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「カメリア、カメリア。そろそろベッドで寝なさい」
カメリア・マロンは、うたた寝から目を覚ました。
オレンジ色の暖かな炎、眠りを誘う揺り椅子、そして、編み物という単純作業が、カメリアをうたた寝へと導いていたのだ。窓の外では雪が窓に吹き付けていた。
カメリアの肩にはブランケットが掛けてある。母が掛けたものだ。
冬の寒い日には、暖炉の炎を囲みながら、侯爵である父はウイスキーを傾けながら書物を読んでいる。母と、そして一人娘であるカメリアは、刺繍や編み物をしながら時を過ごす。
「そうだ。カメリア。良い知らせがあるぞ」
父が、書物から顔をあげてカメリアを見た。
「それは楽しみです、お父様。ぜひ、お聞かせください」
父であるシナモン・マロンは、蓄えた顎髭を触りながら勿体ぶった口調で言った。
「皇帝陛下は新年が明けたら学園に数日、お通いになられる」
カメリカは、胸の高鳴りを覚えつつも、皇帝の婚約者、将来の伴侶としての態度を示そうとする。
「帝位を継承されてからご多忙の毎日。無理して学園に通われず、お休みに成られた方が……」
「貴族は皆、魔法の力を得ている。故に、学園を卒業しなければならない。それが帝国の法だ。皇帝陛下は、それを全うされようとしている」
もっとも、ドラゴネス皇帝が帝位を継いでからというもの、若すぎる皇帝に反発しようとした内乱の目を詰み、日々政務に追われていた。帝位を継いでからほとんど学園に来ることができていなかった。学園で学生をしている時間などなかった。
カメリアが出す手紙も、シトラスが皇太子であったときは、必ず花束とともに返事がきていた。だが、今では三通に一通、返事がくればよいほうだ。
「カメリア、家族の前では無理をしなくても良いのよ」と母が優しくそっと肩に手を置いた。
「うん。久しぶりにお会いできるのね。もちろん、嬉しいわ」
カメリアは、半分本心でそう言いながら、半分は真っ白な雪原を眺めるような気分であった。
侯爵というレグニカ帝国での地位。皇帝と同じ年。そして、カメリア・マロンは、シトラス・ドラゴネスに夜会にて一目惚れをした。
『私は、ドラゴネス様のお嫁さんになりたい!』と、法務省長官を勤める父にしきりにながったのは、幼い日の自分だ。
確かに自分である。
だが、自分、とは一体なんだろうか?
皇帝への婚約が叶い、一巡して冷静になった自分であろうか?
マリッジ・ブルーとなった自分だろうか?
自分とはなんだろうか?
いつしか、おそらく、前世の記憶を持ち合わせた自分は、自分なのだろうか?
心の半分は、前世で愛した人の影を追っている。
マロン侯爵家の一人娘、カメリアとして父と母からの愛情を感じる。そして、その背後から、前世の父母の愛情が重なるのだ。
「お父様に、花嫁衣装を見せたかったな」
カメリアはつぶやいた。前世の記憶が確かなら、自分は恋人との結婚式間近で死んだ。
「もうすぐ、見せてくれるのだろう? いや、ずっとこのまま嫁がず、家にいてもいいのだぞ?」
マロン侯爵が上機嫌で上あごを触り、ウイスキーを飲み干す。
「さて、そろそろ寝るとしよう。この分だと、積雪で馬車も進まないだろう。早く家を出なければな」
「はい。おやすみなさいませ。お父様、お母さま」
・
・
過ぎた年に降り積もった雪は、そのまま年を跨いで居座り続けていた。
カメリア・マロンは皇帝が学園にやってくるのを教室で待っていた。
皇帝でもあり、婚約者でもあるシトラスとは同じ学年でもあり、あと数か月もすれば、お互い学園は卒業を迎える。
卒業をすれば、晴れて婚約者から夫婦となる。
廊下のざわめきが教室へと伝わってきた。
貴族子女が通う学園。礼節を重視する学園にて、ざわめきが起こる場合は限られている。
王国の貴族たちが、シトラスに挨拶しようとひしめいているのだ。
カメリアは、一秒でも早くシトラスに会いたいという気持ちを抑え、教室の椅子に座りながら、久しぶりに会う婚約者のことを考える。シトラスからの恋文を毎晩読み返しているカメリアであるが、会うのはシトラスが戦場へと赴いて以来だ。
カメリアは、ポシェットから手鏡を取り出し、侍女がいつもより念入りに手入れしてくれた髪に乱れがないかをチェックする。
いつもの完璧な侯爵令嬢だ。非の打ちどころがない。王子の婚約者として、嫉妬する他家の令嬢はいる。誹謗中傷もあった。しかし、根拠も正当性もない言いがかりはすべて跳ね除けてきた。
容姿においても、王子の婚約者としての品位も。
シトラスが教室に入ってきた。教室内に緊張が走り、静寂に包まれた。
シトラスの足音が近づいてくる。カメリアは、ただ、教室にて座っていればよい。
ただ、待っていれば良い。
なぜなら、シトラス・ドラゴネス王子が学園に来る時は、ランチを一緒に食べるのはカメリアだからだ。
私はシトラスの婚約者なのだ。
そう、カメリアは背筋を伸ばす。自分は王子に群がる数多の貴族とは違う。凛として、王子が自分を食堂までエスコートしにやってくるのを待っていれば良い。
足音が止まった。
「カメリア・マロン、久しいな」
聞き覚えがあり、そしてどこか懐かしい声が聞こえる。
「お久しぶりでございます」
カメリアは、顔を上げ、シトラス・ドラゴネスを見つめる。自然と瞳が潤う。あぁ、やっぱり私は、この人が好きなんだ、と魂の奥底から思う。胸の高鳴りという、心臓の鼓動という、肉体を伴ったものではなく、もっともっと深く、心や魂が、小栗椿は、シトラス・ドラゴネスを求めていると確信せざるを得ない。
久しく会っていないというシトラス・マロンの高ぶる恋慕がそう錯覚させたのかもしれない。
「すまないが、これから私は、イベリス・ネメシア嬢とランチを供にすることになった」
シトラスの発言にカメリアは頭が真っ白になった。そして数秒の後に頭を再起動させ、イベリス・ネメシアという名前を思い出そうと、頭を左右に振りながら記憶の奥底を探る。
学園に来るということは、学友……。だが、そのような貴族には覚えがない。少なくとも、マロン家に肩を並べるほどの有力な貴族に、イベリスという家名はない。
埒が明かないと、カメリアは直接訊ねることにした。
「その方は、どちら様なのでしょうか?」
久々にあった婚約者に対してそれはないわね、という心の声が聞こえる。だが、きっと私には分からない深い事情が皇帝陛下にはお有りなのね、ともカメリアは思う。
「学園に留学してきているナラバ王国の王女様だ」
まるで事務連絡のごとくシトラスは言った。
「ナラバ王国でございますか」
レグニア帝国とは隣接もしていない南の国。レグニア帝国とナラバ王国は、永世中立を掲げているスイ連邦とに阻まれ、貿易も外交も盛んではない。近くて遠い国である。西の強国であり隣接国であるプロイス帝国の王女であるならば、政略結婚の話が出てきてしまったのだろうと納得がいくが……。
「突然の連絡ですまないな」
「いえ、ご連絡ありがとうございます。お知らせくださらなければ、いつまでも陛下をお待ちして、昼食を逃すところでした。もっとも、今は食欲というものがどこかへ行ってしまいましたが」
咄嗟に出た言葉。それにカメリアは驚き自分の口を扇子で塞ごうとする。陛下に対して、嫌味を言ったのだ。だが、もう口から出た言葉は戻ることはない。皇帝の婚約者、そして妻になると決めたときから、理不尽を覚悟していたカメリアだ。たとえば、自分との間に恵まれなかったら、側室などが用意されることも道理として理解している。浮気の千や二千程度なら、帝国の火傷とならないなら笑って許せと学んだ。
シトラス・ドラゴネス陛下に嫁ぐということは、レグニア帝国に嫁ぎ、身を捧げるということと同義であることを理解している。
が、たかが、千秋一日の思いで待っていたランチを不意にされたくらいで嫌味を言ってしまう自分にカメリアは驚く。頬を叩いてやりたいと思う気持ちに驚く。
「では、約束の時間に遅れてしまうのでこれで」
踵を返すシトラスの背中を見つめながら、机に置いてある魔導書を投げつけたいという衝動をカメリアは抑えるのに精一杯だった。
シトラスが教室を去った後、教室中にヒソヒソとした話し声が聞こえる。聞き取れるほどの大きさではないが、シトラスと自分のことを話しているであろうことは簡単に予想ができた。
皇帝と、その婚約者である自分の不仲、と捉えられたのだろう。そして、それは貴族の格好の話題である。
そして、「イベリス・ネメシアという女について調べ上げましょうか?」と近寄ってくる自分の取り巻きたち。主に、マロン侯爵家の傘下の男爵・子爵家の者たちである。
カメリアは、ナラバ王国の王女がこの学園に留学していたとしても、王女とは名ばかりで、王位継承権が低い、王位を継ぐとは思えない人物であることは予想ができていた。それほど、縁遠い国なのだ。
「お願いしてもいいかしら」と、カメリアの理性に反して、心の怒りの声がそう答えさせた。
「畏まりました!」
取り巻きたちに気合が入っているのは、自分が学園で仕えていたカメリア・マロンへの忠誠心である。順調にいけば、カメリア・マロンは皇帝に嫁ぎ、学友で側近として仕えていた自分達は、将来、帝国に置いて重用されることが確定しているのだ。カメリア・マロンの栄達が、一族の栄華なのである。
カメリアが皇女となる不安要素を取り除こうと、鼻息荒く飛び出していく取り巻きたち。
そして、そのカメリアの声に怯えた教室にいた他の学友も教室からそさくさと立ち去っていく。
教室の一番後ろの席に、ポツンとカメリアが取り残されてしまった。
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・
教室で一人、思い巡らしていたカメリア。
ぐるぐると思考が巡り、一周回ってお腹が空いてきたが、侯爵令嬢が一人でランチなど惨めすぎる。もうすでに噂が学園中に廻っているだろう。
それに、シトラスとイベリス・ネメシアなる女がランチしているところに出くわすのは嫌だった。
シトラスが、舞踏会で他の令嬢と踊っていても、それは友誼を結んでいるだけのこと。社交上の出来事。
カメリアは両手で握りしめている扇子に力を込めた。
そして、黒い炎で自分の心を燃やしていた。
その時、教室の扉が開いた。入ってきたのは、担任のブルー・タリスマン先生であった。
「ここにいたのか、カメリア・マロン」
海のような青いショートの髪を靡かせながらタリスマンはカメリアが座っている席へと歩む。
「私をお探しでしょうか」と、カメリアは席を立つ。
「あぁ。お前だけまだ、進路希望票を出していなかったぞ? 提出は昨日までだったが」
「進路希望表でありますか?」
「先週のホームルームの話を聞いていなかったのか?」
たしかに、進路についての話をタリスマン先生がしていたことを思い出す。だが、自分は学園を卒業したら皇室に入ることが内定しており、12ヶ月の美容期間を経て、婚姻となる。自分には関係がないことかと思っていた。
「申し訳ありません」
カメリアは腰から深く曲げて謝意を表す。耳にかけていた黄金の髪がすっと垂れる。
「まぁ、お前に限っては形式だがな。だが、形式は形式、されど形式。形式を怠ると、足元を掬われるぞ?」
「ご忠告痛み入ります。希望票は自宅にありますので、明日のご提出でよろしいでしょうか?」
「朝イチで頼むぞ」
「畏まりました。センセイ」
ブルー・タリスマンが教室から出ていくのを見送り、カメリアは椅子に再び腰掛けた。
「自分の進路……」
学園を卒業した者は、大きく四種類の道を歩むことにある。法務・軍務・内務・外務である。カメリアは、父であるシナモン・マロンが法務大臣を務めているので、法務に進むことはあまり奨励されない。血縁の近いものが帝国の法を牛耳ることを避けるための規制があるためだ。
「進むとしたら、外務かしら」とカメリアは一人でつぶやく。
皇帝の妻として、当然ながら外交使節団との対応は必須になる。周辺列強の言語は全て学び終えている。流暢に他国の言葉が操れるし、他国の作法も熟知しているカメリアにとっては、「外務」という仕事は天職に近いかもしれない。もともと、皇帝の妻というものは、外務よりであるが故に。
「思い切って、軍務かしら。魔術戦闘の成績に関しては、殿方たちの後塵を拝したけれど、回復魔術に関しては、ずっと一位の成績であったもの。でも……本当にそうなったら、お父様とお母様に大反対されるわね。マロン家からは、「軍務」を輩出した実績なんてないものね?」
カメリアは、しばしの間、頭を左右に揺らしながら考え込む。
自分の家は、代々、治療を専業としていたような? 法務・軍務・内務・外務の分類でなら、軍務の、それも回復魔術師団だ近いと思うのだけれど……。でも、と、カメリアは頭に叩き込んでいるマロン侯爵家の家系図を思い出す。帝国建国以来から続くマロン侯爵家のご先祖様たちは、法務省、内務省、外務省で有力な地位を占めてきた。
なんだか記憶に齟齬があるような、無いような……。
再び、カメリアは、頭を左右に揺らしながら考え込むのであった。