4.子の心は
昼食を終え、いつものように寝室でサラのいれてくれた紅茶を飲みながら、しかし彼女の話に相づちを打つ春咲姫は上の空だった。
嬉しいのか、悲しいのか……彼女は己の感情を計りかねていた。
「……春咲姫? 大丈夫ですか?」
春咲姫は曖昧にうなずいてから、サラに――というより自分に問いかけるように、口を開いた。
「わたしは……嬉しいのかな。悲しいのかな」
何が、と掘り下げるわけでもなく、かといって適当に合わせるわけでもなく、サラはおだやかに首をかしげた。それだけ聞けば、心中を察するには充分だとばかりに。
「それは相反する二つの感情ですが、だからといってどちらか一色にしか染まらないほど、人の心は単純ではないと――私はかつて、春咲姫に教えていただいた記憶がありますよ?」
春咲姫は、はっと顔を上げてかたわらのサラを見上げる。
サラは優しく微笑んでいた。
「そう……そうだったね。おかしいな、わたしはそのことをよく分かってるはずだったのに」
「自分の心のことでも、なかなか思う通りにならない……それもまた人間、でしょう?」
サラの言葉に、春咲姫はまたうなずく。
彼女によって、心の中の、どうにも置き場所を決めかねていた感情は、そもそも専用のスペースがあったかのようにすんなりと落ち着いた。
――そう、どちらも間違いなくわたしの想い。ただ、そのせめぎ合いに理由をつけて、勇気をもてない自分に言い訳をしていただけなんだ。単純な問題を、複雑なようにつくろって、決心を鈍らせていただけなんだ……。
「……よし……!」
自分の中の気弱さに踏ん切りをつけた春咲姫は、力強く、すっくと椅子から立ち上がった。
「動きやすい着替え、用意してくれる、サラ? ちょっと出かけなきゃいけないの」
「……それで、私に付いて来て欲しいというわけね?」
呼び出された中庭の噴水前で、ドレスというよりワンピースに近い簡素な服装に着替えた春咲姫に話を聞かされたライラは、内心の高ぶりを抑え込みながら、努めて冷静に問い返す。
そんなライラの思いなど当然知るよしもない春咲姫は、草色のケープの端を握り締めて、素直にこくんと首を縦に振った。
「ライラも、ついこの間大変な思いをしたばかりだって言うのに、無茶なお願いかも知れないけど……」
「そのことなら大丈夫よ。大した怪我でもなかったのだし」
微笑みながらライラは、彼女自身の決意を実行に移すのに、またとない機会だと考えていた――同時に、しかしだからこそ慎重にならなければ、とも。
「それで……大丈夫? ライラ、一緒に来てくれる?」
「ウェスペルスも居ないのに、もし私が無理だって言ったら、どうするつもりだったの?」
「いざとなれば一人でも行くよ、もちろん。だって、これもわたしの役目だもの」
しっかりとした意志をもって見上げてくる瞳に、ライラはため息をつかずにはいられなかった。
こうした性格だからこそ、皆に慕われ、愛されるのは疑いようもないのだが、もう少しで良いから、こういうときは立場をわきまえて自重するようにして欲しいものだ、と。
「まったく……あなたは。――大丈夫、ちゃんと一緒に行ってあげるわよ、心配しないで」
勢い込んではいたものの、やはり不安だったのだろう。ライラの返答に、春咲姫は胸をほっとなで下ろした。
「うん……ごめんね。ありがとう」
「いいのよ。……さて、そうと決まれば急いだ方がいいわね。私は私で準備を済ませてくるから、あなたは南門の方で待っていてもらえる? 車もそちらに回すわ」
春咲姫に指示を出しながら、ライラは計画を――『彼女自身の』計画を練り上げていく。
「うん、分かった。……そうだ、ウェスペルスにも連絡しておいた方がいいよね?」
「そうね――。それも私がやっておくわ。あなたは、自分の準備を見直しておきなさいな」
当然のようにまるで疑いももたず、素直に指示を受け止めて駆け出していく少女。
その遠ざかる小さな背中に、罪悪感という胸の痛みを感じながら……。
ライラもまた、行動を開始した。
*
「……さあ、そこにかけて。楽にしていいのよ?」
そう言われてノアは、気もそぞろに生返事をしながら、勧められるままリビングのソファに腰掛ける。
一瞬遅れてそのとなりに、普段なら飛び込むように座るはずのナビアが、どことなく上品に腰を下ろした。
やっぱり緊張しているんだろうか、とその表情をうかがって、ノアはすぐにその考えが間違いだと知る。
嬉しそうなナビアの顔は、とても緊張でこわばっているとは言いがたい。つまり、ナビアは嬉しさあまって、少しばかり気取っているだけなのだとノアは理解する。少しばかり大人ぶって、自分はもうこんなに立派になったと見せたいだけなのだ。
そう――マルタという名の、二人の実の母親に。
「あらノア、どうかした?」
丈の低いテーブルを挟んで向かいに腰掛けたマルタがそう首をかしげても、ノアは「別に」と素っ気なく答えながら、彼女をじっと見ていた目を、あわててそらすことしかできない。状況を素直に受け入れているらしいナビアと違って、彼はまだ頭の中の整理ができずにいた。
ここへやって来て、呼び鈴を鳴らすとき、現れた母にどんな顔をすればいいのか、自分たちのことをどう説明すればいいのか――あらかじめ色々と考えておいたはずが、いざとなるとまた対応についてさんざん悩んだ。その上で、冷たくあしらわれたときの覚悟まで決めていた。
しかし、拍子抜けするほどあっさりと、現れた母――マルタは彼らを家に招き入れた。
それも、さすがに顔を合わせて名乗った瞬間は驚いたものの、結局、嫌悪されるどころかこうして歓迎されて。
――嬉しくないわけではない。いや、むしろ嬉しいからか、こうまで見事に肩すかしを食らうと、あれこれ考えて身構えていた自分と現実との落差に、ノアは戸惑わずにはいられなかった。
実際に見る母は彼の想像以上に若い。母と言うより、姉と言った方が正しいくらいだ。
そしてそれは、父親についてはデータが残っていないという事実とともに、あらためて彼に、彼ら兄妹と母との間に、埋めようのない溝があることを知らしめた。
かたや、自由奔放な恋愛も含めて、不老不死がもたらすものを全面的に肯定し、受け入れている者と――かたや、不老不死を拒絶し、生命があるべき自然の姿を追及する者との。
いかに母が自分たちを歓迎してくれ、そして優しくしてくれたとしても、やはりその道が交わることはないのだと……その事実に、ノアは少し胸が痛むのを感じた。
あるいは冷たくしてくれていた方が、よっぽど気が楽だったのかも知れない――そんな風にも考えながら。
「……それにしても、本当に、よく来てくれたわね」
ノアの思いを知ってか知らずか、マルタは満面の笑顔を浮かべる。
その笑顔を前に、ノアは言葉に詰まった。
聞きたいことは色々あるし、それを頭の中で整理できる程度には落ち着いてきているはずなのに、喉につっかえているように、なかなか言葉を形にすることができない。
そうしていると、ナビアの方が先に質問を投げかけた。
「ねえ、あの――お母さん。お母さんって……あたしたちのこと、知ってたの?」
何かと物怖じしないナビアだが、その『お母さん』という単語を口にするときだけは、何か踏ん切りをつけるような、不自然な力の込め方をしていた。
それに気付いて、ノアは自分の喉につっかえて、発言を邪魔しているのも同じものなのだと理解する。
結局、まだ口にしていない呼び名――。
生まれたときから春咲姫に預けられ、今の今まで顔を合わせるどころか、連絡すらなかった――愛されているのかすら分からなかった、その事実を飲み下した上で、相手との関係を、絆を、認めて受け入れる――その『母』という特別な呼び方に、怖れにも近い抵抗を感じていただけなのだと。
そしてそれを乗り越えるには、妹がしたように、ただ思い切って踏み切るしかないのだと悟ったノアは、決意が鈍らないうちにと、ナビアの質問を自分もなぞって繰り返した。
「そうだ――母さん。母さんはどうして、俺たちのことを?」
一度口に出してしまうと、後は下り坂を滑り降りるように、すらすらと言葉が出た。あれほどしつこく喉につっかえていたのが信じられないほどに。
同時にその特別な呼び名は、びっくりするほどすんなりと彼の胸に納まっていた――ただあるべき場所に戻っただけだとばかりに。
「天咲茎から連絡があったからね。あなたたちが洗礼を受ける前に姿を消したこと。一般にはまだ伏せてあるけれど、ここへはやって来るかもしれないから、知っておいてほしいって」
母の返答に、当然か、とノアは思う。
自分たちが向かいそうな場所として、母の住まいを候補に挙げるのは自然なことだろう。天咲茎に居る頃、母を嫌悪する発言をしていたとしても、逆に言えばそれは、母という存在を意識しているということに他ならないだから。
……そして現に、自分たちはここにいるのだ。
気持ちに突き動かされ、なかば勢いでここまで来たが、あらためて考えると何と危険なことをやらかしたのだろうと、ノアは内心冷や汗をかく。だが、後悔しているわけではない。
「ああ――でも、心配しないで。あなたたちのことを報せるつもりなんてないから」
ノアの思考を見透かしたかのように、マルタはおだやかに告げた。
今さらと思いながら、しかし、どうして、と問わずにいられないノアに、マルタはさらに続ける。
「せっかく会いに来てくれたのに、追い返すような真似ができるはずもないでしょう?」
「……これまで、そっちからは会いに来るどころか、連絡の一つもくれなかったのに?」
反射的に、ノアがそんな辛らつな台詞を吐くと、マルタは目礼するようにふと目を伏せる。
「――ノア、あなたは花冠院の方々から将来を嘱望された身。
そしてナビア、あなたはそんなノアを、誰より近い存在としてそばで支える身。
そんな、大事なあなたたちだから、洗礼を受け、成人として将来の道が安定するまでは、わたしなんかがヘタに連絡を取ったりして心を騒がせるわけにはいかないと思ったの。
わたしとしては、あなたたちを想ってのつもりだった……でも、あなたはそれがつらかったというのね? ごめんなさい――ノア、ナビア」
「そんな、謝ったりしなくていいよ、お母さん! それは……ちょっとはさびしいとか思うこともあったけど、あたしたち、怒ってたわけじゃないし……。ね? お兄ちゃん――」
同意を求めるように言いながら、ノアの顔をのぞき込むナビアは、どことなく不安そうな顔をしていた。ほとんど初対面と言っていい母にそれが理解できるかは分からないが、ずっと一緒に生きてきた双子の兄には、妹の不安が手に取るように分かった。
事実、ナビアが心配しているように、ノアはこれまでおさえてきた不平不満を、一度にぶちまけたい気分だった。
むしろ冷たくされていれば、やっぱりこんなものかとあっさり洗い流すこともできただろう。だが、こうして優しくされるとかえって、どうして今さら、というやり切れない思いがふつふつと沸き起こってくる。
感情のまま、整理しきれない言葉たちの塊は、喉元までせり上がっていたが――
「……分かってる。子供の頃は頭にもきたけど……今はもう、怒ってない」
ノアはそれを、毅然と押し戻した。
その原動力になったのは、他でもない、母親というものについて尋ねたときの、ルイーザの返答だった。自分たちを助けてくれた恩人の、あたたかい言葉でつむがれた、同じ母としての願いだった。
「怒ってなんてないよ……母さん」
いったん抑えきってしまえば、静かに凪いでいくのみとなった心をそのままに、ノアは静かに首を振った。すぐとなりで、ナビアが表情をゆるめているのを感じながら。
「そう……ありがとう」
言葉少なに母は礼を述べる。わだかまりを感じなくなった子には、それで充分だった。
親子はそれからしばらく、互いにかける言葉を探しているのか、無言でいたが……やがて顔を上げたマルタが、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「それで、やっぱり……あなたたちは、わたしとその話をするために……ここへ?」
予期せぬ歓迎を受けたこともあり、ついつい意識の脇によけられていた、自分たちの本来の目的を思い出したノアは、居住まいを正し、まっすぐにマルタの目を見た。
言わずとも察したのだろう、ナビアも、彼に合わせる。
「いや、違うよ。俺たち、お別れに来たんだ。
――俺たちはこれから……地上に降りる。そして、庭都にはもう二度と戻らないつもりだから。だから……お別れを言いに」
マルタの顔に、サッとこれまでにないほど色濃く影が射した。
そこにあるのはきっと、驚きだけでなく、地上に対する嫌悪や恐怖も含まれているのだろうとノアは思う。そしてその反応については、ほぼ彼の予想通りのものだった。
「地上だなんて、そんな……。生命の消え去った、恐ろしい死の土地だというのに」
「確かに地上は、この庭都のような楽園にはほど遠いと思う。でも……荒れ果ててはいても、生命の一かけらすら存在しない、そんな場所じゃないはずなんだ」
一つ一つ、ノアは自ら噛み締めるように言葉をつむいでいく。
その脳裏を過ぎるのは、いつか見た、鳩の親子の姿だ。あの鳩の存在が、地上が完全な死の土地でない証拠だった。
「どのみち、俺たちは庭都にはいられないんだし、行くしかないんだ。それに、地上をそんな場所にしたのは人間自身だ。だから、その行く末を見るのは、俺たち人間の義務でもあると思う。
――大丈夫。ナビアも一緒だし、どんなに過酷な環境でも、きっとなんとかなるよ」
決意を言葉に込めるノアに続いて、ナビアも、大丈夫、と両拳を握り締めてみせる。
そんな子供たちを交互に見比べ、母は小さくため息をついた。
そこに込められているのは諦めのようなものなのだろうが、ノアはそれでいいと思った。ここで強く引き止められたりすれば、その優しさに甘えて、決心が鈍ってしまいそうだったからだ。
不死を否定する者と肯定する者と……決して道が交わることはなく、別れるのは必定だというのに、それが分かっていてなお、母と自分に甘えて、不可避の選択をずるずると先延ばしにしてしまいそうだったからだ。
「……もう決めているのね。なら、この地区にあるエレベーターを使うつもりで……?」
「さすがに天咲茎の方を使うのは難しいだろうから。そのつもりで来たんだけど」
何か気懸かりでもあるのか、ノアのその返事に、マルタは眉間に皺を寄せた。
マルタの家と、その周囲を警戒していたカインは、玄関に人の気配を感じて意識を向ける。
姿を見せたのはノアだった。彼を捜しているのか、きょろきょろと周囲を見回している。
気配を殺していたカインは、辺りに誰もいないことを確認し、わざと音を立てて近付く。
すると、いきなり人が現れたように感じたのか、ノアは小さく声を上げて驚いた。
「すまない、驚かせる気はなかったのだが。……どうかしたのか?」
カインの問いに、言葉を選んでいるのか少し間を置いてから、ノアは答える。
「あの、母さんの話によると……この地区にある地上へのエレベーターと、その周辺の警備って結構厳重らしいんだ。それで、ひとまずナビアは母さんに預けておいて、様子を見に行こうと思うんだけど……その、付いてきてもらえないかな、って」
ノアの依頼にカインは、ナビアと兄妹の母が談笑しているらしく、明るい声が聞こえてくる玄関の向こうをちらりと見やった後、首を横に振った。
「私が一人で行こう。下調べなら、それで充分だろう?」
でも、と戸惑うノアを尻目に、カインはもう一度家の方に視線を向ける。
「仲直りができたのだろう? 母と」
機械的な『あの人』でも、形式だけの『母さん』でもなく……ごく自然に、普通にノアが母さんと口にしたことにカインは気付いていた。
「あ、ン……まあ、そう……なるのかな」
これまで張ってきた意地のせいもあるのだろう、面と向かってそうだとはっきり認めるのは恥ずかしいらしく、うつむき加減に曖昧にうなずくノア。
だが、カインにはそれで充分だった。
「――ノア。この先、お前たちが庭都を捨てて、地上に降りたなら……道をたがえる母とは二度と会うことはないのだろう。だから――」
カインは片膝を突き、視線の高さを合わせると、真っ正面からノアの瞳を見据えた。
「せっかくの機会を――時間を、ムダにするな。下調べなら私がすませる。お前は悔いの残らないよう、少しでも多く、母と言葉を交わせ。少しでも長く一緒にいるんだ。――いいな?」
「……カイン……」
気遣いに触れた、その気持ちを正直に面に出すノアに、カインは深くうなずいてやる。
「……ありがとう。頼ってばかりでごめん」
「気にしなくていい。こうしたことのために、私がいるのだから」
ゆっくりと立ち上がるカイン。
ノアはポケットから自分の掌携端末を取り出すと、カインに手渡した。そして、簡潔に操作を説明する。
「……今言ったやり方で、端末の中に入ってる、ここからエレベーターまでと、周辺の地図、それからエレベーター自体の構造図が見られるから。参考にしてくれよ」
「助かる。……だが、お前の方は端末がなくてもいいのか?」
受け取った端末をしまいながらカインが問うと、ノアはどこか悪戯っぽく笑う。
「母さんとの時間をムダにするなって言ったの、アンタだろ?」
「……そうだったな」
釣られてカインも、してやられたとばかりに頬をゆるめた。
*
碩賢は今日も一人、自室の山と積まれた機器の谷間で、大きな椅子にその小さな身体を沈めていた。
彼がこうして部屋に籠もること自体は、めずらしいことではない。不凋花による不死を得る前――少年の身体へと若返る以前、老人の頃から、彼は年齢を感じさせない精力で、それこそ寝食を忘れて研究に没頭することもあったからだ。
しかし、その日の彼の行動は、普段とは違っていた。端末を忙しなく操るでもなく、紙面にペンを走らせるでもなく、資料のページを矢継ぎ早にめくるわけでもなく――彼はただただ、まるで石にでもなったかのように、ろくな身じろぎもせず、端末も置かれて手狭になっている机の上を見つめていた。
その視線の先にあるのは、開かれた二冊の本だった。どちらも、時代がかった重厚な作りの装丁をしてはいるが、片側がその黄ばんだページからして真に古文書のようなものであるのに対し、もう一方はそうした体裁をつくろっていながらも、素材からして違うのか、つい先日印刷されたばかりのような真新しさを保っている。
彼の瞳はその二つの間を何度も行き来していたが、表情はやはり硬く強張ったままだった。深く皺を寄せるそのさまは、彼が年相応の老いを取り戻したかのようですらある。
「それはありえん話……だが……」
唇が微かに動き、乾いた声で独り言をつむぐ。
開かれた本――それはどちらも研究書だった。
新しい方の一冊は、碩賢自身が以前記した不老不死と不凋花についてのものであり、古い方の一冊は、かつて葬悉教会に伝わっていた予言書についてのものだ。
予言書――『偽典』と呼ばれるそれは、はるか昔、名も無き一人の旅人が組織の保有する教会に立ち寄った際、書き記していったものだと伝えられる。
全部で七十七章に渡っていたとされるそれは、しかし内容が組織の人間にとって好ましくなかったのか、そのほとんどが焼き捨てられた。だが、最後の七十七章だけが奇跡的に難を逃れて、今にまで内容が残っていたのだ。
そして、机上で開かれたページの主な見出しとなっているのが、新しい研究書が『永朽花』の存在についてであり、古い研究書が、『凋零』と題された偽典最終章そのものだった。
「……永朽花……」
紙面をなぞるように、碩賢はつぶやきをもらす。
彼が、不凋花の研究における自らの仮定に付けた、冥界で永久に咲くという神話に基づく花の名を口にするのは、この一時間ほどで何度目になるか分からない。
そう――それはあくまで仮定であり、根拠らしい根拠もない推論だった。
不老不死という、自然の摂理からすれば禁忌とも言える道を開いたことへの罪悪感にでも駆られたのか、森羅万象は表裏一体、という真理におもねる形で付記した、世界そのものへの言い訳のようですらある仮定。
そしてそれは、仮定に過ぎないと固く信じていたからこそ記したのだと、今になって彼は確信する。偽典の一節に、当の永朽花を指すような語句があることも知らないわけではなかったが、それでも、取るに足らないと気にしなかったのは、仮定は仮定のままで終わると信じていたからなのだと。
だが……そんな永朽花についての仮定と予言を、明確に結びつけかねない存在が浮上してきた今となってはどうか。
彼も科学者である。予言というものを、頭から信用するわけもない。
だが、こうしたものをバカバカしいと一笑に付してきた多くの者と違い、彼は頭ごなしに否定することなく、伝説や神話と呼ばれるものにも、何か意味があるはずだと真摯に向かい合ってきた。だからこそ彼は、不凋花を――不老不死を見出すことができたのだから。
ゆえに彼は、これまで固く信じてきた――特別な自覚すら必要とせず信じてきた考えを、あらためなければならないのでは、と感じていた。
ありえないはずのもの――それを認める必要があるのではないか、と。
「最後の罪……畢罪……か」
身体の内側で凝り固まっていたものをすべて外に出すように、碩賢は大きく深く、ゆっくりと息を吐く。
――いや、そもそも予感があったのかも知れん……。
そっと二冊の本を閉じ、碩賢は大きく天井を見上げる。
彼の脳裏には――春咲姫に連れてこられたばかりの、赤ん坊だった兄妹の姿が、ふっと浮かんでいた。
*
ナビアが母に他愛もない話を披露しているのを聞くともなしに聞きながら、ノアは意識を家の外に向けた。
いつの間にか、カーテンの隙間からのぞく景色は、すっかり闇に沈んでいる。
こんなに時間が経っているとは思わなかった、というのがノアの正直な気持ちだ。主に天咲茎での生活のことなどを話題に、もっぱら口を動かしているのはナビアで、彼自身はそれほど話していたわけではないのだが、自分で思っている以上に母との会話に没頭していたらしい。
――そういえば……ちょっと遅いな。
あらためて時間を意識すれば、調査を頼んだカインのことが頭をよぎった。いい加減戻ってきていてもいいのではないか、と心配になる。
だがそれも一時のこと、彼はすぐさま、よりしっくりくる考えに思い至った。
――きっと……時間をくれたんだ。
調査が終わったと報告されれば、未練がましく母との時間を引き延ばさないためにも、ノアはきっぱり別れを告げて出発するつもりだった。しかし、それはカインにはきっとお見通しだったのだ。
だから、今しばらく時間をくれたんだろう――それが、ノアの至った結論だった。
「ん……そう言えば、さ」
ずいぶん前に出されて、今ではすっかり冷め切っているコーヒーをくいと飲み干し一息ついたナビアは、カップを両手で包んだまま、小さく首をかしげた。
「ゼッタイ聞かれる、って思ってたけど……お母さん、聞かないんだね。あたしたちが、どうして不老不死から逃げ出したのか、ってこと」
ナビアの一言に、ノアもそういえばそうだ、と思う。ともすれば考え直すよう説得される可能性も考慮していたが、この数時間の会話の中で、まったくその話題は上らなかったのだ。
やはり、自分たちが母に面と向かって、母の生き方を否定するような意見を語るのにためらいを感じるように、母も自分たちに遠慮しているのだろうか……そう考えるノアだったが、母は表情を曇らせるどころか穏やかな笑みを崩すことなく、静かに首肯した。
「そうね……。でも、それは聞くまでもないことだから」
母の一言に、ノアの記憶には、ルイーザの姿が呼び起こされた。
――そういえばあの人も、余計なことを言わなくても、事情を察してくれたっけ……。
それが母親なのかな、とノアは思う。
赤の他人のルイーザですらそうだったのだ、実の母ともなればそれこそ、何でもお見通しということなのかも知れない、と。
不死を否定した理由を理解した上で、進む道をたがえることも認めてくれているんだ――。
そう思い至ると、カインやルイーザが彼らの考え、生き方を支持してくれたときとは、また違う感慨があった。
カインたちのときは、背中を支えられるような感覚だったが、母に認められるというのは、肩の荷が下りるような感じだった。胸を張りたくなるような感じだった。
やはり来て良かった――と、しみじみ考えていたノアは、呼び鈴の音に我に返る。
彼がこの結論に達するのを待っていたかのような絶妙のタイミングに、ノアは気恥ずかしさも手伝って苦笑しながら、カインを迎えるべく立ち上がろうとする。
だがそんな彼の動きを制して、母マルタが先に席を立った。
「待って。まだ誰だか分からないのだから、あなたたちはここにいて。いいわね?」
十中八九カインで間違いないはずだが、母の言うことにも一理あると、ノアはソファに座り直す。そしてナビアとともに、居間を出る母の背中を見送った。
「……おじさん、わざとゆっくりさせてくれたのかな」
「ああ。そうだと思う」
同じこと考えてたんだな、と思いつつ、ナビアの言葉に相づちを打つノア。
「お待ちしていました、ご苦労様です」
玄関の開く音に続いて、マルタの声が聞こえてくる。
カインが戻ってきた以上、いよいよここを発つ覚悟をしなくてはならない。
あらためて、母にどういう別れの挨拶をすればいいのかと考えるノアだったが、居間の戸口に人の気配を感じたので、まずはカインにお礼を言うのが先だと思い直す。
「あ、お帰り。その、任せっきりにして――」
ごめん、と謝罪から口にしようとしたノアだったが、それは言葉にならなかった。
文字通り――息が止まる。
「――久しぶりだね。ノア、ナビア」
戸口に現れたのは、カインとは似ても似つかない小柄な人物だった。
兄妹にとってはカインよりもずっとなじみ深く――しかしだからこそ、ここにいるはずのない人物。
「……フ、春咲姫……!」
ノアの震える唇が、少女の呼び名をつむぐ。
「来たよ――迎えに」
可憐な花のごとき表情を、どうしてか、さびしげに曇らせながら――。
しかしその瞳は兄妹を見据えてきっぱりと、春咲姫は告げた。




