私の人生はハードモードへと切り替わった
私は何も知らずに、己の人生がイージーモードだと信じ込んでた。
雲類鷲家の令嬢として、父親には欲しいものを常に与えられ、どろどろに甘やかされ守られ、わがままも許されてきた。母親には淑女としての振る舞いを仕込まれ、学院内では女子の憧れの存在にまで到達していた。『紅薔薇の君』、『紅薔薇の真莉亜様』と呼ばれており、その名の由来は美しいけれど、気位が高く触れると危ないということからではないかと噂されている。思い通りにいつも事が運び、反発してくる人間もほとんどいない。まるで自分中心で世界が回っているようだった。
けれど、人生にイージーモードなどは存在しないと私は唐突に知ってしまった。
ここは私の知っている漫画の世界と同じで雲類鷲 真莉亜は、殺されてしまうのだ。何故私が中等部二年にして、そのようなことを知ってしまったのかというと家にある温水プールで溺れたことがきっかけだった。
「うぐっうぼぼぼぼぼ」と無残な声を上げながら足がつって溺れていた私は、ぶくぶくと自分から泡が漏れていくのを水の中で眺めながら、走馬灯のようにかつての出来事を思い出してしまったのだ。その昔、私は滝川千歩という名前で高校三年の夏に友達と行った海で溺れて死んだのだ。
そこから奔流にのまれるように私の頭の中に滝川千歩の十八年分の出来事が流れてきて、意識を失った。
滝川千歩は一般家庭に生まれて、女子高生をエンジョイしていた所謂リア充のグループに所属していた。けれど、残念ながら一人だけ彼氏なし。「このままJKの夏終わるのやばくね?」という友達の言葉から、急遽海に行くことになりはしゃいでいた前世の私はそのまま海に溺れて死んでしまったのだ。あの時のことを思い出すと恐怖で心が凍りそうだった。
嫌だ。怖い。忘れたい。でも、忘れたくない。だって楽しいことだってたくさんあった。消してしまいたくない。ーーーー私の前世の記憶。
「ーーん」
誰かの声が聞こえる。
「ーー姉さん」
姉さんって誰? この声は誰なの。でも私は知っているはず。聞き覚えのある声だ。それに不思議と落ち着く。
「姉さん!」
声が突然大きくなり、驚いて飛び起きる。どうやら私はベッドの上で眠っていたみたいだった。薄いレースカーテンに陽の光が差し込んでいるということは、昼間だろうか。確か朝から私は自宅の温水プールに入っていたはず。
「あ、起きた。よかった」
覚えのある人物が私の顔を覗き込んでいた。
「魘されていたから心配した」
頭が傾けられてさらりと流れる焦げ茶色の髪。少し細められた奥二重。瞳を守っている長い睫毛。この綺麗な顔立ちの男の子は、間違いなく弟の蒼だ。
あれ……? 弟の名前は雲類鷲 蒼。前世で聞いたことあるような気がするんだけど。私は約十二年間、雲類鷲 真莉亜として生きてきて……雲類鷲 真莉亜? この名前もそういえば前世の私が知っている。
「母さん達が明日は学校休ませるって騒いでるけど……明日は姉さんが楽しみにしてクッキー作りじゃなかった?」
「え……」
「確か先輩方に贈るクッキーを家庭科の授業で作るんだったよね」
学校……そうだ。私の通っている学校は私立 花ノ宮学院。これも私は前世で聞いたことがある。
「ひっ!」
「どうしたの?」
頭の中で前世と今世の記憶が次々に一致していき、血の気が引いていく。
前世で読んだことのある漫画で、同じ名前のキャラクターを知っている。すっごく嫌な意地悪令嬢の雲類鷲 真莉亜。同い年の義弟の名前は雲類鷲 蒼。舞台は私立 花ノ宮学院。いやいやいや……嘘だよね。本当にここはあの世界と同じなの? でも思い当たることは多数ある。花ノ宮学院の理事長は真莉亜の伯父。はい、一致。初等部と中等部は男女の校舎が分かれている。はい、一致。まだ関わったことはないけど、男子で絶大な人気なのは天花寺率いる三人組。はい、一致。
ごくりと生唾を飲み込む。
「夢、じゃないんだよね」
「姉さん、何言っているの? プールで溺れて、意識失ったんだよ。体調は大丈夫?」
おかしな感覚だ。今まで弟として一緒にいたはずなのに、ああそっかこの人漫画のキャラと同じだなって心の中にすとんと何かが落ちてきた。今まで妙な違和感はあったんだ。蒼と始めて会って、名前を聞いたとき既視感を覚えたし。
「聞こえてる?」
彼は真莉亜とは本当の姉弟ではなく、同い年の従兄弟だ。けれど、蒼の両親は幼い頃に事故で亡くなり、蒼の父の姉である真莉亜の母が彼を引き取りたいと申し出たため、雲類鷲家の養子になったのだ。主要人物の中で真莉亜の死を本当に悲しんでいたのは蒼くらいだ。そのくらい真莉亜はヒーロー達に嫌われていた。
というか……本当に私は読んだことある漫画と同じ世界に生まれてしまったの? これって所謂転生ってやつ? 転生ネタなら漫画でたくさん読んだことがある。異世界ファンタジーのキャラが現代に転生したり、現代のキャラが異世界に転生したりってのは読んだけど……この漫画って『恋にほんの少しのスパイスを』っていうタイトルで一応設定は現代恋愛ものだったよね? そこにほんの少しミステリーがプラスされていたはず。ちょっと、待って私って雲類鷲 真莉亜だよね。だとすると、かなりやばい状態なんじゃないの。
「姉さん?」
「蒼……私、いくつだっけ」
「は?」
かなり前に読んだ漫画だけど、大好きで何度も読み返していたから登場人物や展開の一部は覚えている。ドラマ化もアニメ化もしてたし。原作は高校一年生からスタートする。主人公であるヒロインの浅海奏が特待生として入学してくるのだ。だとしたら、私に残された猶予はどのくらいなのだろう。
「僕らは中等部の二年だよ」
「中等部……」
「どうしたの? 顔色悪いよ」
だって、私殺される。
漫画の中だと雲類鷲 真莉亜は後半あたりで死んでしまうのだ。あ、あれ? しかも、誰に殺されるんだっけ……ラストの犯人くらい覚えていてもおかしくないはずなのに思い出せない。真莉亜は死ぬ直前誰かに付け狙われてたんだったよね。それで切りつけられて、階段から落ちて……
「うぁああああぁああ!」
「な、なに!?」
思い出してしまった。私は最終話を読む前に海で溺れて死んでしまったのだ。もしかして、これは滝川千歩が最終話を読めなかったことを悔いていて、じゃあそんなに読みたいならこの世界で見てこいってこと!? いやいやいや、真莉亜になったって死ぬから最終話わかんないし。犯人死ぬ直前に見て「あ……あんただったのね」でバッドエンドじゃん! そんなの嫌に決まってる。
「私……」
「大丈夫? 目覚めてから変だよ」
「生きたい」
「うん、姉さんは今生きてるから安心して。ちょっと休もう」
蒼によって強制的にベッドに寝かされて、羽毛布団をかけられる。深いため息を吐いてから、頭ごと中に潜り込み身を縮ませて「なんじゃこりゃー」と叫んでいると心配した蒼に羽毛布団を剥ぎ取られた。
この日、私の人生はハードモードへと切り替わったのだった。