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畢罪の花 ~ひつざいのはな~  作者: 八刀皿 日音
一章  全にして一なる花の咲く園
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3.恐れの予兆


「――包囲されたな」

 ホテルのバルコニー越しに外の様子をうかがっていたカインは、緊迫した声色でただ一言、そう口にした。

「……え? 包囲された、って……」

「お前たちが、だ。ここから見えるだけでも、通りに持ち場を守って動かない制服の人間がいるのが分かる。――思ったよりも早い」

「まさか、そんな……」

 カインの発言に納得がいかないノアは、一見にしかずとばかりに、あれほど警戒していたはずのカインの脇まで行き、ガラスに顔を張り付かせるようにして外の様子をうかがう。

 確かに通りの人々の中に警備隊の人間がいるのが分かるが、それ自体はいぶかしがるようなことではなく……ノアの目には、特に誰かがこちらを見張っていたり、あまつさえ包囲しているようにはどうしても見えなかった。

「あの制服、警察か、それに近い役割を持つ存在だろう?」

「ケイサツ……? あぁ、旧史の頃にはそんな組織の名前があったんだっけ。

 まあ――そうだな。都市の治安を守るための存在だって言うなら、同じようなものかな。今は警備隊って呼ばれてる」

「私がこれまで見てきた彼らは、一様に、一定の区画を定期的に見回りしていた。

 だが……あの制服は動いていない。そしてそれとは逆に、私がこの部屋に来る以前にはあったはずの、あの場所を通る見回りがなくなっている」

「まさか……」

 ノアは、ガラスにぶつかって少しずれた眼鏡を直しながら、眉間に皺を寄せる。

「上からの指示があったのだろう。お前たちは気付かなかっただろうが、この一帯の宿泊施設を見張るような位置に、何人か、先刻お前たちを追い詰めていた男たちと同じ風体の人間が配置されていたしな」

「――え」

 反射的に、ノアはカインを見上げる。

「逃げおおせたとは言え、一度捕捉された以上、行動範囲と思考を予測できるなら、これぐらいはさほど難しいことではない。現に、土地勘もなく、知り合ったばかりの私ですら、こうしてお前たちを見つけられているだろう?」

「で、でも……俺たちぐらいの見た目の人間なら、ここは庭都(ガーデン)の中央区だからそれなりにいるハズだし、ちゃんとデータベースの俺たちの情報も消したし、身分証明の偽装もしてあるから、こんな簡単にバレるなんてこと……」

「だが、身を隠すという行動そのものについて、お前たちは素人だ。――私のような人間と違ってな」

 そう言い置いて、ガラス戸を開いてバルコニーに出るカイン。

「お兄ちゃん……」

 立ちつくすノアのそばに、ナビアが駆け寄る。その表情はいつになく真剣だった。

「くそっ……碩賢(メイガス)のじーさんか……?」

 苦い顔で、ただ拳を握り締めるノア。

 やがて部屋の中に戻ってきたカインは、短く兄妹に告げる。

「荷物をまとめろ。ここを出るぞ」

「出る、って……でもどうやって? もう包囲されてるんだろ……?」

 動揺の抜けきらないノアのその質問には答えず、カインはとにかく動けと言葉少なに指示を飛ばす。

 反射的に、無心でそれに従ったのが良かったのだろう。広げていた三枚の掌携端末(ハンドコム)を手早くリュックサックに詰め、背負い直しているうち、ノアは少しずつ気を取り直していた。

「――こっちだ」

 ノアに続き、ナビアもソファに置いていた肩掛けカバンを手にしたところで、カインはきびすを返してガラス戸を開け、先に立ってバルコニーに出た。

 そして向かいを指差す。

 向かいの建物は、このホテルよりもやや低く造られているのだろう、カインに示されるまま視線をわずかに下げると、夜の闇の中、飾り気のない屋上が広がっているのが分かる。

「向かいの屋上に飛び移る、ってことか?」

「そうだ。彼らは、お前たちが包囲されていることに先に気付くとは考えていないだろう。この建物から気付かれずに移動できれば、網を抜けられる可能性は高い」

 でも……とノアは不安そうに、向かいの屋上とカインの顔を交互に見比べる。

 するとカインは、ノアを元気付けるようにその頭に大きな手を置き、「心配するな」とうなずいた。

「跳ぶのは私だ。大丈夫だ、お前たちは、ただ私に掴まっているだけでいい」

 自分の頭に手を置いたカインを、ノアはぽかんとした顔で見上げていたが……すぐさまその手を大げさに払いのけ、ふんと鼻を鳴らした。

「いいな? 部屋に突入される前に移動しなければ意味がない、行くぞ」

 言って、カインはナビアを抱き上げる。そして、ノアには背中におぶさるよう指示した。

 分かったと素直に従いそうになって、そこではたとノアは動きを止める。

 ――このまま、なし崩しに正体もはっきりしない人間の指示に従っていいのか。もしかしたら、部屋に残った方がいいんじゃないのか――?

 不安が、ふとノアの胸をよぎった。

 思わず振り返った背後の部屋は、ベランダの向こうの闇とは対照的にあたたかな光に包まれて、どうしようもなく魅力的に見える。

 ――戻るなら、今しかないんじゃないか……?

 そんなささやきが胸を突いた。

 意地を張らずに戻れば、今ならまだ、ちょっとした家出ということですむだろう。元通りの平穏な生活に……約束された、明るい幸福の中に帰れるのだ。

 だがこのまま進めば、それが自分が正しいと思った道だとしても、そうした幸せに背を向けることになる。

 先の見えない闇を、手探りで歩くようなことになる。

 ――本当に、それでいいのか――?

「俺は……」

「お兄ちゃん、早くっ!」

 時間にしてはほんのわずか、しかし確かな怖じ気と迷いに心を掴まれていたノアは、妹の声にハッと我に返る。

 そして、自分の心にまとわりついていたそれらを打ち払おうとするように首をぶんぶん振ると、勢いよくカインの背に飛びついた。

「いいな? 行くぞ」

 それを待っていたカインは、迷いなく手すりを乗り越え、眼下の屋上へと飛び移る。

 結構な高さがあったにもかかわらず、その着地は静かでなめらかだった。

 予想していた衝撃の半分も感じられなかった気がする兄妹は、どこか拍子抜けしたような表情で、カインの身体から離れる。

「まだ詳しい事情も聞けていないが……この後、行く先にアテはあるのか?」

 カインの問いかけに、ノアは一瞬ためらうように口ごもったが、すぐに顔を上げて答えた。

「――西だよ、西。田園地区の方に……」

 ノアの言葉が中途で止まる。カインを見上げていたその目が、大きく見開かれた。

「! 上っ!」

 ノアが叫ぶのと、カインがそんなノアとナビアの体をさらいつつ、鋭く前方に飛び込んだのはほとんど同時だった。もといた場所から、一瞬のうちに距離を開く。

 直後、彼の背後で一条の光が稲妻のごとく閃いた。

 遅れて響く甲高い金属音――その中で、カインはすばやく向き直る。

「……今の一刀で、大人しく倒れていればよかったものを」

 ホテルのバルコニーから漏れる光を背に、舞い上がる粉塵の内にゆらりと立ち上がったのは――赤衣の男だった。

 カインの夜目はこの暗がりにあっても、鮮明にその姿をとらえ――それが以前、初めてノアたちと出会った際に対峙した青年であることを認める。

「以前は名乗るヒマさえありませんでしたね。――わたしはヨシュア。君とまた会えたことを嬉しく思いますよ――カイン」

 バルコニーから飛び降りざまに放った一撃により、床を深々と切り裂き、刀身半ばまで埋まっていた軍刀(サーベル)を軽々と引き抜いて、ヨシュアは切っ先をカインに突き付ける。

 その顔には、純粋な喜びだけによるものではない……相反するような感情すら混じり合っているのだろう、どこか複雑な笑みが浮かんでいた。




             *


 月光の下、庭園の広場で、白と赤の影が手に手を取って舞い踊る。

 ただし、一挙手一投足の合間に、生死が織り込まれたそれは、闘舞だ。

 舞手の一人は金色に咲く髪を振り乱す、天使のごとき純白の影――ウェスペルス。

 その相手をつとめる真紅の影は、揺らめく炎のような赤みのある髪と髭をたくわえ、顔に幾重にも刻まれた古傷が鬼神の凄絶さをかもし出す、赤衣の男だった。

 天使と鬼神の人外の舞踏は、いつまでも続きそうですらあったが……唐突に、あまりにも呆気なく終わりを迎える。

 それは、あまりに鮮やかな体さばきによる投げ技だったのだろう。赤衣の男の身体が宙で真円を描いて一回転し、受けた本人すら理解せぬ間に背中から地面に叩きつけられたのだ。

 そしてその喉元に、ウェスペルスが王手とばかり、鋭く手刀を突き付ける。

「……参ったよ、ボス。さすがだ」

 倒れた男は軽くせき込みながら、降参とばかりに両手を広げる。

 古傷の生々しさばかりでなく、もともと険しい顔立ちの彼だったが、そう言って不器用に苦笑するさまはどこか人なつこく、つい先程までの鬼神の迫力はすっかり失われていた。

 ウェスペルスもまた表情を崩しながら、ヨシュアと同じ赤衣に身を包んだその男――グレンが立ち上がるのに手を貸してやる。

「君こそ。訓練とはいえ、僕をこうまで追い込めるのは君ぐらいのものだ」

「良く言う。ライラ様もいるだろうに」

 土ぼこりをはたき落としながら、グレンは呆れたように言う。

「……ところでボス。あの坊主どもの捜索はどうなったんだ?」

「ああ……それなら先刻、ヨシュアが再度保護に向かったよ」

 かすかに乱れていた服を整えながら、ウェスペルスは答える。

 それに対してグレンは、何か思うところがあるのか、ふむ、と眉間に皺を寄せた。

「ヨシュアがどうかしたのか? この任務には不適格だとでも?」

「まさか。こうした仕事は、生真面目なアイツの方が、俺なんかよりもよっぽど適任だ。能力も、新史生まれの若手の中じゃ特に優秀だしな。ただ……」

「ただ?」

「アイツが兄妹を取り逃がしたすぐ後、顔を合わせる機会があったんだが……そのときの様子が引っかかってな。

 ――この庭都じゃありえないことだってのに、どうも似ていた気がするんだよ。激しい苛立ちの陰に見え隠れする恐怖、恐怖を覆い隠すための苛立ち。そのさまが――」

 自らの記憶の内を透かし見るかのように――グレンは目をすがめた。

「死の淵をのぞいてしまった人間のそれに、な」




             *


 突きつけられた軍刀の切っ先を見据えたまま、カインは両脇に抱えていた兄妹を、ゆっくりとその場に降ろした。

「その二人は返してもらいますよ。今回も邪魔をするというのなら――」

「邪魔をする気はない。この子たち自身がそう望むのならな。だが、そうでなければ――」

 カインは意志を問うように、兄妹を交互に見やる。

 ノアとナビアは、一度顔を見合わせた後、二人そろって首を振ると、ヨシュアを見据えたままカインの背後へと退がった。

「――私は、お前の要求に従うわけにはいかない」

「やはり――君は反逆者のようですね。庭都創設時の黎明期には、そうした愚かな輩も多少なりといたと聞きますが……まさか今でも存在していたなどと、夢にも思いませんでしたよ。

 ――ノア、ナビア、そこで大人しくしていなさい。この反逆者を処理次第、君たちを連れて帰ります」

「……おじさん……」

 心配そうに自分を見上げるナビアに、カインは一瞬視線を送って答える。

「この男の言う通り、今は下手にこの場を離れるな。――大丈夫だ、すぐに済ませる」

 カインの発言に、ヨシュアの頬がわずかに引きつった。

「聞き捨てなりませんね。前回と同じようにいくと思ってもらっては困りますよ……!」

 怒りの感情そのものを、しかし感情の発露よりも早く直接叩き付けるかのように――ヨシュアは鋭く踏み込みながら、カインに突き付けていた軍刀を、その喉元目がけて一息に伸ばす。

 身構えることさえしていない無防備なカインに、予備動作もないその迅速な突きは、かわすことはおろか防ぐことさえ不可能だとヨシュアは踏んでいた。

 前回遅れを取ったことからすればあまりに呆気ない勝利だが、これこそが本来の結果なのだと。

 いくら不死の身でも、急所と呼ばれるような場所を傷つけられれば、完全な復帰には時間がかかる。それは改めてこの男の身柄を拘束するにも、兄妹を確保するにも、充分な時間だ――。

 喉を貫く感触とともに訪れる、雪辱の歓喜すら、ヨシュアは思い描いた。それは同時に、心に渦巻く、焦燥感をともなった、得体の知れない暗雲が晴れる瞬間でもあるはずだった。

 しかし――軍刀の切っ先がとらえたのは、空だった。

 いなされたとも、かわされたとも感じる間はなく――まるで初めからその何もない場所を狙っていたかのように、寸分たがわず、軍刀はカインの影だけを闇ごと刺し貫いていた。

「――!」

 信じられない、何が起こった――と、相手の行動を把握できない混乱と驚愕が、脳内で形を成す。

 刹那、そこへ割り込むように、軍刀を握る手に衝撃が走った。こらえようとする余裕すらなく、手放した軍刀が乾いた音を立てて床に転がる。

 危機を感じ、とっさに距離を開けるヨシュア。

「――ヨシュア、と言ったな」

 いまだ混乱する思考を必死に落ち着かせる、そんなヨシュアを淡々と見やりながら、影が存在していたのとほとんど同じ場所に悠然とたたずむカインは、静かに口を開く。

「お前は恵まれた才を持ち、そしてそれをたゆまぬ鍛錬により磨き上げてきたのだろう。その身体能力も技量も、見事なものだ。

 だが――お前は、人を殺したことは無い」

「と、当然でしょう……! ひ、人は……!」

 死ぬことなどないのだから――そう答える代わりに、ヨシュアはカインの視線を受け止め、にらみ返す。

 しかし対するカインは、むしろ戦意を失ったように、小さく息を吐いた。

「だからこそ。お前は決して、私には勝てない。――あきらめろ」

「ふ、ふざけたことを――ッ!」

 腰に下げていたナイフを抜き放ち、ヨシュアは怒声の勢いのままカインに襲いかかる。

 機敏でありながら、しかし無造作とも取れるその突撃を、カインはナイフを持つ腕の方へと回り込むように動いてかわそうとする。

 それは、その後繰り出す反撃を計算に入れてのことだろう。しかし、その動きはヨシュアの予測の内だった。

 ひるがえる赤衣のマントの陰、カインの死角の中で、空いた手を拳銃に伸ばす。

 しかし――拳銃は抜けなかった。

 マントを潜って伸びてきたカインの手が、その動作を押さえ込んでいたからだ――そうすることを、あらかじめ知っていたかのように。

「な――!」

 本能が激しい警鐘を鳴らす。

 極限状態に、恐ろしいほど鋭敏になったヨシュアの感覚は、そこからの一連のカインの動きを、ひたすら緩慢に、精密に、脳へと伝えていた。

 完全に無防備となったヨシュアの喉元目がけて、手刀が空を裂いて襲い来るさままでも――無慈悲に。

 前回と同じように、手刀が喉を貫くまさにその瞬間――。

 果てなく短いその一瞬、胸の奥から体のすみずみまで行き渡る感情。

 カインと戦うことによって生まれ、気付かされ、刻み込まれた、不快極まる感情……。

 これこそが『恐怖』なのだと――まさにその瞬間、ヨシュアは直感的に理解した。




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