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畢罪の花 ~ひつざいのはな~  作者: 八刀皿 日音
三章  万花の園に朽花一輪
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 西暦20XX年 某所  ~ある少女の追憶~


「……ふむ、大丈夫じゃ、身体的な問題はなにも無い」

 先生は白くて豊かなあご髭をなでつけながら、いつものように私にそう言った。

 けれど、その表情は明るくはない。

 当然だ。分かっているのだ、先生も――そして私自身も。問題は身体の方じゃなくて、私の心にあるということぐらい。

 先生の白い髪も髭も白衣も、白い診療室も、白い調度品も、白いカーテンも、白いベッドも……そして私自身の白い手も。私は嫌いだった。怖くて――嫌いだった。

 白は、どんなに美しくても、簡単に血で赤く染まってしまうところが、どうしようもなく嫌いだった。

 切り裂いた喉からあふれる血で染まり、貫いた胸から流れる血で染まり、唇からこぼれる血で染まる。やがて命すら吸い取って、最後には赤から黒へ染まるのだ――私のまわりのあらゆるものが、そして私自身が。

 脳裏を過ぎるそんな妄想が、視界も赤く黒く染めようとする。

 私は必死に頭を振って、大きく息をして心を落ち着かせ、妄想を振りほどく。

 苦しくてたまらないけれど、これはいつものことだから、何とか自分を保っていられるギリギリでふんばる術は、イヤでも身に付いていた。

 いっそ壊れてしまえば楽なのかもしれない――そんな風にも思う。

 けれど、そんなことができるわけがない。なぜならそれこそが、私の最も恐れていることなのだから。

「お偉方にかけ合って、お前さんの『仕事』を減らすように――いや、いっそ休養を取らせるように進言しなければな。そもそもお前さんのような子供には、負担が大きすぎるんじゃ」

 先生は私を気遣ってそう言ってくれる。

 実際、この人なら自分の不利益も顧みずに、言葉通りの行動を起こすだろう。でも、それが受け入れられるわけがない。

 先生の影響力とか、そうした問題じゃなくて……ただ、ありえないからだ。

 私は、この仕事――人を殺すというこの仕事のためだけに育てられ、そして、生かされているのだから――。

「ありがとうございます。でも……大丈夫ですから。いずれ、きっと……慣れます」

 本当にそうなってくれたらどれだけ楽だろう。でも間違いなく、私は慣れることはない。

 人を殺すことに――人の死そのものに。そのあまりのおぞましさに、恐ろしさに、私はずっとおびえ続けるのだろう。

 私はこれ以上ヘタに追及されないように、さっさと先生に一礼して診察室を出た。

 意識を失ったりしないよう、何とか気を張りつめてはいたけれど、正直言って気分が悪くてしかたない私は、自分でもどこをどう歩いているのか分からないような状態で……けれど本能が理解しているのか、何とかいつもの場所にたどり着いた。

 それは、施設の中にある庭だ。

 いわゆる猫の額ほどの広さの、庭と呼ぶのもおこがましい、小さな庭。

 ……そう、私の本能は理解している。

 ここに安らぎがあることを。ここで平穏が取り戻せることを。

「……だいじょうぶ?」

 気が付けば、庭の片すみで膝を突いてえずく私の背中を、小さな手がさすっていた。

 いつものように、彼女が、私をいたわってくれていた。

 彼女と知り合ったのがいつだったかは覚えていない。けれどそのときから、私は彼女に平安を見出し、救われ続けている。

 私たちに『仕事』を課し、それは世のため人のためだと説く、偉ぶった大人の奉る神様なんかじゃなく――小さく可憐な花のような、同じ人間の彼女に。

 忌み嫌うことも恐れることもしなくていい、優しくてあたたかな白。

 決して、いかなる血にも赤く黒く汚れることのない、気高く美しい白。

 ――それが、私にとっての彼女だった。

 彼女は、初めに私をいたわって以来、声をかけなかった。

 ただただ、静かに優しく、私の背中をさすってくれていた――揺りかごでぐずる幼子をあやす、子守歌のように。

 いつの間にか、私は泣いていた。

 泣きじゃくって、本当に幼子になったかのように、おさえ込み、ため込んでいたものを、涙ごと吐き出していた。

「殺したくない……! 死にたくない、殺されたくないけど……でももうイヤだ。もう殺したくない、殺したくないよぉ……!」

「……うん……」

 私よりも幼い彼女は、しかし私よりもずっと人の生死を悟っているかのように……深く大きな心を開いて、私を包み込んでいた。

 やがて涙も止まり……本当の意味でようやく落ち着きを取り戻した私に、少女は愛らしく小首をかしげてもう一度「だいじょうぶ?」と尋ねた。

 私は、今さらながら気恥ずかしささえ覚えながら、大丈夫だと答える。

 しかし、そうしてあらためて正面から彼女の顔を見て、彼女こそ体調を心配されなければならないと感じた。

 彼女の顔はいつにも増して白かったのだ――血の気も失せ、蒼白いというほどにまで。

 当然ながら私は彼女の体調を気遣ったが、返ってきたのは私と同じ、大丈夫という答えだった。彼女によれば、この程度ならいつものことなのだという。

 そう……彼女もまた、私とは別の形で、死の恐怖にさらされ続けているのだ。にもかかわらず、どうしてこうも彼女はおだやかに、肉親でもないのに、血と死の臭いが染みついた私のような人間を気遣ったりできるのか――。

 ふと疑問に思った私は、彼女に訊いてみた。もしかして、死ぬのが怖くないのか、と。

 すると彼女は弱々しく笑いながら、まさか、とばかりに首を横に振った。

「そんなことない。死ぬのは……怖いよ。すごく怖い。だって、死にたくないもん。まだ生きていたいもん……。

 でも、でもね、おねえちゃんが死ぬのだってイヤだから。つらそうにしてるのも、苦しそうなのも……イヤだったから」

 彼女の答えは、もしかしたら、ごく普通の世の中では、取るに足らない常識でしかないのかも知れない。私が、私たちが、異常なだけなのかも知れない。

 でも、私は――その答えに、また頬が濡れるのを止められなかった。

 嬉しくて、そして――何よりも、悲しくて。

 ……彼女は知らない。彼女がここにいて、そして生きているがゆえに、彼女の知らないところで彼女の意志とは無関係に、彼女とは何の関係もない人たちが死んでいっていることを。

 彼女を護り、生かす――ただそのためだけに、人を殺している者がいることを。

 そのことを、やはり自らが生きるために他者を殺す私が、悪いなどと言えるわけがない。

 ただ、他者の命をこれほどに愛おしむ彼女が、多くの死の上に生かされているというその皮肉な事実が、どうしようもなく悲しくて――そして、憎かった。

「……死なんて、なければいいのに。誰も死んだりしなければいいのに……!」

 馬鹿げているのは承知で……けれど世の摂理への心からの恨み言を、私は口にせずにはいられなかった。

 そう……そもそも『死』がなければ、私たちがこんなに苦しむこともないのに。

 死がなければ、殺すということすらなくなるのに。生きるために殺すことも、殺すために生きることもないのに。

 ――殺さなくても、死ななくても……よくなるのに。

「ねえ、どうしてだろうね、オリビア……」

 心の、想いの切れはしだけを言葉にして少女に投げかけながら、私は――あまりに馬鹿馬鹿しい疑問を、それでも繰り返さずにはいられなかった。


 人は、命は……どうして死ななければならないのだろう――と。





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