激変の狼煙②
ヨルズの大・ミズガルズ大陸、マクティグ王国領内のとある山林は、広大な面積と木々の高い密度のおかげで、全く人を寄せ付けない魔の森として超人を含めた人々から恐れられている。しかし、その噂があるだけに、身を隠す場としてはこの上なく最適だった。
その森の最深部にて、洞穴のひとつから、アイリス・ユングリングは顔を出す。木漏れ日に当てられて煌めく銀の髪。その光を反射するほどの白い肌。そして、肉食獣のような獰猛さを秘めた赤い瞳。知る者は誰もが認める絶世の美少女であり、それでいて、知る者は誰もが危険と認めた。
アイリスは踊るような足取りで、獣道を歩いていく。大自然の中で自分一人という状況に、ついアイリスは開放的な気分になる。全裸になって走り回りたいくらいだ。もっとも、今身につけているのは黒のキャミソールに黒のミニスカートで、下着はショーツしか着けていないので、脱いでも脱がなくても大して変わらない格好ではある。そもそも、この辺りにいるような人間にはほぼ全員に裸を見せているので、何も躊躇うことはない。
「えいや」
アイリスは全裸になった。背徳感は無かった。そもそも、先程までの格好は男を誘惑するためのものだ。キャミソールの下に何もつけずに歩くだけでも、男たちが血走った目で凝視してくる。刺激の少ない洞穴暮らしでは、それは極上の餌になる。餌をぶら下げておくだけでは、そのうち何を仕出かすか分からないので、時々食べさせてやったりもする。アイリスの立場上、その行為は好ましくないのでその間の記憶は抹消するが、餌を食べたという事実に変わりはない。
裸になって森を歩くと、自然と一体化した気分になる。日々のストレスが溶けて無くなっていくようだった。これからは、このようなストレス発散は出来なくなる。大変不健全な方法で解消しなければならなくなるのは目に見えているので、今のうちに森林浴を目一杯楽しむつもりだった。
とはいえ、森林浴だけでは肥大化した性欲は抑えられない。結局、アイリスは自慰を始めた。自らの身を男に差し出すのは、性欲を解消するという名目もある。初めはあまりのストレスに耐えかねて自傷行為的に処女を捨てたが、そのうち性行為そのものにハマってしまった。ハマり過ぎて、また持ち前の再生能力もあって、人類の脳で考えつくほぼ全てのプレイができるようになってしまった。今のまま娼婦に転身したら、相当荒稼ぎ出来るという自信もある。
とはいえ、今はアイリス以外に人はいないし、住処に戻っても皆忙しくしている。一人で慰めるほかはない。強い刺激に慣れきって、なかなか絶頂には至れないが、もどかしい感じも嫌いではなかった。何とか高まって、これならばと思ったところで、水を差す者が現れた。
「アイリス」
振り返らずとも、その声だけでアイリスには誰か分かる。エンプラ・ユングリング——アイリスの秘書で、護衛で、同じ一族で、幼馴染で、かつての隣人だった同い年の少女だ。アイリスは荒げていた息を整えながら、ゆっくりと振り返る。エンプラは、アイリスと同じ銀の髪を揺らし、赤の瞳で呆れたような視線を向けていた。ただ違うのは、顔付きもそうだが、エンプラはしっかりと戦闘服を着込んでいたことだった。
「何してんの?」
「森林浴オナニー。エンプラも裸になろうよ。気持ちいいよ」
「やだよ。私はアイリスみたいな変態じゃないんだよ」
エンプラは苦笑いして言った。変態というのはアイリスを表すのにあまりに適した言葉だった。そう言われては納得するしかない。そのくらい、アイリスは自らが変態であることを自覚していた。
「そんなこと話しに来たんじゃない。こんな暇無いでしょアイリスには。早くアジトに戻るよ」
エンプラは躊躇なくアイリスの手首を掴んだ。アイリスは拒絶しない。乱暴にされるのは、好きだった。
「ちょっと待った、服着させて」
アイリスがその辺りの木の枝に掛けておいたキャミソールとスカートとショーツを指差すと、エンプラはため息をついて手を離した。アイリスはそれを着ながら、エンプラに尋ねる。
「向こうの状況は?」
エンプラを見るアイリスの目は、真剣で鋭い。先の変態な少女は、既にこの場にいなかった。
「ヘルカさんが暴れつつ逃走してるみたい。まだこっちに戻る目処は立ってないみたいだけど」
「なるほどねー。我々きってのエースなんだから、もう少し頑張って色々ズタボロにしてもらわないとね」
服を着終えたアイリスは、エンプラの前に立ってアジトへの帰路に着く。その間に、表情も作っておく。周囲を意味なく威圧するような更に鋭い目付きに、不敵な笑み。武装組織のリーダーとして、自分が最も強いというアピールは必要だ。こういうことがアイリスのストレスになるのだが、トップとしてそうは言っていられない。どのみち、アイリスもエンプラも、片田舎の農奴の娘に今更戻ることはできないのだ。
二人が洞穴の入り口をくぐってしばらく歩くと、近代的な金属の自動ドアが現れる。洞穴そのものも、自然の物に見えるように細工はしてあるが、骨組みをしっかりと作って簡単に崩れないようになっている。
アイリスの網膜を認証してドアが開く。このような技術は地球からもたらされた。元々ヨルズにはある程度の機械文明はあったが、地球はヨルズとは比較にならないほど先進的だった。とはいえ、大元は大して変わらなかったので、戦後はすぐに地球の技術が定着した。ガイアでは全く広まらなかったらしく、それでは魔術も機械も使えるヨルズ勢が3星の中では最強なのでは、という風潮もある。実際、それを証明する時が来るかもしれない。
「ヘルカがどう動くにせよ、今日が運命の日だね」
「あの時から5年目かな。長かったね」
艦橋に向かいながら、アイリスとエンプラはしみじみと語り合う。担ぎ上げられて、ただの農奴の娘から武装組織のリーダーにされたあの日以来、アイリスにとっては苦労の連続だった。戦闘訓練に、様々な学問の吸収。地球の言葉も覚えた。責任は重い。今でも逃げ出したくなる。しかし、故郷は半ば自分のせいで無くなってしまった。本当に、文字通り帰る場所が無いのだ。ならばせめて、自分に期待されている役目は果たす。それが、自分が生きる唯一の意味だ。
「大公、ごきげんよう」
艦橋に着くなり、初めにアイリスを大公と呼んだ目の前の青年は、グンナル・ユングリングである。彼もまた、アイリスと同じ銀髪と赤い瞳を持つ。遠縁だが同じ一族で、先代の大公でもある。そしてアイリスにとっては、処女を奪わせた相手でもあった。
アイリスの組織では、リーダーのことを大公と呼ぶ。その経緯から、武装組織にしては珍しくトップは世襲制である。
「放送機器の準備はできています。訓示なら、いつでもどうぞ」
恭しくグンナルは告げる。あの時、アイリスが農奴の娘でしかなかった時に初めて会った時から、同じような口調だった。この口ぶりで、アイリスの人生は歪められた。ただ、憎む気にはならなかった。グンナルはいかなる企みもしていないと知っているからだ。
グンナルは純粋だ。純粋すぎて、形骸化していた組織の理念を復活させるために奔走した。アイリスが担がれたのはその一環だった。その過程で多くの人が離れた。グンナルが大公に就任したときは六万人はいた巨大組織だったが、今は三千人ほどしかいない。内訳は、発足時のメンバーの子孫が千人ほど、残りの二千は純粋に理念に賛成した者たちだ。
ゆえに、訓示では彼らを鼓舞する言葉を選ぶ。本心はいらない。自分のための言葉ではなく、組織のための言葉だからだ。しかし本心は無いが、真心は込める。魂の通った言葉でなければ、言っても伝わらない。
訓示を始める前に、アイリスは艦橋を見渡す。艦橋要員以外は、アイリスが世話になった人がいる。グンナルと、長老で教育係のカウリ・アンドレアン四世だ。カウリ四世はかれこれ三代の大公にわたって仕えており、若い頃の活躍から生ける伝説のような扱いを受けている。アイリスにとっても大恩ある人だ。その感謝も込めて、指揮官席のマイクを手に取り、語り始めた。
「総員、作業をしながらでいいから聞いてほしい。分かると思うが、私は9代目大公、アイリス・ユングリングだ。あの日、私が大公となってから、我々は分裂を続けて、最後に私の元に残ったのは僅か三千人。だが先祖の夢を叶えるという想いで繋がった我々は、全員が一騎当千の力を持っている。そして今日は、その夢を実現させる一歩を踏み出す時だ」
初めなので、アイリスは低く、小さめの声で話す。元々声は低い方だが、より低く話すと少し聞き取りづらくなる。声も小さめなので尚更だ。しかし、そのような声で話すことで、その言葉を拾おうと人は前のめりになるものだ。
「これまで、先祖が立ち上がってから126年。私が来る前は、無法を働くだけの野蛮人だったと聞いている。そして、私は先祖の想いを復活させるためにここに来た。だが、想っているだけでは前までの野蛮人と同じだ。だからこそ!」
アイリスはだんだんと強めていた語気を、より一層強めた。マイクの前で勢いよく腕を広げる。この様子を見るのは艦橋にいる者に限られるが、それでも身振りは大事だ。腕を広げた音はマイクに拾われるだろうし、それに何よりアイリス自身の気持ちも上がる。
「我々、ブロウズグ・シュベルズは、フォルド公国復活を成し遂げなければならない! 場所は地球! 新島! 住み慣れたヨルズを捨て、我々は背水の陣で挑む! 過去は見るな! 私たちには未来だけだ! 新しい時代の扉は、我々が開く!」
アイリスが言い切ると、艦橋だけでなく艦内のあちこちから聞こえる鬨の声に混じって、小さな拍手も聞こえた。拍手をしていたのはカウリ四世だった。グンナルとエンプラは鬨の声も上げず、拍手もしていなかったが、その顔は満足げだった。
(これでもう、本当に戻ることはできない)
アイリスは爪が手のひらに食い込むくらい、強く手を握り締める。悲しくはない。ただ、自らの双肩にかかる重さが、訓示を終えたら今までの倍以上になった。重圧が酷く、内臓まで掻き乱される気分になる。だが、そのような素振りは少しでも見せるわけにはいかない。いつものように不敵にニヤリと笑えば、強すぎる握り拳は戦意の現れになる。
そのままアイリスは椅子に腰掛けたが、どれだけ威厳のあるそぶりを見せたところで、肩が楽になることは一向になかった。