「異界の一」
(白痴のジェレミー・アーチボルトが残したとされる文書である)
嗚呼、何と記せばよいのだろうか。精神錯乱とした今の私には――こうなった以上、元の、貴方がた大勢の持つようなあの懐かしい落ち着きを取り戻すことなど到底出来そうにないが――何が正解か分からない。分かるときも来ないだろう。それだけは、確かに胸をはって記せよう。
つまり、私が記すことは――嗚呼、記しきれるだろうか――私の精神を今に至らせるほどにおぞましく――真、あれを表現するに足る形容表現など存在するまい。そう言う理解のし難さでは間違いなくおぞましい――それを目にした私が記すのだから、常人の貴方がた――誰かが目に付けることを切に祈る――に理解できるとは思わない。狂人の戯言と笑い飛ばしてくれても構わない。
そうだ。私は紛れもなく狂人であり、刻一刻と狂人へと近づいている。自分が狂う様を感じ続けることの、如何に怖ろしいか、貴方がたには分かるまい。世界が崩壊し、今見る手元すらが砕け、無数の塵芥となって幾何学紋様を披露する様を見ることの、如何に怖ろしいか、分かるまい。何というのだったか、――ゲシュタルト崩壊と言ったか――文字すらも、私の手の内からすり抜けていく。
嗚呼、私は今、人間の身につける教養の如何に軟弱かを知った。
良い。後の為に、私の状態も詳しく記そうと努力はしたが、限界のようだ。これを見つけた貴方、貴方の為に、是非にと思ったが、真に記すべきことは別にあれば、私に関する記述は今後省く。時間がない。字が書けな
(この段を、ジェレミーは横に線を引いて消している。又、このあたりより、若干字に乱れが見える。誤字脱字が酷く目立つが、そこを修正しておく)
遥か彼方より来るもの――逆に、それは我々に非常に近くもある――、其はまさに名状しがたいもので、――その姿を十分に思い返すことすら叶わない――、その瞳は――尤も、それを瞳と呼ぶか否かは各人に任せる――虚空で焦点を結び――無論、焦点を結ぶという表現がアレを示すに足るかどうか、私には分からない――嘲るように、慈しむように、嘆くように、憂うように、憎悪するように、歓喜するように、憤怒するように……およそ考えられる全ての情を持って、じっと、いや、一瞬、……いや……時間は分からないが、兎に角私を見つめた。……いや、あの視線は確かに虚空で焦点を結んで
(ここでもジェレミーはこの一帯を大雑把にペンで横に一薙ぎして取り消している)
そうだ。アレは、あの名状しがたいアレは、確かに名状しがたいものとして、あらゆるものとしてその場で、蠢き、そこいら一帯のあらゆる空間、時間、ひいては概念に君臨していた。蠢く不定形、いや、ある意味では定形であったか……やはり私にはどうにも名状しがたいが、アレは確かに存在していた。私にはとても理解できないその容姿に、瞳と思しき球体があり――尤も、それすらも不定形で霧散したり、融解したり、析出したり、突然現れたりするものだから、私には理解できない――、その瞳は間違いなく虚空で焦点を結んでいた。あの瞳に関して言えば、私を見てはいなかった。
しかし、アレはまさに名状しがたいものとして、そこに君臨していた。空間的にだけでなく、時間的に、概念的に。――勿論、私も何のことだが分からない。嗚呼、深くは追求しないで欲しい。兎に角、時間がないのだ。私が言葉を記せるうちに。
空間的、時間的にそこに君臨したアレは確かに不定形――いや、定形?――の名状しがたい何かであった。
全く不思議なことに……私としても整理はつかない。そして、つけている暇もない……私はもう一つのそれを見た。いや、感じたのか? 無論、依然蠢く名状しがたい何かは一にして全といった風貌で、あらゆるになってはあらゆるへと帰っていく。そういう意味では、アレは一つではないのかもしれない。私が言うところの「もう一つ」はそれと全く同じであり、同時に全く違う代物だった。あえて言うならば、それは、その名状しがたい蠢く何か――嗚呼、申し訳ないが、以後αと置かせてもらう――が空間的及び時間的に存在するならば、私の感じた「もう一つ」――これをβとしよう。やはりこれも私では理解しきれない名状しがたいものなのだ――は、概念的に存在していた。
嗚呼、私は見たのだ。αが私の部屋を空間的に、時間的に蠢きながら異界へと変える中、私はβを垣間見たのだ。
あれは、少女だった。
そう……不思議な少女だった。厳密には少女かどうかもかなり怪しい。少女βは間違いなく存在したが、それは概念的に、だ。尤も、概念的というのも、人間におけるものでしかない。βは私たちの知らない領域に存在し、その領域を垣間見て、私が概念領域と判断したに過ぎない。彼女の存在領域に関しては、我々が議論してどうなるものではないと判断し、ここでは割愛しよう。時間がない。
βは私の脳裏に浮かび、――若干は思い出せる。ちかちかと脳に刺激を与えていた……αが蠢く不定形及び定形であったのに比べ、βの容姿は落ち着いていた。そういう意味では、βが本体なのだろうか。本体という概念があれば、の話しだが――私のことを見ていた。見て……いや、一瞬だったかもしれない。兎に角、私を見た。そうだ。繋がる。嗚呼、私もまだ捨てたものではない。そう、αは不定形の瞳を虚空に焦点を結んでいたが、βは確かに私を見た。およそ考えられる全ての情で以って、私を射抜いたのだ。嘲り。怒り。喜び。憂い。但し、その瞳にはあらゆる情がこもっていながら、嘲笑が最も多く含まれていたように思われる。そうだ、あの少女はちかちかと脳裏に浮かびながら―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(ここで一度、ペンの跡が紙の上側に向かって伸びている。倒れたのだろうか? この後の文章は若干筆跡に落ち着きがあり、誤字脱字がなくなっている)
親愛なるノースブルック。君がこれを先に取ってくれると嬉しい。
共に魔術に傾倒した仲として、一歩先に進んでしまった私からの指南書だ。
若し君が、ノースブルック、空間、時間、概念に君臨する名状しがたい神を目にしたいというのなら、この手紙のすぐ傍に「異界の一」を置いておこう。但し、いいかね、ノースブルック。召喚には細心の注意を払うんだ。他の人間が彼女を目にしなくてすむように。若しも目にすれば、それが人間である限り――勿論君も、ノースブルック――間違いなく狂うね。私がそうだ。狂わないわけがないだろう。およそ一人の努力でどうにかなる代物じゃない。覚醒するんだ。真に見るべき世界へと目を向けてしまうんだ。否応なしに、全く暴力的なまでに。
親愛なるノースブルック。君は、世界が本当に三次元でこれほど整然としたつまらないものだと思うかい。いや、世界はあるがままにあると思っても構わない。それこそが、至高の幸福だろうね。嗚呼、幸福とは手放して初めて気づくものだ。私は幸福を失ったよ。いいかい、ノースブルック。世界はこんなものじゃない。真の世界が見たいならば、「異界の一」を開けばいい。この書に全ての手順が書いてある。およそ一般人には理解できないだろうが、ノースブルック。君なら分かるだろう。
全ては「異界の一」に記されているから、私がどうこう言うことは、実はもうほとんどない。但し、最愛の友として、警告だけはしておこう。「異界の一」は片道切符だ。私がそうなったから分かる。嗚呼、そうとも、普通ではいられなくなるな。世界の真の姿に脳が適応してしまっては、偽りなる今までの世界には帰れないのだ。即ち、「異界の一」を開くことは死と思うといいだろう。
だが、最後に言っておこう。死ぬつもりなら、「異界の一」で死ぬといい。素晴らしい。
親愛なるノースブルック。総ては、「異界の一」に。
君の友 ジェレミー
(この後、また筆跡が酷く乱れている。誤字脱字も酷く、解読に時間がかかった)
嗚呼。この手紙を手に取った貴方。私はとんでもないものを召喚してしまったようだ。
名状しがたく不定形なるαは私の知る、世界というものを全く変えてしまった。世界とは、これほどまでに混沌として美しい。
私を見つめたβはより一層、世界の変容におびえる私に嘲りの篭った視線を送り――実は感情など篭っていないのかもしれないが、βの容姿が少女であっただけに、私は情を感じた。勿論それは不愉快極まる嘲りであり、しかし、その嘲りに恐怖したことは否定しない――私の脳裏から消えた。同時に、そこいら中で蠢いていたαも消えていた。
私一人、真の世界に取り残されて、手の内には一冊の本、「異界の一」のみがある。
嗚呼、世界を……三次元と思っていた世界が、より多くの次元数で以って見せられるのは堪える。視線を動かせば、あらゆるものが霧散し、奇怪な幾何学紋様になったり、時間が逆行したように、又はあらゆる立体を平面に、あらゆる平面を時間的に、兎に角、全てが理解しがたい。アルファベットは隊列を作り、数字は素因数に分解されて漂っている。
嗚呼、私はどうしても、これを記したかった。
αとβはすでにおらず、しかし、私の脳はαとβに侵食されたままだ。
最期に、記す。
私の脳を覚醒させたβの言葉を。……そうだ。βは私に語りかけたのだ。最も大切なことを。何と語りかけたのだったか。あの言葉は、脳に刺すように光り輝き、甘美な接吻のように、響く豪雷のように、赤子の戯言のように、雄弁な声明のように、廃墟の静寂のように、大都会の騒音のように、硬く、柔らかく、重く、軽く、大きく、小さく、濃く、薄く、早く、遅く――全であり、一のように、私に―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(最後の一文字からペンが大きくぶれながら、紙の上を走っている。ここでジェレミーの記述は終わっている。ジェレミーは自室でこの紙を下敷きに机に突っ伏しているところを発見され、病院へ搬送。目覚めるも意識が回復することはなく、一九二四年現在も精神病院に入院している。この手紙に記された「異界の一」と思しき書物は発見されていない)
(自室に突っ伏したジェレミーが見つかった三日後、彼の友人であるダグラス・ノースブルックが錯乱しているところを発見され、病院に搬送された。ダグラスは搬送中の車両の中で息を引き取ったが、最期に興味深いことを叫び散らしているので、それをここに載せておく。又、ダグラスの死後、彼の自宅を調査したが、「異界の一」と思しき書物は見つからなかった)
「嗚呼、あれは紛れもなく、名状しがたく、不定形で、しかし定形で、その瞳は俺を見ず、空間的、時間的、概念的に君臨していた。嗚呼、あれは少女だった。俺の頭の中にちかちかと走り回って、口走りやがった。あの声は、妙に脳裏にちかちか輝くあの声は――嗚呼、あの声こそ、真に名状しがたかったんだ。おい、聞いているか。あれは全にして一、俺たちの脳を開放する、名状しがたい声だったんだ。おい、まて、何と言ったか。今思い出す。嗚呼、あの声。正に名状しがたいあの声。――くそ。おい、灯りを消せ。ちかちかするんだ。脳が。ちかちかと――いいから早く灯りを消せっ。ちかちかするんだっ」