003.竜の片鱗
「魔王が……死んだ?」
愕然と、勇者は聞いた言葉をおうむ返しに呟いた。
おかしな話ではあるけれど。
魔王を殺すという、あまりにも不健全な目的がある種の支えになっていたのだろう。
勇者にとって魔王がどんな存在だったのか、アラドには知る由もない。
けれどその表情、今にも剣を落としてしまいそうな手の震えは、何よりも雄弁だった。
「……一か月前にね。心不全だった」
アラド自身、何か思うところがあったのか。
間をおいて切り出された言葉も、けれど勇者には追撃にしかならなかった。
「しんふぜん……?」
「ええと、心臓の病気だ。寿命と言ってもいい」
「しんぞうの……」
ゆっくりと、勇者はアラドの言葉を噛みしめ、飲み下す。
――魔王がこの世を去ったのは、つい一か月ほど前のことだ。
百八十年に及ぶ治世の終わり。レーリアの人々が魔界と呼ぶこの国は天地がひっくりかえったような大騒ぎになった。
魔王、バルバストラスは既に二百歳を超えていたが、長命種としてはまだ壮年といったところだ。
その日、魔王が倒れるなど予想していた者など誰もいない。想像すら憚られる、妄想にしたって質が悪い。そんな現実だった。
急遽魔人族の氏族長が代理を任じられ、弔問の使者はとめどなく、各地の有力者らは身支度と政治交渉に踊らされる。
かつてないほど忙しいその一か月を締めくくり、かつての時代に別れを告げる葬儀が今日この日、魔王城で執り行われていたのだ。
勇者が剣を振り上げたのは、魔王の出棺を見送ろうと集まった群衆の只中だった。
「見えるか。あそこで魔王の葬儀をしてるんだ」
魔王城の手前、背の低い白亜の宮殿をアラドは指さす。
魔王城の構造はシンプルだ。魔王城の本丸を中心に、四つの同心円と四つの大道、八つの門で構成されている。
中心にそびえ立つのが狭義の魔王城。普通、魔王城と言えばここだ。
実用性に欠ける、繊細で女性的なシルエット。ラインは丸みを帯び、先端は爪のように鋭い。アラドの居る場所からは見えないが、その外壁は女の髪のように繊細な彫刻で埋め尽くされ、室内には七氏族から西の果てのリウラサに至るまで、各地の伝承、説話を元にした壁画が連綿と連なっている。
周囲には融和の象徴たる七尖塔が円を描き、幾重にも繋がれた回廊は飾り紐のよう。
清水の流れる内堀は幅、深さともに申し分ないが、肝心の橋が壊すのも難しい石造りのアーチ橋では意味がないだろう。
つくづく実用性のない、戦争になることなんて想定もしていない、象徴としての城。
内堀の外には四つの大道で区切られた四半円の区域が存在している。国事に用いるための四つの宮殿。そのうちの一つが白冬宮――魔王の葬儀が行われている場所だった。
白冬宮へと続く門の前で、アラドと勇者は対峙する。
「ここ、さっきまで大勢の人が居ただろ。みんな魔王の出棺を待ってたんだよ。葬儀が終わったら、魔王の葬列が街を練り歩くんだ」
防腐処理の施された魔王の遺体はその後二か月にわたり魔王城に安置され、崩御から半年、九か月、十一か月後と催事を重ねる。
それでようやく、だ。
勇者にはきっと分からないのだろう。魔王の弔いは、この国にとってそれくらい重要なことだった。
そんな葬儀の日に、勇者は魔王を殺すと息巻いて現れた。
誰にとって幸運で、誰から見て滑稽なのか。
判じかねたままアラドは勇者を眺める。
門の向こう、白冬宮を仰ぎ見たまま、勇者は茫然と立ち尽くしていた。剣すら力なく、石畳を掻いている。
それでも、忘我していたのは三秒ほどだろう。
ここが敵地であると思い出し、勇者は重たげに腕を持ち上げた。
「――なら! 魔王の息子はどこにいる! 少々物足りないが、その首一つで我慢してやる!」
「ああ、もう……」
次の魔王、という意味の言葉だろうか。生憎と魔王の座は世襲制ではない。
「あそこにいるんだろう? 次の魔王が!」
そう言って勇者は白冬宮を指さすがそこには居ない。
いや、いるかもしれないが、立候補者を募るのは数日後だ。現状、次の魔王は誰でもない。
強いて言えば代理を務める魔人族の氏族長が近いのだろうけど、呼ばれて来るいわれもない。
そして、あえて言うまでもなく。
「――――」
勇者が息を呑み、身構える。
避難が完了した以上、警衛兵らが行動しない理由はない。勇者を中心に、じりじりと輪を狭めていった。
「――貴様! 謀ったな!」
「謀ったなとか言われても」
民間人の避難が終われば、残りは迷惑な厄介者にご退場いただくだけだ。
獣人の警衛兵に促され、アラドはゆっくりと後ろへ下がる。
言いたかったことは言えたし、善良な国民として最低限の義理も果たした。後は警衛兵らの仕事だ。乱入者がレーリアの勇者だと分かれば、公僕たる彼らはつつがなく事態を収拾してくれるだろう。
さてどうなるかと、物見高く眺めているアラドの視線の先で、勇者は静かに気勢を上げる。
十数人の槍持ち兵に囲まれて――勇者が選んだのは、無謀な突進だった。
剣を肩に、担ぐように構える。
静かに、沈み込むような一歩。
続く二歩目で、弾けるように前へ出る。
身体強化の魔法だ。人体の限界を超えた速度を、勇者はその技で無理やりねじ伏せた。
アラドには目で追うことすら出来ない速度だ。
音すら置き去りにするような踏み込みは、けれど容易く警衛兵に見切られる。
そもそもの身体能力が段違いなのだ。いくら魔法でその身体を強化しようとも、獣化した彼らには遠く及ばない。
大上段から振り降ろされた渾身の一撃を、警衛兵は飾り槍の柄で受ける。
刃筋すら立たず、剣は金属質の悲鳴を上げてあっけなく弾き飛ばされて――
――アラドに理解出来たのはそこまでだ。
剣を追って上向いた視界に、無手の勇者が割り込んだ。
――勇者以外、誰にとっても予想外だっただろう。
事実は明白だ。
勇者は警衛兵に剣を振り下ろし、防がれた瞬間に柄を手放した。
剣を受けるため上体をそらしていた獣人に対し、勇者は剣を振り下ろす勢いのままその脇をすり抜けたのだ。
正面から立ち向かえば、勇者は成す術なく敗北していただろう。
剣を捨てるという奇策を弄したところで、無手では獣人族の毛皮すら貫けまい。
だから、戦わない。
そも、雑兵などいくら倒しても意味はない。
意味があるとすれば――
脇をすり抜けられた獣人が、慌てて身を翻す。
勇者を包囲していた警衛兵らが駆けだすが、距離が離れすぎていた。
誰も間に合わない。そんな状況で、アラドは今更ながら、勇者の行動の意味を理解する。
上級の魔族――勇者はそんな風にアラドを呼んでいたこととか。
獣人の警衛兵相手にレーリア語を翻訳していたことが、命令しているようにみえたかも、とか。
魔王との決闘も叶わず、逃げ場をなくした勇者がまず誰を狙うのかなんてことまで。
警衛兵の脇をすり抜けた勇者は、身を伏せたその姿勢をバネにアラドへと跳躍する。
手品のように取り出したナイフを逆手に持ち、勇者は渾身の一撃を振るうべくその背を弓形に反らせ――
逃げるどころか、構えることすらままならない。
アラドに出来たことと言えば、ただ、不格好に左手を持ち上げて。
その腕が弾けて見えた。
心臓から肩、左腕へと巡る魔力線が励起する。
現れるのは真なる竜の前腕。魔力によって偽装される仮初の肉。
これこそが自身であると錯覚する。
触れれば裂かれるような紅の竜麟。煮溶かした鉄が血の管を奔るよう。
断頭台と化した指先は、水を掻くよりも容易く、石畳へと突き立った。