6、アンジェ最強説
食後、のんびりとした空気の中で、私は床に寝転がっていた。アンジェとエル父がソファに座り、エルはその対面にいる。私はエルの足元だ。
「さて、決めなきゃいけないことがあるんだが」
急に言い出したエルに、私は耳だけを向けた。食後というのは眠いものだ。
「ツヴァイテイルの名前だ」
……ん? 私の名前?
顔を上げると、エルと目があった。いや、三人ともがこちらを見ていた。
「ツヴァイテイルってのは種族名だろ。つまり、俺のことを人間って呼んでるようなものだ。俺は、ちゃんと名前をつけたい」
……いや、つけるというか。
「兄さん、なにか案はあるの?」
「ザシュベルとか」
「微妙だね」
エルの胸に言葉のナイフが突き刺さるのが見えたぞ、アンジェよ。
というか、それはひょっとして男の名前ではないか? まさか……。
「ツヴァイテイルはオスなのか?」
いいところに気付いたな、エル父!
エルもアンジェも黙ってこちらを見ている。
「なあ、ツヴァイテイル。ちょっと腹を見せてくれないか?」
降伏のポーズを取れというのだろう。断固拒否する! 私はそっぽを向いた。
エルの指が私に向かってゆっくりと伸ばされたので、噛んでやった。皮膚は突き破らないから血は出ない、でも軽く痛みは感じるであろうギリギリのラインで。
「エル、大丈夫か⁉︎」
エル父が慌てて立ち上がるが、エルは手で制した。
「大丈夫だ、ちゃんと手加減されてる。切れてはない」
「そうか、よかった……」
ああ、そうか。本気で噛めば、指を食いちぎるくらいわけないからな。慌てさせてしまったらしい。
「だが、困ったな。これじゃあオスかメスかもわからない」
「……ていうかさ」
頭を抱える男二人に、アンジェが冷たい眼差しを向けた。
「ツヴァイテイルちゃん、あなたオスなの?」
首を横に振る。
「メスなんだ?」
首を縦に振る。
「女の子だってさ」
「「…………」」
男二人は、何とも言えない顔をしていた。この家で一番強いのはアンジェなのかもしれない。
「ちなみにさ、兄さんは名前つけるとか言ってたけど、ツヴァイテイルちゃんにはまだ名前ないの?」
アンジェもいいところに気が付く。私は首を横に振った。
「んー、じゃあ順番に音を発音していくから、名前で使う一文字目の音が来たら鳴いてくれる?」
「きゅう!」
ポンポンと進んでいく会話に、エルとエル父は居心地が悪そうな顔をしていた。
アンジェが順番に音を発音してくれるので、私は欲しい音が来たところで鳴く。時間はかかったが、無事に名前を伝えることができた。
「っと、これで終わりなんだ?えーっと、『ミコト』で合ってる?」
「きゅー!!」
尻尾をパタパタと振ると、アンジェはにっこりと笑ってくれた。
「ミコトだってさ。兄さん、父さん」
「そうか。ありがとう、アンジェ」
達観したような顔で、エルが礼を言う。やはり、きっと一番強いのはアンジェだ。
そろそろ日も落ちたので、今日は寝ることになった。問題は私がどこで寝るかということだが、議論の末にエルのベッドの隣に柔らかい敷物を敷いて寝るということで落ち着いた。エルとエル父はおそらく、私をアンジェから引き剥がしたかったのだろう。確かに、友好的とはいえ、今日連れて来たばかりの魔物と抗する術を持たないアンジェを一緒に寝かせて、朝にはアンジェが冷たくなっていましたとか笑い話にもならない。
二人の判断は考え方としては間違ってはいない。ただ、エルでも、私がその気になれば私に対抗する術を持たないという点ではアンジェと変わらないということだけが、彼らの誤算だろう。その予定はないがな。
敷物に寝転がると、すぐに眠気が襲ってきた。私はそれに抗うことなく、そのまま意識を手放した。
翌朝。自分がいやに柔らかいものの上に寝ているということに違和感を感じて、私は目を開いた。森では、土や岩、木や草の上で寝ていたのだから。そして周りを見回し、エルの家に来たことを思い出す。思い出したので、もう一度眠ることにした。
二度目に目覚めた時には、エルが着替えだけ引っつかんで忍び足で部屋を出て行くところだった。私に気を使ったのだろう。もう一度眠ることにした。
三度目に目覚めた時には、部屋には誰もいなかった。もう一度眠ることにした。
四度目に目覚めた時には、太陽はかなり高くまで昇っていた。さすがに眠気が取れたので、ひとつ伸びをして体を起こす。ドアを見ると、少しだけ開いていた。私が出られるように、開けていってくれたのだろう。
私は部屋から出ると、アンジェの匂いがする方へ歩いて行った。アンジェは、部屋の掃除をしているところだった。
「きゅう」
「ミコト、おはよう。ご飯食べるよね?」
おはようの時間かどうかは怪しいが、笑顔で声をかけてくれるアンジェに付いていく。途中で書類仕事をするエル父は見かけたが、エルがいない。
「ああ、兄さんはね、今日仕事なの。街道の見回りと、周辺の魔物の討伐だってさ。怪我してこなければいいけど」
言いつつ差し出された食事に、私は食いついた。焼かれた卵が乗ったパンだった。とても美味しい。こんな食事を続けていたら、森に帰れなくなりそうだ。
私が食べ終わった頃を見計らって、アンジェが片付けをしてくれた。そして、何やら近付いてくる。
「ねえミコト、ちょっと撫でてもいい?」
なんの中毒患者だアンジェは。だがやぶさかではないので、私はソファに体を投げ出した。アンジェが撫でてくる。その手は、遠慮がちに少しずつ、首から頭の方までシフトしてきた。……まあ、いいか。されるがままでいると、耳の近くまで手が近付いてきた。耳の根元に爪を立て、優しく引っ掻かれる。ずっと野生で生きてきた私は撫でられるのが気持ちいいということさえも昨日初めて知ったのだが、これは別格だった。クルル、と勝手に喉が鳴り、脱力してしまう。
「ミコト?」
「きゅー……」
もっと、と頭を手に押し付けると、アンジェは理解したらしい。かりかりと引っ掻いてくれた。それどころかもう片方の手も伸びてきて、顎の部分も引っ掻かれる。私がその指に食いついたら簡単に千切れてしまうのに、怖くないのだろうか。……怖くないか。とろんとした目で耳をへにゃりとさせ、脱力しきった狐など。実際、今その指に食いついたとしても、噛み千切れるだけの力を顎に込めることができるかは謎だ。だって、本当に力が入らないのだ。
私の反応にますます気を良くしたらしいアンジェに、私はされるがままに撫でられ続けた。
「……ふう。そろそろお掃除の続きしなくちゃ」
アンジェのその言葉に、ハッと我に返った。あれ、天井が正面に見えるぞ。……まさか。
私は、犬っころの降伏のポーズでアンジェに腹を撫でられていた。いつの間に。口はだらしなく開き、舌は垂れている。いつの間に。
あまりの衝撃に固まっている私の首の飾り毛の部分を最後にわしゃわしゃと撫でると、アンジェは掃除に戻っていった。
……嘘だろう。途中から記憶がないぞ。なんて恐ろしい。
未だに降伏のポーズだったことに気付き、私はすぐに反転して足を地面につけた。