23、穏やかな日(2)
アンジェは一つため息をついた。
「とにかく。買い物とキッチンの掃除が急務なことは、よく分かったよ」
怪我をアンジェに叱られ、左手には結局包帯を巻かれた。それから二人でもそもそと果物を齧ってからの、このセリフである。
「まあ、材料は一応あるから昼は作ればなんとかなるし、買い物は午後でもいいね。まずはキッチンを何とかしよう。ミコト、手伝ってくれる?」
「ああ、それは構わないが……大丈夫なのか? 指示をくれれば、私がやってもいいぞ」
「それは不安だから却下」
少し手を切っただけなのに、えらく信用がなくなったものである。
「とりあえずミコトは、散らばってるスプーンやフォークを洗……いや、怪我してるのに水は良くないね。コンロの方、お願いしていい? わかってると思うけど、危ないから火はつけちゃダメだよ」
「別に怪我は大丈夫なのだがな……わかった」
「ありがとう。ミコトがいてくれて、嬉しいよ」
「なっ! いや、別に、全然……」
アンジェがにやにやと笑う。
「あー、ミコト照れてるでしょ」
「別にそんなことはない!」
「はいはい。頑張ろうね」
「むう……」
アンジェには勝てない気がする。
アンジェに言われた通り、布を使ってコンロを掃除していく。ガンコな汚れは、渡された棒を使ってカリカリカリカリ。落ちない。ガリガリガリガリ。ベキッ。……むう。ならば布でゴシゴシゴシゴシ。落ちない。布越しに爪を立ててガリガリ。ビリッ。……あっ。
「……アンジェー……」
「ど、どうしたのミコト」
「飽きた……。もっと豪快な、力仕事とかの方が私には向いていると思う」
「まだ始めて十分だよね⁉︎」
「あと、棒が折れた。それと、布が破れた」
「早くない⁉︎」
ですよね。私はアンジェから目を逸らした。アンジェ自身は、焦げ付いた鍋を洗っている。なかなか順調に綺麗になっているようだ。
「……えーっと、じゃあ、どうしよっかな……。あ、別に休んでても大丈夫だよ」
「……それはいやだ。アンジェは働くんだろう」
「うーん、じゃあ……あ、そうだ! お布団を干してきてもらってもいい? わかる?」
「わかる!」
「じゃあ、ミコトお願い。あ、意外と重くて力がいるから、きつかったら呼んでね」
力がいると言っても、アンジェの腕力でできることが私にできないはずがない。成人男性よりは力はあるはず。
「大丈夫だ、行ってくる!」
手始めにアンジェの部屋に飛び込み、ベッドの上に敷かれている布団部分を引っぺがす。丸めたそれを持ったままエルの部屋に突撃しようとして、ふと気付いた。……今、使えるのは二本の腕だけじゃないか。尾がないから、これ以上布団を持つことができない。仕方ないので一枚ずつ庭に運んでいく。三枚全てを干すと小さな庭はいっぱいになってしまった。そういえばアンジェは、三人の布団をローテーションで一日一枚ずつ干していたような? まあたまにはいいだろう。
意気揚々とキッチンに戻ると、この短時間でかなり見られる状態まで片付いていた。
「ありがとう、ミコト。終わったの?」
「ああ、干してきた。こちらも、この短時間でかなり進んだな。あまり無理はするなよ」
「あはは、ありがと。そうだね、少し休もうか。先にリビングに行ってて」
「わかった」
人型のままソファに寝転がってゴロゴロしていると、甘い匂いをさせたアンジェがお盆に二つカップを乗せてやってきた。
「アンジェ? なんだ、それ?」
「ココアだよ。魔物とはいえ狐だから、ミコトには良くないかと思って出してなかったんだけど……その姿見せられちゃうとさ、平気かなって」
「あー……まあ、私は何でも食べられるから大丈夫だな。そういえば、人型の時には狐の時より少し濃い味付けの方が美味しく感じる気がする」
手渡されたカップを覗き込み、匂いを嗅ぎながら答える私を、アンジェはニコニコと見ている。飲めということだろうか。
「……あまい」
「おいしい?」
口の中一杯に広がる味は、
「…………甘い……」
「ありゃ、甘すぎた?」
「少し。これ、ミルクが入っているな。もっとミルクが強い方がいい」
「わかった。次はそうするね」
言いつつアンジェもソファに座って寛ぎモードに入ったので、私はココアが残ったカップを置いてツヴァイテイルになり、アンジェの隣に移った。分かっているな、とアンジェの顔を見上げると、アンジェは既に私の首元にあるほわほわした飾り毛に釘付けである。よし。ソファの上でこてん、と寝転がってやると、嬉しそうに撫で回してきた。本当によく躾けられていて偉い。褒めてやろう。私はアンジェに身を委ねた。
そして、美味しそうな匂いに、私は目を覚ました。
「…………」
周りを見回すが、アンジェはいない。案の定、いつもの通り、私は眠っていたらしい。……だって撫でられると眠くなるんだもん。
首を振って眠気を飛ばし、ソファからぴょんと飛び降りる。そういえば、飲みかけのココアは当然のように片付けられていた。アンジェに感謝しつつ、私はいい匂いの元、キッチンへ向かった。
アンジェは、掃除が終わったらしいキッチンで入り口に背を向けて料理をしていた。鍋からいい匂いがしてきている。特に隠しているでもない私の気配に気付く様子がないので、イタズラ心がむくむくと膨らんできた。
私はにんまりと笑うと、人型になる。そしてアンジェの背後にそっと忍びよった。
「アンジェっ!」
「わっ⁉︎」
とん、と軽く背中を叩きつつ、耳元で声をかける。ただそれだけのイタズラだったのだが、アンジェは思った以上に驚いたらしい。
鍋をかき混ぜていたおたまを持ったまま振り向こうとしたのか単に驚いて腕を動かしたのかは定かではないが、とにかくそのどちらかをしてしまったようだ。火にかかっている鍋がぐらつき、下に落ちそうになる……その瞬間が、私にははっきり見えていた。
「……っ!」
ま、まずい。考える間もなく、私は動いた。いくら魔法特化で身体能力は低いといってもそこはランク8の化け物、それなりには動けるのである。
まず左腕で、状況を理解していないと思われるアンジェを後ろに押しやる。これで、熱々の鍋の中身を広範囲にぶちまけたりしなければ、アンジェが火傷をすることは最低限防げた。そして、鍋本体を……もはや、持ち手部分をえりごのんで持つ時間的余裕はない。右手で、適当に鍋のフチをつかむ。ジュッという音がしたような、しなかったような?
そのまま鍋を元通りにコンロの上まで戻して、とりあえずコンロの火を消した。
「……ふう」
危なかった。右手の掌は真っ赤になっているが、皮が剥がれたりはしなかったようだ。これ、ひょっとすると普通の人間だったらやばかったかもしれない。火傷で痛む右手をまじまじと眺めていると、がしっと左腕を掴まれた。
「ん?」
「ん、じゃないでしょ! 何やってるの、冷やして! 水! 早く!」
「ん、ああ」
シンクで水を出してもらったので、おとなしく冷やす……と、ますます痛んだ。
「アンジェ、水が痛いから冷やさない方が、」
「いいから冷やすの!」
「えっと、水、もったいなくないか?」
「もったいなくないから!」
うう。痛いのに。私の痛覚は人間よりずっと鈍くできているが、痛いものはちゃんと痛いのである。
「もう、あんな無茶して! 火傷するくらいなら、鍋の中身なんて別に良かったのに!」
「いや、でもあれ、中身をぶちまけたらアンジェも火傷しかねなかっただろう」
「それでもなの! そんな大火傷して……!」
「別に大丈夫だ、大したことない。……にしてもこの短時間に両手とも負傷するとはな」
何気なく笑いながら言ってしまった、この一言がアンジェの怒りに油を注いでしまったらしい。
「……ミコト」
静かな声だった。
「な、なんだ」
「危ないからキッチンには原則立ち入り禁止でよろしく」
「……はい」
どうやら私はよく怪我をする危険人物という烙印を押されたらしい。両手とも、ただの偶然だったんだがなぁ。