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コーヒーカップを手に、立花龍は自分の席へと戻った。今日のコーヒーはアタリだった。
ワンコインで、本日の店長お勧めコーヒーがお代わり自由というシステムが気に入り、龍は大学のころからこの喫茶店を愛用している。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ、コロンビア、マンデリンなど多種多様な豆を店主が焙煎して独自にブレンドしているのだ。
もっとも、店主が常に新しいブレンドに挑戦しているので、日替わりで味が違っている。一期一会の一杯。
今日のコーヒーは苦味が強く、龍の好みのコーヒーだった。豆の焙煎度合いは中深煎りで、苦味と酸味が心地よかった。
熱々のコーヒーを一口だけ飲み、スマホに目を戻した。画面には、龍が3年前から遊んでいる戦略ゲームが映っている。
グローリーという戦国シュミレーションゲームの老舗が満を持して発表した中世ヨーロッパ風の戦略シュミレーションゲームである。
『開墾完了まで 22:18:35:21』
『炎師団編成まで 45:11:36:02』
龍は運営から無料配布された時間短縮アイテムを2個使用する。ゲーム内での開墾作業を20日間短縮するためだ。
『開墾完了まで 2:18:35:15』
ゲーム内の時間は、リアルの時間と連動している。そして、高レベルになればなるほど、待つ時間が増えていく。最高レベルの築城など、半年をゆうに超えて待たなければ完成しない、という無課金勢には優しくないシステムである。
特に、軍隊編成の待機時間は長く設定されている。ゲーム内で赤ん坊が生まれ、成長し、成人し、兵科を卒業して軍へと入隊するまで兵士は増やせない、というゲーム設定だ。そして、当然、兵士を増やすには人口を増やす必要もあり、内政も重要になってくる。他国を侵略するのに無課金で、リアル時間2ヶ月は最低必要になる。
要は、根気が必要なゲームなのだ。
喫茶店のドアに取り付けられている鈴が鳴った。
小栗椿は迷わず立花龍が座っているテーブルに向かう。二人が待ち合わせで使うテーブルは決まっているからだ。
「龍、お待たせ」
「今、3杯目くらい」
椿は、龍がまだ3杯しか飲んでいないなら30分も待っていないと判断した。龍は、お酒に弱い代わりに、コーヒーばかりを飲んでいる。
「今日のどう?」
「椿には苦いかも」
椿は、浅煎りのものを好む。コーヒーに香りを求めるタイプだ。
「え? じゃあ、単品にしておこうかな。レモンみたいな香りのなんだっけ? たしか、京都っぽい名前の」
「京都っぽいって……なんだよ」と、龍は笑ったあと、椿が頼みたいコーヒー豆にあたりをつける。
「もしかして、パナマ産のゲイシャのこと?」
「それ!! すみません、ゲイシャのお願いします」
椿は、カウンターに座って新聞を読んでいる店主にオーダーを出した。
「焙煎から始めるから時間がかかるよ」
「大丈夫です」と椿は答えた。ウエディングドレスの試着の予約は、午後四時の予約となっている。まだ、一時間以上余裕があった。
「結構、希少な豆だけど、よく入荷していたね」
「そうだったんだ」
椿は、コーヒーのメニューを見た。ゲイシャは、一杯950円と、この店でもっとも高い値段設定だった。椿は少し小腹が空いていた。ワンコインコーヒーとトーストを頼んだ方がリーズナブルだったなと、椿は少し後悔をした。
「でも、飲めるときに飲んでいた方がいいね。たぶん、品切れなことが多いコーヒー豆だと思う」
店主は新聞をカウンターに置き、フライパンで焙煎を始めた。プライパンで揺らされ、豆と豆がぶつかり合う音が店内に響き始めた。
「それならラッキーだったね」
「あぁ」
焙煎のパチパチという音を聞きながら、龍と椿は、それぞれ自分のスマホを操作し始めた。
大学2年生の頃から付き合い始め、7年となる。二人の間で会話が弾むことはあまりない。デートで映画を見に行っても、互いに面白かったね、で終わってしまう。感想を言い合うようなことはない。ドライブに行っても、龍が黙って運転し、椿は流れる風景を車窓から眺めているだけだ。会話が弾むことはないが、二人で過ごす時間は、暖かい。
この先もずっと続けばいいと願う暖かさ。幸せ、ということなのだ。
だから龍は椿に結婚を申し込んだ。
椿も、その申し出に嬉し涙を流して受けた。
喫茶店に差し込む夕日。
龍は、ユニゲア戦記で遊ぶ。中世風の世界のどこかの国を選択し、その国の指導者となって世界統一を目指すゲームだ。
椿は、江戸時代から続く実家の薬局で、パートとして働いている女性から教えてもらったスマホの恋愛ゲームで遊んで時間を過ごす。舞台は魔法を習う学園だ。学校生活を通して、主人公がさまざまなバックグラウンドを持つ男性と出会い、やがてそのうちの一人と恋をし、結ばれるゲームである。
「あっ、レベルアップ? あれ? ん、ん?」
椿はスマホを見つめながら頭を左右に振り始める。椿が悩んでいるときの癖だ。新婚旅行に、モルディブにするかイタリアにするかを決めあぐねていたときは、二時間、龍のマンションで頭を左右に振り続けていた。
「ん? どうした?」
椿の癖を熟知している龍は、声をかけた。
「遊んでいるゲームで焼き菓子スキルの習熟度を上げることができるのだけど、どの種類のを上げたらいのかな?」
「いや、焼き菓子スキルなら、焼き菓子の習熟度なんじゃないの?」
「でも、項目に、クッキー、マドレーヌ、クラフティ、マカロン、ビスコッティ、スコーン、
パウンドケーキのどれにしますか? って、選択肢が出ているの」
「クラフティって始めて聞いたけど、つまり全部焼き菓子なのだろう?」
「うん。そう……だと思う。だけど、項目が細かく別れているみたいなの。たしかに、焼き菓子と言っても、作り方は別物だけどさ」
「随分と細かい設定だな。どんなゲーム?」
「恋愛ゲーム。学校に通って、好みのイケメンをゲットする、みたいな?」
「もうすぐ結婚する椿が、恋愛ゲームってなんだかって、新郎の俺は思うんだけど」
龍はさすがに嫉妬したのか、不機嫌そうに言った。
「現実では龍、一択だよ!」
そう言ったあと、椿は左手の人差し指で自分の頬を描き始めた。椿が照れたときにする仕草だ。
椿の仕草に溜飲を収めた龍は、上機嫌に攻略の王道を教えることにした。
「まぁ、ゲームはゲームだしいいけど……。それにしても設定が細かいな。一般論で言うと、攻略したい相手の好みのお菓子をあげればいいんじゃない?」
「じゃあ、クッキーかな。龍は、ジンジャー・クッキー好きだし」
「いやいや、俺じゃなくて、攻略対象の好みに合わせないと意味ないからな? たぶん、どの焼き菓子の種類をプレゼントするのかという選択と、その習熟度で好感度の上昇が変わってくるぞ」
「そういうものなんだ。まぁ、人参を入れた味噌汁を作ると、龍も微妙そうな顔をするしね」
「だから、俺の話じゃなくて、攻略対象の話ね?」
「マカロンにしようかな。買うと意外と高いし。でも美味しいし。それに自分で作るには難しいし」
「相変わらず現実を持ち込もうとする……」
「はい、決定!」
「ゲイシャ、お待たせしました」
喫茶の店主がテーブルまでやってきたテーブルにコーヒーカップを置いた。そしてまたカウンターで新聞を読み始めた。
カップを手に取り、椿はコーヒーの香りを堪能する。
「やっぱり、コーヒーの香りなのにレモンの香りがする。これって、レモン汁を垂らした、というわけではないのよね?」
「店主の焙煎の腕だよ。コーヒーの生豆には300種類の香味成分があるとされているし、焙煎した豆には850種類の香味成分があるって言われている。ゲイシャは苦味が少な分、香りが豊かで、特にレモンのような香味が有名な豆だからね。もっとも、煎りすぎると全部台無しになるけど」
椿は、香りを堪能したあと、慎重に唇をカップにつけた。今日は、ドレスの試着をする。ドレスの試着前に化粧をし直すが、自分でも唇に紅を引いてきていた。
「飲みやすい」
「まぁ、苦味は少ないとされている品種だしね」
「そういう品種なんだね。そして、そういうところに気が付くところが、お婆ちゃんとお父さんとお母さんに気に入られたのかな?」
「いや、お義父さんお義母さんにも言ったけど、椿が薬局を継ぐことは賛成だけど、俺の婿養子に迎えるのは、今後も嫌だから。俺は俺で、今の仕事を続けたい」
椿の家は、薬局であり、薬を処方する。もっぱら顧客は近くのクリニックからのお客さんが持ち込む処方箋に従う。西洋医学に従って処方をする、と言い換えても良い。椿自身も、薬学部出身であり、薬剤師だ。だが、椿の家の家業とは、医学は医学でも、東洋医学に属する。漢方を処方するのが小栗家の江戸時代から続く家業というわけである。
そして、立花龍は味覚や嗅覚に優れ、桂枝加芍薬湯と桂枝加芍薬大黄湯の違い、つまり大黄という生薬が含まれているかいないかを正確に見分けることができるのだ。椿の親類たちから龍は、漢方薬師としての素質があると思われているのだ。そして、娘しかいない小栗家としては素質がある龍を婿として迎え、当主が代々受け継ぐ『礒兵衛』となって欲しいというラブコールが熱く送られていた。
「私は嫌味とか未練とかで言っているんじゃない。龍のその気持ちはわかっているし、大事にしたい。そもそも、私が継ぎたいと思っているから、私だって薬学部を卒業したし、家業のことだって勉強してるし。まぁ、リストラされたら、私が養ってあげるから!」
椿は、龍が焙煎マシーンを買って、自分でブレンドしたコーヒーを飲みたいという夢を持っていることも知っていた。龍の、味覚と嗅覚と、そして興味はコーヒーという分野に向いていることを尊重したい椿である。
「それはそれでプライドが傷つくな。でも、結婚式に新婚旅行、そして新居の頭金で、お互いの貯金は減って、そして結婚後に続く30年の住宅ローンの返済、そして、いつか授かる子供の養育費と、さまざまなものをお互いに背負う必要がある」
「それが家庭を築くってことでもある、とおばあちゃんが言っていた」と椿が付け加えるように言う。
そしてお互いのコーヒーを堪能しながら、静かな時間が過ぎる。龍は、四杯目のコーヒーのお代わりをする。
「あっ。ティータイムに贈り続けていたら、焼き菓子のポイント溜まった。またマカロン上げればいいかな。あれ、龍!!! 舞踏会に誘われたんだけど、ダンススキルも選ばなくちゃって! 選択肢がたくさんありすぎるのだけど、どのダンスがいいの?」
「いや、俺もダンスとか詳しくないけど?」
「私も! とりあえず、読み上げるね?」
「いや……俺もわからんぞ?」
椿は、スマホの画面を見ながら選択できるダンスの種類を読み上げ始めた。
「ソウルダンス、ロックダンス、ポップ、ブレイクダンス、ワック、ヴォーグ、ヒップホップ、ニュージャックスイング、ハウスダンス、クランプ、ビバップ、レゲエダンス、バレエ
ジャズ、タップダンス、フラメンコ、フラダンス、社交ダンス、ベリーダンス、サルサダンス、コンテンポラリー、チアダンス」
リストを読み上げた椿。それを聞いた龍は困惑して言った。
「いやいや、半分くらい聞いたことのないダンスだったぞ?」
「うん、私も。どうしたらいいんだろうね?」
「とりあえず、舞踏会に誘われたのだろう?」
「うん」と椿が頷く。
「だったら、ソロで踊るのは地雷じゃないか?」
「地雷? 地雷を自分で踏んで自爆するってこと?」
「あぁ」
「確かに舞踏会に誘われて、ソロダンスはないわよね。誘われた相手と踊るのであれば、社交ダンス?」
「あぁ、それが妥当だと思う」
龍は、椿が他の誰かとダンスを踊る、ということを想像して機嫌が急降下した。だが、所詮はゲームでの話だと思い直す。
「あっ。社交ダンスを選んだら、また選択肢が出てきた」
「は?」
「ワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ、ヴェニーズワルツ
ブルース、チャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレ、ジャイブ、ジルバ、だって?」
「疑問系で聞くなよ。そもそも、舞踏会でどんな音楽が流れるかによってこの選択肢って限定されない? 時代設定は? おそらく、日本舞踊とかが入っていないあたり、設定は日本ではないよう?」
「金髪の人がメインだから、ヨーロッパ? あっ。でも、馬車とかお城とかあって、自動車とか走ってないから科学技術は発達していない時代? って、そんな細かい分析がいるの? お気楽に恋愛するゲームって聞いていたけど?」
「お気楽なら、こんなに選択肢でないだろうよ。それにしても、あまり流行らなそうなゲームだな。俺ならこんな選択肢が出てきた時点でそのゲームを辞めるレベルだ」
「お勧めしてくれた人も、人気は昔ほど無いって言っていたからね。ちょっと待って……えっと、制作運営は、グローリーって会社だって」
「なるほど。俺が今やっているゲームと同じ会社だな。シナリオとか戦略系の設定は細かいけど、ユーザー泣かせなゲームメーカー。ネットで攻略サイトを見ながら進めた方が得策かな」
「えい! 直感で、社交ダンスのワルツを選んだ」
「直感という割に、妥当で無難な選択……」
「始めたばかりだし、リセットしてやり直せばいいし」
「だな。って、もうそろそろ行くか?」
龍のスマホでは、時刻は十五時45分を指していた。
「そうだね」と、椿はカップを傾け、全て飲み干した。
会計を済ませて二人は道路へと出る。結婚式を挙げるチャペルは交差点を渡ってすぐの場所だ。
信号が青となった。二人は手を繋ぎながら横断歩道を渡る。
「私に似合うドレスがあるといいな」
「全部似合うと思うけどな」と龍は本心からそう言った。
だが、椿は不機嫌そうに横断歩道の真ん中で立ち止まった。
「嬉しいけど、見てから言って欲しいかな。それに、そう言われると選べなくなるし、全部似合うって、言い方変えると、どれでも良いって言われている気がする」
「そういう意味で言ったんじゃないけどな」
「知っている。だけど、このドレスが一番素敵、って言って欲しいよ。一番綺麗な私で、龍が一番好きな私で、龍のお嫁さんになりたいの」
「それは俺も同じだけど……道路の真ん中で言われても恥ずかしいかも」
「あっ。え。うん、そうだよね?」
椿は左手の人差し指で自分の頬を描き始めた。椿が照れたときにする仕草である。
「とりあえず、道路を渡ろう? 信号も点滅し始めた」
「うん」
そして、二人が横断歩道を渡り終える前に信号が変わった。信号が青であるがゆえに、減速しないままでトラックが左折してきた。
いち早くその危険に気付いたのは立花龍であった。小栗椿の体をトラックの移動線から押しのけようとした。
そして、立花龍の体はトラックに衝突した。
立花龍は、即死の後、遊んでいたスマホゲーム、ユニゲア戦記の世界に、前世の記憶の主要な部分を無くし、憑依転生をしたのだった。
もちろん、小栗椿はそのようなことを知る由もない。