10、急転
その日、アンジェは朝から具合が悪そうだった。しかしエルもエル父も出勤日だったので、アンジェを気遣いつつも仕事に出かけていったのだ。アンジェが気にしなくて大丈夫だと言い張った面もある。ミコトもいるから大丈夫だ、と。嬉しいことを言ってくれる。
午前中は寝ていたアンジェは、午後になって動き出した。基本的に働き者なのだ。とはいっても、掃除と洗濯はしないと男二人に約束させられていたので、軽食を作るだけのつもりらしい。自分が食べたいから、と言うが、おそらく私のためというのが本当の理由だろう。生肉でも生野菜でも、なんでも食べられるから、具合の悪いときくらい放っておいてくれていいのに。そもそも朝はもらっているし、丸一日くらいは絶食しても私は平気なのに。そして、キッチンに向かう途中でアンジェは突然、倒れたのだ。アンジェのあとをついて回っていた私は、寸でのところでアンジェと床の間に自分の体を滑り込ませてクッションになることに成功した。そして、アンジェが動かないことに肝を冷やした。
どうしよう、どうすれば、どうしたらいい?
アンジェの下敷きになったまま、私はパニックになりかけていた。と、とにかくベッドに運ぼう。私はすぐに人型を取り、アンジェを姫抱きにしてベッドに運び、そっと下ろした。人型の私は、人間の女の姿をしていても、膂力は比べ物にならないほどに強い。アンジェはとても軽かった。アンジェの息は荒く、意識もなかったが、鼓動だけはしっかりしていたので少しだけ安心した。
それで、この後、どうしたらいい? 医者か? 医者というのは何処にいる?
……エルだ。それか、エル父だ。彼らに助けを求めるべきだろう。遅まきながらようやくそのことに思い至り、慌てて出て行き……かけて、アンジェを振り返った。この状態のアンジェを一人で置いていくのは、果たして正しいのか? だが私は分身などできない。そんな能力は持ち合わせていない。
迷った末、私はやはり騎士団の駐屯所に行くことにした。アンジェの枕元には一応水を置いておく。目覚めるかもしれないからな。そして、棚から家の鍵を取り出す。アンジェたちが出かける時に、場所は何度も見ていた。ツヴァイテイルの私には届かない場所にあったが、人間の姿なら簡単に取ることができた。
「借りるぞ、アンジェ。……すぐに戻る」
聞こえていないのは承知の上で一声かけると、私は家を飛び出した。手慣れない鍵に苦戦しながらも急いで施錠して、走り出す。
人が多い通りは効率が悪いことに気付いて、屋根の上を飛び移って移動しながら、私は考える。このまま人型で行くべきか、ツヴァイテイルに戻るべきか。人型をとれることがばれても構わないと思う。アンジェやエルなら、人型になれると知っても変わらず可愛がってくれそうだという思いもある。だが、助けを呼ぶために早いのはどちらだろう。人型なら状況を口で説明できるが、駐屯所に着いても自分の身分証明に手間取って、すぐにエルたちに取り次いでもらえないかもしれない。
そんなことを考えているうちに、駐屯所が見えてきた。本気で急いだからな。
誰もこちらを見ていないことを確認してからツヴァイテイルに戻り、屋根から飛び降りた。騎士団の訓練場をざっと見回すが、エルもエル父もいない。町というのは色々なにおいが入り混じっているから、かすかに感じるにおいで彼らを探すのは時間がかかりそうだ。
だから私は、ちょうど視界に入ったククリとナイトバードの元へ駆け寄った。
「あれ、ミコトちゃん?」
「きゅー! きゅー!」
慌てた様子で鳴く私を見て、ククリの表情が険しくなった。
「……何かあったみたいだね。エルが危ないの?」
違う、エルじゃない! 私は首を振る。
「あれ、違うのか。じゃあ……」
ククリは考えてくれるが、今は一分一秒が惜しいんだ。
私は人型になった。分かりやすいように、金色の耳と尻尾を残した獣人スタイルだ。
「……え……」
突然現れた、風変りな服装の金髪の女に、ククリが呆けた顔を見せる。
「ククリ、わたし、私はミコトだ。エルの妹のアンジェが、倒れた。家にいる。どうしていいのかわからなくて、とにかくエルか、エル父……えっと、エドワードに伝えようと思って……。二人は、どこにいる?」
ああくそ、言葉がたどたどしいな。もう少しなんとかならないのか。人型になったのは久々だ。普段は念話を使っていたので、声の出し方を忘れている。
ククリは顎に手を当てて、少しだけ考えてから言った。
「えーっと……君はミコトちゃん、なんだね? エルさんの妹が倒れたから、慌ててエルさんかエドワード様を呼びに来たと」
私はこくりと頷いた。いつも見上げていたククリと目線が近いというのは変な感じだった。
「わかった。エルさんの第二隊が今どこかはわからないけど、エドワード様は騎士団の建物の中にいるはずだから、行こう。ミコトちゃんが駆け込んで来たって言えば、会話くらいはできるはずだから。一旦ツヴァイテイルに戻れる?」
「わかった」
私は再びツヴァイテイルに戻り、小走りでククリの後を付いていった。
ククリによると、エル父……本名エドワードは、思った以上に偉かったらしい。エドワードは、何やら個室で書類仕事をしていた。ククリがエドワードに、自分にわかる範囲の状況説明をしてくれたところで、私は人型になる。今度は耳も尻尾も出すのをやめ、完全な人型にしておいた。エドワードは目を見開いたが、そこに言及している暇はないと思ったのか何も言わなかった。
「エドワード、アンジェがいきなり倒れた。息は荒いし、熱もあるみたいだった。一応ベッドには運んだ。今は家で一人だ。……たすけて」
助けて、なんて、そんな言葉を発したのは初めてかもしれない。自然と出てきたことに驚いた。
「突然倒れた……。まさか……」
エドワードは青ざめた顔で呟くと、私ではなくククリに顔を向けた。
「第四隊のククリ君、だね? 第四隊は今日、町の見回り担当だったはずだ。だから悪いけれど、ナイトバードを貸してくれないかい? 私の息子のエルが、街道周辺の見回りに出ているはずなんだ。すぐ戻るように手紙を書くから、届けて欲しい」
「はい、大丈夫です」
「キィ」
ククリに頭をなでられたナイトバードが、任せろ、とばかりに鳴いた。ククリに教えられて、ある程度は言葉を理解しているらしい。
次に私の方を向いたエドワードは、辛そうに顔を歪めた。
「私は帰れない」
「え……?」
「私はこれでも責任ある立場にあるから、一身上の都合で勝手に帰ることはできない。今日は大事な会議があるからね。代わりにエルがすぐに早退できるように手続きはしておくから、ミコトは先に家に帰ってエルを待ってくれないか」
家族に甘いはずのエドワードが辛そうな顔で言うから、私は文句を言うことができなかった。
「……わかった」
「医者の手配もしておく。それまで、アンジェを頼んだよ」
頼んだ……と言われても。
私が不安そうにしているのに気付いたのか、エドワードは微笑んだ。
「アンジェのそばにいてくれればいいんだよ。目が覚めた時にミコトがいたら、きっと安心できるだろうから。あと、できればたまに汗を拭いてあげて」
できるかい? と、そう優しく聞かれて、私は頷くしかなかった。九尾ともあろうものが情けない。
「……私は、アンジェが目を覚まして私を探しているといけないから、すぐに帰る。そして、エルと医者を待つ。それでいいんだな?」
「うん。ミコトは賢いね」
聞きようによっては馬鹿にされているような言葉だが、今はその言葉に安心した。大丈夫だ、と言われたような気がしたのだ。
「……じゃあ、急ぐから」
私は窓を開け、建物から飛び出した。
ここ、二階のエドワードの執務室から飛び降り、少し走って別の建物の屋根に飛び乗って屋根から屋根へと飛び移りつつ移動する。「え、ちょ、嘘!」といった意味のなさげな声が後ろから聞こえたが、引き止める言葉ではなかったので、気にしなくて大丈夫だろう。