22、穏やかな日
アンジェと二人だけというのは久しぶりのような気がするな。
「なあ、アンジェ」
「なあに?」
「エドワードの奴、仕事中毒者の気があるんじゃないか?」
「あ、うん、確かにそうかも」
苦笑したアンジェは、すぐにキラキラした表情に変わった。
「それよりさ、改めてミコトって、すごい綺麗だよね! お肌ツルツル!」
「な、なんだ突然」
「この服も変わってるけど素敵! ね、着替えられるの?」
「あ、ああ。この服は私の魔力でできたものだから脱げば消えるが、他の服を着ることは可能だな」
「じゃあ! 今度、お買い物に行こう! お洋服買いに行こうよ。ミコト背も高いしスタイルいいし美人だし、何着せるか今から迷っちゃうなー!」
同じベッドの上で半ば抱きつかれながら服のつくりをチェックされているこの状況、大丈夫なのか。同性だからセーフか? いやアウトかもしれない。
「アンジェ」
「うん?」
「明るいな、お前は。死にかけていたというのに」
「あー……うん、ごめんなさい」
単純に感心して言っただけだったのだが、アンジェは座り直すと謝ってきた。
「どうした?」
「その、実はあんまり実感がなくてさ。倒れたのとか、記憶ないし……。立とうと思ったらふらついたから体が弱ってるのかな、とは思うけど、高熱が出てたって割には辛かったりもしないし……。こういうところから考えると、病気じゃなくて呪いだったって言われた方がしっくりくるかも。迷惑かけたのに、ごめんね」
「……別に、治ったのなら、それでいい」
「うん、ありがとう、ミコト」
はにかむアンジェにつられて嬉しくなり、思わず笑ってから……ぼふっ、と、私は布団に倒れこんだ。
「ええっ⁉︎ ど、どうしたのミコト」
「何というか……私ともあろうものが、飼い慣らされたものだなと」
「な、なんかごめんね?」
「いや、いい。今更だ」
困り顔のアンジェに笑いかけてやると、分かりやすく安堵した表情になった。
「今日は私もこのベッドで寝ていいか。ツヴァイテイルになるから」
「ツヴァイテイルになるから……って、いつものことなのに」
クスクスと笑うアンジェに、肝が冷えた。ツヴァイテイルが本来の姿であるなら、今の言い方には違和感があるだろう。どうやら私は、少し気が緩んでいるらしい。
「というか、人間の姿になれるなら、もっと早くになってくれれば色々できたのにー。まあ、これからでもいいけどさ。せっかく女の子同士なんだし、色々したいね。ミコトくらい美人さんだったら、ちょっとお化粧とかも試してみたら、」
「おーい、ミコト、アンジェ! 行ってくる。見送りはいいから!」
アンジェの言葉を遮ってドアの向こうから話しかけてきたのは、エルの声だった。
「うん、わかった。気を付けてね、二人とも」
「アンジェは任せろ」
「ああ、頼んだ。行ってくるよ。親父も俺も、帰るのは多分明日の夕方から夜になるから」
「わかった。森に行くなら本当に、気を付けてね」
「おう」
気配が離れていって、玄関の開閉音が聞こえると、先ほどまでが嘘のように家の中は静かになった。
私は一つ息を吐く。
「……寝るか、アンジェ。何か欲しいものはあるか? 水とか」
「うーん、特には大丈夫。ありがとう」
「いや。なら寝るぞ」
「……あ、ミコト」
明かりを消してベッドに戻り、ツヴァイテイルになろうとしたところで声をかけられた。
「ん?」
「人型がいいな」
私は目を瞬かせた。
「確かに寝れんことはないだろうが……狭くないか?」
「う……まあ、そうなんだけど。……やっぱりいいや、ごめん」
「いや、アンジェが望むなら、別に人型でもいい」
そのままゴロンと横になると、アンジェは少し端に寄ってスペースをあけてくれた。
「おやすみ、アンジェ」
「うん、ありがとう。おやすみ、ミコト」
目を閉じると、睡魔はすぐにやってきた。アンジェが寝付くのを確認する間もなく、私は眠りに落ちたのだった。
……と思ったのもつかの間、強い衝撃を受けて私は目を覚ました。咄嗟に受け身を取ると同時に防御の結界を張り、素早く起き上がって周りを見回す……が、敵の姿は見えない。
「…………」
見慣れたアンジェの部屋、平和そうなアンジェの寝顔。夜は明けたらしく、空は白んでいる。自分が床の上にいるのを確認して、私はようやく何が起こったのかを理解した。ベッドから落ちた……か、もしくは落とされたらしい。ベッドの真ん中よりも少しこちら側で眠るアンジェを見るに、おそらく……。ううむ、大した高さでもないし、まあ、よかろう。
私は苦笑すると、そっとアンジェの頬を摘まんでみた。柔らかい。アンジェは嫌がるように眉を顰めるが、起きる気配はない。おいおい、大丈夫か。人間というのは、本当に野生というものを手放した種なのだな。
私はアンジェの頬から手を離し、ベッドに凭れるようにして座った。どうせもう朝なのだし、もうすぐアンジェも起きるだろう。起こす気もしないので、のんびり待ってやろう。
そう思った私はしかし、自分で思っているよりも眠気が覚めていなかったようで、再びまどろみに落ちて行くのだった。
私の意識を覚醒させたのは、背凭れにしたベッドの振動だった。ハッとして振り向くと、寝ぼけ眼のアンジェと目が合う。
「…………みこと?」
「おはよう、アンジェ」
「おはよ……って、あれ? 何で床の上で……あれ? まさか……」
「……まあ、気にするな」
「うわー、ごめんミコト」
布団に絡まりながらわたわたともがくように起きあがろうとするアンジェに手を貸し、座らせてやる。
「立てるか?」
「うん、多分……」
そう行ってベッドから降り、なんとか立ち上がるアンジェ。そこまでは良かったのだが、歩こうとする様はさながら生まれたての子鹿のようで……。
「……とりあえず手を貸そう」
「あ、ありがとう……。でも、多分すぐに元に戻ると思う」
「いや、何を根拠に」
「筋肉が衰えてるっていうよりは、固まってて上手く動かせない感じなんだよね。だから、解れたら元通り歩けるかなって」
思ったよりまともそうな根拠がきて驚いたぞ。
「とりあえず今は手を貸す。腹が減ったからな」
私はドアを開けて道を確保すると、アンジェをヒョイと抱え上げた。事態に理解が追いつかなかったらしいアンジェは、数秒してから抗議の声を上げた。
「えええええ⁉︎ な、ミコト、これ、手を貸すどころか運んでるよね! お姫様抱っこじゃん!」
「手っ取り早いだろう」
「重いでしょ⁉︎」
「軽いな」
手が滑って落とされるのが怖いのか実は満更でもないのかは知らないがアンジェの抵抗は口だけなので、簡単に運ぶことができた。とりあえずソファに降ろす。
「昨日採ってきた果物がまだあると思うから、持ってくる」
そう言い残して、冷蔵庫を漁るべくキッチンに入り……私は、絶句した。そういえば、昨日も同じ光景を見て同じように驚いたな。すっかり忘れていた。そう、現在のキッチンの状況は、一言で言うなら嵐の後である。もっと分かりやすく言うなら、エルの料理跡地のままである。
「……早く何とかしないと汚れが落ちにくくなる、か……? いや、手遅れか」
どうしても目に入る惨状から目を逸らし、冷蔵庫を漁る。かなり少なくなっていたが、一応果物は残っていた。昼食はアンジェに教わって何かしら作るなり買ってくるなりするつもりなので問題ないだろう。
ああ、あと、皮むきにナイフは必要か。昨日使ったものがちょうどあったので、これでいい。出しっ放しだが、エルかエドワードによって洗われてはいるらしい。……一応もう一度洗っておこう。何の気なしに水を出し、何となくスポンジを使わずに軽く手で洗う。手を横に引いたら、ざっくりと皮膚が切れた。
「………………」
傷口からポタポタと流れる自分の血を、呆れたように眺める。これは……私、実は馬鹿なのか? ジンジンする。とりあえず血が止まるまでシンクから手を出すわけにはいかなくなったので、ため息をついて止まるのを待つ。ぼんやりしていると、物音がしてアンジェの気配が近付いてくるのに気付いた。……まずい。
「あ、アンジェ? どうしたんだ?」
「ミコト遅いからどうしたのかなって。果物取るだけって言ってなかった?」
「ああ、大丈夫だ、すぐに行くから戻っていてくれ」
今来られると、二つの意味でまずい。私の怪我と、キッチンの惨状だ。しかし私の焦りが伝わってしまったらしく、一度歩みを止めたアンジェがまた近付いてくるのがわかった。亀の歩みではあるが、アンジェを置いてきたソファとキッチンとの間には、元々そんなに距離はない。
「アンジェ? 戻っていていいんだが……」
「ミコト、何か隠してない?」
「う。そ、そんなことは……」
そんな会話をしているうちに、キッチンの入り口へと到達してしまうアンジェ。焦げ付いた鍋にフライパン、飛び散った白い粉状の……おそらく小麦粉、入れ物ごと盛大に落としたらしいスプーンやフォークその他諸々を前にして、固まっている。
「あー……その、昨日エルが、な。アンジェのために、病人食を作ろうとしたんだよ。……まあ、これが、その結果だ」
そう言いつつ、私は血まみれの左手とシンクを後ろに隠すようにアンジェの方を向いている。実はシンクの中が一番酷いのだ。エルは最低限洗い物くらいはしたようだが、シンクの中は綺麗とは言い難かった。そしてさらに、血である。血まみれである。
「……ミコト。左手に何か隠してない?」
心臓が飛び跳ねた。
「い、いや、何もないぞ?」
「じゃあ見せて」
「私の手なんか見たって仕方ないだろう」
自分でも怪しさ抜群な自覚はあるが、かといってアンジェを止められる言い訳なんて思いつかない。ジト目で近寄ってきたアンジェに、大人しく左手を見せた。アンジェが息を呑む。
「怪我っ⁉︎ しかもかなり血が出てるのに、ミコト、なんですぐ言わないの!」
「だって」
「だってじゃないでしょ、えっと、包帯……」
いや、自分でなんでって聞いたんだろう。
「慌てなくても大丈夫だ、もう血は止まりかけてる」
水道で軽く傷口を洗い、見せてやった。水をかけたら痛んだが、我慢だ。
「ほんとだ……」
さすがにまだ傷自体は塞がっていないが、血はもうほとんど流れ出ていなかった。
「と、いうか。なんでこんな怪我したの?」
ナイフを横に引いたらぱっくり裂けた、と正直に話したらすごく怒られた。