6.ありえない存在
「……おや、珍しいの。そんなに急いでどうしたんじゃ?」
自らの執務室を出たところでばったりと出会ったウェスペルスの様子に、碩賢は見た目はいかにも子供らしく、首をかしげて尋ねる。
ウェスペルスはよほど何かを思い詰めていたのか、彼にはめずらしく一瞬驚いた様子を見せたが、すぐさま普段の落ち着きを取り戻し、朝の挨拶がてら一礼して、答える。
「――『霊廟』へ、行ってみようと思いまして」
碩賢は、その言葉に目に見えて眉をひそめた。
「……それはまた、お前さんらしくないの。何かあったのか?」
「グレンが後れを取ったそうです。先刻、連絡が入りました」
ウェスペルスの静かな報告に、碩賢はその大きな瞳をいっぱいに見開く。
「何と、あのグレンがか? ありえんとは言わんが、信じがたいことじゃな……」
「ご存じのように、グレンには僕から一通りのことは話してありますが、カインとの直接の面識はありません。――ですから、万が一を考えて……」
「霊廟へ確認へ行くと? 安息の場所をみだりに騒がすのは感心できんが……」
ため息混じりに首を振る碩賢。
それを真っ直ぐ見下ろしながら、「しかし」とウェスペルスはなおも食い下がった。
「『永朽花』……。碩賢は、自らその存在について、言及していらっしゃいましたよね?」
「それが、そうじゃと言うのか? そもそも、永朽花自体が、理論上のものでしか……」
「――あ! ウェスペルス、こんな所にいたのね」
二人の口論に、唐突に遠間から少女の澄んだ声が割って入った。
水を差された形に、お互い口をつぐんだ二人は、声のする方を見やる。
お付きの女官サラを従えた春咲姫が、小走りに近付いてくるところだった。
「あ、先生も。……もしかしてわたし、お邪魔でしたか?」
碩賢の存在にも気付いた春咲姫は、口元に手を当て、目をまたたかせながら交互に二人を見比べる。
それに対し、当の二人は示し合わせたように同時に、首を横に振った。
「朝の挨拶をしていただけだよ。――それで? 僕に何か用があるのかい?」
「……え? うん、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど……大丈夫かな」
一瞬答えをためらうウェスペルス。
その背中を小さな手でばしばしと叩いて、碩賢は快活に笑った。
「いいともいいとも、コキ使ってやれ。どうもこやつ、少したるんでおるようだからの」
ウェスペルスは一瞬、困ったような視線を碩賢に向けたが、すぐに、それとは分からないほど小さく息を吐いて、春咲姫に笑顔でうなずいて見せた。
「えっと、ホントに大丈夫? 何か用事があったんじゃ……」
「いや、いいんだ、大したことじゃなかったから」
しぶる少女にもう一度念を押すと、ウェスペルスはちらりと一度碩賢を振り返ってから、春咲姫たちをうながして、ともに廊下を歩き去っていく。
残された碩賢は、その後ろ姿を目で追いながらしばらく黙考していたが、やがてきびすを返して、出てきたばかりの執務室に戻っていった。
*
……庭都中央側の駅は、以前とは比べものにならないほどの厳重な警備が敷かれていた。
加えて一般の作業員も多く、それらすべての目をかいくぐるため、ノアが掌携端末で表示する見取り図をもとに、駅舎をそれて車庫の方を抜けるルートを選んだノアたち三人は、人気の無い整備場の地下へと進む。
そこは、これまでの場所とまるで違う、がらんとした大きな空洞だった。
「……ここ、何をする場所なのかなあ」
照明が行き届かないのだろう、隅の方は闇を抱えたままになっている広い空間を見回し、ナビアは小声でノアに尋ねる。
あいかわらず端末をいじっていたノアは、ちらりとだけ視線を上げた後、いつものように少しぶっきらぼうに答えた。
「整備した車両とかを保管しておくんだろ。……ほら、中央には上と繋がる大きな貨物用昇降機があるし、向こうの方には古い型の列車も並んでる」
「それで、この先はどうなっている?」
カインの質問に、ノアは端末が浮かび上がらせる見取り図の映像を見せる。
「もう少しで、敷地外へ出るのに一番良い出口だ。向こうの奥にあるゲートを抜けて――」
しゃべりながら奥を指差そうとしたノアを、「待て」と唐突にカインが制した。
そして周囲の暗がりに一通り視線を飛ばし……小さく舌打ちする。
「待ち伏せされたようだな。――囲まれている」
カインの言葉にノアが驚くより早く――彼らが目的としている方向の暗がりから、ぱん、ぱんと手を打つ乾いた音が響いてきた。
「よく気付きましたね。さすが、これまで散々、こちらの手をわずらわせてきただけのことはあります」
ゆっくりと照明の白い光の下に姿を現したのは、花冠院の一人――ライラその人だった。
「いい加減に天咲茎に戻りなさい、ノア、ナビア。春咲姫が、あなたたちをどれだけ――」
穏やかに語りかけながら三人に近付いていたライラは、突然その動きを止めた。
そして、切れ長の目を大きく見開き――兄妹を護るように前に出てきたカインを見つめる。
ライラとは、それなりの時間をともに過ごしたはずのノアたちでさえ、今の彼女の表情は初めて見るものだった。
それはただ驚く、という程度ではなく――驚愕という表現が何より正しい。
「まさか、まさかそんな――カイン? 本当に……カイン、なの……?」
つい今までのものとはまるで違う、かすれた声を、震える唇からもらすライラ。
対して、カインはいつものように視線は鋭く、悠然と対峙しているように見えたが……やがて一言、ぽつりと言葉をつむいだ。
「――ライラ、か」
当のライラばかりでなく、ノアも、ナビアも――皆が一斉に、カインに視線を集めた。
ライラは名乗っていない。ノアもナビアもライラのことを教えたことはない。
つまりは――知らないはずなのだ、カインは。もともと知っていた、という以外には、ライラを。
「その声も――! どうして……? いいえ、そんな、そんなはずはない……!」
これ以上ないぐらいにうろたえ、動揺するライラ。
その姿を油断なく見ながらカインは、ノアの名を呼ぶ。
自身もまた驚きの中にあったノアは、二度目でようやく気が付いた。
「目標としている奥のゲート……お前の技術で、ロックをかけることはできるか?」
「え? あ、ああ……あれは電子ロックを使ってるから、この端末があればできるけど」
「よし……なら、私がライラを足止めする。その間に、ゲートの向こうへ走り抜けろ」
「カイン、アンタは?」
「機を見て私も続く。その後、ゲートをロックするんだ。……いけるな?」
ノアが、そしてナビアがうなずくのを確かめると、カインはあらためてライラと対峙する。
ライラの驚きはいつしか鳴りを潜め、そこには代わりに、怒りや不審をあらわにした、険しい表情があった。
「……あなたは。あなたは、いったい――何者なのです!」
「お前が言った通り――カインだ、『闇夜の天使』よ。私は、それ以外の何者でもない」
答えるや、カインはすばやく床を蹴った。同時に、ノアとナビアも走り出す。
「っ! させない!」
平静でないにもかかわらず、ライラの反応は恐ろしく早かった。
両の袖口から手品のように一瞬で数本のナイフを取り出すや否や、カインに、そして兄妹への牽制に、舞うような華麗な動きで一気にそれらすべてを投げつける。
刃の構造に細工があるのか、技術の為せる技か、あるいはその両方か。
あたかも生き物のような複雑な軌道の変化をしつつ、驚異的なスピードで迫るそれらを、カインは兄妹をかばうことを第一に考えた位置取りをしながら、超人的な動きで――打ち、払い、掴み、避ける。
さすがにすべてはさばききれず、多少は肌をかすめたものの、カインはひるむことなく前進し、ライラとの距離を詰める。
ライラも二投目は間に合わないと瞬時に悟ったのだろう、ナタに近い大振りなナイフを両手に構え、カインを迎え撃つ。
「……カインのはずがない……! あなたが、カインのはずがないのよ――!」
「言ったはずだ。それ以外の何者でもない、と」
ライラの白い法衣と白刃が目もくらむほどの速さで閃く中、その光輝が映し出す影のように、合わせてカインの黒衣もまた闇に閃く。――何度も、何度も、何度も。
「くっ……! 誰か、兄妹の足止めを!」
何者の介入をもためらわせる、極限まで張り詰めた死出の演武の最中、しかしそれには目もくれず、まっしぐらにゲートの向こうを目指して走る兄妹の姿を認めたライラは、まったく動きを鈍らせることなく、周囲を固めている部下に指示を飛ばす。
恐らくはこの二人の演武に見惚れていたのだろう、指示からやや遅れて、ゲートに一番近い暗がりの中から赤衣の青年が飛び出し、兄妹の前に立ち塞がろうとするが――。
「ぅぐっ――!」
くぐもった声を上げて、その青年は後方に弾かれるようにもんどり打って倒れる。
それが、演武の最中、白刃を避けて身をひるがえすその一瞬の間に、先に掴み取っていたナイフを投げつける――そんな芸当をしてのけたカインのしわざだと見抜いたのは、ただ一人、対峙する当のライラだけだった。
そうしている間に、ナビアとともにゲートの向こうにたどり着いたノアは、大声でカインの名を呼んだ。そしてすぐさま、ゲートにロックをかけるべく端末を起動する。
「――時間だ。これ以上は付き合ってやるわけにはいかん」
身をひるがえして斬撃をかわしたカインは、その勢いを回し蹴りに乗せてライラの腹部に叩き込む。
ライラは反射的に後ろに飛び退いて衝撃を殺し、致命傷を避けるも……肋骨が二、三本砕かれたのを自覚していた。
「ぐっ……! あ、あなたが……! あなたが、カインのはずがないのよ……っ!」
喉をせり上がってくる血を吐き出しながら、ライラは、すでに兄妹の方へと走り出していたカインの背中に、呪詛のように言葉を叩き付ける。
「カインは――死んだ! あの日、確かに死んだのだから……ッ!」
「……え……?」
カインが滑り込んでくるのを合図に、端末を操作して電子ロックをかけ、ゲートが閉じるまさにその瞬間――わずかな隙間をぬうように届いたライラの言葉に、ノアたちは絶句する。
「い、今の……今のって……」
見上げてくる二対の瞳に、閉じたゲートに背を預けたまま、カインは静かにうなずいた。
「……彼女の言う通りだ。本来、私はすでに死んだ身。生きては――いないのだ」
「は、はあ? そんな、そんなことって……」
突然の、あまりに予想外のカインの告白にうろたえるノア。
そんな彼を叱咤したのは、意外なほど冷静なナビアだった。
「お兄ちゃん、話は後! 今は早く行かないと!」
「――すまん、ナビア」
カインは短くそう告げると、兄妹の先に立って走り始める。
ノアも、ナビアに引かれるまま、その後に続いて足を踏み出したが――。
「一体、どういうことなんだ……?」
閉じたゲートの向こうのライラに問うように、ちらりと一度だけ、背後を振り返っていた。