2.命が咲くには
熱で頭がぼうっとする。
眠りも浅い。
そのせいか、見る夢が妙な現実感をもっていて、本当のところは眠っているのか起きているのか、どうにも曖昧になる。
頭の中で夢と記憶が同じ色をして浮かび、ごちゃごちゃと混ざり合い、勝手に目まぐるしく移り変わる。
そんな思考の流れに翻弄されながら、しかしナビアはふと見かけた記憶の断片を、何とか意識して拾い上げた。
(そういえば、あれっていつだったかなあ……)
――それは、身体が弱い彼女が、特にひどい高熱を出して倒れたときのことだ。
熱を出すのは特別めずらしいことでもなかったが、そのときの高熱は、報告を受けて駆けつけた碩賢が、普段見せないような険しい顔をしていたぐらいだから、よっぽどだったことが分かる。
そして当のナビア自身も、その高熱はただ事でないことを理解していた。
いや――もっと正確に言えば、意識したのだ、そのとき彼女は……『死』を。
かつて、天咲茎の裏庭に迷い込んできたあの親鳩によって初めて触れ、感じた、『死』――それが、他でもない、自分のすぐそばにも迫ってきていることを。
……怖かった。
死にたくない、生きていたいと、必死に自分の命の灯を守ろうとした。
吹き消されないように、奪われないように、か細い灯りを必死に胸に抱き続けた。
だが、まだ幼くか弱い彼女は非力だった。死の冷気にあてられ、その灯は今にも消えてしまいそうになった。
そんなとき、かすむ視界にぼんやり浮かび上がったのは、彼女を呼ぶ兄の姿だった。
そしてふと、彼女は思った。
――あたしが死んだら、お兄ちゃん、どう思うだろう? どうするんだろう……?
素直じゃなくて、意地っ張りで、強がりで、でも……本当は優しい兄のことだ。きっと泣いてくれるだろう。いっぱい悲しんで、いっぱい泣いて……それで……。
――それで?
彼女は素朴に疑問をもった。それで、どうなるんだろう? と。
そして……そのとき、見たのだ。
高熱に浮かされた頭が見せた、幻覚のようなものなのかも知れなかったが……遠い未来の、可能性の一つらしき光景を。
その中にいたのは、大きく成長した兄だった――ナビアの死を悲しみ、そして悲しんだゆえに、そうした死を無くそうと研究に打ち込み、命を、より慈しむようになった兄の姿だった。
――ああ……そうなんだ。
それで、彼女は悟った。
恐れ、拒んでしまっていた『死』に、まるで真逆の光を見出した。
たとえ自分が死んでも、ムダなんかじゃない――あの親鳩が死んだとき、自分が、兄が、小鳩が、何かを感じ取ったように。
誰かがきっと、そこからしか得られない、大事なものを受け継いでくれる――それこそが、『死』の意味なんだと。
――花が散っちゃうのは、そこから、もっとキレイな花を咲かせてあげようとするからなんだ。きっと、人もおんなじなんだ。
そうやって、ずっと……続いてきたんだ。
「今のところ、情報網に動きはナシ、か……」
体調を崩して寝ているナビアのベッドの脇。
すぐそばに引っ張ってきた小さなテーブルで、掌携端末を使って警備隊を中心とした情報の流れを監視していたノアは、特に警戒するような動きがないことを一通り確認し終わったのを機に、いったん視線を外して、こりをほぐそうと首をぐるりと回した。
「さて、と……」
ナビアがまだ大人しく眠っていることを確認すると、ノアは額の濡れタオルを新しく冷やしたものと取り換えてやる。気持ちいいのか、ナビアの寝息は少しばかり穏やかになった。
そうして寝込んでいる姿を見て、ついノアが思い出したのは、今まさに当のナビアが夢うつつの中で思い返している記憶と同じ出来事だった。
……高熱を出して倒れたのがちょうど一人でいるときだったため、発見が遅れ、生死の境をさまようことになったナビア。ノアがその事態を知ったのは、容態が峠を越えて安定してからだったため、最も危険だったときを実際に目の当たりにしたわけではなく、結果として、彼はそのとき、妹の死を感じることはなかったのだが……。
「……だけど……お前は違うんだよな。あのとき、一体何を感じたんだろう……」
ノアもナビアも、そのときにはすでに、不老不死に違和感を覚え始めていた。命の在り方として正しくないのではと疑い始めていた。
だが、実際に生きるか死ぬかという体験をしたのだから、ナビアはその考えを曲げてもおかしくないとノアは思っていた。妹が死の恐怖を語り、不老不死を望むなら、自分も考え直すべきなのでは、とすら考えていた。
しかし――ナビアは考えを変えなかった。いや、むしろ、それ以前よりもその想いに迷い無く、洗練されているようにすら見えた。
もともとが説明下手だし、高熱のせいで記憶が曖昧になったりしたということもあるのだろうが、病の床で何を見、感じたのか、ナビアはノアに語ろうとはしない。しないが――それが何もなかったという意味でないのは、ノアには明らかだった。
「今思えば……天咲茎から逃げる、その考えに――信念に付いてきたのは、お前が俺に、じゃなくて……俺がお前に、だったのかもな。
えらそうなこと言っておきながら、俺なんてまだ、迷いも甘えも残ってるんだから」
言っていて自分が情けなく感じてノアは、はあっ、と大きく息を吐いた。
「……しっかし……カイン、遅いなあ。もう暗くなってきたぞ」
窓の外の景色は、気付けばすっかり夜の気配を帯びている。
このままじゃ夕食がいつになるか分からない――そう考えたノアは、ナビアがよく寝ていることをもう一度確かめてから、カインが帰ってくるまでに何か、自分でもできる準備をしておこうと、食堂のキッチンへと向かうことにした。
*
「――失礼します、春咲姫」
部屋に入ったサラは、一礼してから木製のドアを静かに閉める。
六角形をした壁一面に、背の高い本棚がずらりと並ぶそこは、名目としては書斎であるものの、歴史の古い図書館を思わせる造りをしている。主の座す机も、使用者に合わせて丈が低く作られているものの、雰囲気に沿った重厚な、それ自体が装飾のような素晴らしい調度品だ。
そんな机の上に端末の映像、書類、そして分厚い本を何冊も整然と並び立てたその向こうがわで、せわしなく動く小さな頭があった。
この部屋の主人である、春咲姫その人だ。
「……あら、サラ? どうしたの?」
サラが机の前まで近付いたところで、ようやくその存在に気付いたらしく、少女は手もとの本へ落としていた視線を上げた。
「はい、夕食の用意が整いましたので」
「あ……もうそんな時間?――ホントだ。うん、ありがとう」
柱時計にちらりと目をやって時間を確かめると、開いていた本を閉じて机の端に置く。
サラは、机上に広がる様々な資料を一通り目で追い、「今日も、出生率低下の原因についての勉強ですか?」と尋ねた。
春咲姫は、端末の電源を落としながらうなずく。
……庭都における子供の出生率というのは年々減少し続け、ついにこの二百年で新生児はノアとナビアの二人だけ、という事態になったのだが、未だにその理由は判明しないでいた。
人の生殖機能自体に異常が出たわけではない。ただ――産まれない。
完璧な環境を整えた上で人工授精を試みても、なぜか、ことごとくが失敗するのだ。
まるで……これが人の総数の限界であり、これ以上増えてはならないとばかりに。
あるいは、ここが――人の歴史の限界であるとばかりに。
「ですが……春咲姫や碩賢ほど、庭都の人々はこの事実を憂慮していないようですね」
「うん……そうね。みんな、悲観的にならないのはいいことなんだけど……」
春咲姫は小さく首を振った。
サラの言うように、庭都の住民、特に庭都建設後の新史生まれの人間は、この事実を知ってはいても格別問題視はしていなかった。
死が失われた以上、子を生し、それによって歴史をつむいでいく、という認識がなくなったのが一因としてあるだろうが、加えて、不凋花によって庭都全体が一つの共同体として結ばれているため、新しい家族という存在に対して執着が弱いというのも理由に挙げられる。
要は誰もが皆、子供が産まれなくてもさして問題ない、と考えているのだ。
それどころかむしろ、子供という存在に恐怖を抱く人間もいるほどだった。ある程度の年齢に達するまで洗礼が受けられない以上、いくら天咲茎などが全力をもって子育てを手助けしようとも、そこには常に『死』の影が付きまとうからだ。
「でもやっぱり、わたしは……街の色んな所に子供たちがいて、それがみんな、元気に、幸せそうに笑ってる……そんな光景も見てみたいの」
春咲姫は、穏やかに――彼女以外の誰も持ちえない、無垢な、そして慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
だが、それを見るサラの胸中には、一抹の悲しみが過ぎる。
理由は明白だった。春咲姫と崇められるこの少女だけが――この不老不死の庭都において最も慈愛に満ちた彼女だけが、皮肉にも、不凋花との共生でも癒されなかった生まれついての生殖機能の異常により、決して子を授かることのない身体だということを知っているからだ。
そんな残酷な皮肉を再認識し、ふとサラが顔を曇らせるのに気付いたのだろう。少女は、気にしなくていいと釘を刺すかのように、無邪気に笑った。
「それで、街の人たちはともかく、サラはどうなの? 子供を産みたいと思わない?」
一瞬、どう返答するべきかと考えないでもなかったが、余計な気遣いはかえって逆効果になるだけだとサラは、ただ正直に、困った顔をしながら首をかしげた。
「……分かりません。子供は確かに可愛いと思いますけど……それでも、分からないのです。――申し訳ありません、はっきりとしない答えで」
「ううん、いいの。ごめんなさい、こっちこそいきなり変なこと聞いちゃって。
――でも、わたしはサラの子供って見てみたいかな。きっと可愛くなると思うし」
冗談めかして春咲姫がそう付け加えると、サラもまた芝居がかった苦笑を返した。
「母のようなことをおっしゃらないで下さい。今でも会うとたまに言われるんですよ?」
「あはは、それは仕方ないかな。わたしもほら、どうしても普段はあなたを姉のように感じてしまうけど、一応……母親みたいなものだから」
椅子に背中を預けながら、春咲姫はどこか哀愁のあるはかない微笑を浮かべた。
それは、注意して見てもそれと分からないほど一瞬のかすかな変化だったが……余人ならいざ知らず、常に少女に付き添い、ともに過ごしてきたサラが気付かないはずはない。
そして、今の主がそうした表情をするとき、原因が何であるかも、彼女は理解していた。
「その想いは、きっと伝わります……あの子たちにも」
春咲姫は一瞬、驚いたような顔をしたものの、すぐにその一言がサラゆえの鋭い推察だと理解したらしかった。余計ななぜを問うことなく、今度は素直な心境を吐露する。
「そう……わたしは、あの子たちの母親であろうと、心を砕いたつもり。あの子たちがさびしがったり悲しがったりしないように、母親になろうと努力したつもり。
でもね、やっぱり……実の母親にはなれないんだなって思うの。
表面的なものだけだと……もっと根っこの方での、目に見えなくて、でも大きな繋がりの代わりにはなりえないんだなあ……って」
「あの子たちの心については、正直私には分かりません。ですが私は、あなたがどれほどに子供たちを慈しんできたかは分かっています。そしてそれが、決して実の母親との絆に勝るとも劣らないことも。
なぜなら、私自身がそうなのですから。幼い頃から可愛がっていただき、大切にしていただいた私にとって、あなたは、もう一人の、大事な母でもあるのですから」
サラの嘘偽りのない真っ直ぐな瞳と、真っ直ぐな言葉に、春咲姫はまた目を丸くしたが……しかし今度は、陰りのないただただ嬉しそうなはにかみで、それに応えた。
「……ありがとう、サラ。ありがとう……」
どういたしまして、と一礼してサラは、場の雰囲気を変えようと手を打ち合わせた。
「さあ、気分を切り替えるためにも、そろそろお食事に参りましょう」
春咲姫も、陽気に大きくうなずく。
「そうだね。お腹が減ってると、考えがどんどん悪い方にいっちゃいそうだし」
机を手早く片付けると、一度背を伸ばしてから、書斎のドアへ向かう春咲姫。
いつものようにその後ろに付き従いながら、サラは「大丈夫ですよ」と声を投げかけた。
「普段はだらしない父ですけど、こういうときにはきっと、期待に応えてくれます。きっと、あの子たちを連れて帰ってきてくれますから。ですから、そうしたら……話をすればいいのです。あの子たちと、もう一度、じっくりと。そうすればきっと――想いも伝わります」
春咲姫は、じっとその言葉に聞き入っていたが、やがて背を向けたままゆっくりとうなずいた。
「うん……そうだね。うん。ありがとう……サラ」
*
「……遅くなってしまったな」
黄金色の夕日が姿を隠し、代わって星が彩り始めた空を見上げて、カインはつぶやく。
食材と薬品の詰まった紙袋を抱え、通りを歩く彼の周囲をすれ違う住人たちは、装いこそ個々人で違うものの、皆が皆、幸せそうなことだけは共通していた。
至る所に笑顔があふれ、何のかげりもなく穏やかだった。
兄妹を追ってさまよった庭都中心部で、初めて人々の生活を目の当たりにしたときの感覚をカインはあらためて思い出す。
まるで楽園だと、彼はそのとき感じた。いや、今でも街の様子、人々の姿を見るたびにそう思う。
だが、やはりそこにはぬぐい去れず、無視もできない違和感が付きまとう。
今ならその原因が理解できた。不老不死――すなわち『死』の喪失にあるのだと。
人は死をもつからこそ、終わりがあるからこそ――そこへ至る過程をそれぞれのやり方で磨き、輝かせようとする。星の歴史の中に、死をもっても失われない灯火を刻もうとする。たとえ小さくとも、自らの命の証として。
それが――その行程こそが『生』なのだろうと、彼は思う。
だからこそ、違和感を感じるのだ。
幸せそうで、満ち足りていながら、しかし『生きて』いるように見えないと。
幸せな世界、幸せな生活――それらを『生きる』のではなく、ただなぞっているようだと。
しかし彼は同時に、彼自身やノアたちの信じる道が真理であり正道であろうと、決して人々が望む最良の道ではないということも理解している。――人とは、そうしたものだからだ。
死を恐れ、拒み、失われない幸せを願う――その気持ちを、どうして責められるだろう。
だがそれは、願うだけで止めなければならなかった。決して手にしてはならなかったのだ。
その願いは、引き換えとして『人』であること、そして――『生命』であることを手放すことに繋がっていたのだから。
本来あるべき真理を外れた幸福か、苦難を承知で貫く正道か――。
分かたれた二つの道に思いをはせるカイン。すると彼の脳裏には同時に、ノアたちの保護を願った女性から託された、もう一つの願いのことが思い浮かぶ。
数日前まではただ闇にまぎれているだけだったその記憶に、今は少し変化があった。
探ろうとも完全に掴めないのはあいかわらずだが、しかし何かが指にかかり始めたのか……そこに感情の動きが伴うようになっていたのだ。
その際生じるのは、何としてでも思い出さなければならないという――果たさなければならないという、強い義務感。だがそこには同時に、なぜか……思い出すことをためらい、拒む、相反する感情も同居していた。
もともと彫りが深いカインの顔に、さらなる皺が刻まれる。
庭都においては異端となる、正道を求める兄妹を護ること――それだけでもすでに、自らがその正道に背いてまで存在する意義はあると感じる。だが、この身に課せられた役目はそれだけではないはずだった。
なぜなら、それは――『罰』でなければならないからだ。
「おやおや……物憂い顔でどうしました……?」
意識の外からの呼びかけに、カインはハッと、空にやっていた視線を下げる。
近道として選んだ公園の遊歩道。時間が時間だけに、すっかり人気の無くなったその小径のただ中で、街灯の明かりの下、一人の青年が彼の行く手をさえぎるように立ち尽くしていた。
「――ヨシュア……!」
その唇が呼ぶ自らの名……そこに少なからず驚きが含まれていたことが、さも愉快だったのだろう。ヨシュアの顔にうっすらと嘲笑が浮かぶ。
ただし、それは――あざけるという感情だけではない、どこか病的な歪みを含んでいた。
「わたしは……カイン、お前を倒す。倒さなければならないのです……!」
普段の赤衣とは違う、普段着のような上着の内側から、ヨシュアは無骨で鋭利なナイフを取り出す。
その刃が――そして昏い鬼気を宿した瞳が、月明かりに禍々しく輝いた。
そのときカインは気が付いた。そこにあるのが、かつて幾度も目にしてきたが、しかしこの庭都ではありえないはずの人間の姿であることに。
ヨシュアが、死の影――その恐怖におびえていることに。
そして……それを振り払い、打ち克つべく、根源となった自分に固執していることに。
本来なら、その恐怖からは、むしろ当の『死』をもって解放されるはずだった。しかし不死であるがゆえに、解放されるどころか、いや増す恐怖にさいなまれ続けているのだと……カインは悟った。
「――不憫な」
カインの口をついてこぼれ出たのは、そんな憐れみの情だった。
だが、そもそも――彼がしてやれることなど、たった一つしかないのだ。
「いいだろう。もう一度……殺してやる」
抱えていた買い物袋をそっと地面に置いた――かと思うと、次の瞬間には、カインは音もなく地面を蹴ってヨシュアに詰め寄っていた。