1、気まぐれ
一話目は殺伐としてます。
二話目からはそうでもないはず…
グルル、とその犬は唸った。歯をむき出しにして、尻尾を足の間に丸めて、及び腰で。脅威でもなんでもないその威嚇に、私は驚いて固まる。
『なんのつもりだ、犬』
私の放った念話に犬はビクリと震えて、それでもその場を動こうとしない。ビクビクしながらも、私に威嚇を続ける。
『殺されたいのか?』
言葉を交わしているのは、ほんの気紛れだ。すぐに殺すことは可能だし、圧倒的下位存在に威嚇されたらそうするのが普通であろう。だが私は、目の前の犬に少しだけ興味が出てきていた。私の記憶が正しければコレは牙犬でランク2、まごうことなき雑魚だ。対する私はランク8の化け物。ファングドッグなど、たとえ群れであっても一分も掛からずに殲滅できる。それなのに、この犬は怯えながらも私に威嚇を繰り返す。おそらくは、その後ろに庇うものを守りたくて。
『ふむ、人間か。迷い込んだのか、自ら望んで来たのか……。傷付いているな。犬よ、お前はソレを守りたいのか』
「わんっ……」
一歩近付いた私に、力なく犬が吠える。完全に逃げ腰だが、逃げ出すつもりはないらしい。
『犬よ、なぜこの人間を守る? 何らかの強制を受けているのか?』
念話を使えない犬は、プルプルと首を横に振った。
『ふむ? では、こいつが死ぬことで、お前が生きていけないような何かが起こるのか?』
また横に振る。
『では、なぜ? お前では私からこいつを守れないだろう。共に死ぬしかない。なのになぜお前は逃げない?』
「くぅーん……」
『ふん……念話も使えない雑魚が……』
私は真っ直ぐに犬と、その後ろの人間に近付く。犬は突然の行動にまた唸ろうとしたが、私が思い切り睨みつけてやると声も出なくなったらしい。恐怖に目を見開いて固まった。
『人間から先に食ってやろう。喜べ、犬』
にやり、と笑みを浮かべて、私は体で犬を押しのけた。倍以上の体格差があるので犬は踏ん張ることもできず、惨めに転がされる。犬のいた場所を陣取って、気絶している人間を見下ろした。先ほどからピクリとも動かず、強い血の匂いをさせている人間は、右腕が取れかかっていた。何かの魔獣にでもやられたのだろうか。わからないが、珍しいことでもない。怪我の原因などどうでもいい。ただ、このまま放置すれば死ぬだろうな、と思った。
「がうっ」
震える鳴き声が耳に届いたが無視していると、体の側面に軽い衝撃を受けた。そちらに目をやると、体当たりをしかけてきた犬が反動で転がるところだった。よく見ると返り血や土で汚れている犬は、すぐに立ち上がると憎々しげにこちらを睨む。
『……先に食って欲しいのか? だが、人間からだ。さっきそう決めたからな』
殊更にゆっくりと、人間の頭の上で前足を振り上げる。このまま足を下ろせば、そう力を込めなくても、いとも簡単に、この生き物はぐしゃりと潰れることだろう。それを、私も犬もよく分かっていた。
別に人間から殺すことに意味はない、何となくだ。強いて言うなら、犬が雑魚のくせに威嚇なんてしてきたからだろうか。
犬に見せつけるように前足を振り下ろす……が、それを踏み潰す直前で私は動きを止めた。
『ちっ……』
私への攻撃を諦めたらしい犬が、人間に覆いかぶさっていた。とても不快だ。
見ていると、犬に乗られたことによって意識を取り戻したらしい人間が、痛みに呻きながら周りを見回している。状況を理解しようと必死なようだ。
その視線が私を捉えるとその顔は驚愕と恐怖に染まった。今更だが、男だったらしい。
『目を覚ましたか、人間』
「うぅ……」
男が発した声は私への返事なのか、痛みに呻いただけなのか。このまま放っておけば致命傷になるような大怪我をしているのだ、後者かもしれない。知ったことではないが。
『おはよう人間、だが、すぐにまた、おやすみだ』
優しく、ゆっくりと教えてやると、男はその言葉の意味をしっかりと理解したらしい。
「は、はは……ついてねえな、わけわかんねえ、やっと逃げたと思ったら今度は森の主の狐サマとか、ほんと、ついてねぇ……。……おい、重いんだよ。早くどけ、マルク」
犬の名はマルクと言うらしい。右腕の動かない男は、左腕を振って手振りで犬をどかさせた。自分を守ろうとしていた犬に対して、随分と冷たいものだ。犬も戸惑っているようで、不安そうに男を見下ろしている。いつもこのような扱いをされているわけではないらしい。
「ぐっ……あっ……」
自分の上から犬をどかした男は、苦鳴を漏らしながら膝を折り、左腕を地面について、何やら動こうとしている。黙って見ていると、男は正座のような体勢で座った。
『なんのつもりだ』
彼我の距離は一メートルもない。私は、ちょっと伸びをするくらいの気安さで、こいつらの命を摘み取ることができる。その状況で、男は笑った。ニィ、と、確かに笑ったのだ。
次の瞬間、男は私の前足に組みついてきた。余りにも予想外の行動に、男を侮りきっていた私は避けることができなかった。思わず硬直する。
『……なっ⁉︎』
「マルク、行け!」
男は、必死の形相で私を押さえる。私の動揺はほんの一瞬だった。片腕しか使えない、満身創痍の人間の男。たとえ男が健康だったとしても、体格的には私の方が少し大きいし、筋力は言わずもがな。そもそも生物としての格が違う。
『なにをする、放せ』
「がっ……」
私は軽々と男を振り払うと、今の隙に逃げただろう犬を捕まえようとした。弱いくせに思い通りにならない人間と犬。思い知らせてやろうと、犬を男の目の前で嬲ってやろうと思った。
「がううっ!」
しかし私の予想に反し、その犬は私の目の前にいた。驚く私の脇腹に食いつこうとしている。犬の非力な牙では、私の毛皮を貫通することなどできないのに。それなのに、必死で牙を立てている。
「マルク、このバカ犬が! 最後のチャンスだったろ、なにをトロトロしてやがる!」
先ほど振り払った男は、右腕からボタボタと血を流しながら、再び組みついてきた。もう焦点が合っていない。
わからない。わけがわからない。犬に噛まれている脇腹に痛みはないし、蹴って踏みつけてやれば骨が折れて、男は死ぬだろう。だが、脇腹が痛いような気がした。組みつかれた前足が動かせないような気がした。
『ああくそ、なんなんだお前らは!』
私は舌打ちをしながら九本ある長い尻尾のうちの二本を動かして、脇腹に食いつく犬を捕まえた。
「きゅぅん⁉︎」
「マルク!」
『安心しろ、お前もだ』
次に四本を使い、男も捕獲した。
「チクショウ……」
犬と男は暴れていたが、少しすると静かになった。動かなくなった男を覗き込むと朦朧としているらしく、ぼんやりとした顔をしていた。ああ、これは死ぬかな?
きゅーきゅーと、か細い声で犬が鳴いている。命乞いかと思ったら、その視線は男だけに向いていた。
『…………』
……くそっ。
私はそのまま森を出て人間の使う街道まで行き、犬と男を解放した。男が助かるかどうかは知らないが、少なくとも魔物や獣に襲われることはないだろう。森を出ればその数は劇的に減るし、なによりこいつらには私の匂いがべったりとついているからだ。よっぽど丹念に体を洗ったりしなければ、二、三日は大丈夫なはずだ。
「……おい、なんのつもりだ」
男が弱々しく問いかける。
『なにがだ?』
「お前は何がしたいんだ」
『私か? 私はこれから適当に森に帰って昼寝だ』
とぼけてみせると、男は舌打ちをした。犬は男を気遣うように寄り添っている。
「……礼は言っておく」
『ふむ、受け取っておこうか』
私は男と犬に背を向けた。男が生きるか死ぬかは、男の悪運次第だろう。
ある程度離れ、棲家に向けて駆け出そうとしたところで、ちらりと後ろを振り向いてみた。男は蹲り、犬は必死でその顔を舐めている。
……少しだけサービスだ。
私は空に向け、狐火を放った。今日は曇りなので、青白く光る炎が遠くからでもよく見えることだろう。もう一発撃っておくか。
私の撃った狐火は、長く尾を引いて空に残った。人間の町から、人間の視力でも見えただろう。異常を察知した人間が、少なくとも森の手前くらいまでは様子を見にくるはずだ。
これでいい。私は今度こそ森へ戻ることにした。




