4.慈母の少女
嫌になるほど見続けた、無機質で殺風景で陰気な白い天井を見上げて。
あのとき、心は必死に願った。
……イヤだ、死にたくない――と。
たった一度見ただけなのに忘れようもない、白くなった愛しい顔を見下ろして。
あのとき、心は痛切に訴えた。
……いっそ、死にたかった――と。
「…………あ」
白い天井も。白い顔も。ふと気付けば、溶けて消えていた。
開いた眼に映るのは、見慣れたベッドの天蓋……つやのある木材に刻み込まれた、太陽と月をあらわした優美な彫刻だけ。
夢を見ていた気がするが、その細かい内容まではとても思い出せず、そうして意識がたゆたううちに、夢を見たという記憶すら曖昧になってくる。
ただそのときの感情だけが――存在を主張するように、弱々しく胸の奥でくすぶっていた。
「……起きなきゃ」
子供じみた仕草で何度か目もとをこすったあと、少女はゆっくりと上体を起こした。そしてベッドそばの飾り棚の上の小さなベルを持ち上げ、静かに振る。
寝起きの頭にも優しい、その澄んだ音色に身を任せつつ、彼女は自嘲気味に微笑んでいた。
鳴らす物が変わっただけで、起きてすぐこうして人を呼ばなければならないところは、子供の頃と何も変わっていない――と。
ぼうっとそんな風に考えて、彼女自身、それ自体が珍しいことだと気が付く。そしてそれがきっと、見たのかどうかもあやふやな夢が、胸中にもたらした感傷のせいなのだろうとも。
「――おはようございます、春咲姫」
素朴で控えめな、それでいて上品さも備えたドレスに身を包んだ若い女官が部屋にやって来たのは、ベルを鳴らしてからほんの数秒後のことだった。
「おはよう……サラ」
サラと呼ばれた女官は、少女がどこかぼうっとしていることに気が付くと、そっと前にひざまずき、顔をのぞき込む。
この庭都の最高の貴人に対する態度として、それはいささか失礼にも見える行為だったが、少女がそれを咎めることはない。彼女は、サラのそんな、礼儀正しい中にも気安さを織り交ぜた、堅苦しすぎない接し方が好きだったからだ。
「お加減が悪いのですか?」
問われた少女は小さく首を横に振り、笑って見せる。
自分の方がはるかに年上であるはずなのに、どこか姉のように感じられるところも、彼女がサラに好感を持つ理由の一つだった。
「……大丈夫。ちょっと、ぼうっとしてただけだから」
「それなら良いのですが……。何かありましたら、すぐに呼びつけて下さいね?」
「うん……ありがとう」
少女の返事に満足したように、穏やかな笑顔を返してうなずくと、立ち上がったサラは先程少女が鳴らしたベルのすぐ脇、台座に置いてあるクリスタルの水差しからグラスに水を注ぎ、少女に手渡した。
ひやりと冷たいそれを、少女は眠気覚ましとばかりに一気に喉の奥へ流し込む。
「……ふう、美味しい」
「あらあら、はしたないですよ」
くすくすと笑いながらサラはお代わりを尋ねるが、少女は首を振ってグラスを返した。
「では、お支度をなさいますか?」
「うん。……あ、その前に……」
少女はひょいと軽やかにベッドから降りる。質素ながら品の良い夜着の裾が、ふわりと広がってはためいた。
サラは思わずまたはしたないと口にしそうになるが、苦笑混じりに飲み下す。
春咲姫と崇められる少女が、こうした無防備な一面を見せるのは限られた人間に対してだけであり、そしてその一人が自分であることは、彼女にとってこの上ない喜びであると同時に誇りでもあった。
裸足のまま、寝室の窓際まで駆け寄った少女は、手ずからカーテンを開く。
眼下には、抜けるような青空と穏やかな陽射しの下、朝露のごとく輝く、美しい街並みが広がっていた。
その美しさは少女には、暮らす住民の平穏そのものにも映った。
恐怖、不安、憎悪……様々な負の感情から解放され、老いも死も超越した人々の、屈託ない笑顔の証に感じた。
そしてそれこそが、彼女が――彼女たちが目指したもの、望んだ世界そのものだった。事実この景色を見るたびに、彼女は安堵にも似た幸福感を覚えるのだ。
しかし、同時に今は――そこに一抹の不安が影を射す。
それは、花である彼女に、花であるがゆえに刺さる、千年の時を経ても抜けることのない小さな小さなトゲ……そこから広がる痛みだった。
永い時間覆い隠し、完全に忘れることはできなくとも、意識の底に沈めていたはずのそのトゲが、今はズキリと、熱をもってうずくのだ。
「ノア……ナビア」
少女の可憐な唇は、自然とその名をつむいでいた。
自らに刺さった、小さなトゲの存在……それを改めて思い出させた兄妹の名を。
ともすれば怒りをもって告げられてもおかしくはないその名を、しかし優しく口にする少女の表情に浮かぶのは――悲しみだった。
「あの子たちのことが……気にかかるのですね」
少女のかたわらに控えるサラは、主の憂いを帯びた横顔をうかがいながら、静かに言った。
実の母親の手を離れ、春咲姫と花冠院の下に連れられて来た、原因は不明ながら子供が誕生しなくなって久しい庭都において、実に二百年振りとなるその新生児の兄妹のことは、サラも良く知っている。
いや――知っているどころか、ようやく生まれた、新しく庭都の仲間となる子供たちに、養育係にも負けず劣らずの愛情をもって接してきたのだ。
そしてそれは、春咲姫も同様だった。むしろ、人が不死を得る以前の時代――旧史と呼ばれる時代から生きている少女は、『死』というものを実際に知るがゆえに、それを知らないサラたちでは及びもつかないほどの、特別の慈愛を傾けていたはずだ。
そして当の兄妹も、サラに甘え、少女になついていた。接するすべての人たちの愛情を素直に受け止めていた。思いやりをもった人間に育っていた。
だが――彼らは姿を消した。
不老不死となるその直前に、真に庭都の仲間となる通過儀礼の前に、まるでそれを否定するように、誰に告げるでもなく彼女らの下を離れたのだ。
サラにはその理由が分からない。分かるのはただ、自分もまた、憤るのではなく悲しいということだった。
兄妹を慈しみ、育ててきた春咲姫を、当の二人が悲しませるようなことをしているのが悲しい。そして、敬愛する春咲姫が、二人のことを憂い、悲しんでいるのが……悲しい。
「……ん、それじゃあ支度しましょうか、サラ」
振り返った少女からは、憂いの色は消えていた。それが、憂いをひとまず心の底に押し込めただけの空元気であることぐらい、サラは当然理解している。
だから彼女も、微笑みを浮かべ、お手伝いいたしますと、普段通りの態度を返した。
しばらくの後、正装に着替え、身支度を整えた少女が寝室から姿を現した。
あどけなくも愛らしい姿はそのままに、しかしサラを従えた少女は、凛とした気高くおごそかな雰囲気をも身にまとっている。
それは、無邪気な振る舞いをする少女でも、悲しみに憂う少女でもなく――
庭都の住民すべてに親しまれ、愛され、敬われ、崇められる花。
庭都の住民すべてを親しみ、愛し、慈しみ、見守る花。
ただ一輪の慈母――春咲姫だった。
*
「この列車に乗るのか?」
蒸気機関車を思わせる列車を左右に見渡し、カインはノアに尋ねる。
彼ら三人がいるのは列車のホームだった。列車のデザインに合わせた前時代的なドーム状の建築物の中、天窓から射し込む爽やかな朝日に目を細めつつ、ノアはうなずく。
「チェックは甘いし、田園地区へ向かうなんて、誰も思ってやしないはずだから」
「チェックが甘い、か。そう言えば切符なども必要なかったな」
「切符、ねえ……ホント、アンタに残ってる記憶ってのは、旧史のものばっかりみたいだな」
どこかあきれたように、眼鏡を整えながらノアは言う。
「とにかく今は、こんなところでいちいち利用者のチェックなんてしないんだよ。――まあ、そのための設備とかはちゃんとあるから、その気になれば身分確認だってできるんだけど。
でもそれに対してはちゃんと偽造データも用意してあるし、そもそも大本のシステムにも手を加えてあるから、まず問題ない。
……一応、逃げ出す上でそれぐらいの下準備はしてきてあるんだ」
そうか、とうなずき、カインは背中からずり落ちそうになっていた、大きな荷物を背負い直した。
「……しっかしこいつ、一人で気持ちよさそうにしやがって……」
ノアはカインの背の荷物――静かに寝息を立てる無防備な妹を見上げ、あきれ顔でため息をついた。
カインはそんな兄妹の姿に、かすかにほころばせた顔を、線路の延びる先へと向ける。
この駅が建つのは、都市の中心部から離れ、美しく手入れのされた広大な自然公園を抜けた先だった。
そして駅からは、ほぼ真っ直ぐに延びる線路が二条あるのみで、土地勘のないカインでも、これがターミナルというより、都市の中心と別の地区を結ぶ中継点でしかないことが分かる。
しかし、先程からカインは、もっと別の事実に注意を引かれていた。
駅舎の先は、彼らがこれから向かおうとしている方向へと、切り立った崖に迫り出すように作られていたのだ。そしてそこから伸びる線路は、大きく立派な石橋の上を走っており、飛び石のように突き出た大岩を足場にして若干の蛇行をしながら、彼方の山のなだらかな斜面に広がる、緑豊かな高原へと続いているのだが――。
「……空気に違和感があったわけだな」
線路の下方に広がるのは、とうとうと流れる大河でも、大口を開けた峡谷でもなかった。
そこにあるのは、海――それもただの海でなく、果てない広がりを見せる雲海だったのだ。
それは、庭都と呼ばれるこの都市が、雲を見下ろすほどの高山を複数またぐようにして築かれた空中都市だということを示していた。石橋が足場にしている飛び石も、ただの大岩ではなく、標高がやや低い岩山の山頂なのだろう。
(限りなく天に近い……まさしく楽園――か)
頭上には、青すぎるほどに青い青空が、天地をひっくり返した大洋のように広がっている。
「……まさか、この都市がこれほどの高所に築かれていたとは思わなかったな」
「地上には住めなくなったからだよ」
カインの視線を追って青空を見上げながら、ノアは独り言のように語る。
「千年以上前のことだそうだけど。……人と人の争いは、どんどん規模が大きく、激化の一途をたどって、やがて世界中を無秩序に巻き込む大戦に発展した。そして……ついには人類のほとんどすべてが死滅するほどの状況にまで行き着いたって……そう聞いてる」
完全に記憶から失われているのか、それともそもそも記憶にない話なのか――。
ノアが語る凄惨な歴史に該当する経験は、カインの中にはない。だが、現実感までないわけではなかった。
彼は、人とは、どこまでも賢くなれるがゆえに、決してぬぐえぬ愚かさも持ち合わせているということを知っていたからだ。それが揺れる天秤で、ともすればたやすく一方に――それも大きく、傾いてしまう可能性があることも。
「そんなとんでもない大戦だったから、人間だけでなく、他の生き物、そして世界そのものに与えた影響も尋常じゃなかった。世界のあらゆる場所が、汚染され、崩壊し、環境が激変して……生き物の生きていけるようなところじゃなくなっていた。
だから人は地上を捨てて、影響の少なかった高所――雲より上に安住の地を求めたんだ。そして、この庭都ができた」
「それで、地上は今どうなっているんだ?」
カインの問いに、ノアは首を振る。
「いまだにどうしようもないぐらい荒廃したままだ、って聞いてる。
ここからじゃ、環境の変化のせいか、ほぼ常に雲に覆われててろくに見えやしないし……昔は一応、定期的に調査隊も送っていたみたいなんだけど、わざわざ安全な庭都を出るなんてバカバカしいって話になって以来、誰も興味なんて持たないから、それもすたれて……結局、今実際にどうなってるのかは知らないけどさ」
「人間は?」
「いやしないよ。言ったように庭都を出る人間なんていないし、たとえ今、地上の環境が元に戻りつつあるとしても……当時は、本当にどうしようもないぐらいの状態だったからこそ、人はこんな場所まで移住してきたんだから」
そうか、とカインはただ静かにうなずく。
どこがどう失われているのかも定かでない、断片的な過去の記憶にしばらく思いをはせていた彼は、やがてホームに鳴り響くベルの音に我に返った。
発車の合図なのだろう、見れば、もともとそれほど多くはなかったホームの人間が、列車に乗り込んでますます少なくなっていく。
「ウン……? 着いたの?」
「今から乗るんだよ」
ベルの音で目が覚めたらしいナビアのぼんやりした言葉に返事をしながら、ノアは先に立って列車に乗り込む。
そして、すぐにカインを振り返って言った。
「この列車が向こうに着くまでの間に、アンタのこと、話してもらうからな」
カインはうなずくと、起きてなお背中から降りようとしないナビアを、文句を言うでもなくもう一度背負い直し、ノアに続いて列車の中に足を踏み入れた。




