2.決意と迷いと
「……あら」
碩賢のもとへとやって来たライラは、思いも寄らない先客を見つけて小さく声を上げた。
様々な機器が積み上げられたごみごみとした空間の中、飾り気などまるでないテーブルを挟み、お茶を手に部屋の主と談笑しているのは、何とも場違いな印象のある可憐な少女だった。
まさにゴミの山の中に咲いた花のようだ、とライラが思っていると、当の花――春咲姫は親しげに手を挙げて、こんばんは、とライラを呼ぶ。
「こんばんは、春咲姫。今宵は夕食をご一緒できず、申し訳ありませんでした」
うやうやしく一礼するライラ。
それに対し、春咲姫は子供のように口を尖らせる。
「……もう、またそうやってからかう」
一方ライラは、普段のたおやかな彼女とはまた違った――言うなれば、妹か娘といったごく近しい者に対するような、実に穏やかな目で春咲姫を見ながら、クスリといたずらっぽく笑った。
「だって、どこで誰が聞いているか分からないでしょう? 一応、私もあなたも、立場というものがあるのだから。――ところで、サラは?」
春咲姫の付き人として、一日の大半をともに過ごしているはずの女官がいないことに、ライラが首をかしげる。
それについて答える春咲姫の顔に浮かぶのは、どこか面白がっているような雰囲気もある苦笑いだった。
「……お父さんのお部屋のお掃除。昼間に執務室に寄ったとき、ひどい有様だったって気にしてたから、わたしのことはいいからお父さんの所へ行ってあげて、って」
「あら、またなの? 何年かに一度は必ずその話が出るわね、あの親子」
あきれたような、面白がるようなため息を一つつくライラ。
「そんなわけで、このお茶は久しぶりにお嬢ちゃんが手ずからいれてくれたものでな」
部屋の主の少年が、いつもの見かけによらない老成した調子で、上機嫌にティーカップを掲げて見せた。
「もう、先生、いちいち大げさに言わなくてもいいです……」
碩賢の態度に春咲姫は恥ずかしそうに首をすくめる。
その様子にまた一度は顔をほころばせるライラだったが……すぐさまそれを引き締め直し、あらためて碩賢に向き直った。
「――碩賢、今日はお願いがあってうかがいました」
ミルクをたっぷり入れたらしい亜麻色の紅茶をすすりつつ、碩賢は小首をかしげてみせる。
「お仕事の話? なら、わたしは席を外した方がいい?」
気を利かせて立ち上がろうとする春咲姫を、ライラが手を挙げて制する。
「いいのよ、気にしなくて。――どのみち、また後で報告しなければいけないのだしね」
「そう……うん、分かった」
一度は浮かせかけていた腰を、お世辞にも座り心地が良いとは言えそうもない椅子に再び沈める春咲姫。
その表情はいつしか、凛々しく引き締まった公人のものとなっていた。
「それで、ワシに頼みとは?」
「この端末を解析していただけませんか。特に、最近の使用履歴を中心に」
そう言ってライラがテーブルに置いたのは、一枚のカード……掌携端末だった。
「謹慎処分の際、ヨシュアから没収したものです」
淡々とした調子で告げるライラ。反して、碩賢と春咲姫の顔はこわばった。
枝裁鋏の隊長、ヨシュア――ライラの直属の部下である彼は、二日前に謹慎処分を下されていた。彼の言動に疑念を抱いたライラが、彼と行動をともにしていた部下を呼び、問いただしたところ、ヨシュアが独断で、ライラへの報告に制限をかけていたことを認めたからだ。
しかし――処分が決定し、いざ詳しい事情を聴取しようという段になって、ヨシュアは姿を消した。そして、いまだにその消息を掴めずにいたのだ。
「すでにお二人とも報告を受けているでしょう。
何を思ってヨシュアが情報を隠し、そのうえまた勝手な行動を取っているのかは分かりませんが、その理由の根底にあるのが、彼と、証言してくれた隊員だけが遭遇したという、兄妹の『協力者』なのは間違いありません」
「……名を聞き取れたのは、ヨシュアだけということじゃったな。しかし枝裁鋏二人を手玉に取ったことは間違いない、謎の黒衣の男……か」
碩賢は、まるで髭でも生えているかのように顎をなでさする。
「ともかくヨシュアの性格上、ただ処分を逃れるためだけに姿を消したとは考えにくい。恐らく、自分だけが知る情報をもとに兄妹を追っているはずです。
ならばその手掛かりを見つけ、あとを追うことができれば、兄妹のもとへたどり着くことにもなるでしょう」
ふむ、と何かを思案するように一つうなり、碩賢は差し出された掌携端末を手に取る。
「しかし、なぜ今になって? それならば昨日のうちに持ってくればよかったじゃろうに」
「昨日一日は、私なりの猶予のつもりでした。間違いを認め、戻るための。
しかし――あの子は戻らなかった」
碩賢も春咲姫も、ライラがヨシュアを可愛がり、重用していたことは知っている。そしてそれだけに、裏切りに近い今回の行為に、誰よりも怒りを覚えていることも。
しかし、ライラの心情はそれだけではなかった。むしろ、自分を裏切るような行為については、彼女の怒りの理由としては二の次と言っていい。
彼女にとって、最も腹立たしいこと――それは、ヨシュアの裏切りが、自分どころか春咲姫にまで影響が及ぶものであることだった。
春咲姫のもと、完璧なまでに調和と安定の取れたこの世界、そこに傷を入れるような愚かな行為を、本来ならそれを護るべき立場にいる人間がおこなったことが、許せないのだ。
ライラは、ちらりと春咲姫を見やる。
昔から変わらず、どこまでも心優しい少女は、つらそうに、悲しそうにうつむいていた。
そんな表情を見るのはライラとてつらかったが、しかし彼女は毅然とした態度で、なおも少女を苦しませるであろう言葉をつむぐ。
「このうえは、ヨシュアを反逆者として処罰することも検討しなければ――」
ガタンと椅子を蹴立てて、青い顔をした春咲姫は勢い良く立ち上がる。
しかしその反応を予測していたライラは、落ち着き払った様子で少女に向き直った。
「もちろん私も、そうならなければいいと願ってる。でもね――」
春咲姫の細い肩に手を置き、さとすように――しかし力強く、ライラは続ける。
「私はあなたが、そしてこの庭都の平穏が、何よりも大切なの。それを守るためなら、私は鬼にもなる。またこの手を血で染めることも――厭いはしないの」
哀しむような、気遣うような目でライラを見上げる春咲姫。
その大きく美しい瞳を見返しながら、ライラは小さくうなずいた。
*
「――あ、お兄ちゃん、もうすぐご飯できるから、おじさん呼んできてね!」
端末にかじりついての情報整理も一段落し、部屋を出てみればただよういい匂いに惹かれて食堂に顔を出したノア。
そんな彼に妹が投げつけたのは、ねぎらいの言葉どころか、新たな仕事の指示だった。
「アイツもたいがいべったりだよなあ。本能で、自分により甘い相手を嗅ぎ分けてるとか……?」
追い出されるように食堂を離れたノアの足取りは、とぼとぼと力無い。
今ナビアが作っているシチューが、実は春咲姫から伝授されたものであるように、ナビアは天咲茎にいるころは、姉のようでもある春咲姫にべったりだった。
しかしそのときにはまるで感じなかった、やるせないような感覚が今のノアにはある。
――二人が、まるで親子のようだから――?
ふっとノアの脳裏に、そんな考えがよぎった。
……親子。
正直なところ、その言葉から導かれる感情は、ノアにとって良いものではない。
まず彼は――そしてもちろんナビアも、父親のことはまったく知らなかった。そもそもデータすらないのだ。
ただこれは、別に後ろめたい理由があるわけではない。
不老不死を手に入れた庭都の人間たちは、精神の安定のため、なるべく変化の無い生活をしないようにと心がけているわけだが、それが長い年月のうち、結婚という制度の在り方を大きく変えた。端的に言って、配偶者を一人と決める、それは日々の生活から変化を奪い取るのではないかと、敬遠する人間が増えたのだ。
結果として今では、結婚をする人間がいないわけではないが、恋愛をするならするで、そうした枠にとらわれないよう自由に、というのが庭都住民の主流になっていた。
つまるところ、兄妹の母親は、父親は誰なのか、特に気にしていなかったのだ。そして天咲茎もまた、それを無理に詮索するようなことはしなかった。だから、父親のデータは、消されたわけでも、改ざんされたわけでもなく……初めから存在していないだけなのだ。
一方、母親については、きちんとデータも残っていた。
顔も、名前も、住所も――データベースの中だけでなく、それを何度も見たノアたちの頭の中にも、確かな記憶として刻み込まれている。
だが……逆に言えば、それだけしかなかった。
兄妹の実の母親は、ノアたちを天咲茎に預けてから、会いに来るどころか連絡の一つもよこさなかった。この十数年間一度もだ。
それでもナビアは、そんな顔を合わせたこともない母を無邪気に慕っていた。いや、今でもそうだ。
一方……ノアはと言えば、歳を経るにつれ、薄情だと嫌悪をつのらせるばかりだった。
――だけどそれは、もしかしたら、すねているだけなのかも知れない――。
まるで親子のようなナビアとカインの姿を見るにつけ、ノアはふと、そんな風に思った。
――そんな、親子のようなナビアとカインの関係を、自分はうらやましいと感じているのではないだろうか。そしてそう感じるのは、母に甘えたいと願いながら、それがかなえられずにいたから――だから、母のことを必要以上に嫌っていたのではないか――と。
そんな風に、思ってしまったのだ。
(でも……あの女が薄情なのは確かなんだ。そうだよ、すねてるだけだなんて……そんな、小さい子供じゃあるまいし……)
「ああもう、バカバカしい……!」
つまらないことを考えたと悪態をつき、ノアは少し乱暴にカインの部屋のドアを開ける。
窓際で射し込む夕日を浴びながら……いつもの黒衣姿のカインは、泰然とたたずんでいた。
(父親……か)
それはやっぱり、こんな風に大きくて、何にも動じないような存在なのだろうか……。
ついさっきまで考えていたこともあって、ノアはしばらく、そんなカインをぼうっと見ていた。
「ノア……? どうかしたのか?」
あらためて呼びかけられたノアは、ああ、と少しバツが悪そうに目を合わせる。
「えっと……いや、ナビアがさ、もうすぐ夕飯ができる、って……」
「それでわざわざ呼びに来てくれたのか。すまないな、お前も一仕事終えたところだろうに」
「いやまあ……何て言うか、ほら、ナビアのヤツ、うるさいしさ。ほっとくと」
ささやかながら、思わぬところからねぎらわれて、ノアはつい照れてしまう。
それを隠そうと、つい、口がどうでもいいことを並べ立てていた。
「それでアイツが機嫌そこねたりして、この先ずっとマズいメシ作られたりしたら困るだろ? だから――」
なにげないノアの言葉。
深い意味があったわけでもない、照れ隠しのその言葉に、しかし意外にもカインは鋭く言葉を重ねてきた。
「この先ずっと――か。本当に、そう思っているのか?」
一瞬何のことか分からず、けげんそうにするノア。
カインはもう一度、真剣な表情でゆっくりと問い直す。
「この先ずっと――いつまでもこの生活を続けていられると、本当にそう思っているか?」
今度こそ、ノアはカインの真意を悟った。
悟っただけに、軽々しい発言をすることもできず……しばらく押し黙って考える。
カインはそれを、ただ静かに見守った。
「――俺は」
やがて自分なりに考えを整理したノアは、真剣な表情であらためて口を開く。
「俺はさ。ただ普通に、人間として当たり前の寿命を迎えるまでの間、ナビアとこの庭都で生活できればよかった。穏やかに過ごせればよかった。
そして、それは決して不可能なんかじゃないって思ってた。でも……」
ノアは一瞬目を伏せる。
開け放したドアから流れ込み、鼻をくすぐるシチューのいい香りがなぜか、切なく感じた。
「天咲茎を逃げ出して、実際にこうして生活を始めてみて……分かった。データを改ざんしたりして、住む場所や身分証明といった環境を確保しても、結局、不老不死を否定した以上、俺たちは歳を取る。移り変わる存在だから、変わらない環境の中には居続けられない。
だから、永遠の命をもって、永遠に俺たちを追い続けられる存在を相手に、最期の時を迎えるためには、一つの所に留まることなく逃げ続けるしかないんだ。
でも、それは……本当に難しいことなんだよな」
ノアは笑う。自分を――自分の中の甘い考えを、あざわらう。
「少し考えれば分かることなのにな。たぶん俺、あえてその事実を見ないようにしてたんだ。きっと何とかなるって楽観視してないと、逃げ出すなんてできなかったんだ。
こういう、一見平穏な生活ができる環境を作っておいたのも、裏を返せば、そんな甘えの表れなんだと思う。……情けない話だよな」
自嘲するノアを見据え、カインはいつものように、落ち着いた声で応じる。
「だが、お前は行動した。そうするべきだと信じる道を、確かに選んだのだ。そこには、確かに信念があるはずだ……お前自身が、今はまだ分からなくとも。
それに……安定した生活環境を作ろうとしたのは、何も甘えのせいだけではなかろう?」
やはり表情は乏しいものの、心を見透かしたかのようなカインの言葉に、ノアは驚きながらもそれを認める。
おりしも階下から、その理由となる人物の「おそーい!」という怒声がかすかに響いた。
「……ナビアはさ。本人も少し言ってたと思うけど、ああ見えて意外と身体が弱いんだ。ちょっとしたことで、すぐに体調を崩して寝込んだりする。
だから、アイツに負担をかけたくなかった。いくら俺と同じ考えを持って、不老不死を否定して逃げ出す道を選んだとしても……つらい目にはあわせたくなかった。アイツがいつまでも変わらず笑っていられるように……できる限り、苦労をしないですむようにしたかったんだ」
一度、階下からの呼び声に応えるようにちらりと背後を振り返ったあと、「でも」とノアは続ける。
「最近分かってきたんだ。アイツは……平穏だからってだけで笑うんじゃなくて、自分を――いや、むしろ俺をはげますために笑うんじゃないかって。笑っていれば前を向けるって分かってるから、だから笑うんじゃないかって。
……俺が思ってたより、ずっと強いんだな……って」
ノアの言葉を受けて、カインは静かに――しかし満足そうに、うなずいた。
当のノアは、その反応に、嬉しいとも恥ずかしいとも言えない表情で、所在なく頭をかく。
「――まあ、アイツ自身、それをどこまで分かってるのかは怪しいとこだけどさ」
まるでノアの発言が聞こえていて、それに対して異議を申し立てるような絶妙のタイミングで「おーにーいーちゃーん!」と、また階下から怒声が届けられる。
それに対して、カインが珍しくはっきりとした苦笑を浮かべた。
「……とりあえず、話はまたあとにする方が良さそうだな」