002.勇者、邂逅す
レーリアの言葉だ。
そうと気付くことが出来たのは、きっとアラドだけだった。
警衛兵の制止や群集のざわめきに混じって内容は分からなかったけれど、レーリアの言語は発音や語調が独特だ。オゥル・グランデに存在するどの言語とも異なる。
普通の「魔族」なら、勇者の叫びが意味のある言葉だと理解することすら難しいだろう。
そもそもレーリア大陸と正式な国交が存在したのは二百年近く昔の話だ。オゥル・グランデ側に留まった人々が細々と暮らすコロニーを除けば、レーリア語を話せる者はごくわずかしか存在しない。
アラドはその、ごくわずかな例外だった。
とにかく状況を確認しようと、アラドは人込みをかき分けて声の主へと向かう。
通りの芸人だとでも思っているのか、人々は剣を持つ少年を遠巻きに眺めているようだった。密集したその隙間から、アラドは少年の姿を見る。
「魔王はどこにいるのか! 我らがラァナ・スィーアを占拠し、人と神とを殲滅せしめんとする悪の首魁は!」
歳の頃は十四、五だろうか。ベルトだらけの野良着の上にぼろ布を羽織った、浮浪者と見紛うような少年。
無造作に切られた金髪は元の色が分からなくなるほど薄汚れ、頬には跳ねた泥の跡が残っている。
剥き出しの腕には古い傷跡が残り、杭剣に見合うだけの戦歴を思わせた。
沿道を埋め尽くす群衆の視線にさらされながら、舞台に立つ役者のように、勇者は物怖じなく宣戦布告をうたい上げる。
「我が剣を恐れぬのなら、魔王よ、その悍ましき姿を現せ!」
――声をいくら張り上げても、その言葉は届いていないのに。
勇者から五メートルほど距離をとって、群衆はざわめきながら乱入者を眺めている。警衛兵らが避難させようとしているが、数が多すぎて上手くいかないようだった。
人込みの向こうには子どもを肩車する父親までいる。たかが人、たかが剣の一振りとはいえ少々平和ボケが過ぎるだろう。
混乱する状況の中で、アラドは何か決意するように一つ頷く。
避難を促す警衛兵の脇をすり抜けて、アラドは勇者の舞台に歩み出た。
「あー、ええと、なんだ。そこの人ー!」
背後からかけられた声に、勇者がびくりと肩を震わせた。
慌ててアラドへと向き直り、数歩退いて剣を構える。
「……は、魔族共にも人語を解する輩がいたか!」
魔族ときた。
どこから反論すべきか、アラドは言葉に迷う。
『魔族』だろうが言葉や文字は当たり前に使うし、どこの誰かも分からない勇者が会えるほど魔王の存在は安くない。いちいち論破していたら日が暮れてしまいそうだ。
それでもまずは、真っ先に確認すべきことをアラドは口にする。
「俺の言葉、通じてるか? 発音はこれであってる?」
「聞きたいのは私の方だ! 何故魔族ごときが人語を解す!」
「よし、大体分かった」
言葉は通じてるが、会話の出来ない相手らしい。
そう納得してアラドは周囲を見渡した。
乱入者と会話を始めたアラドを、群衆は遠目に眺めている。アラドを下がらせようと前に出た警衛兵も、二人の様子を見て動きを止めていた。
居心地の悪さを感じながら、アラドは警衛兵へ簡潔に状況を説明し、改めて勇者へと向き直る。
「一応聞いておくけど、要求は?」
「知れたこと! 魔王を呼び出すがいい、そっ首叩き落として暖炉に飾り付けてやる!」
「その家具趣味悪くない?」
適当に茶化しつつ、アラドは勇者の要求を翻訳して警衛兵へと伝えた。案の定と言うべきだろうか、初老の獣人は複雑そうに表情を歪める。
よりにもよってこんな日に、とでも言いたげな表情だ。
同意ではあるけれど、ひとまずアラドは時間を稼ぐことにする。
「あー、魔王はちょっと来れそうにないんだけど……他に要求はないのかな。金とか、食べ物とか」
「いらん! 私の要求はただ一つ、魔王の首だけだ!」
「そうか……」
勇者の言葉に答えあぐねて、アラドは頭をかく。
ここまで強硬な態度を取られると交渉すらままならない。勇者が暴れて周囲の人々を傷つけるような事態になるのは避けたかったし、かといって警衛兵らが強引に取り押さえれば勇者が怪我をしてしまうだろう。
どうするべきか、答えを出せずにアラドが黙り込む。そんなアラドを、勇者はじっと観察していた。
手にした剣の切っ先で、アラドの角を指し示す。
「その角、それに手の甲の紅い竜麟。言語を解することといい、貴様、上級の魔族か」
魔族の上に上級ときた。
もうなんなんだよ魔族。
下級とか中級とか、もしかすると四天王とかもいたりするのか。
喉まで出かかった言葉を、アラドはぐっと呑み込んだ。別にここで勇者と論争したい訳ではないのだ。
その沈黙を肯定と受け取って、勇者は居丈高に要求を続ける。
「丁度いい、貴様が魔王を呼び出せ! 正々堂々、一騎打ちでその心臓を貫いてくれる!」
「ちょっと待って、魔王って戦うの?」
つい上げてしまった声に、首をかしげたのは勇者の方だった。
「何を馬鹿な。二百年前、悍ましき魔の兵団を率いてレーリアを侵略し、聖地、極北のアルメアにまで手を伸ばす竜喰らいの魔王! 呪われし忌み名バルバトス! 知らぬとは言わせぬ!」
「知らないよ、誰だそれ」
向こうではあの黄金時代が曲解されているとは聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。
細かい矛盾や見解の食い違いは言うに及ばず。
たった百八十年――人で数えて五代か六代。たったそれだけの月日が、現実、史実を都合のいい物語に変化させた事。それ自体が驚きだった。
そういうものを専門にしている後輩を思い浮かべた後、アラドは静かに周囲を見渡す。
果たして、勇者は気付いていたのだろうか。
勇者を取り巻いていた群集が、揃って姿を消していた。アラドが勇者と会話している間に警衛兵らが避難させたのだ。
この短時間で避難を完了出来た訳ではないものの、勇者を中心に半径十メートルほどの空間が出来ている。逃げていないのは警衛兵――魔王軍旧魔王城警備部冬門警備係第二隊の面々とその応援、そしてアラドだけだった。
アラドの視線を追って、勇者もその事実に気付く。
「――何のつもりだ、これは」
「民間人を避難させてんだよ。別にそれくらい構わないだろ?」
「は! 魔族に民間人などいるものか!」
再び、勇者はアラドに剣を突きつける。
示威行動ですらない、棒を拾った子どもが粋がっているようなものだ。それでも、初老の警衛兵は民間人を守るために前へ出て、手にした飾り槍を固く握りしめる。
刃もついていない、透かし彫りの穂先越しにアラドは勇者を見据えた。
勇者を取り押さえるだけならば簡単だ。身体能力において、人族と獣人族では比較にもならない。取り押さえるだけならものの数秒で終わってしまうだろう。
それをしなかった――出来なかったのは、パニックを回避する為だ。
先ほどまで、この場は群集で埋め尽くされていた。刃傷沙汰になれば逃げ惑う人々で場は混乱し、あるいは死傷者だって出たかもしれない。
アラドはそんな状況を整理して時間を稼いだのだ。
二人の会話の背景で、避難と包囲は既に終わっていた。後はもう、この空気が読めない乱入者を速やかに取り押さえるだけ。
だから、ようやく。
アラドは、ずっと言いたくて仕方なかったことを口にした。
「魔王なら、もう死んだよ」
勇者の旅をすべて無為にする、あまりにもあんまりな事実を。