005.教室へ
しがみつくように乗り込んだ馬車の乗り心地は、実に快適なものだった。
娘に貸し与えたということは氏族長個人の所有物なのだろう。目を楽しませるような絢爛さはなくとも、落ち着いた色調のシックな内装は居心地がいい。
成金ではない、本物の富裕層の匂いがする。
窓枠のカーテンを閉め、アラドは柔らかな座席に沈み込んだ。勇者と対峙してからずっと続いていた緊張が、ゆっくりとときほぐれていく。
「あれー? 先輩、何か言うことがあるんじゃないですか? ほらほら、迎えに来てくれた後輩に、労いの言葉とか!」
「あー、はいはい。……まぁなんだ、正直助かった」
おざなりなアラドの言葉に、それでも少女は表情を緩めた。満足げに細められた目は、けれどすぐ、子どもを叱るような目つきに変わる。
「……もう、ほんとにびっくりしたんですからね? 母の付き添いで葬儀に出席してたら、勇者がすぐそこに現れたって聞かされて。それを撃退したのが先輩だって言うじゃないですか!」
「別に撃退なんてしてないよ、単なる過剰防衛……ていうかちょっと待て、もうそんなに広まってるのか」
シートからわずかに身を浮かせて、アラドは目を見開いた。向かいに座る少女は、その指を唇に触れさせたままのんきに答える。
「んー、どうでしょう。レーリア語を使える未成年の竜人族、っていう話でしたけど。先輩を知ってる人には分かるんじゃないですか?」
「マジか……」
めんどくさいことになりそうだと、アラドが頭を抱えた。
今にして思えば、勇者なんて面倒ごとにかかわる必要はなかったのだ。言葉が通じずとも、警衛兵は速やかに事態を収拾してくれていたことだろう。もし怪我人が出たとしても――まぁ、アラドの責任ではない。
人ごみの中で聞こえたレーリア語に興味を引かれ、勇者の言葉が癪に障り、つい首を突っ込んでしまっただけ。
その結果、勇者に命を狙われ、警察には丸一日拘束された。
おまけにアラドの個人情報がお偉いさんに知られてしまう可能性まで出てきた訳だ。そりゃあ頭だって痛くもなる。
「まぁまぁ。新聞なんかは未成年者の実名報道規制がありますし、魔王選だってあるんですから。世間だって先輩のこと気にするほど暇じゃないですよ」
少女の言葉は、確かにその通りではあったのだけれど。
悪いことは連鎖するものだ。少なくとも、アラドはそう信じている。
魔王が死んで、その葬儀に勇者が現れ、そのいざこざで自分がこんな目に遭った。これからさらに不幸が続いたとしても不思議はない。
とは、いえ。
「イズ。俺ちょっと寝るから、着いたら起こしてくれ」
今考えたところで、対策が立てられる訳でもない。
寝不足の頭はいまいち回らないし、それに何より、馬車の柔らかなシートとこもった空気がアラドの眠気を誘っていた。
目を閉じれば、意識は曖昧な霧の向こうへと溶けていく。
「え、あっ、先輩? 先輩! ちょっと、私聞きたいこととかあったんですけどー!」
少女――イズの声もなんのその、だ。言葉の意味すらあやふやになって、ただ、ささやくような声色だけが耳をくすぐった。
「もー。……いいです。私だって好きにしちゃいますから」
イズが立ち上がった――の、だろう。対面の座席が小さくきしんで、走る馬車の中を少女の気配が動く。
行く先はアラドの隣だ。遠慮なく腰掛けると、そのままアラドの肩に頭を預ける。
「……なにしてんの、お前」
「私、枕がないと寝れないんですよね……」
所々に触れる少女の肌――ではなく、イズの髪に混じる羽毛に耳元や首筋をくすぐられてアラドが薄目を開いた。反対に、イズは目を伏せて静かに寝息をたて始める。
ため息一つで諦めて、アラドは少女の頬にかかる髪を指先でどけた。
――考えてみれば。
アラドが勇者と対峙している間、イズは葬儀に参列していたのだ。その後の夜会では挨拶だの魔王選にむけての陣営づくりだのと大忙しだろう。
その上さらに、詰め所から警察署へと移送されたアラドの動向を押さえ、解放されるのを待ってここに迎えに来た。間違いなく徹夜だ。疲労のピークだったとしても不思議じゃない。
「……まぁ、いいか」
普段なら追っ払うところだけど。
馬車にも乗せてもらってることだ、それくらいしなければバチが当たるだろう。
そうして、アラドもまた目を閉じる。
寄り添って眠る二人は、見る者によっては勘違いされそうだけど。
そんなことも気にならないくらいに深く、眠りの淵へと落ちていく。
夢も見ない、瞬きのような眠りから目を覚ませば、馬車はすでに停まっていた。
一時間くらいの道のりだ。カーテンを開ければ御者が窓をノックしていて、その向こうには慣れ親しんだ建物が見える。
自分の肩を枕にしたまま袖を噛むイズを引き剥がし、アラドは足場を踏んで馬車を降りた。
一応首都圏ではあるのだが、ここまでくると田舎も同然だ。地面は舗装もされていないし、道を少し外れると鬱蒼とした森が広がっている。
アラドが所属する「教室」は、手付かずの木々に埋もれるように、そこにあった。
構造体に鉄筋コンクリートを用いた、当時としては最新式の建物だ。とはいえ、二百年近い歳月はこの屋敷を時代遅れにしてなお余る。
無駄に大きいせいで修理が追い付かず、壁や屋根には染みやほころびが所々に残っていた。古い建物にはありがちな装飾の類も一切なく、殺風景で、住人もたったの四人だけ。
廃屋になりかけの、無個性な屋敷。
そんなおんぼろでも、三年住めば愛着が沸くものだ。留置場で一泊したあとならなおさらに。
親しみを込めた手つきで、アラドは格子状の門扉を押し開いた。
「ちょっ、せんぱい、待ってくださいよぅ」
眠たげに目をこするイズを後目に、アラドは屋敷の玄関へと歩いていく。
掃き清められた石畳から階段を上り、扉に手をかけた。
「……うん?」
「早く開けてくださいよぅ。私、さっさとお風呂入りたいんですから」
「いや、鍵がかかってるんだよ。先生たちまだ帰ってないのかな」
屋敷の中は、各部屋が鍵をかけられるようになっている。外鍵を閉めるのは全員が外出するときだけだ。首を傾げながら、アラドは鍵を取り出した。
「ところで、だ。もしかして、風呂の為に迎えに来たのか?」
「……だって、先輩居ないとお風呂入れないじゃないですかぁ」
感謝して損をした、なんて呟いて。
ふてくされるように、アラドは扉の鍵を開ける。