんだろう?
案外、ストレートに「見せて」って言われたのかも知れない。わたしってついその場の勢いで「いいよ」って言っちゃいそうな気がするし。
普段からだぼっとした服ばっかり着てるから周りにはまだ気付かれてないと思うけど、なんか、嫌ってわけではないんだけど、なんだかなぁ……。
かっこいいスタイルの女の子には憧れるのに、自分の胸が出っ張ってくるのは、何となく不安を感じてしまう。
胸よりまず背が高くなって欲しい。せめてあと7センチ。4年生の平均身長ぐらいは。
あーあ、この先、セーリとかって始まったら、どうなるんだろ? わたし、きっと女でいることに耐えられないだろうな。そんなことを思うと、ため息しか出ない。
胸にローションを塗りながら、脇の方から盛り上がりの下を回ってそっと持ち上げるように、撫でる。美乳マッサージだそうだ。
おっきくなるのはイヤだけど、変におっきくなるくらいなら、かっこいい方がいい。
ほのかなんかもうすっかりふかふかになってきてるもんなあ。男子が触りたくなる気持ち、わかる気がする。
「フッカの、ふっかふかだね」なんてエロオヤジギャグをいつかアイツに言わせてやる! まったく、なんであのアホウは巨乳好きなんだ!?
最近は、服が擦れると痛くなったりすることもある。やっぱり、ブラジャーとか必要なのかな?
でも、ママはわたしがそういう年齢だと言うことをまったく理解しようとしない。きっとわたしの身長のせいだ。わたしより背の低い高瀬さんだってブラをしてるし、もう始まったっていうのに。
きっとアイツなら喜んでブラを買ってくれるだろう。
けど、なんて説明すればいいかと思うと……。
「お兄ちゃん、なんか、おっぱいの先がピリピリするんだけど」
「なんだ、ちょっと見せてみろよ(へらへら)」
ああ、ヤダヤダ。
ローション、ローション。
お腹塗って、背中塗って、上半身完了!
さて、下半分。
お尻、大きい、脚、太い。裸になると、なおさら感じる。腰がくびれてないし、太ももは競輪選手みたいだし、ふくらはぎと足首は太さが変わらない感じだし。
だから、わたしは可愛いスカートが似合わない。ピチッとしたジーパンも体型がわかるからNGだ。
この先、女らしい体つきっていうのになってきたら、ますます下半身が大きくなるんだろう。
脚、腰、お尻と順番にべちゃべちゃ塗ってく。
脚とか腰とかはまだいいんだけど、お尻は昔、掻きすぎて血塗れになったせいでまだちょっと肌に黒ずみが残ってるんだよね。
アイツはいつも「フッカは肌が白いよね」っておだてながらあちこちペとペと触ってくるけど、このお尻を見たらガッカリするだろう。アイツの前で裸になるときは絶対に後ろを見せないようにしないと。
って、絶対、見せない!
後ろどころかもちろん前も!
お尻は厚めに塗りたくってオシマイにする。
ヨシ、寝よう。
ベッドから勢いよく立ち上がった。
トイレに行かなきゃ。
小さい頃から「寝る前にオシッコ行ってらっしゃい」と、ママにずっと言われてきたせいで、夜寝る前は必ずトイレに行く癖がついた。
出そうになくてもトイレに行ってしまう。おかげでオムツを外してからオネショは一度もないらしいけど、トイレに行かないと、不安で不安で寝られなくなった。きょうは、たぶん、行ってもちょびっとだ。病院で紙コップに出したら看護師さんに少ないですよって言われそうなぐらいだと思う。
でも、行かなきゃ!
ドアを開けて、一応誰もいないことを確認する。ドアの外、右側が下に降りる階段。左側、ちょうど階段を上がった正面になるところが、二階のトイレだ。部屋を出て、たった二秒でトイレに行ける。
ただ、裸での移動が結構スリリング。それに、真冬はめちゃ寒い。かといって、トイレのためだけにパジャマをもう一度着るのは馬鹿馬鹿しい。
一度解き放たれた魂を再び衣類という束縛が、えっと、なんだろ……、まあ、いいか。
部屋を飛び出して、トイレに駆け込む。
手早く? いや、お尻早くか? ――あそこ早くははしたないから女の子が言っちゃダメだ、あ、そっか、素早くでよかった――ちょびっとを出しきった。手洗いの水は、氷かけみたいにキリキリと手に痛い。部屋に戻って、手をヒーターにかざして、ほっとした。
それで、ベッドに「どぶーん」って飛び込んで、ごろっと大の字になって天井を見上げた。
わたしのベッド。縦になっても横になっても大の字になれる。クイーンサイズのベッドだって。前の家で、わたしが産まれるまでは、このベッドはパパとママの寝室にあったそうだ。わたしが産まれて、三人で畳の部屋に布団を敷いて寝るようになったらしいけど、こっちに引っ越して来たときから、わたしの部屋のベッドになった。ただ、部屋の床の半分以上がベッドになってて、残りは学習机と本棚でもう一杯。でも、この女王様のベッドでゴロゴロ出来れば、サイコーの気分。
大阪の方に長いことお仕事で行ってるパパは、年末からお休みで戻ってきてて、今日が最後の夜。明日の日曜日は、移動日で朝早い新幹線で向こうへ帰ってくらしい。大人は大変だ。
だから、今夜は大事な、わたしが〝パパママタイム〟と勝手に呼んでる時間なんだ。邪魔しちゃいけない、というより変なところに出くわしたら超気まずい。
だいぶ前のことだけど「お休みなさい」をいい忘れたと思って下に降りてったら、まだ早い時間なのに二人とも、もうお布団の中で、何となく雰囲気が違ってて。
「オヤスミ!」で、さっさと二階に上がったんだけど焦った。ママのパジャマとかが布団の脇に丸めてあって、こりゃまずいなって。 もう、それ以来パパが帰って来てる夜は〝パパママタイム〟で「お休みなさい」を言ったら、10時以降は絶対に下には降りないようにしてる。
二学期に授業で男の子と女の子の身体のことを習った。何となくわかって、何となく「へぇ」って思ったけど、理解度のテストで百点採ったら、クラスの男子に「オマエ、スゲェ、エロエロだなぁ」って言われた。「はあ?」って感じだったんだけど、それで、授業で習ったことが初めて自分の大事なところのことと重なって「ああそういうことなんだ」って思っちゃった。
テストで書けるのに、普通は絶対使わない言葉。よそでも、誰にも言えないそんな言葉……。
誰にも内緒だけど、図書室にあったそういう〝身体の本〟はあらかた読破しちゃった。こういう本なら高学年のでも中高生向けみたいなのでも楽々理解出来るのが不思議なぐらい。もう、ほとんど本能みたいなもんかも知れない。
図書委員は、朝の始業前も二十分休憩も昼休みも放課後も図書室に出入り自由で、本の整理なんかもするから、どこになんの本があるか大体わかるようになった。
愛読書は『おとこのこ、おんなのこ フシギノート』。図解の絵は可愛いのに、内容がチョー濃ゆい。パパママタイムの真実も、この本で詳しく知った。さすがに貸出しはしたことないけど、ブックオフに格安で売られてたら内緒で買ってもいい。
新任司書の北倉先生には「好きな本は若草物語です」てことになってるけど、それは濃厚な本を立ち読みしてるところに声をかけられて、咄嗟に手近にあった本でごまかしただけなんだ。けど「白井さんらしいね」なんて言われて、わたしはそういう風に見られてるんだ。まあ、若草物語は実際に一度は読んだことがあるんだよ。読書ノートの一冊にちゃんとなってるんだ。あらすじだって覚えてるカナダのプリンスなんとかっていう島に身寄りのない主人公の女の子が引っ越して、来る……、ん? だったっけ?
わたしは基本的に本が嫌いだった。考えながら字を追っかけるのが面倒だからだ。小さい頃は、アイツが絵本を読み聞かせなんかしてくれて、すごい、それを楽しみにしてたこともあったんだ。けど、直ぐにアニメがよくなった。絵は動くし、セリフは読んでくれるし。何年か前に、バイパス沿いにツタヤが出来て、ポケモンとプリキュアはたっぷりと観た。世界名作劇場観たら、もう本なんか読まなくてイーじゃんって感じで。
わたし、みんなが思ってるほどイイ子じゃない。褒められたらすぐ調子に乗っちゃうし、頼まれたら断れないし、図書委員もほんとはもう嫌なんだけどなぁ。
面倒くさいし。もう、面倒くさいこと大っ嫌い!
「本はいいぞ! 想像の翼は誰にも邪魔されない! たった一冊の本が人生を変えてくれることだってあるんだ!」なんて、あんまり熱く言うから、アイツと一緒ならいいかなって、帰りも一緒に帰れるからいいかなって、図書当番の後ならちょっとぐらい帰りが遅くなっても叱られないかなって、パパだって当番なら文句の言いようもないだろなって、ママには当番だから遅くなるって言ってこっそり寄り道して神社の裏とかでいい雰囲気で濃密になったりするのもいいかなって、いろんなこと思って図書委員になってやったのに! 一年間、一緒にやろうって思って、少しは本も読もうと思ってたのに、後期になって「図書室にはもうオレが読むべき本がない」って、自分だけ勝手にやめちゃって、アホウが!
何が「想像の翼」だ! アンタのは「妄想の翼」だろ!
けど、図書委員になってアホウの受け売りで本の話ししてたら「白井さん、本のこと詳しいよねぇ」なんてクラスの子にも言われて、「そんなことないよ」って、顔は照れ笑いだけど頭の中でニヤニヤ笑い。スッゴい気持ちよかったんだよなぁ。気持ちいいことは大ぁぃ好き!
勉強も、友達から「ノート見せて」とか「宿題見せて」っていわれると嬉しくなっちゃうから、ついつい張り切っちゃう。
「ホントはダメなんだよ」って、小さい声でいいながら何でも見せちゃう。テストの点数や通知表もオープンしちゃう。見せてって言われたら「内緒だよ」でどうぞどうぞだ。まあ、ちょっと自慢したいだけなんだけどね。
それで、学校から帰ったら「ただいまっ!」じゃなくって「疲れたあ~ぁぁぁ……」ってなってる。
あんまり「疲れた、疲れた」っていうから、養命酒飲んでた頃もあった。
「子供だから大人の半分の10ミリリットルね」って言われてたんだけど、そもそもお酒って子供が飲んじゃダメなんだよね?
でも、あれはあれで、シナモンの香りで結構嫌いじゃない味。身体がポカポカ温かくなって、効いた気がした。
「セーリョクゼツリンだよな」とかって、アホウが、なんだそりゃ?
でも、温めた梅酒にザラメを入れて寝る前に飲むといいって話をママがどこかから仕入れてきて、それからは隣のおばあちゃんが作った五年物の梅酒になった。なんか嘘っぽいけど、信じてることにしてる。きっとその方が養命酒より安いからだ。
「これもお薬だからね、10ミリリットルよ」ってママがいうから、真面目に計量カップで量るようにしてるんだ。
でも、おばあちゃんの梅酒はとても美味しいらしくて、ママもお薬って言ってわたしの何十倍も飲んじゃうし、わたしもお母さんに内緒で去年の春からこっそり20ミリリットルに増量してるから、五年物は瞬く間になくなってしまって、今はスーパーで売ってる1リットル紙パック入りのを飲んでる。いや、服用しているんだ。飴色の甘い香りは好きなんだけど、かなりお酒、いやいや薬の成分がキツくて、頭がぼうってして、身体がふわふわしてくる。
まあ、ニンゲン、十年も生きてると何かとストレス溜まるから、いろいろと解消してあげないとね。
二週間の冬休みも、お正月過ぎたらあっていう間だった。もう明日一日になっちゃったけど、大量の宿題プリントもワークブックも全部終わった。明日は昼から〝キミト〟に行って、旅行会社のパンフレットもらって、新婚旅行の計画を立てよう。そういう話をしてやると、アイツはご機嫌でおごってくれる。
今度は絶対スタバに行こう。一番長い名前のカフェを頼んでやろう。
ふわふわのパンケーキも食べよう。
それで、二人で、のーんびりと…………。
身体を起こして、棚に置いてたミッフィーのハンカチに手を伸ばした。これは、アイツがわたしの7歳のお誕生日にプレゼントしてくれたハンカチだ。折り方にちょっとしたコツがいるけど、4センチの大きさに上手く畳むとミッフィーの顔だけが一杯に見えるようになる。これを、枕の下に滑り込ませる。
へへへ、なんとこれがカユカユ病を封じ込めた、わたしのオマジナイ。
こうすると、夢を見る。もちろん、ミッフィーの夢じゃない。見るのは、あのウユニ塩湖みたいな周りが真っ白な世界だ。
わたしは上も下も周りも、何も分からない白い世界の真ん中にポツンと立ってる。でも、ぜんぜん怖くなくて、ふんわりとした、とてもやさしい気持ち。
もうすぐ、あのひとがわたしを迎えに来てくれる。パパでもないママでもない、きっと、もっと大切なひと。わたしは信じて待ってればいいだけ。そうしてると、後ろからぎゅっと抱き締められる。
わたしはこのひとを知っている。
彼はこの真っ白な世界で迷い苦しみながら、ようやくわたしにたどり着いた勇敢な旅人。
わたしは永い永いあいだ、この場所でずっと彼を待っていたんだ。
彼の指先がわたしの頬をそっと撫でて、トントントンと三回優しく触れる。誘われるように首を後ろに捻ると、そっとキスされる。
これは夢だとわかっていても、心が蕩ける。
彼の顔は逆光みたいにシルエットになっててよくわからないけど、わたしの知ってる限り、その高さに唇がある手ごろな男は一人しかいない。
わたしはまるで餌をねだる雛鳥のように背中の彼に唇を伸ばしてキスをせがむ。彼は優しくそれに応えてくれる。
振り向いてちゃんと抱き合いたいのに、彼の腕の中で、まるで蜜壺の中に沈められたみたいに心も体も甘くなって思うように動けなくなっている。
彼の指先は冒険者になって、赤城山も榛名山も征服してしまって、遥か遠くの吾妻峡までさまよって行く…………。
高まる気持ちで上を向いたら、ぽっかりと透き通るような真っ青な空が広がっていた。
わたしはやっとの思いで体をひねって、ようやく彼の胸にすがりつくことができた。しっかりと抱き合ったわたしの身体と彼の身体がまるでレゴブロックみたいにぴったりとくっ付き合って、頭の中がじいんと痺れた。
それで、それで…………。
もう、そこから先は思い出すのも恥ずかしい、メクルメク一夜を過ごして、目が覚めたら朝になってる。
…………ふう。
それで、痒みなんか、ぜーんぶ忘れてる。そう、わたしは夜な夜な男と遊んで朝帰りだ。
初めてそんな夢を見たときは、意味もわからず、とてつもなくイケナイことをしでかしてしまった気がして、目が覚めてもドキドキが治まらなくて痒みを忘れてたことすら忘れてるぐらいだった。小学一年生の女の子にそんな夢を見させるなんて、アイツはとんでもない〝いかのおすし〟野郎だ。パパ、ママが知ったらひっくり返るに違いない。
絶対に秘密だ。
ママに夢の話をしたときも中身はほとんど黒塗りの海苔弁状態だった。パパに知られでもしたら絶対にアイツの命はないだろう。
だから、内緒にしといてあげよう。
二人だけの秘密だよ。
あっと、いけない、もう日付が変わっちゃう。休み中はついつい夜更かしする癖がついてしまった。
枕元のリモコンで部屋の明かりを常夜灯にしたら、お休みの準備完了。部屋の中がぼんやりと暗くなって、壁や天井が薄オレンジに染まる。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
よし、今日はもう寝よう。明日だ明日。いや、もう今日か。
アイツのお年玉、たっぷり搾り取ってやろう。
わたしは、机の上の写真立てに目をやって、
「オヤスミ、けーくん」
寝る前だけの秘密の呼び名を言ってから、後ろにハートマークをひとつオマケで付けてあげた。でも、なんとなくわたしには似合わないような気がして、照れくさくて、頭の中でハートマークを消しゴムでゴシゴシ消した。
それで、頭でとんとんと枕を二回叩いて、またあとでね、って目を閉じた。