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畢罪の花 ~ひつざいのはな~  作者: 八刀皿 日音
五章  そして、万花は楽園に還りゆく
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6.畢罪の花


 ――天咲茎(ストーク)最上部。

 月と星のほのかな光に輝く庭園は、柔らかな静謐の中にあった。

 皆の安全を祈る春咲姫(フローラ)も、来るべきときのために精神を研ぎ澄ますウェスペルスも、互いに言葉を交わさなくなって久しい。

 しかし、言葉などなくとも、ただお互いがそこにいるというだけで、二人は充足感のうちに落ち着いていられた。かつてないほど大きな嵐のただ中にいながら、それでも二人の心はどこか穏やかに静まっていた。

 その時間は、永遠に続くかのようだった。

 これまで彼らが過ごしてきた、気の遠くなるほど永い時間と同じに、どこまでも、また気が遠くなるほどに、永く。

 しかし――永遠など、夢幻に過ぎないと告げるかのように。

 優しくとばりを下ろす静謐に、小さな靴音がかすかな波紋を広げた。

「……とうとう、来たのか」

 窓辺から離れたウェスペルスは、ゆっくりと、階下に続く螺旋階段の前へと移る。

 一つ、また一つと大きくなる足音は、やがて一人の人物を招き入れた。

 ウェスペルスが、そして春咲姫が――再会を渇望し、しかし再会するべきではなかった、かけがえのない人物を。

「……カイン……」「パパ……!」

 二人それぞれの、万感の想いのこもった呼びかけに、カインはゆっくりと顔を上げる。

「――久しぶりだな」

 カインもまた、こみ上げるものを噛み締めるように目を伏せた。

「二人とも、大きくなったな。本当に……見違えるほどだ」

 かつて、もう一度聞きたいと願い、しかし叶わなかった父の声――。

 千年を経て再びまみえたその優しい声に、少女はあらためて心震わされ、すべてをなげうってでも、愛する父の胸にすがり付きたくなる。

 ――話したいことがいっぱいあった。それこそ、数え切れないほどにいっぱいあった。聞いてほしかった。聞いて、あの頃のように、優しくうなずいてほしかった。

 いや――聞いてくれなくてもいい。ただそこに……ただそこにいてくれるだけで、どんなにか嬉しいだろう……。

 だが――それは、望んではならないことだった。

 自らが預かる数多の命のため、生きたいという人間の願いを護るために、訣別を誓った彼女にとっては。永遠が罪であろうと、罪として背負い続ける覚悟を決めた彼女にとっては。

 だから彼女は、自らの衝動を必死にこらえ、あふれそうになる涙を懸命におさえ――記憶の中の姿そのままの父を、気丈に見据えた。

 いや――彼女だけではない。

 ウェスペルスも、そしてカインも、その胸には言葉に尽くして語りたい想いが、汲めども尽きない泉のようにあふれているはずだった。

 だがどちらもまた、己の立場に言葉を封じ、なすべきことをなすために想いを封じる。

 立ち塞がる者の命を断つ――ただ、そのために。

「オリビア。私がここへ来た理由……分かっているな?」

「……はい」

「ならば……もはや、何も言うまい」

 カインは娘との間に立ちはだかる、白い法衣の青年と向き合う。

 かつての少年は、彼の記憶の面影をそのままに、立派な美丈夫へと成長していた。

「カイン……僕の想いはあの時と変わらない。オリビアのためならば――あなたが相手でも、全力をもって戦うだけだ」

「……そうか。私もだ――ウェスペルス」

 二人の所作も気配も、どこまでも静かながら……しかしそれゆえにか、場の空気は加速度的に張り詰めていく。

 かつての嵐の夜をなぞらえるように――二人は、それぞれにとって最も鋭利な凶器であるその身体に、互いの信念を力としてみなぎらせた。

 妥協などあるはずもない――ぶつかればどちらかが砕けて散るしかない、その信念を。

「――――!」

 動いたのは、まったくの同時だった。

 常人からすればまばたきにも満たない刹那、白と黒が薄闇の中に混じり合う。

 初撃からして二人が狙ったのは首――急所だった。

 互いに皮一枚でかわした渾身の貫手は、そうするのが自分の責任と、目を開いて見守る春咲姫の耳に、これまで聞いたこともない音を届かせる――形のない空気すら断ち切ったかのような、あまりに透き通った風音を。

 ただそれだけで、戦いのことなど何も知らない春咲姫にも、二人の立つ場所がはるかな高みであると理解できた。

 まさしく、次元の違う場所……世界で彼らしかいない高所なのだと。

 いかなる達人、戦士であろうと、彼らの渾身の一撃をかわすことは不可能に近い。だが今彼らの間で応酬されているのは、重奏のごとく、あるいは嵐のごとく響き渡る、あの透き通った風音が表すまま、余すところなくすべてがその必殺の一撃だった。

 拳も、脚も、その挙動のすべてが、頭を砕き、首を裂き、心臓を貫く――そのためだけに費やされる。

 重なり合い、離れ、また重なる……。

 激しく目まぐるしく交錯しながらも、しかし決して混ざり合うことのない表裏たる白と黒は、まさしく彼らの象徴だった。

 互いに生と死のつむぎ手として、生と死の境界で綱渡りを続ける、彼らの。

「……ウェスペルス……パパ……」

 まるで目が追い付かない二人の動きに、これ幸いと顔を背けようとする臆病な心を必死に奮い立たせ、少女は死神同士の死闘を見守り続ける。

 だが、彼女が目を背けずにいられたのはもう一つ理由があった。

 彼らの殺し合いは――そう、それ自体は殺し合いという野蛮な行為であるにもかかわらず、背筋が寒くなるほど美しかったのだ。

 本来なら振れ動いた果て、どちらかに傾くしかないはずの生と死が、せめぎ合い、完全なまでの調和をもって共存する空間――その至高の二律背反が、彼女の無意識を惹き付けていたのだ。


 拳は打ち、弾き、あわせて空が震え――。

 脚は蹴り、かわし、つられて空が啼き――。

 指は貫き、さばき、ひかれて空が吼える。


 卓越した技術ゆえに――そして、慈悲深いがゆえに。

 一撃の下に決着をつけんとする死神たちの拳舞は、決して一つとなることのない彼らの象徴そのままに、永遠を刻むかのように止むことなく繰り広げられた。




 ――それは、一時として気を抜くことを許さない、生死をかけた時間だ。

 にもかかわらずウェスペルスは、相手を殺すことに集中しながらも……しかし心の片隅で純朴に、懐かしいと感じていた。ずうっと、永い間、この瞬間を待っていたかのような……そんな気すらしていた。

 殺意を鈍らせることなく。決意を曇らせることもなく――。

 絶え間なく急所目がけて必殺の一撃を見舞い続けながら、しかしウェスペルスはなぜか――目尻に一滴、涙が浮かぶのを自覚していた。

「――――!」

 思考はもとより、本能や勘といった感覚さえ超越した反応で、首を狙ってきたカインの貫手を紙一重でかわしたウェスペルスは、そこに一瞬、カインの死角が生まれたことを悟る。同時に――今度ははっきりと、懐かしさを感じた。

 脳裏に、あの嵐の夜の光景が、雷光のように閃く。

 ――そうだ……あの時も、この一連の動きからだった。

 思わず涙したのは、また同じ結果を繰り返すことを、察したからか――。

 すかさず、カインの死角へと潜り込む。それは、時間にすれば数えることすら難しいほどの一瞬だ。

 しかし彼らほどの人間にとって、放つ一撃を真に必殺とするには、それは充分過ぎるほどの時間だった。

 ――カイン――!

 思い出の光景をなぞり――ウェスペルスは無防備なカインの心臓目がけて、渾身の貫手を放つ。その感触と、迎える結末すら、あの夜のままに――。



 果たして、渾身の貫手は、狙い通りに心臓を貫いていた。

 ……ウェスペルスの、心臓を。

「ウェスペルスっ!」

 春咲姫の悲鳴でようやく事態を理解したように、ウェスペルスは自身を見下ろす。

 彼の指は、カインの胸を切り裂く程度に終わり――代わりに、黒衣に包まれた腕が、彼の胸を、疑いようのないほどに深く、貫いていた。

「カイン、あなたは……」

 あの一撃は、決してかわしようなどないはずだった。まして、そこに反撃を乗せるなど。

 そう――。

 あの流れを知り、死角を知り。そしてそこからの一撃を、あらかじめ知っていなければ。

「覚えて……いたのか。自らの命を奪った……一撃を。いや――」

 そこで一度血を吐き出し、ウェスペルスは弱々しく、微笑んだ。

「あなたのことだ。きっと……千年前のあの夜も……見切っていたんだろう。見切っていながら……あなたは、その優しさゆえに……ためらったんだ、あの時は。……この一撃を」

「優しさなどではない――ウェスペルス。私はただ……弱かっただけだ。声高に正論を語りながら、その実、大切なお前たちを喪う恐れに屈しただけなのだ……」

 カインはウェスペルスの身体を支えつつ、胸を貫く左腕を抜く。

「僕は……あの日あなたを殺したことを、後悔していない……つもりだった。

 でも……僕もまた……同じだったのかも知れない。……オリビアと。僕もあの日……自分こそが死ぬべきだったと……そう……どこかで想い続けていたのかも……知れない」

「……ウェスペルスっ……!」

 たまらずそばへ駆け寄った春咲姫が、取り上げたウェスペルスの手を両手で包み込む。

 ウェスペルスは何を言うでもなく、ただ、少女に笑いかける。

 春咲姫も何を言うこともなく、ただ、取った手を慈しむように自らの頬にあてた。

「ウェスペルス……お前はあの日からずっと、変わらずオリビアのそばにいてくれたのだな。護ってくれていたのだな。

 ……ありがとう、本当に。よく――本当によく、頑張ってくれた」

 カインの言葉に、穏やかな顔をしたウェスペルスの目尻に、大粒の涙が浮かぶ。

「約束……だったから。あなたとの……オリビアとの。それに……何より、それこそが……僕の願い、生きる意味……だったから。

 でも……ああ――僕はこんなにも……待ち望んでいたのか。……カイン。あなたにこうして……よくやったと、ほめてもらえる……その時を」

「ウェスペルス……」

 春咲姫は、想いが言葉以上に伝わるようにと、ウェスペルスの手をぎゅっと握る。

 ウェスペルスは、小さく――しかししっかりとうなずき返した。

「大丈夫……オリビア。僕は……君が望む限り、そばにいるよ……ずっと。……約束――だ」

「うん……約束だよ」

 春咲姫の答えに、いかにも満足そうに……ウェスペルスは目を閉じた。

 静かに――眠るように。

「約束だよ……」

 もう一度繰り返し、春咲姫は握っていた手をそっと、ウェスペルスの胸元に戻す。

 庭園の優しい緑の中に横たわるウェスペルスは――ただただ、美しかった。だがそれは、人間離れしていて近寄り難いほどだった普段の美しさではなく、あくまで人らしい、人としての、人であるがゆえの美しさだった。

 命の終わり――それが、浮き世離れしていた彼という存在を引き留め、ようやく『人』として、この世に完成させたかのように。

 その姿を愛おしげに見つめていた春咲姫は、やがて、意を決したように立ち上がった。

 続いてカインも膝を伸ばし、父娘は、あらためて向き合う。

「私にこんなことを言う資格は無いのかも知れない。だが……一つだけ、言わせてくれ。

 ――オリビア。お前は、本当に立派に育ってくれた。私と母さんの……一番の誇りだ」

「……パパ……!」

 まさかそんな言葉をもらえると思っていなかった春咲姫は、驚きのままに父の顔を見上げた後……とうとう、こらえきれなくなった涙を、その大きな眼からあふれ出させた。

「パパ……。ごめんなさい……わがまま言ってごめんなさい……。いやなお願いしてごめんなさい……。つらいことを押し付けて……ごめんなさい……!」

 子供に戻ったかのように嗚咽を漏らす娘。

 父はその頭を、大きな手でそっとなでた。

「……いいんだ。私は、至らない父だったが……それでもやはり、お前の父親なのだから」

 娘が泣き止むのを待ち――父は、頭をなでる手を止めた。

 喉まで出かかっていた、すまないという謝罪の言葉は呑み込む。

 これは、受けるべき罰であり――そして、すべての罪を背負って逝く覚悟の彼にとって、決して口に出すわけにはいかない言葉だったからだ。

 だから、彼はこれ以上は何も言わず……不意に、その凶手を突き出す。

 そして――


 愛する娘に。その胸の奥に咲く、小さな一輪の花に。

 永遠の命に。庭都(ガーデン)に在る、すべての人の命に――。


 迎えるべき死、夢の終わりを――厳かに告げた。




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