3.行くべきところ
つい先日も、実戦訓練をした天咲茎の中庭――。
ある意味、いつもの場所とも言えるそこに呼び出されたグレンは、一人待つ主人の雰囲気がいつもとは違うことに気が付いた。
まぶしい夕陽の中、回廊の手すりに腰掛け、庭園へと視線を投げ出すままにしているその姿は、明らかに物憂げだ。普段おだやかな彼が、そうして眉間に深く皺を刻んでいる姿はとにかくめずらしい。
グレンは、滅多に見せない主人の表情に、何かひどく厄介なことが起きたらしいと考えながら――しかしわずらわしいというよりは、むしろ楽しむような心持ちで――髭をさすりながら声をかけた。
「どうした、ボス? らしくない顔をして」
物思いにふけっているようであっても、グレンが近付く気配は察していたのだろう。いきなり声をかけられても驚くことなく、視線を動かしもせず、ウェスペルスは答える。
「グレン、君の力を借りたい」
「枝裁鋏そのものへの出撃命令でなく、わざわざ俺をご指名とはな。――さっきの召集か?」
グレンが、つい先刻、花冠院のメンバーに、碩賢のもとへの緊急召集がかかっていたことを思い出しながら尋ねると、ウェスペルスは隠す様子もなくうなずいた。
「ヨシュアの消息を突き止めるため、ライラが提出した端末を碩賢が解析してくれたわけだけど……その結果。
ヨシュアが――『カイン』という名の人物を調べていたことが分かった」
いつものように、自然体で話を聞いていたグレンの、髭をいじる手が止まる。
「――どういうことだ。なぜ新史生まれのアイツがその名を知っている。
いや、それどころか、調べていた……だと?」
「おりしもそれは、彼が、ライラの報告で明らかになった、ノアたちの『協力者』とやらに撃退されたあとのことのようだ。
そしてその協力者は、正体は不明ながら……今あらためて報告を振り返れば、あのカインを思わせる背格好をしている――」
「つまり、その協力者の男は……自らをカインと名乗ったと、そういうことか」
グレンがそう言うと、ウェスペルスが膝の上で組んでいた手に、ぐっと力が籠もった。
「けれども――決して本人ではありえない。そして、僕ら花冠院が庭都の住民にその名が使われることのないよう、厳重に管理してきたのだから、同名の別人ということもありえない。
つまりは――この庭都の住人でありながら、カインを――ひいては葬悉教会のことを知る人間がいる、ということになる」
「あのノアの坊主が自力で調べ上げて、利用したって可能性は?」
「無い、とは言えない。だけど、まずありえないだろう。そもそも不可能に近いし、仮にそこまで調べたのなら、その名が、春咲姫の心情を思って庭都で使われないようにしてあることも理解しているはず。
……なら、それを承知のうえでその名を利用するなんてこと、いくら何でもあの子たちがするとは思えない」
ふむ、とうなってグレンは、止めていた手を動かして再び髭をいじる。
「で、ボス。アンタが、そうやって難しい顔をしてる一番の理由は何だ?」
「そうだね、僕の――いや、僕らの一番の懸念は何より、春咲姫の心だ。彼女の心がむやみにかき乱されたりしないか……とにかくそれが心配だ」
言って、ウェスペルスは一度目を伏せた。
「……なるほど、いかにもボスらしい答えだ。なら、当の春咲姫はこのことを?」
「当然、まだ知らないよ。碩賢が気を遣って、僕ら花冠院だけへの報告にとどめてくれたからね。
……カインを名乗る人間が現れた、なんて聞いたら、彼女が冷静でいられなくなるのは目に見えているから」
ウェスペルスの心情を理解したグレンは、それについては同感だと、ただ素直にうなずく。
「俺としても、あの娘が苦しんだり悲しんだりしているところは見たくないしな。
――で、結局のところ、俺に何をさせたいんだ?」
ウェスペルスはおもむろに立ち上がると、庭園をながめたままに答える。
「ヨシュアの端末からは同時に、田園地区について調査を進めていた痕跡が発見されている。その他の様々な情報をも総合して考えると、ノアたちは田園地区に隠れていて、何らかの機会にそれを知ったヨシュアも、後を追った可能性が非常に高い。
そこで君には、一隊を率いて、現地へ向かってもらいたいんだ」
「……ヨシュアの暴走をおさえ込み、カインの名をかたるニセモノをねじ伏せた挙げ句、双子も連れて帰ってこい――と、そういうわけか。まったく人使いの荒い」
グレンがおどけた調子でそう言うと、ウェスペルスはくるりと振り返り、今日初めて正面から彼を見据えた。
神の造った芸術品のごとく美しいウェスペルスの顔容に、真っ正面から見られることは、気持ちがいいとか悪いといった感情を超えて、寒気にも似た緊張感を背筋に走らせる。
神経が図太いことには自信があるグレンでも、それは例外ではなかった。
「ヨシュアも優秀ではあるけれど、相手は、そんなヨシュアでさえ手も足も出なかったという手練れだ。だからグレン、君に任せたい。
――かつての大戦時、歴戦の戦士として勇名をはせた、君に」
ウェスペルスの言葉に、グレンははにかみとも、自嘲とも取れない苦笑をこぼす。
「いつも言っているだろう? 俺は、俺たちに新しい希望を与えてくれたボス、アンタに、返しきれないぐらいの恩義を感じているんだ。そんなアンタのたっての願いとあれば、受けないわけにもいくまいよ――命令だってことを抜きにしても、な」
*
「これは、また……個性的な組み合わせだな」
カインは並べられた夕食を見て、感心とも驚きともつかない感想をもらした。
愛らしいチェック柄のクロスが敷かれた食堂の丸いテーブルには、いかにも手作りらしい暖かみのある料理が、食欲を誘う香りを惜しみなく振りまいて、綺麗に並んでいる。
それだけであれば、ノアの、ナビアの料理の腕は確か、という言葉通りのことでしかないのだが……。
「まあ……何だ、性格は腕前とはまた別物ってことで」
席に着きながら、ノアも苦笑をこぼす。
ホワイトシチューをメインに、主食のパン、付け合わせのサラダまでは至って真っ当なものの……カインとノアの視線の先には、それに加えて、クリームスープまでが置かれていた。
「なあ……ナビア。ホワイトシチューとクリームスープって……いや、一緒じゃあないんだけどさ、なんて言うか、同じような感じ……しないか?」
夕食の準備ができたとカインを呼びに行っておきながら遅くなったことで、大きくななめに傾いているかも知れない妹の機嫌を、さらに悪化させるようなことになったら厄介だと、恐る恐る、苦言とも言えないような苦言を述べるノア。
しかしナビアは、特に怒るでもなく、あっけらかんと答える。
「でもお兄ちゃん、このホワイトシチュー好きでしょ?」
「ん、そりゃ……もちろん、大好物だけど」
「クリームスープも、コンソメより好きだって言ってたよね?」
まあな、とノアが遠慮がちにうなずくと、ナビアはにこっと笑った。
「うん、だから作ったの。おじさん、好きなもの訊いても、なんでも良いって言ってたから。それなら、お兄ちゃんが好きだって分かってるもの作る方がいいでしょ?」
ナビアの台詞に、これが彼女なりの気遣いだと悟ったノアは、余計なことを気にしたと、自分が本当にバカバカしく思えて、つい吹き出してしまう。
「ん? なに、なにかヘン?」
「いや、ンなことない。……ありがとな」
さすがにはっきり聞こえると恥ずかしいので、小さく礼を言いながら、ノアはバスケットに盛られたパンをぞんざいに掴む。
カインは、そんな二人のやり取りに一人微笑んでいた。
「さて……ではせっかくだ、冷めないうちにいただこうか」
夕食の時間は和やかに進んだ。
ことあるごとに、目を輝かせながらカインに料理の感想を尋ねるナビア。そして、面倒がることもなく、そのつど丁寧に美味いと答えるカイン。
美味いのは事実だし、過度な言葉で褒めそやしているわけでもないので、ご機嫌取りではなく、カインがあくまで正直に感想を述べているだけなのは確かだろう。しかしそんな二人の姿は、やはり親娘のようだと、ノアは思った――そもそも実の親子の団らんというものを実際に体験したことがないので、あくまで想像でしかないのだが。
「……それでカイン、さっきの話なんだけどさ」
食事もなかばに差し掛かり、ナビアの、カインへの感想攻めも落ち着いたのを見計らって、ノアはそう切り出した。
ナビアだけが何のことか分からずきょとんとする中、カインは手を止めてノアに向き直る。
「いつまでもこの生活を続けていられると思うか、と……私が指摘したことか?」
「ああ。それで、これからどうするのかってことなんだけど……」
ノアはナビアの方にもちらりと視線を向ける。
双子の妹は、それで、話の内容が自分にも及ぶ真剣なものであることを理解したのだろう、表情を引き締めた。
「俺が調べたところだと、天咲茎の方じゃ、もう警備隊にまでは俺たちが逃げたことを公表して、捜索に協力させているみたいだ。情報面での偽装は完璧だし、怪しまれるようなことをしなけりゃ、さすがにこの程度じゃまだ見つかることはないと思う。
でも――いずれは一般の住民にまで、俺たちの逃亡が伝わるだろう。またデータを偽装したり改ざんしたりして、ここみたいな別の隠れ家を作ることも不可能じゃないけど、庭都中が俺たちの逃亡を知ったら……やっぱり、隠れ住むことなんてできなくなると思うんだ。
だから――」
ノアは一旦そこで言葉を切り、グラスを手に水で唇を湿らせた。
「いずれ機を見て、庭都を離れようと思う。――そう、地上に降りるんだ」
「……お兄ちゃん」
「正直言って……俺は怖いよ。地上がどうなってるかなんて、今じゃまるで分からないんだしさ。
でも……ほらナビア、地上からまぎれ込んできた鳩の親子がいただろ? ああやって生き物が生きているぐらいなんだから、人間はいないとしても、生活できないほどの汚染が残ってるわけじゃないと思うんだ。それに……不老不死を否定しているくせに、庭都で安定した生活をしようなんて、だいたい虫が良すぎたんだよな。
だから――地上に降りる。降りるべきだと思う。苦労するだろうけど……いいか? ナビア」
ノアの問いに、ナビアは意外にも迷いも怖じ気見せず、ゆっくりと大きな動きで同意した。
そして、どこか大人びた――静かな微笑みを浮かべる。
「いいよ、もちろん。あたしも、いつかそうしなきゃいけないだろうな、って思ってたから。
それに――お兄ちゃんとおじさんがいるなら、どこに行ったってきっと大丈夫だよ」
「そうか……うん、そうだな」
「それにそれに、ほら……何にも分かんないんなら、今まで見たこともないような楽しいこととか、面白いこともあるかも知れない――そういうことだよね?」
それは、特別な閃きでも何でもない、誰でも思いつく単純なことだろう。だが、深く考えるゆえにか、ついついそんな当たり前のことを見落としていたノアは、ごく自然にナビアの口からこぼれ出た前向きな言葉に、思わず笑い出してしまう。
「ああ、そうだ、そうだよな。じゃあ、決まりだ。――カインも、それでいいよな?」
「お前たちが決めたことなら、私に異存があるはずもない」
あいかわらず愛想はないが、しかしどことなく柔らかな口調でそう同意して、カインはシチューをすくう。そして、何かを考えるようにわずかに動きを止めた後、口へ運んだ。
……実のところ、カインがそうしてシチューをすくったスプーンを途中で止めるのは、これが初めてではなかった。
ノアですらそのことに気付いたのだから、感想を聞くために、いちいちカインの動作を追っていたナビアは言うに及ばずだった。これまでは美味しいという感想をもらっていただけに気にしていなかったのだろうが、さすがに不安を感じたのか、首をかしげてあらためてカインに尋ねる。
「おじさん、やっぱり何かおかしい? それとも……シチュー嫌いだった?」
「ん? ああ……いや、そうじゃない」
ナビアの不安を払拭するためだろう、わずかながら微笑みつつ、カインは首を横に振る。
そして、湯気を立てるシチューを、遠くを見るような目で見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「なぜだろうな。とても――とても懐かしい気がして、な……」