変わり始める日常①
白が広がる。腰を振るたび、白が頭の中に広がって、雑念を覆い尽くす。これは、景浦秀が最も好きな時間だ。何もかもがどうでも良くなって、ただ雄としての本能に身を堕とす。この瞬間は、景浦秀は無い。一個の雄のホモ・サピエンスだ。
しかし、その白は永遠では無い。一際白が大きく広がって、爆ぜる。すると、白は最初からなかったかのようになって、秀を苛む雑念が我が物顔で脳内を闊歩し始めるのだった。
***
本村地域のビル街の中で、やや入り組んだところにあるビルから、秀は出た。そこは新島随一の高級ソープランドだった。秀の給与は、生活費を除くとほとんどがそれにつぎ込まれている。秀にとって、それだけがストレス発散の手段なのだ。
冷房の効いたビルから出ると、本土には無い島特有の湿気と、指すような日差しが秀を襲う。五、六十年前は地球は寒冷化して夏でも肌寒い時期があったらしいが、そのような時代があったとは歴史で習っても信じられない。
「やあ、秀。今日もすっきりしたかい?」
その七月初頭ののまとわりつくような熱気に乗って、わざとらしく上擦った、女の甘い猫撫で声が聞こえた。秀は、その声の主人を知っている。この声が嘘というのも知っている。本当は、高いのは確かだが、凛々しく、聞く人全てに威厳を感じさせる声だ。
「無視とはひどいな。私には君しか友達がいないんだぞ」
少女が目の前に現れる。黒い髪、焦茶の瞳。白のブラウスに、空色のスカート。肌は白く鼻は高いが、普通の日本人の少女らしい風貌だ。しかし、秀は知っている。この黒髪はウィッグで、瞳の色はカラーコンタクトだ。本当の髪色は高貴な金色で、瞳の色はサファイアを想起させる美しい青だ。服も、このような庶民的な服は普段は着ない。黄金の装飾で彩られた、美しいペプロスを着るのだ。
「さあ、今日も私と街で遊ぼう。麓英子はせっかちな町娘なんだ」
麓英子は彼女が自称する名だ。しかし、その名も嘘だと知っている。本当の名はエイレーネ。その上、町娘でも、ましてや日本人でも、地球人でもない。空にポッカリ空いたふたつの穴。その片方を抜けた先にあるもうひとつの地球、ガイア。その第二王女であり、ガイア地球駐留軍の総指揮官こそ、このエイレーネだ。
「分かってるよ。今日はどこ行くんだ?」
「ゲーセン! 今日は秀に負けないんだからな!」
エイレーネは秀の周りで元気にはしゃぎ回る。秀は知っている。嘘で固めたエイレーネが見せる心のうちだけは、全てが真実なのだと。
***
ゲームセンターは、本村地域のうち、かつての大戦で吹き飛んでしまった峰路山があった辺りに出来た、大型ショッピングセンターの中にある。そこのゲームの中から選んだのは、昔ながらの対戦格闘ゲームだ。筐体があって、その前に座ってボタン操作で遊ぶという、伝統のスタイルを約140年も守り続けている人気のゲームで、文化財指定も近いのではとまことしやかに囁かれている。
このゲームは、エイレーネと知り合うまで秀はプレイしたことが無かったのだが、今となっては達人級の腕前である。しかも、プレイするのはエイレーネに付き合っている時だけである。このことに限らず、秀はそこまで練習せずとも何でもこなせてしまう天賦の才があった。スポーツをやらせればプロ級の腕前になり、銃をやれば一流の兵隊に。MGを触れば、その操縦をあっという間にマスターする。実際、軍の中で射撃もMGの操縦も、腕前は現在入隊二年目、訓練課程にしてトップクラスだ。——そんな自分を、秀はこの世で一番嫌っていて、恐れている。
「あー、もう。秀! 手加減して!」
三連敗した辺りで、エイレーネが叫んだ。秀は何も言わず、連勝数を四に増やした。
「手加減してってばー」
「俺の奢りでやらせてやってんだから文句言うな」
我慢できずに口を出してしまった。秀からは向かい側の筐体に着くエイレーネは見えないが、何となく歯軋りしている様子が思い浮かぶ。キャラを選んで待っていると、筐体の横から首を出してエイレーネが恨めしそうに言った。
「これで勝たせてくれないと、秀の性癖をひとつひとつ大声で叫び回るからな」
「待て、何でそんなもん知ってんだ」
「私はあのソープのお姉さんたちと仲が良いんだ。秀が普段どんな子を指名して、どんなプレイをしてるのか、大体知ってるんだぞ」
何ということだ。秀は頭を抱えた。性癖を喧伝されるのはまだいい。自分の周りの評判がどうなろうと、秀にとってはどうでもいいことだからだ。しかし、自分の性癖はまだ14の少女には刺激が強すぎる。ただでさえ性に多感な時期だ。どんな影響を受けてしまうか分からない。もっと大人になってから知るべきだ。とはいえ、もう知ってしまったものは仕方がない。自分がエイレーネを良き大人になるように導くしかないだろう。秀はそう心に誓って、大きく息を吐いた。
「分かったよ。手加減してやるよ」
「わーい、やったー!」
エイレーネは万歳をして筐体の前に戻った。それでいいのか、と秀は思ったが、あれだけ嬉しそうにされると、そのような心配はすぐにどうでも良くなってしまった。
***
二人でバニラのソフトアイスを食べながら、夕方の和田浜沿いを歩く。結局、エイレーネが五連勝するまでゲームに付き合い、その後はランチを二人で食べ、エイレーネの買い物に付き合った。その荷物は全部秀が持っている。
新島の海は美しい。新島が世界トップクラスに発展した土地となっても、海は行政と住民の努力で守られた。かつての住民にとって、美しい海は新島の誇りだったからだ。
「綺麗な海。美味しいアイス。隣にはイケメン。私は今この世の幸せを謳歌している……」
うっとりしながらエイレーネが呟いた。秀は味わうことなくさっさとアイスを食べてしまったが、エイレーネはちまちまと食べている。不思議なことに、そのアイスはこの夏の暑さにあっても一向に溶ける気配が無かった。
「お前のアイス全然溶けないな」
「ん? そりゃ魔術で冷やしながら食べてるからな」
何でもないようにエイレーネは答える。それを聞いて、秀は納得しつつ、まだ慣れないな、と思う。ガイアの人間と、もう片方のワームホールの先にある地球——ヨルズに生きる一部の人間は、魔術と呼ばれる超自然的な力を使える。軍に入るまでは身近に無かった存在だったので、未だ彼ら彼女らを見ていても魔術を使う存在という認識にならないのだ。
「便利だよな、魔術って」
「そう思うなら秀も使えば? 秀は使える側の人間と思うぞ」
「……は?」
あっけらかんと言ったエイレーネの一言に、秀は思わず間抜けな返事をしてしまった。
「だから、秀は魔術を使えるって」
「いや、待てよ。魔術は神格が無きゃ使えないんだろ」
神格とは、文字通り神に等しい格であり、それは先天的なものであり、物理的なものでもある。神の子孫である人間が遺伝的に受け継いでいるものなのだ。ガイアもヨルズも、神話と地続きの歴史を持つので、そのような人間がいる。しかし、地球は違う。進化の歴史の中で、人間が生まれた。だから、地球には神格を持つ人間がいないのだ。
「だからさ、秀は神格を持ってるよ。ガイアの第二王女がそう感じてるんだぞ。それに、秀はみなしごだろ。神格の無い家系の人間と断言は出来ないだろ」
エイレーネは強く言い切った。秀には反論の余地も無かった。確かに、秀は孤児だ。新島空港のコインロッカーで、衰弱した様子で見つかったというのが、この世における初めての秀に関する記録だ。地球で見つかったので地球で育ったが、新島空港はガイアやヨルズの人間も使う。どちらかの人間が捨てていった可能性は十分にある。それに、今は黒染めしているが、秀の本来の髪色は銀色だ。また、目の色は日本人らしくない赤である。少なくとも、大和民族だと主張するには無理のある姿だ。
「地球人でも神格は持ってることあるぞ。前に公用で皇族の方と会ったんだが、その人は神格を持っていたぞ。そのレベルの高貴な家系かもしれないじゃないか」
エイレーネにその気はなかっただろうが、その言葉に秀は追い討ちをかけられた気がした。しかし、その言葉に縋る自分がいるのも秀は悟った。初めて、自分が何者なのかを知れるかもしれないのだ。
「なるほどな。魔術は一朝一夕に使えるもんなのか?」
「練習しないとダメだ。君に分かるように言うと、いきなり自転車乗れる子供はいないだろ」
「確かにな。とりあえずどんなのかだけ教えてくれ」
秀がそう言うと、エイレーネは空いている手を秀に向けた。すると、その手がぼんやりと光りだした。
「分かりやすいように、手から出したエネルギーを発光させた。魔術は、体内はもちろん、そこら中にあるエネルギーを意志の力でコントロールして、物理現象に干渉する力だ。初心者は体内のエネルギーを手の平から外に出すことから始める。ガイアではそうしているぞ」
「どうしたら外に出たって分かるんだ?」
「手の平からウンコが出るような感覚がするんだ」
秀はすっ転びそうになった。
「もっと上品な例え方しろよ!」
「秀はお尻の穴が大好きって聞いたから、気を遣ってこういう例えしたんだぞ!」
「尻穴が好きってのはそういう意味じゃねー!」
14歳の恐ろしさを感じた瞬間だった。肛門に関する性癖がそういう結びつき方をするとは、性への興味と無垢さが合わさった時の発想が予測しづらいことこの上ない。
「あっ」
エイレーネが、ハッとなって立ち止まり、口に手をやった。目も丸くしている。少しだけ嫌な予感がした。
何せ、エイレーネを始め、新島基地に駐留しているガイア関係者は皆基地から外に出てはいけない決まりになっている。エイレーネは変装に加えて魔術で認識を阻害していて、基地の人間には、基地の外では自分を町娘としか認識できず、基地の中では存在すら認識できないから大丈夫と常に言っている。だが、それを見破れる者がいても不思議ではない。単にいないのに気がついて、誰かが探しに来ているのならまだいい。ガイアといえば、先の大戦では敵だった。もう24年も前の出来事とはいえ、テロリストのような手合いのものがエイレーネを狙う可能性だってある。
「どうした?」
秀は周囲への警戒心を強めて、小声でエイレーネに尋ねた。エイレーネは口に手を当てたまま、深刻な声で答える。
「結局、秀の性癖を大声で言ってしまったぞ」
「紛らわしいわ!」
唾が飛ぶ勢いで秀は怒鳴った。しかしその裏では、心底ホッとしていた。エイレーネは本当に危うい立場なので、些細なことでも心臓に悪い事態に発展しかねないのだ。
「怒鳴られても何のことか分からんぞ。それより、ほら。どうなんだ?」
エイレーネはムッとした顔を向ける。このような仕草は、まだ幼さが垣間見えて大変可愛らしい。秀は、同じ口でウンコなどと大声で言っていたことなど一瞬忘れてしまいそうになった。
はいはい、と言いつつ、秀は体のエネルギーを意識する。なんだかんだで「ウンコが出るような感覚」というのは秀にとって非常に分かりやすい例えだった。下品な発想だが、体のエネルギーを便、手の平を肛門と捉えて、手の平からエネルギーを出すイメージをする。すると確かに、手の平から何かがスルリと出ていくような感覚があった。
「おお、よく出来たな。偉いぞ」
エイレーネは満面の笑みで腕を上にピンと伸ばした。秀が何をしているのかとボーッと見ていると、エイレーネはすぐにその笑みを崩して秀を睨みつけた。
「頭を下げろ! 撫でられないだろ!」
「ほらよ」
秀は無心で屈んだ。エイレーネはわしゃわしゃと音を立てて秀の頭を撫でる。ちらりとエイレーネの顔を伺ってみると、大変機嫌よさそうにしていた。
(せわしいやつだな)
秀は呆れつつ髪を撫でさせていると、他人の視線を感じた。そちらに目を向けると、金色の長髪に黒のヘアバンドを乗せた欧米美人がいた。その女と目が合うと、彼女——ヘルカ・アーリドッティルは、やたらとにやけた顔で秀たちの方に近づいてきた。ヘルカは国連軍として新島に来ているMG乗りだ。
そのヘルカの気配には、流石にエイレーネも気がついて、撫でるのをやめた。
「こんにちは、景浦士長。そちらは彼女さんかな? うふふ」
「はい、景浦秀の彼女の麓英子です。以後お見知り置きを」
エイレーネは秀が口を開く前に早口気味で言い切った。丁寧にお辞儀までしている。
エイレーネの戯言はともかく、彼女と二人でいるところを知り合いに目撃される事態は秀はしっかり想定していた。落ち着いて、用意していた台詞を告げる。
「違いますよ、アーリドッティル少尉。こいつは、俺が育った施設の後輩で」
「そうなの?」
「そういう設定みたいですね」
ヘラヘラしているエイレーネに、秀は本気で怒りたくなった。エイレーネは自分の立場を本当に理解しているのかと憤りが湧いてくる。しかし14歳に怒るのは大人気ない。エイレーネに話を通していなかったことも悪い。これは自分の責任だと捉えて、秀は怒りを抑えた。
「まあ、とぼけるのが上手いんですよ、こいつは」
「はははー。なるほどね。確かに歳離れてるし、やりとり見てると彼女って雰囲気じゃないね」
その言葉とともに、ヘルカと秀たちの間に壁ができた気がした。それからすぐに、ヘルカは手を振りながら基地とは反対方向に歩き去っていった。エイレーネは、いつの間にか真剣な表情になって、ヘルカの背中を見つめていた。
「どうした?」
「あー、いや」
エイレーネの歯切れが悪い。また嫌な予感がした。今度もくだらないことかもしれないが、用心に越したことはない。
「ハッキリ言ってくれ」
「あの人は多分、秀の好みじゃないなって」
今度は、秀は動揺しなかった。予測できていたからだ。秀は自分で自分を褒めてやりたい気持ちになった。
「そうかい。とっとと帰るぞ」
秀はそう言いつつ大きく一歩踏み出すと、エイレーネに袖を引かれて立ち止まった。秀が振り向く前にエイレーネは隣に来て、裾を掴んだまま上目遣いで告げる。
「ねぇ、ゆっくり行こう」
普段強気なエイレーネが見せるしおらしい仕草に、秀は胸を打たれた。そうなってしまったら秀の負けだ。何も言わず、歩幅を狭めた。
結局基地に戻るまで、エイレーネはずっと裾を掴んだままだった。入門して、ガイア軍人の官舎の側に来ると、エイレーネはずっと残していたソフトアイスのコーンを思い切りよく食べると、ようやく裾から手を離した。
「今日も楽しかった。ありがとう」
エイレーネは裏表の無い満面の笑みを見せた。それに、秀は返すことができない。周囲に人がいるからだ。認識できない状態のエイレーネに反応したりしたら、怪しまれる可能性がある。エイレーネもそれを分かっていて、一度手を振るとすぐ背を向けた。秀も踵を返し、日本国防軍の官舎に向かう。その時ちょうど日が落ちて、空は闇夜を映し出した。