一.世界は――――それなりに平和
「ふん、大天使ミカエルがいるから大きく動けなかったけどね。いなくなったのならこっちのもんよ。いいタイミング。僥倖だわ」
尊大な態度を崩さないまま、不敵な笑みを浮かべ続ける紫の髪の悪魔少女。
どうやら、圧倒的な力の差があると思っているらしい。実際、そうなのだろうし。
「…………うう」
と、俺の隣にユリが歩み出た。その腕はがっちりと俺の腕を抱き、身体はぶるぶると震え、
「おい、そこの悪魔」
「何よ、下級天使」
って、アレ? 腕が痛いんですけど? 怯えてたんじゃないの?
「なにがわたしのモノだっ! お兄ちゃんに近づいたら殺ス!」
ゴッ、と炎のような闘気が辺りに向けて放たれた。ガラスやカーテンがびりびりと音を立てて揺れる。
「は、はーい、落ち着いて落ち着いてー。翼が出てるぞー」
あわてて、瞳孔のカッ開いた目で悪魔を見るユリの頭をなでる。
まずい。このままじゃ天界より先にこっちが正面から戦争を開始しかねない。
ユリを背中に隠して、悪魔の少女に苦笑いで対応する。
「えー、まず。なんとお呼びすれば?」
「メイオ・ウラヌス・メフィストフェレス。ご主人様と呼びなさい」
「ごしゅじ…………えーと、メフィストフェレスさん。人違いです。俺は、貴女がお探しのアマツガジュンさんじゃありません。だからご主人様とは呼べませんし、呼んでいいとも思えないのですが」
「嘘を吐くとはいい度胸ね。おまえの顔写真はすでに入手済みなんだから。ほら」
突きつけられた顔写真は、まごうことなく高校の制服を着た俺のもの。でも。
「これ、僕じゃありません。他人の空似じゃないですか?」
「本当にいい度胸ね。そんなすぐバレる嘘、悪魔相手に通じると思ってるの?」
「だってこれ、隣町の学校の制服ですよ?」
「…………、え、嘘!?」
メイオは突き出した写真を自分の方に向けて、穴が空くほど写真を見ていた。
「本当です。ここからだとバスで二〇分くらいですかね」
「そんな。私、間違えた?」
「おそらく」
「そ、そんなっ、まちが、え」
顔面蒼白になった少女はフラフラと後退し、自分が開けた穴から出ていく。
と思ったら戻ってきて、破れたカーテンを持ってぶつぶつと呟く。すると、何事もなかったかのようにリビングが片づいてしまった。
改めて少女は出ていき――――バサバサと何かが羽ばたく音がして、辺りは静かになった。
帰ってくる様子はないな。
ふう。凌いだ。
「相変わらずの手腕だねっ! お見事だよお兄ちゃん!」
反射的に無表情でユリを見てしまう。感情が混ざりすぎて、何か具体的なものを示すことができない。
「それよりも、次に来たときの打つ手を考えないと。あんな嘘はすぐバレるだろうし」
「全力の実力でボコるっ! お兄ちゃんのご主人様とかありえない! 許すまじ! 悪魔に負けるな! おー!」
「はーい、落ち着け落ち着けー。天使の輪まで出てるぞー」
「ヤダ!」
ぽんぽんと肩を叩いた手を思い切りはね除けられた。
涙目で睨まれる。こっちも実は、はね除けられた手が痛くて涙目になりそうなんだけど。
ていうかこれ折れてたりしない? 大丈夫?
「イヤだもん! このままじゃお兄ちゃん、また大怪我するハメになっちゃうよ! いくら天界の力で即死以外は治せても、わたしたちの心の傷までは治せないんだからね!?」
「ということはだ。今までに即死はしなかったってことだろ?」
「当たり前だよ! 死んでないんだもん!」
「じゃあこれからも死なないだろ?」
「そんなことないよっ!」
ブンブンとユリは首を振った。
「天使だって死ぬんだよ? 大天使は代替わりだもん。お母さんだって、おばあちゃんが死んだからミカエルなんだもん。お、お母さんだって、いつか死んじゃって、お兄ちゃんも死んじゃって…………うっ、うぅ」
その先は言われなくてもわかった。
きっと、できうる限り最悪の想像だろう。かつての俺が見たような。
二度と見たくない、ああいうのは。誰だってそうだろう。
「大丈夫だ。母さんが死ぬはずない」
「でも。でもっ!」
「死なないよ。母さんも、俺も」
抱きしめて、背中を撫でる。落ち着くまでずっと。
たとえユリより弱くても、それくらいならできる。
「ユリ。最悪の『もしかしたら』は想像しなくていい。それだけは絶対にないから」
「約束だよ。絶対、無茶なことはしないって」
「俺の言葉に説得力があるなら、絶対しない」
「うん。わかった。信じる」
「ありがとう」
三年前。俺はとんでもない無茶をしたし、口先三寸で相手を騙しまくった。それでも信じてもらえるのだから、ユリには嘘はつけない。
つきたくは、ない。ユリの心に消えない傷つけるような、最低な嘘だけは。
「そ、それじゃあわたし、お風呂入ってくるね! それと、いつあの悪魔がまた来るかわからないから今日から一緒に寝るからねっ!」
「はいはい」
いつものように頭を撫でると、ユリは真っ赤になって出ていった。俺の前で泣いたのが恥ずかしかったのかな。
さて。情報を整理――――する前にちょっと気になることがあった。
「…………大天使は代替わり、ね」
今更だが、そういうシステムなのか。
有史以来――――いや、宗教の教義に則って有史以前から天使がいるとしても、天使長が一〇〇〇年しか生きていないというのはありえないと思っていた。
でも、代替わりなら納得がいく。それなら辻褄が合う。死なないはずの天使と死なないはずの悪魔が戦争状態になる理由も。
天使と悪魔は死ぬのか。人間と同じように。
「さて、聞いてましたよね天使長?」
テレビに向けて言葉を放つと、暗かった画面が一瞬で少女の顔に変わった。そのままバタバタと右往左往を始める。文字通りに。また。
『ま、まさか盾くんの所に悪魔が来るなんてー! どうしようどうしよう! 一大事一大事ー! どうしようどうしよう!』
「あのー、ガブリエルさん?」
『うわー、わー、ドミニオンズから人員を割く余裕はないから、どこか他の隊から人を回して、ってどこからなら回せるんだろー!』
「……………………ラジエルさん。聞いていましたらば、例のブツをお願いします」
『了解しました』
トントンと画面の向こうの天使長の肩が叩かれる。振り向いた顔の下の方に、ズボォ! と何かが突っ込まれた。
『ふむにゅぐるにゅにゅ、にゃっ!』
突き出た棒を握って、スポンとそれを口から抜く天使長。現れたのは巨大なアメだ。
『こ、こんなんでてんしちょうのわたしがろーらくされるとでも…………………………………………、あまーい♪』
『……………………か、かわいぃ』
ふにゃー、ととろける天使長の映像に何か声が被ったような気がするけど気にしないことにする。「何歳だよあんた」とも言わない。「大丈夫ですかあなた」とも言わない。
第一、ほんわかしている場合ではない。
「ところで天使長。天使と悪魔がぶつかっても大丈夫なんですか?」
『えー? なんでー?』
「いや、物質と反物質ってぶつかったら対消滅するらしいですから。ひょっとしたら、核よりひどいことが起こったりしないのかなって。ビッグバンもそれが原因だって説が有力らしいですし、性質が真逆の天使と悪魔でも同じようなことが起こりえないのかなって」
『いやいやいやー、たぶんそんなことはないよー。ほら、人間界にいる時点で構成物質は半分以上そっちのものだから。魂を媒介にして扉を開いて、ちょこっと力を使うくらいしか無理だよ。わたしでも天気を操るくらいが限界かな』
「…………じゃあ、天界や魔界では?」
『恐らくそれもないはずです。天界と魔界ができた時点では結界はないはずですから、盾さんの仰るとおりならその時に対消滅が起こっているはずですし』
『だってー』
たぶんラジエルさんがした説明なんだろうけど、ダラけたガブリエルさんの顔で台無しだよ。
「おおよその概要はわかりました」
とにかく、お互いにキライなだけで一緒にいるだけなら実害はないってことだな。それも、一触即発で見敵必殺な状況にはならないようだ。さっきの天使と悪魔の邂逅を見る限り。
……………………、たぶん。きっと。
「じゃあ、あとは一つだけ。悪魔が来たことは母さんには言わないでください」
『え? なんで?』
「心配しなくてもこっちでなんとかしますから。母さんはそっちに集中させてあげてください」
『う。そりゃ、ミカエルだって心ここにあらずじゃ危ないと思うけどさ。でも、家族なんだよ? 他人じゃないんだよ?』
「家族だからこそですよ。こっちだって、少しは母さんの助けになりたい」
俺はもう、誰かが死ぬのは見たくない。同じ思いを家族にさせたくもなかった。だから、ユリの言う無茶もしてみせた。天界を相手に大立ち回りをして見せたんだ。
それは今回も変わらない。俺のやることは家族の絆を守ることだけ。
「大丈夫です。こっちに来た悪魔の彼女は」
笑みを浮かべようとして――――ふとさっきのメイオの様子を思い出してしまい、
「……………………まあ、なんとかなりますから」
画面の向こうのガブリエルさんを見る目はきっと、遠い目になっているだろう。
種族は違うけどたぶん似たようなもんだよな、二人とも。なんとかなるなんとかなる。よゆーよゆー。
『え? なにその目? なんかものすごく心がざわつくんだけど? 恋みたいな感情じゃなくてこう、純粋な怒りが沸くような?』
「とにかく、彼女のことは俺がなんとかしますから。どうせもう一度来るでしょうし」
『ねえ? だからなんで目を逸らすの? 天都賀盾くん?』
「おやすみなさい。こっちじゃもう、日付が変わる頃なんで」
『嘘だ! さっき夕食食べたばっかりでしょ!?』
「キサマっ、見ているな! とか返しておくだけ返しておいて。がんばってくださいね、ラジエルさん。あとガブリエルさん」
『はい』
『なんでわたしが追加で括られてるの!? ねえ!?』
「では、オーバー」
『ちょ、盾く――――』
テレビを消音にして、その辺にあったタオルをかぶせる。
うん。電波の押し売りはよくないよね。
「あれ?」
「ん?」
声に振り向くと、風呂上がりのユリがいた。
「お兄ちゃん、ガブリエル様と何話してたの?」
「母さんには知らせないでくれって頼んだだけだよ。こっちまで気にかけてる余裕はないだろうからさ」
「そうだね。お母さんに心配かけちゃダメだもん。大丈夫だよ! 何度も言うけど、お兄ちゃんはわたしが守るからっ!」
「はいはい。ありがとうな、ユリ」
さーて。風呂入って寝て、明日に備えるか。
○大 Ψ
再会の機会は思ったより早く訪れた。まあ、こっちが授業すっぽかして屋上で待ってたんだけど。
メイオ・ウラヌス・メフィストフェレスは、空の彼方からまるで弾丸のように突っ込んできて目の前で止まった。ばさばさと翼を羽ばたかせて滞空している。
こうしてみるとやっぱり悪魔っぽいかな。
「おまえッ! やっぱりアマツガジュンじゃないの!」
「おや。意外とバレるのは早かったな。いや遅いのか」
「うるさいっ! 隣町の学校とか適当なこと言って! やっぱり嘘だったんじゃない!」
「実際、ここはウチからすれば隣町だけど」
「そういう問題じゃない!」
「いでえっ!」
ごん、と頭突きをかまされた。お互い、額を押さえてうずくまる。いってえ。
「騙したのは悪かったよ。でも、窓から突っ込んできたり、人をモノ扱いしようとしたり、いきなり頭突きしたり――――悪魔には礼儀ってものがないのか?」
「何言ってるの、私は上級魔族の令嬢よ。礼儀くらい――――――――っておまえが言うなっ!」
「ぐあっ!」
再びの頭突き。これまた再び二人で額を押さえてうずくまる。
あ、頭の使い方が違うだろメフィストフェレス! 悪魔っていうのは、悪魔の知恵でもって人間を騙すんだろ!?
「…………悪魔の脳細胞って、再生するのか?」
「人がバカみたいに言わないでよっ!」
「言ってねーよ。人間の脳細胞は再生しないんだ。丁寧に扱ってくれ」
「じゃあ丁寧に頭突きしてやるわ」
「…………頭突き以外の選択肢はないのかよ」
「じゃあビンタとかでいい?」
……………………それでいいのか悪魔。堂々と言い切ることじゃないぞ。
「勘弁してくれよ」
「自業自得でしょ」
痛む頭を押さえてベンチに座り込む。
同じように、メイオも隣に腰を下ろした。
会話がないので、こっちから話を投げてみる。
「で? 魔界が天界に宣戦布告したとか聞いたけど」
「ふん。人間界となあなあになった天界なんて敵じゃないわよ。一週間あればあんな結界ぶち抜けるわよ」
「強気だな。まあ、『なった』んじゃなくて、『した』んだけどな」
そうか。魔界の見積もりでは一週間で進軍完了なのか。そこからはたぶん泥沼化するだろうから、そうなる前に止めないといけないな。
――――とか考えていると、メイオがじっとこっちを見ていた。
「そう。『なった』んじゃなくて、『した』。しかもおまえがそうしたって聞いてるわよ。信じられない」
「疑問の通り、そんな大それた話は嘘だよ。俺はただの高校生だ。どこからどう見てもそうだろ?」
「ふん。おまえの言うことはもう信じないわ。悪魔の私でさえ手玉に取ろうとするくらいだもの。おまえがただの高校生のわけないでしょ」
「ふーん。『わたしはうそつき村の住人です』、と」
「なめるなっ!」
「ぺろり、と」
「ひひゃっ! ちょっと、本当になめないでよっ!」
手を取って舐めたらまた頭突きをされた。けれど、今度は側頭部へだったのでさっきほどダメージはない。
「このバカ! 変態! 何するのよ! バカ! 変態! クズ! 最悪!」
と思ったら、殴り飛ばされて思い切り踏みつけられた。
変態の称号に加えてバカとクズも追加ですか。不名誉な肩書きが増えるな、昨日から。
「悪かった。謝る。だからいいことを教えてやるよ」
「ふん。なんだか上から目線なのが気になるけど、なによ」
上から目線? 明らかに見上げてるぞ俺は。
でも、解放されるには情報を与えるしかない。だからくれてやろう。とっておきの情報の一つを。
「冥王星はPlutoだ」
「は?」
「だから、冥王星はプルートだって言ったの。Uranusは天王星」
「は?」
「冥王星は、ウラヌスじゃない」
「それがどうしたのよ?」
「メイオ・ウラヌスは名前としておかしいよ?」
「ねえ、殴っていい? 空から吊り上げてサンドバッグにしてもいい?」
「痛い、痛い、やめて」
してる。もうしてる。カカシのまま雑巾になる。ズタボロの再起不能になる。
「…………ホントおまえ、余裕ね」
殴られた辺りをさすっていると、メイオが呆れたように言った。
「余裕な訳あるか。まだサンドバッグの危機は続いてるんだぞ」
実際、まだ宙に吊り上げられてるし。こう、計量されるカジキマグロの気分。天地逆転してない辺りがまだマシなだけ。
「…………どう見ても余裕じゃない。なに? あの下級天使に期待してるの?」
「下級天使ってユリのことか? あのな、好きこのんで妹に身を守って貰う兄貴がこの世にいるかよ」
「い、妹?」
メイオは、俺の言葉に驚いた表情を浮かべて、
「あはははは、おまえ、面白いわね。天使を妹って。なにそれ、人界流の冗談?」
腹を抱えて大爆笑した。
なんだ? どの辺がウケたんだ?
「自分を監視してる天使を妹って、おまえ、本気で、それ。あはははは、お腹痛い!」
「監視? なんのことだ?」
「おまえが人界で最強だから、天界で最強のミカエルが牽制のために一緒にいたんでしょ? それに学校での監視役があの下級天使。まあ、おまえの方が強かったから天界は負けたんだろうけど」
あ、なーるほど。そういうことね。
要は、俺が力でもって天界を倒したと。俺が母さんと喧嘩して勝てると。
「全然違う。ありえると思ってるのか、そんなこと?」
「え?」
「魔界ってそういう認識なのか? だったら完全にお門違いだ。そういう目的なら他を当たった方がいいぞ。あ、いやヤメて。人界で戦争起こされたら困るから」
「え? え?」
どうも、お互いに認識と事実の相違があるらしい。それも一八〇度違う方向に。
「あー、わかった。魔界は俺の力をアテにしてるんだな。なんていうか、天使と真っ向から渡り合うような力を」
「そうよ。おまえが天界と人界の戦争を止めたっていうのは、調べがついてる。つまり、それだけの力を持ってるってことでしょ?」
「わかったよ。『悪魔が期待する俺の力』を見せてやる」
「へえ、見せてもらおうじゃない」
なんとか体の自由を取り戻したので、拳を握る。
「ッ! 悪いけど、まだやられるわけにはいかないのよ!」
って、え?
メイオさんメイオさん、なんでファイティングポーズを取っておられるの?
俺、そこのベンチを殴って非力をアピールしようと思っただけなのに。
「防御じゃ不利、なら――――」
「ちょ、ま!」
ライトニングストレート。
ええ、そうですね。ライトニングストレートです。
パンチ自体は人間のそれと変わらないかもしれません。ほら、いくら悪魔だと言っても彼女は女の子ですから。それでも悪魔なので、よくてアマチュアボクサーのパンチ一発分くらいだと思います。
ただね、ライトニングなんですよ、文字通り。
拳が電光をまとってるんですよ。
「……………………へ?」
「――――――――!!!」
殴られた瞬間、声を出すことができなかった。
痛いのか感電してるのか無重力なのかその全部なのかどっちなのか思考してるのかしてないのか生きてるのか死んでるのかさっぱりわからないまま、
「――――――――」
言葉を発せずに地面に叩き付けられた。
といっても、痛覚が死んでたから視覚で判断したんだけど。
「ちょ、ちょっと!?」
視界が左右に動く。たぶん揺すられている。
強請られるならまだ対処のしようもあったけど、実力行使は無理です。対処不可能。タスケテ。
「お、起きなさいってば! ねえ!」
「お、あ、う」
腕と足に力が込められない。それどころか舌が回らない。
なるほど。スタンガンとかテイザーってかなり優秀な武器なんだな。誰か過去の俺に渡しといてほんとに。
「も、もう! しっかりしなさいよ!」
視界が動いて、ベンチに座らされたのがわかった。
しばらくすると身体の感覚が戻ってくる。
「いひなりひろいんひゃないか?」
「なに?」
「ひ、ど、い、ん、じゃ、ないか?」
なんとか舌は回るようになったらしい。
「何言ってるのよ。おまえがわざと当たるからじゃない」
「悪いけど、天都賀盾にそんな能力はないの。ほれ」
拳を握って、空へ掲げる。
「天都賀パンチ!」
振り下ろす、ごきゅり。
なんか鈍い音した。ベンチ、じゃなくて、殴った俺の手の方から。
「…………メチャクチャ痛い」
「知らないわよ、こっち見るな。それでどうにもならないって、手加減したんじゃないの?」
「そりゃするよ。本気でやったら、砕けるよ?」
「ふん。やっぱり力があるんじゃない。こんなベンチ一個くらい楽に――――」
「いや、砕けるのは俺の拳のほうだけど」
「そっち!?」
なぜ驚かれなければならないのだろう。
「当たり前だろ。帰宅部だぞ、俺は」
痛む手を振ると、メイオが首をかしげていた。
「…………キタクブってなに?」
「えーと。学校で授業受ける以外は特になんの課外活動もしてない人」
まさか、帰宅部について説明する日が来るとは。自分で言ってて悲しい。
それにしても、魔界には帰宅部はないのか。そもそも学校があるのかも知らないけど。
「つまり、おまえは見た目通りのただの人間ってこと?」
「イエス」
「本当に――――ただの、普通の人間なの?」
「だからそうだって」
肯定してベンチにもたれると、メイオも項垂れた。
「…………そんな。おまえがいれば天界に対してアドバンテージが取れると思ったのに」
「何事もそううまくはいかないってことだな」
特になんの感慨もなくそう言うと、メイオはさらに項垂れてしまう。
と思ったら、勢いよく顔を上げてこっちに詰め寄ってきた。
「じゃあおまえ、どうやって天使を倒したのよ!?」
「だからその『天使を倒した』ってのが間違ってるんだって」
「天使を倒さないと天界には勝てないでしょ? その方法を教えなさい。ただの人間に使えるなら、私たち悪魔には簡単なはずよ」
「うーん」
考え方が違うんだろうな。その辺り、今のままだと説明してもわかってもらえなさそうだ。
そもそも、わかったところで実行するとは思えないけど。
「なあ、メイオ」
「…………、気安く名前を呼ばないでくれる?」
「イヤだよ。メフィストフェレスって長いし。ご主人様はもっとイヤだ」
「うるさい。おまえは私の奴隷になるの。私はおまえの主人なのよ。命令は聞きなさい」
「自分の要求だけ通すのは貴族のやり方としては感心できないな、メイオたん」
「黙りなさい人間。おまえこそ調子に乗るんじゃないわ。殺すわよ。あと、もう一回その名前で呼んだら問答無用で殺るわよ」
「帰宅部はわからないのにそういうネタはわかるのかよ。でも、それを実行に移すとおまえの仕事は失敗になるわけだ」
「はあ?」
「俺を籠絡するつもりで来たんだろ? だったら俺を殺したら任務失敗じゃないか。誇りと名誉のある貴族としてそれはどうよ?」
フ、と不敵な笑みを浮かべてみたりする。
でも失敗した。瞳孔開いて睨んで来なさる。こええ。
「言うわね、人間。手足の一本でももぎ取って言うこと聞かせてもいいのよ?」
「ふ、ふーん。それは痛そうだな。でも人間って簡単に死ぬぞ。身体機能が維持できないからだけじゃなくて、驚いて心理的にショック死することだってあるんだからな」
「じゃあ、そのよく回る舌を動かなくしてあげるわ」
「そうするとご主人様って呼べなくなるぞ。それでもいいのか?」
「……………………、うきゃー!」
ガンガンガン! と連続で頭突きされる。
この石頭。痛すぎるぞ。もうちょっとで頭が割れるんじゃないかほんとに。
「おまえ、最悪よ! バカにしないで!」
「してない。だから暴力に訴えるな」
お互いに頭を抱えて目をそらす。気まずいからじゃなく、単純に痛いからだ。血とか出てないだろうな?
うん、流血はない。何がセーフかわからないけどセーフ。
「なあ。人を殴るの……というか頭突きだけど、好きなのか?」
「好きなわけないじゃない、そんな野蛮なこと」
「そうか。俺も嫌いだ。誰かを殴ると自分の手も痛いからな」
「ひ弱ね」
「ごく普通の人間だからな。でも、人を傷つけることに慣れたらどうなるんだろうな?」
「……………………」
「今はお互いこうして痛がってるけど、そんなもの気にならなくなったら? 心も動かなくなったら?」
「……知らないわよ、そんなこと」
背中合わせだったせいで、メイオがどんな表情をしていたのかわからない。
それでも、きっと意図くらいは伝わったと、
「あーっ! わーっ! にゃーっ!」
突然の叫び声に、メイオと二人でその声の主を見た。
その主は当然、我が妹天都賀ユリ。当面は悪魔の敵である、天使の一人。
「嫌な予感がしたと思ったら! お兄ちゃんはわたしが守るっ!」
「はいはい。ちょっと下がっててくれユリ」
腕に飛びついてぐいぐい引っ張るユリの頭を撫でて落ち着かせる。
「来るな悪魔っ! お兄ちゃんはわたしのなんだから、誰にも渡さないっ!」
…………落ち着かせ、られねー。
「頼むから、ユリ」
「うーうー!」
翼と頭の環と炎のようなものを出しながら吠えるユリ。でも本気でやったら俺をお空の彼方まですっ飛ばせる位なんだから、最低限の自制はしてるんだろう。
よって、これ以上爆発させるといろいろマズイ。なによりまずユリが護ろうとするお兄ちゃんの身が。
「とにかくだ。これで自分の立場がわかったか、メイオ・ウラヌス・メフィストフェレス?」
「ふん、知らないわよそんなこと。おまえが悪魔よりも悪魔的だってことはわかったけどね。あと、なんか、うん。それが妹だっていうのも、なんかわかったわ」
「それだけわかれば十分。じゃあ俺のターンだ。今度はこっちから命令させてもらうぞ、本物の悪魔のお嬢様?」
「何よ。帰れって言われても絶対聞かないわよ。それこそ任務放棄じゃないの」
メイオは冷めた目で俺を、ユリは完全に敵を見る目でメイオを睨んでいる。
まさに一触即発。というか、二触両即発とでも言うべきだろうか。この状況を改善する一手を打たなければ次には進めない。
そのただの人である俺の打った一手は、
「帰れなんて言うわけないだろ。俺たちと一緒に暮らしてもらう」
「「――――え?」」
天使と悪魔を戦慄させた。
○大 Ψ
「…………お邪魔するわ」
「うー…………」
「どうどう」
緊張した面持ちで玄関から入ってくるメイオに吠えるユリを抑える。どうも、関係性が一方的になってきているような。正確には、片方の矢印が曲がって折れかけてるんだろうけど。
で、メイオは靴を脱げずにたたらを踏んでいる。
「なんだよ。昨日は庭から突っ込んできたじゃないか。気にせず上がれよ」
「そういう問題じゃないわよ、バカ」
盛大なため息と負のオーラが玄関に放たれる。その暗色の空気の中で、
「ここ、私にとって敵地なのよ? そこでくつろげるわけないし、くつろいだらそれはそれで問題でしょう」
あまり歓迎できないことを言ってくださった。
やれやれ。
「メイオ。今のおまえじゃ、絶対天界には勝てないよ」
「あのね。だから私は上級魔族だって言ってるでしょ。そこの下級天使くらい、すぐに灰にできるわよ」
「そうだな。ユリ一人なら灰にはできるかもな」
「なによそれ。天使だって悪魔だって、不老に近くはあるけど不死の存在じゃないわ」
「お兄ちゃん! わたしそんなに弱くないよっ!」
「知ってる。だからこそ、今のままじゃ勝てない。同じ理屈で、ユリも魔界に勝てない」
「…………なによそれ」
「…………わたしも意味がわからないよ」
「だろうと思うよ」
わかっているのなら、こんな小競り合いみたいな状況にはならないはずなんだから。
「言葉の綾みたいなもんだ。ま、そのうちわかるといいな」
「「……………………むー」」
頬を膨らませる二人から目を背ける。
メイオの言では、魔界が天界に攻め入るまで一週間。その前段階の防衛戦になるまで、長く見積もっても五日といったところだろうか。それまでに、二人に俺の言っていることは理解できるだろうか。
いや、理解して貰わないと困る。
正直言えば、時間は足りない。あるに越したことはないだろうけれど、現状で状況は切迫しているのだ。それなら、時間があるだけマシだと考えた方がいい。
「メイオはとりあえず、二階の奥の俺の部屋を使ってくれ。俺は父さんの部屋を使う」
「うう、わかったわよ。諦めればいいんでしょ」
「うん。今はそれでいいや」
うつむいて背を丸めたまま階段を上るメイオと、不機嫌そうなオーラをばらまきながら階段を上るユリを見送る。
千里の道も一歩から。
…………たしか一里が四キロだから、千里は四〇〇〇キロか。最低でも一日一〇〇〇キロは進みたいところだな。
「最高に絶望的な状況だ」
一〇〇〇キロって、どのくらいだよ。桁がデカ過ぎてピンとこなさすぎるぞ。
たしか、父さんの部屋に日本地図があったな。あと、物差しを、と。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………、東京~桜島間くらいか」
いろんな意味で想像できん。しかもそれを二往復で千里。翼があって飛べればいいって問題でもないし。
とにかく、着替えるか。って、服は当然俺の部屋だな。
「さて。初手は打ったけど、これからどうすればいいかね」
「……………………とりあえず、出て行けばいいと思うわ」
え?
あれ?
俺は自分の部屋に入っただけなのに、なんで下着姿の女の子がいるんだ?
「おまえまさか、最初からそのつもりだったの?」
「な、なにが?」
部屋の中から急速に光が失われていく。女の子は、下着姿のまま翼をひろげ、て。
翼。そうか、メイオか。俺の部屋を使えって言ったもんな。
「あ、ああ、メイオ。悪い。俺は単に、着替えを取りに」
「そう、着替えを取りに来ただけなのね」
にっこり、と満面の笑顔を浮かべるメイオ・ウラヌス・メフィストフェレスさん。ただ、放たれる漆黒のオーラに変化はなく。
「大丈夫よ。すぐに、なにしに来たか忘れるから」
ゴッ、と。
神速の踏み込みでメイオが目の前に来たと思ったら――――
○大 ...Ψ
「…………うー、ぐるるるる」
「…………ふん。自業自得でしょ」
そんなやりとりで、目が覚めた。視界に入るのは、リビングの蛍光灯だ。
「い、つつ」
頭がくらくらする。なにも思い出せない。
俺は、なにをしてたんだっけ? えーと、家に帰ってきて。そこからの記憶がないのか。
「お、お兄ちゃん!?」
「あれ、ユリ。どうし――――ぐはっ!」
いきなり抱きつかれ、て、いててててててててててて! 折れる! 骨が砕ける! 関節が増える!
「…………死ぬわよ、そいつ」
「はっ!? お、お兄ちゃんごめん!」
「うん。まあ。なんとか大丈夫だ。まだ、一応」
おかげで、体中が痛いけどな。でも、なんで頭まで痛いんだ? 頭突きのされすぎか…………?
「ほんと、しぶとい」
なぜか、メイオが俺を見る目が冷たい気がする。なんでだろう。
「そ、そうだ、お兄ちゃん。ごはんどうするの? 朝は適当に済ませたし、お昼は学食だったけど」
「ん? ご飯? 俺が作るけど? もうそんな時間か?」
「「……………………」」
「なぜそこで意外そうな顔をする」
「え、だってお兄ちゃん、料理なんてできたっけ?」
「できるけど?」
「え、ええー?」
だからなんで驚く必要がある。
「無理しなくても別にいいのに。おまえが料理できるなんて、誰も期待してないわよ」
「だから、俺が料理をできないという前提で話を進めるのやめろ。母さんとユリが来るまでは自炊に近い状態だったんだぞ。できないわけ無いだろ」
「「ええー」」
そういうところは息ピッタリなのな。
「第一、うぬらにまだウチの台所は早い。敷居は跨がせぬ」
「…………なにそれ。なに言ってるのおまえ」
「俺が認めるまで包丁は握らせんぞー」
「あのね。人間じゃないんだから、そんな刃物を使って殺しにかかるわけ無いでしょ」
「そう言ってる内は絶対ダメ」
「はあ? おまえ、バカなの?」
「て、手伝いくらいはするよー」
「ダメ」
「り、理由はー?」
「料理は愛情! おまえ達にはそれが無い!」
「「ええええええええええええ!?」」
んー。やっぱり本当は仲いいんじゃないのかねキミタチ。息ピッタリですよ。
「いいから座ってろ。大人しくな」
「…………はーい」
「…………ま、ラクでいいけど」
こりゃ、実質的な和解への道は遠いかな。
ともかく、腹にモノを入れられるときに入れておかないと。今後、胃がやられて摂取不可能になる可能性もあるし。
「そうだ、メイオ。食べられないものはあるか? ニンニクとか十字架とか」
「十字架は食べ物じゃないでしょ。それに私、吸血鬼じゃないのよ?」
「んー、でも、人間はアレルギー症状とかあるからな。悪魔にそういうのはないのか?」
「無いわ。面倒ね、人間って」
「そうだな。身体的には、たしかに弱いし脆いかもしれないな」
ま、誰も好き嫌いが無いっていう状況は、にわか料理人としては楽でいいな。
「六時半。ご飯を炊いてる余裕はない、か」
たった一週間くらい、カップ麺で済ませてもいいんだろうけどな。それじゃ意味がない。
美味い料理は人を笑顔にする。気合い入れなきゃダメだ。
よし、やるぞ。
「はい、お待ちどうさま」
「「……………………」」
「申し訳ありません。用意のない状態じゃこれが限界でした。全力で謝罪します」
食卓に三つ鎮座するのは、かけうどん。具材はネギと豚肉とわかめに付け合わせで温泉卵だけ。それに対する反応は、まったくもって芳しくない。
「で、でもお兄ちゃんの作ったものだから、わたしは嬉しいよっ!」
ユリは笑顔で箸を取り、
「そうね。ま、料理のできない私がどうこう言えはしないわ」
メイオは、渋い顔をしながら箸で麺を一本つまみ上げている。
反応が微妙すぎる。
「…………いただきます」
口惜しや。明日がんばろう。
「「――――――――」」
と思ったら、二人とも固まっていた。
「どうした? やっぱり嫌いなものが入ってたか?」
「う、ううん。もっと雑な味だと思ってたから」
「う、うん。おいしいよ、お兄ちゃん。お世辞じゃなくて」
つるつると、二人は手を動かして麺をすすっていく。その手が止まることはない。
「ホントに美味いと思ってる?」
「「――――――――」」
こくこく、と頭が上下に振られる。その間も口が動いてる辺り、どうやら嘘じゃないようだ。
「そっか。ならよかった」
これなら、明日からも腕の振るい甲斐があるな。本当にもう昔取った杵柄レベルだけど、数日くらいならボロが出ることはないだろう。
「おいしかったー」
「ごちそうさま」
二人は、満足した様子で食事を終えてくれた。笑顔とまでは行かないものの、殺伐とした空気はなくなっている。
「あ、お兄ちゃん、お風呂はわたしがやるよっ」
「ん。頼むな」
三人分の洗い物をしていると、背中に視線を感じた。振り向くと、メイオと目が合う。
「どうした?」
「え? な、なんでもないわよ」
「なんでもないって顔じゃなかった気がするけど?」
「だから、なんでもないって! 私もなにかした方がいいのかと思っただけよっ!」
ん? なにを怒ってるんだ?
ああ、手持ちぶさたなのか。
「いいよ別に。現状、扱いは『客』だからな。のんびりしてろ。なんなら、茶でも入れようか? 冷蔵庫の作り置きを注ぐだけだけど」
「そのくらいなら、自分でやるわよ」
「そうか」
あんまりあれこれやるのもよくないかもな。萎縮するか増長するかのどっちかになっちまうし。
「お兄ちゃん、お風呂最初に入るよね?」
「いや、メイオが最初。俺は一番最後」
「ふえっ!?」
「えっ?」
即答したら、驚かれる。さっきからこのパターンばっかりじゃないか?
「言っただろ。メイオは客。現状ではな」
「うー。納得いかない」
「フッ、悪いな。もう一つの現状においては、俺がこの家の最高権力者だ」
「ううー」
あーあ、ユリは再発か。うまくいってたと思ったのにな。
「別にいいわよ、最後で。客って言われても、反応のしようがないもの」
メイオもメイオで、所在なさげにお茶のグラスを手で弄んでいる。
ダラダラ過ごしてるだけじゃ、意識の改革は起こらないんだよなあ。このままじゃ、埒があかない。一手とか言ってる場合じゃない。
あ、思い出した。一日当たり一〇〇〇キロだったっけ。ロケットで射出しないと間に合わないな。
「いいこと思いついた。二人で一緒に入れ」
よく考えれば、日本の風呂って日本だけの文化だったはずだし。メイオは知らないんじゃないか?
と、様々な気を利かせたつもりが、
「「はあ!?」」
全力で否定されてしまいました。でも、まけねーぞ。
「問題でも?」
「「問題しかない!」」
「ふむ。なにが問題なのかね?」
「そ、それは、わたしが天使で、この人が悪魔だからっ!」
「なんで? 一緒にお湯に浸かると溶けるのか?」
「う、え、そんなことはないけど…………たぶん」
「お、お風呂に二人でなんて入れるわけないでしょっ!」
「女同士で、うちの風呂は広めだけど。なにか問題でも?」
「え、あ、そんなことはないけど…………ない、けど」
「なら問題ないだろ?」
「「……………………はい」」
○ Ψ
「おまえの兄貴、強引すぎるわよ!」
「あ、あははははは…………」
怒りながら風呂に浸かるメイオに、ユリは苦笑いを浮かべた。まったく同じことを考えていたからだ。
けれど、ああいう『物事がいつの間にか盾の思うとおりに流れている』ようなことは、実は彼女にとって初めてではない。
「初めて会ったときから、お兄ちゃんに勝てたことって無いんだよね。いつの間にか負けてるときばっかりなんだけど」
「天使のおまえが負けっぱなしって、やっぱりあいつ特別な力でも持ってるんじゃないの…………?」
「それはないよ。お兄ちゃん、本当にただの人間だから」
「そう、よね。あいつ、本当にただの人間よね。少なくとも、バカじゃないみたいだけど」
二人は、向かい合ってお湯に身をゆだねながら、立ち上る湯気を見つめる。
天都賀盾という人間は、まるでこの湯気のようだ、と二人は思う。形はあるけれど、つかみ所がない。実体はあるけれど、魂の形がわからない。
「あいつと初めて会ったのって、いつ?」
「ん。お母さんにお父さんを紹介されたとき。なんの迷いもなく、よろしく、って手を差し出されたんだ」
ユリには、目を閉じるだけで思い出せる。そのときの盾の顔。言葉のトーンまでも。
年齢的にはどう考えても自分が姉に当たるはずなのだが、妹になってしまったのもそのときだ。
「なんだろうな。あのときにもう、この人には敵わないのかもしれない、って思っちゃったのかな。人間とか天使とか関係なくね」
「初対面で圧倒されたっていう意味じゃ、私も同じね。あいつ、簡単に人のこと手玉に取ってくれて――――――――」
ユリとメイオは、お互いに顔を見合わせて、表情を消した。
眼の前にいるのはいったい誰なのか。自分たちの関係性は、いったいなんなのか。それを一瞬で思い出し、
「な、なんでおまえとこんなに親しげに話してるのよ」
「そ、そうだよ。わたしたち、敵同士だよ」
「…………」
「…………」
二人は湯船から飛び出し、洗い場でファイティングポーズを取り、
『言うまでもないけど、風呂は壊すなよ?』
「「はーい…………」」
外からかけられた声で、鎮火した。すごすごと、湯船に戻る。
「まったく、なんてタイミングのいい――――――――」
愚痴をこぼそうとしたメイオは、ふと疑問に思う。
タイミングが良すぎないか? どう考えても、今の横やりは自分たちのやりとりを見ていたとしか思えない。
見ていた、としか。
「――――――――」
無言で、メイオはスライドドアを開いた。そこには、風呂場に背を向けて座る天都賀盾の姿が!
「…………おまえ、なにやってるの?」
「…………お兄ちゃん、まさか」
風呂場の暖気が、一瞬で氷点下に下がる。誇張ではなく、湯気がすべて霜に変わっていく。
その温度の変化を、たとえただの人間であっても感じ取れないわけはない。
「そうですね。一言で表すなら、盗み聞きってヤツです。裸の付き合いがうまくいってるかどうかの」
「嘘つけ! 完全に覗きじゃないの!」
「お兄ちゃん! 最低だよ!」
「天使と悪魔に誓って言いますけど、覗きはしてません。聞いてただけです」
「「誓う相手が間違ってる!」」
後ろから蹴り飛ばされた盾は、頭から洗濯機に突っ込んだ。