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Daybreak

作者: 蒼原悠







 慣れない布団の触感に、なんとなく落ち着かない心地がして。

 ふと、目を覚ました。


 手元の小さなデジタル時計が、午前四時を示していた。

 このまま行けば、午前八時ごろにアラームが鳴る設定になっていたはず。でも、真夜中なのに変に目が冴えてしまって、二度寝はとてもできそうにない。

 アラームの設定を解除して、うーんと伸びをしてみた。ぴんと天井を指した指から、腕から、夜半の少し冷たい空気が身体に染み込んで、ぼんやりと頭にかかっていた靄を少しずつ外へと押し出していく。

 深呼吸をして、つぶやいた。


「片付けの続き、しようかな……」




 たった六畳の部屋の中は、届いた時から開封もしていない段ボール箱やら、ビニール袋から引っ張り出されたまま床に転がっている衣類やら、いい大人が見たら「はしたない」と顔をしかめそうな散らかり方をしたモノたちで埋まっている。

 ここのところどうにも忙しくて、それからめんどうくさいという本音もあいまって、片付けに全く手を付けていなかったのだ。

 手触りの堅い布団を剥ぎ、ベッドから起き上がって、床に立った。ぱちんと灯した電灯のおかげで、背後の窓に寝起きの自分が大写しになった。寝ぐせがひどい、気に入らない。まだ力の入りきらない指で櫛を手に取って、乱雑に撫でつける。


 床に転がっているコートが邪魔だ。

 しまっちゃおうかな、とも考えたけれど、この街はまだ空気が冷たいから外出時にはコートが欠かせない。仕方なくハンガーを探して、適当に引っ掛けておいた。

 コートの下には大きな旅行カバンが落ちていた。これに関しては、当分は使わないとみて間違いないだろう。なにせ旅行したくても、お金もクルマもないのだ。高いところにある戸棚に、うーんと背伸びをしながらようやく押し込んだ。

 とたん、紙がばさばさと落下してきて、狭い部屋に舞い散った。

 一瞬、なんだこれはと迷ってしまったが、正体をすぐに思い出した。そうだ、書類の束を旅行カバンの奥に押し込んで、この街まで持ってきたのだった。背負っているリュックサックに詰めたのでは、重すぎてとても運べなかったから。

 ああ、これでは何が何だかわからない。派手に床いっぱいに広がった紙をかき集めながら、小さくため息をついた。紙が散らばったことに対してのため息では、なかったと思う。

 契約書。持ってきたもののリスト。連絡先の一覧。緊急で使うものではないけれど、どれも大事な書類だ。100円ショップで購入したファイルがあったのを思い出して、なるべく以前と同じ順番になるようにして収納してみた。こうすればもう散らばることはない。安心して、背後の机の隣の本棚に置く。


 黙々と手を動かしているうちに、いつしか起きてから三十分が経過していた。 けっこう身体を動かしたような気がするが、これで少しは片付けも進んだだろうか。

 そう期待しながら振り返ってみたけれど、現実にはやっと一角が片付いただけだった。セットアップどころか箱からも出していない複合機が、どんと床に居座ってこちらを睨んでいる。おい、オレのことも早くなんとかしろよ。そんな声があちこちから聞こえてきそうだ。

 だめだ。段ボールの山を見てはいけない。見たら最後、目元からやる気が消失していってしまう。今は目の前の一つの段ボール箱にさえ、意識を注いでいればいいのだ。

 しかしそう思った時には、もう手遅れだった。部屋の完成までの道のりの遠さを目の当たりにして、意欲はあっという間に萎えてしまった。

 これだから新居への引っ越しの片づけは大変なのだ。どこに何を置くのか、どう配置するのか、そういうことが何一つ決まっていない。自由でいいのかもしれないけれど、正直、どうすればいいのかわからなくなって途方に暮れてしまう。現に今、途方に暮れている自分がここにいる。

 一休み、しようか。

 そう思って、ベッドに腰かけた。ベッドの向かいの机の上も散らかっている。もう嫌だ。




「…………あ」


 つぶやいて手に取ったのは、床に落ちていた一冊のアルバムだった。

 さっき整理した書類と一緒に持ってきたものだ。そういえば片付け忘れていたなと思い、ファイルの横にぐいと押し込んだ。──いや、押し込もうとして、ふと思い直してまた取り出した。

 そして、開いてみた。

 懐かしい顔ぶれが、目の前に収められた写真たちにいくつも写っている。卒業した学校の友達、家族、親戚。今は遠くなってしまった人たちが、こっちを向いて笑顔を咲かせている。

 そういえば、あんなこともあったっけ。こんなこともあったっけ。片付けの途中なのも忘れて、ベッドに深く座って読みふけってしまった。写真の中の自分はどれも楽しそうで、幸せそうで、数十分前にこの部屋のガラス戸に映っていた誰かとは全くの別人のようだった。

 今でもこんな顔、できるかな。ガラス戸に向かって微笑んでみたが、とても笑顔と呼べそうな代物ではないほど、その微笑はぎこちなかった。寝不足が響いているのか目はうつろだし、唇だって乾いている。

 どうしてだろう。どうしようもなく、切ない気持ちになった。淋しくなった。


 もしも、笑顔を作れるようになったら。

 いや、自然に笑顔が漏れるようになったなら。

 そのとき初めて、自分はこの街の住人になれるのだろうか。


 きりがないと思って、アルバムをぱたんと閉じた。

 ふわりと生じた風圧が前髪を掻き上げて流れていく。涼しさに目を細めたその時、空腹であることに気が付いた。貧しい夕食を食べてから、もう七時間以上が経っている。

 そうだ。気分転換に外に出て、朝食を買いに行こう。

 思い立ったが吉日と言う。すぐに立ち上がって、さっき引っ掛けたばかりのコートを羽織る。そして狭い玄関先で靴を履いて、逃げるように外へ出た。




 夜の帳に覆い尽くされた街並みは、静かだった。

 幹線道路には煌々と街路灯が灯っていて、時折その下をバイクや自動車がライトをきらめかせながら通り過ぎていく。まだ始発の時間ではないはずなのに、遠くから列車の音も聞こえてきた。そうか貨物列車か、と独り納得する。

 この大きな通り沿いに、24時間営業のコンビニがあるのだ。目的地の看板はまぶしい電飾に彩られていて、ほとんどの家から明かりの消えた街並みの中でもよく目立っている。あまりに寒いので、ポケットに手を突っ込んだまま、足早に入口へと急いだ。

 いらっしゃいませー、と店員が出迎えてくれる。こんな時間までお勤めご苦労様です。そう声をかけてあげたいけれど、さすがにまだそこまで馴れ馴れしくすることはできそうにない。せめてさっさと店を出ようと思って、具の中身など確認もせずにおにぎりをいくつか選んで会計に出した。

 そうして、来た時のように足早に店を出た。




 静かだ。


 ふと見上げた空は、吸い込まれそうに感じるほど真っ黒で。

 前の町ではあんなに見えていたはずの星たちは、今はすっかり息をひそめたように見当たらなくて。

 車通りの途絶えた刹那、自分以外の何もかもが静止しているようにさえ思えた。


 この道をまっすぐ行けば、中心街がある。林立する超高層ビル群が、今も街路灯の続いている彼方で赤い光を明滅させている。

 前の町に帰りたかったら、そこから新幹線に乗ればいい。たった数時間の旅だ。

 新幹線だけではない。夜行バスだってある。各駅停車の電車で行くことだってできる。高速道路も通じている。最寄りの空港からは、直通の飛行機の便まである。

 その気になりさえすれば、帰る手段はいくらだってあるのだ。


 でも。

 今はまだ、手を出したくない。

 そんな決心が、心の中には大きく巣を張っていた。

 どうして? こんなに後ろ向きの気持ちでいっぱいなのに? 逃げたいって思わないの?

 誰かにそう問われたら刹那のうちに崩壊してしまいそうなほど、その決心は脆い。そんなことは、自分自身がよくよく分かっている。




「…………」


 立ち止まって、高い空をもう一度見上げた。

 真っ黒なはずの空が、少しにじんでいた。






 新たな生きる道を探して、この街に来た。

 思えば、あれからもう、ずいぶんと日々が過ぎていた。


 お金がないから、高い物件には住めなかった。今のアパートは狭いし、駅からのアクセスも悪いし、あちらこちらがサビや染みだらけで汚い。どんなお世辞を繰り出しても、安いという言葉以外では評価できそうにない物件だった。

 光熱費だって節約しなければならない。水道代がバカにならないからシャワーも使えないし、風呂に張るお湯の量も少なめだ。家電選びで重視したのは、何よりも安さと必要な電気の少なさだった。

 分からないことも、自分一人では難しすぎることも、たくさんあった。でも何よりもまずいのは、そういうことを相談できるような相手が、未だに誰もいないことだった。煙たがられたらどうしようとか、面倒な相手だと思われたくないとか、そういう不安ばかりが先行してしまって、誰に対してもなかなか話しかけられずにいたのが原因だ。

 あいさつに出向いた隣人は、ことごとく不愛想だった。家主はこのアパートへの投資に全く意欲的ではなく、古びた設備の更新を申し出ても曖昧な返事が返ってくるばかりだった。

 不安を分かち合える相手は、まだこの街にはいない。かつて心を通わせることのできた人たちは、みな、今はあの空の向こうに遠ざかってしまった。この街で出会い、辛うじて話せるようになった『新参者』たちはみな、自分より遥かにしっかりとした日々を送っていて、話していてかえって心底、惨めになった。

 不安なのは知り合い作りだけではない。何かをお願いすること、何かを頼ること、それらはみんな勇気の要ることだ。現状を何とかできるのは、頼れるのは、ただ我が身だけなのだ。

 なのに、その我が身は眼前の不安に怯えて、身動きが取れないなんて。

 どうしたらいいというのだ。


「もう……負けそう、だよ……」


 空に向かってつぶやいたら、にじんだ黒がそっと流れ落ちていった。




 遠くの市街地の輪郭が、少しずつ少しずつ、見えるようになってきた。

 もうすぐ、夜明けが来る。


 あの空が明けたら、今日は何があるのだろう。どれだけの新たな不安を抱え込む羽目になるのだろう。

 何もかもを失った代わりに、今の自分には自由がある。門限もない。何をしても咎められることはない。むしろ、できることが多すぎて、目がくらみそうだ。

 何かに似ているなと思った。そうだ、街の向こうから上ってきた太陽に目を細めた時と、くらみ方はよく似ている。

 あの太陽のように、あまりにも明るすぎる自分の未来の可能性が、今は怖いのだ。なぜならその可能性の横には、同じだけの不安や恐怖が仁王立ちになっているから。


 歩道の端にベンチがあった。腰掛けて、夜明けを待った。

 黒から紫、そして明るい蒼へと、空が色を変えていく。徐々に浮き上がってきた街並みは、故郷のそれとはまるで違う。雰囲気も、道を行く人の顔も、空気の臭いさえも違う。

 でもそこに、嫌悪感を抱いたことはない。新しい何かに触れることは怖いけれど、それと同じように刺激的で、興味深くて、嫌うようなことではなかった。証拠に深呼吸をしてみた。肺に入ってきた空気は、懐かしい土地のそれよりもほんのりと煙たくて、ほんのりと甘かった。

 思えば、初めてこの街を訪れた時にその『異質さ』に心を惹かれ、この街に未来を託してみたいと考えたのが、今こうしてここに座っていることの発端だった。今の戸惑いや不安なんて、その時には存在の想像もしていなかったのだ。どれも、後付けではないか。


 そうであるなら、不安なんて、本質ではないのかもしれない。

 それならば不安はいつか、晴れてくれるのだろうか。そう──どんなに曇りの日が続いても、太陽は必ず顔を覗かせてくれるように。


 そうなのか?

 本当に?

 今、こんなにも不安なのに?


 自問しながら見つめた空に、初めて一つの星を見つけた。

 白色に輝いたその小さな星は、見つけられたからもう満足だよ、とでも言わんばかりに、白んでいく空の中へとあっという間に溶け込んでしまった。




 ポケットで何かが鳴動している。引っ張り出したスマホに、着信が来ていた。

 つい昨日、出会って連絡先を交わした相手だった。

 目が冴えて眠れない、今日は何か予定はあるのか、ないなら一緒に動き回らないか──。要約するとそのようなメッセージだった。こんな朝方に送らないでよと苦笑しつつ、画面のまぶしさに目を細めつつ、しばらく呆然とそのメッセージを眺めていた。始発の電車が動き始めたのか、踏切を通過する重たい音が乾いた空気を渡ってきた。

 この相手も、同じように今年この街にやってきたばかりの新参者だった。もう新居の準備も済ませ、あちこちで色々な人との関わりを作っていると聞いた。まるで次元の違うその行動の速さに、我が身を顧みて情けなくなったものだったっけ。その相手が今、こんなメッセージを送ってきている。

 不思議と、意外だなとは感じなかった。

 少し悩んで、返信した。『うん。そうしよう』と。

 今日のカレンダーに書き加える予定が、ひとつ増えた。0から1。大きな変化だ。




 小さな変化を積み重ねて、いつかその変化に慣れ切った時。

 本当の意味で、人は『変化』するための準備を済ませることができるのかもしれない。




 広い道路の先に、一筋の光が走った。

 かと思うと、その光はみるみるうちに大きくなって、目映いばかりの明るさで路面を照らし出した。

 行く手の道が光を浴びて、真っ白に輝いている。太陽が、昇ってきたのだ。


 輝く道を見ていたら、自然と足に力が入って、立ち上がることができた。

 そればかりではない。光に向かって一歩を踏み出せた。それも、今までよりもずっと軽い足取りで。

 あんなに鬱屈していた気持ちは、いつの間にどこへ行ったのだろう。思い返そうとして、やめた。今は家路をたどるのが先決だと思った。

 建ち並ぶ家々の屋根がアパートへの道の脇に沿って、こっちへおいでと手招きしている。




 家へ帰ろう。家にいたくなくて買い物に飛び出してきたのに、素直にそう思えた。

 やるべきことはたくさんある。部屋を片付けたら、足りないものをリストアップして買い物に行こう。それから、この街でやりたいことを考えよう。よく考えてみると、そもそもやりたいことがなければ、『上手くやっていけるのかな』なんて悩むこともできない。

 不安も、恐怖も、今はまだあってもいい。いや、あった方がいい。その負の感情を裏返せば、そこには隠れて見えなかったわくわくや、どきどきや、楽しみな気持ちが控えているはずだから。

 そう信じないと、やっていられないではないか。




 だんだんと姿を現してきた太陽を見ていたら、目元の潤いはいつしかそっと消え去っていた。






 長い暗闇の時間を、太陽が破って。

 今日もまた、一日が始まる。


 その光は、まだ見えないはずの明日も、明後日も、遥か未来さえも照らし出してくれる。

 そうして、語りかけるのだ。


「大丈夫。きっと、なるようになるよ」


 と。

 焦ることはない。

 なるようになったその瞬間、笑えていれば。それでいい。




 これから少しずつ『居心地のいい場所』になってゆくであろう、安アパートの鉄製の重たい自室のドアが、朝靄に白くかすんだ空気の中に、ようやく見えるようになってきた。













この短編は、新天地に移って以来何一つ執筆の進んでいなかったことを憂えた作者が、近所のマクドナルドに押しかけてコーヒーをすすりながら二時間ほどで掻き上げた短編です。

クオリティは……お察しください。

これからしばらくは、こうして短編やエッセイを書きながらリハビリをしていこうと思います!

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