前編 闘う少女たち
耳に飛び込んでくる歓声が、歪んで聞こえた。
地下闘技場のリングの上にいるはずなのに、自分がどこにいるか分からなくなる。
さっきまともに受けた投げ技のダメージがから依然として回復していないのだろう。
それでも、藤田花蓮は何とかファイティングポーズを取ってみせた。白いソックスに包まれた両足でリングを踏みしめ、対戦相手を睨みつける。
「まだまだやれるようね。そうこなくちゃ!」
相対する中村朱音は余裕に満ちた笑みすら浮かべていた。長い髪を下ろし、白いブラウスに鮮やかな青のドレスに身を包んだその姿は、闘うお嬢様そのものだった。
「さあ、幾らでも受けてあげる! かかってきて!」
朱音は両手を広げ、形のいいバストを強調するかのように胸を張った。得意の挑発に、リングを取り囲む観客たちから一段と歓声が上がり、空気がさらに熱を帯びる。ここまでされると飛び込んでいかざるを得なかった。
うまくいくか分からないけど……。やるしかない!
捨て鉢な気分になりながらも、花蓮はリングを蹴った。スカートのフリルを大きく揺らしながら、正面から朱音に組みつく。長い髪から漂う上品なシャンプーの香りに酔うよりも早く、腰に両手を回されそうになったので、すかさず横に回り込む。
「あっ……」
いつもと違うパターンの反撃に、さすがの朱音も慌てたようだった。短い驚きの声に作戦成功を確信しながら、花蓮は相手の腰に手を回し、精一杯の力で投げ飛ばす。戸惑ったような表情のまま、朱音は長い髪を大きく揺らしながらリングに転がる。
スカートが翻って白いものがちらりと見えたが、すかさず二回、三回とローキックをお見舞いする。大好きな少女に蹴りを食らわせるのは躊躇いがないわけでもなかったが、ここはリング上なので関係なかった。
「この程度で参るわけないわね! 覚悟!」
自分の見せ場であることを意識して、花蓮は右手を高く上げて叫ぶ。予想以上の善戦に、観客からどよめきと歓声が上がり、ウェイトレス姿の少女はアドレナリンが一度に分泌されるのを感じる。
その気持ちよさに押されるように、花蓮は倒れたままの朱音にボディプレスを敢行した。少女と少女の肉体がぶつかりあう音が響き渡り、花蓮は想像以上のダメージを与えたことを確信する。
もしかすると……いけるかも!
大逆転への期待と共に朱音の両肩を押さえ込み、フォールに持ち込む。自分に対する大歓声が耳に届くのが気持ちいい。
「にゃん! つぅー!」
ネコ耳がトレードマークのレフリー・キャット美咲が気の抜けるカウントを取り始める。このまま抑え込めれば勝ち、と思った瞬間だった。
「すりー!」の掛け声直前に朱音の両肩がリングから離れた。
「あっ……」
「駄目駄目! まるで効かないじゃない!」
怒りに満ちた朱音の声が耳に飛び込むよりも早く、思い切り突き飛ばされる。背中からリングから叩きつけられ、短めのスカートが豪快に翻ったのがわかったが、手で抑えている余裕もなかった。
鬼神の如き表情を浮かべた朱音の顔が視野を塞いだと思うと、両肩を掴まれて無理やり立たされたからだった。
「痛い痛い痛い! この前も……」
「お黙り!」
一喝されると、後は一方的な展開だった。投げ飛ばされたところにお返しのボディスラムを喰らい、意識が遠くなった挙げ句に関節を極められ、さらに何度も何度も蹴られたからだった。
本気になった朱音のキックは一撃一撃が骨にまで響く。
「これでもこの私に逆らう気!? 可愛いウェイトレスさん?」
リングの中央で無様に転がった花蓮に、朱音はさらに罵声を浴びせかける。両手を腰に置いて仁王立ちになったその姿に、レフリーのキャット美咲も口元に手をやって呆然としている始末だったが、試合は終わらなかった。
もう一度、ろくに相手のことを考えていないボディスラムを叩き込むと、そのまま押さえ込みに入ったからだった。半分意識を失っている花蓮に抵抗の術は存在しなかった。
「レフリー! ぼっとしないで!」
「あ、はいっ! ……にゃん、つぅー、すりー!」
形式的なカウントの後、ゴングが打ち鳴らされて試合は終わった。
<ガールズ・ファイトクラブ>この日のメインインベントは<最強お嬢様>朱音の圧勝だった。
足取りがいつもより重く感じられてならなかった。
晩冬の寒々とした空気を肌で感じながら、花蓮は明かりのない狭い階段を上っていた。
「う~。痛いよ……もう。朱音ちゃん本気になるんだから」
思わず、さっきまでの試合に対するぼやきが漏れる。<勝敗はその場で決めていい>という指示だったので本気になったものの、簡単に跳ね返されてしまった。
だいたい朱音ちゃんとわたしって身長差五センチはあるんだから勝てるわけないじゃない。それに凄い努力家だからいつも新しい攻撃繰り出してくるし……。
心の中でつぶやきながら、屋上に通じる重い扉を開け放つ。途端に冷たい風が吹きつけて髪を揺らしたが、そのまま外に出る。
まず最初に目に飛び込んできたのが、新宿新都心の夜景だった。土曜日の真夜中近い時間ということもあって、明かりは少なかったが、それでも自分が東京の真ん中にいるという感慨を呼び起こすのに十分だった。
寒いけど来てよかった。この景色、好きなのよね……。
地方から東京に出てきた少女にとってみれば、自分が大都会の中央にいることを実感できる光景だった。
しばらく眺めを堪能した後、花蓮はエレベーター用の塔屋に寄りかかった。改めて、今の自分の姿を確かめる。
飾りのある白いブラウスに丈の短い赤のスカート、胸元には赤いリボン、そして薄赤のチェックのエプロン。
自分で考えて作った地下闘技場で闘う時のリングコスチュームだったが、愛着すら湧く程に気に入っていた。
闘うウェイトレスと言うと格好いいけど、どーしても朱音ちゃんには勝てないのよね……。たまに勝つ時だってわざと力を抜いてくれた時だけだし。もう少しファンの期待には応えたいのに。
最近は、自分に対する声援の大きさも肌で感じられるようになったただけに<ガールズ・ファイトクラブ(GF)>の絶対王者として君臨する朱音を実力で倒したかったが、今日のような試合をしていては絶対に無理だった。
底冷えするような寒さに震えながらも、新宿の高層ビル街を眺めていた時だった。
「あ、やっぱりここにいたのね」
おっとりした可憐な声が耳を打った。びっくりしてその方向を見ると、同じくリングコスチューム姿のままの朱音が出入り口から顔を出していた。目が合うと、笑って手を振る。
「朱音ちゃん……」
「寒いから中入ったら?」
「うん……。もう少しこのままでいい?」
「姿が見えないから探してたのよ~。着替えもしてないし。
まさか今日の試合のこと? 怒ってる?」
「えっ……? 全然全然! 朱音ちゃん強いなーって思って
ただけ」
花蓮が大げさに両手を振ってみせると、朱音はおかしそうに笑った。扉を開けて出てくると、ウェイトレス姿の少女のすぐ隣に並んで寄りかかる。
幾度となくリング上で体を密着させてきたので知っていたが、惚れ惚れとするようなスタイルの良さだった。
「花蓮も十分に強いじゃない。まさか投げ飛ばされるなんて
思わなかった。スカートの中まで見えちゃったし♪」
「見えたって……見せパンじゃない。わたしもだけど」
「でもお客さんびっくりしてたじゃない。私が無様に転がさ
れて組み伏せられたんだから。それだけできれば十分よ」
「でもその後はもっと無様だったじゃない。わたしが」
「ごめん。熱くなっちゃうと手加減できないのよね~。怪我
しなかった? 顔、大丈夫?」
朱音のほっそりとした指に頬を撫でられて、花蓮は赤面した。一歳年上の同性でも、恥ずかしいものは恥ずかしかった。
「大丈夫大丈夫! いつものことじゃない!」
「だったらいいけど……。私ももっと加減しないと駄目ね~」
花蓮から手を離して、溜息をついてみせる。普段は外見相応のお嬢様だったが、リングに上がると別人のように言葉遣いが乱暴になり、大暴れするのが朱音という少女だった。
「どうしたらいいと思う? もっと手加減したほうがいい?」
「駄目駄目! 朱音ちゃんが手加減したら絶対に面白くない
って! あの容赦ないファイトが売りなんだから」
「でもいつか花蓮を壊してしまいそうで怖いのよ」
「その顔で言われると説得力あり過ぎなんですけど」
「だから困ってるの」
そう言って、朱音は再び溜息をついた。裏表のない性格なので本心から悩んでいるのは明らかだったが、正直花蓮も困っていた。
朱音ちゃんが強すぎるから他が目立たないのよね……。しかも誰も倒せないし。もし、朱音ちゃんが今引退するって言い出したらどうなるか……。
「あれ? ふたりともここにいたんだ」
足元から忍び寄る寒さに震えながら考えていると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
顔を動かすと、出入り口の扉に寄りかかった飯坂律がいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
外見も服装も中性的な雰囲気を漂わせた女性だったが、GFの代表兼プロデューサーで、選手たちからは親しみと敬意を込めて<律P>と呼ばれていた。
「ミイラ取りがミイラになったかなと思ったけど案の定だっ
たね。朱音ちゃん、花蓮ちゃんの事になるとすぐにこうな
んだから~」
「そ、そんな事はありません! 今日の試合のことを話して
ただけです!」
「今日の試合か……。うん、最高だった。花蓮ちゃんがあそ
こまで善戦するなんて正直私も予想しなかった」
「そうですか? 最後は無様に負けてしまったから駄目だと
思ってました」
「まあ負けるとは思ってたけどね」
律にあっさりと言われて、花蓮はバランスを崩しそうになった。少し傷ついたプライドを回復する為に睨みつける。
「おお怖い怖い♪ そんな顔も出来るようになったんだねえ。
おねーさん嬉しいよ」
「さっきリングの上でもそんな顔してたわね。その調子よ」
「朱音ちゃん……」
「真面目な話をすると、花蓮ちゃんには凄く期待してるんだ。
今GFは朱音ちゃんという看板選手がいるけど、それ以外
がイマイチだからね。花蓮ちゃんもエースにしたいんだ」
プロデューサーとしての顔になって言い切った律の言葉に、花蓮は小さく肩を震わせた。寒いからではなかった。なぜか怖くなったからだった。
いいの? わたしなんかで。東京に出てきたのに専門学校を中退して、根無し草のわたしなのに……。
一瞬だけ、朱音と律が目だけで会話した。それに合わせるように真冬を思わるような北風が屋上を吹き抜け、闘う少女たちは体を震わせる。
「あ、ごめんごめん。立ち話もあれだから中に入ろう。風邪
なんかひかれたら大変だからね」
「そうね。そろそろ着替えない?」
朱音のおっとりとした言葉に、花蓮は小さく頷くと、身体を丸めて建物の中へと戻った。
朱音と律が何かを示し合わせたことにはまったく気づいていなかったのだった。
ふたりの少女が地下にリングを抱えるGF本部ビルを出たのは、真夜中近くになってからのことだった。
「あっ……どうしよう。終電出ちゃった……」
腕時計を見て、花蓮は驚きの声を上げた。着替えの後、朱音や律P、他の選手たちと話をしていたこともあって、時間をまるで意識していなかった。
「帰れない?」
「うん。津田沼行きにつながる列車、出ちゃった……」
「だったらウチ来る? 明日はバイトも無いんでしょう?」
「無いけど……。いいの?」
「もちろん。前にも似たようなことがあったじゃない♪」
言い切って、洒落た私服に身を包んだ朱音は長い髪を揺らしながら歩き始めた。慌てて、花蓮もその後を追う。
泊めてくれるのはありがたいけど、朱音ちゃんの家って凄いのよね。本物のお嬢様だから当然だけど。いいのかな~。
朱音の自宅マンションは、GF本部ビルの南、新宿御苑を西側に望む一角にそびえ立っていた。
二十四階建ての建物の二十階に部屋があり、ベランダからは新宿駅や新都心が一望できたが、住んでいるのは部屋主だけだった。
「落ち着かないみたいね。何回も来てるじゃない」
リビングのソファに腰掛けた花蓮が、連れてこられた猫のようにあちこちを見回していることに気づいて、朱音は笑いながら声をかけた。
「うん……。こういう部屋ってほとんど来たことないし。朱
音ちゃんの実家って本当に凄いなーって」
「確かに実家は金持ちだけど、私は私よ。生活は助けてもら
ってるけどあまり関係ないわ」
冷たいコーラの入ったコップをテーブルに置いて、朱音は花蓮のすぐ隣に腰かけた。かぐわしい芳香が漂ってきて、花蓮は鼓動が早くなるのを感じる。
「ま、お蔭で好きにさせてもらってるけど。本当は花蓮みた
いになりたいのよね」
「そんな……。わたしなんて全然大したことないよ。バイト
しないと生きていけないし、GFでも勝てないし」
「最近はそうでもないじゃない。私に負けるまで三連勝。も
う私以外には負けないって律Pも言ってたじゃない」
「そうだけど……」
言いたいことが伝わってないような気がして、花蓮は俯いた。自分と朱音の<格>の違いを、どう説明したらいいのだろうか?
「いつまでも、私に頼ってられないわよ」
「え?」
「私だっていつまでファイトを続けられるか分からないんだ
から。実家は私がリングに上ってることは知ってるけど、
いつ風向きが変わるか分からないし」
「そんな……」
「こういう時、なんて言えばいいのかしらね。あ、わかった。
備えあれば憂いなし、よね♪」
にっこり笑って言い切られて、花蓮は全身の力が抜けるのを感じた。地下闘技場のリングで相対するとあんなに恐ろしいのに、普段の朱音はおっとりとしたお嬢様そのものだった。
朱音ちゃんのことが本当にわからない。そもそもなんでGFのリングに上がってるか知らないし、実家のことも話してくれないし……。
最近気づいたことだったが、GFで闘う少女たちは皆、ある種の挫折経験があるようだった。
花蓮自身も高校卒業後、デザイナーを目指して東京の専門学校に入学したものの、どうしても学校の雰囲気に馴染めずに退学し、バイトに明け暮れていたところを律Pにスカウトされたのだった。
格闘技の経験は無かったが、元人気女子プロレスラーだった律Pの指導のお陰で、すっかりGFに馴染んでいた。
リングで闘うのは基本的には毎週土曜日の夜だったが、今ではその日が楽しみで仕方なかった。
もしかすると、朱音ちゃんも何かに挫折してGFに入ったの? それで闘い続けてる? でも話してくれないし。
「コーラ、飲まないの?」
とりとめなく考えていると、朱音の声が耳に入った。慌てて顔を上げると、一気に半分飲み干す。暖房の効いた室内にいる為か、冷たいコーラは美味しかった。
「ねえ、朱音ちゃん。一つ聞いていい?」
「ん? なに?」
「なんで朱音ちゃんはGFのリングに上がる気になったの?」
「律Pに口説かれたからよ。<君なら出来る>って」
「それわたしも言われた。みんなに言ってるみたい」
「なんでって言われても……ね」
雰囲気を感じ取ったのか、朱音は真顔になって髪をかきあげた。その横顔の美しさに花蓮が見とれていると、ぽつりとつぶやく。
「やっぱり闘いたかったからかも。ほら、私ってリングに上
がると性格変わるじゃない。そもそも闘うのが好きなのよ」
「だよねー。朱音ちゃん凄く練習熱心で、新しい技も習得し
てるし」
「じゃ、花蓮はなんで闘ってるの?」
「え?」
突然、予想外なことを聞かれたような気がして、花蓮は固まった。今まで考えたこともなかった。
「いいのいいの。無理しなくても。闘うのは楽しいでしょう?」
「もちろん! ……朱音ちゃんには負けるけど」
「今度勝てばいいじゃない。一度ぐらい手加減してあげるか
ら。そろそろ花蓮にも花を持たせないと駄目みたいだし」
「うん……。でも実力で勝ちたい」
「その心意気よ、心意気」
朱音は無邪気に笑っていたが、花蓮は笑う気にはなれなかった。いつになったら目の前の少女に実力で勝てるのか、想像もつかなかったからだった。