Ⅵ 旅立ち
「やめてぇっ!」
叫ぶ。叫べ。叫べ。
「エルトゥ、どうしたのっ! 戻りなさい!」
逃げる。逃げろ。逃げろ。
「うるせぇ女だ……。そいつも殺せ!」
「お母さぁぁんっ!」
「きゃぁぁぁぁ……っ!」
……殺シタ。殺ス。殺セ
少女の柔らかな銀髪が、みるみる黒く染まっていく。そして、翡翠色の瞳も。
色白な背からは、巨大な漆黒の翼が姿を現した。
――殺セ。
「――はっ!」
そこでエルトゥは目覚めた。
「またか……」
そう呟き、額に浮かぶ汗を拭う。……毎日、この夢を見るのだ。
毎日、まるで物語のように一日ずつ話が進んでゆく。
いつからこの夢を見始めたろうか。この、一日と止まぬ幻を。
――だが彼女はこの夢が終わってしまうのが恐ろしかった。この夢の最期を見たくなかった。
最期を見たのと同時に、自分が壊れて無くなってしまいそうな気がするのだ。消えて、無くなってしまいそうな気がするのだ。だから、怖かった。
……気がつくと、もう朝になっていたらしい。太陽が昇っている。
エルトゥは部屋の片隅に飾ってあった写真へ顔を向けた。
「おはよう」
そう言って、それをぱたりと伏せる。
今日でこの家とも別れるのか。
そう思うと、少し淋しいような気もした。けれど、彼女は机に置いてある小さな革袋を手に取ると、全く飾り気の無い玄関へと足を進めた。
――まだ何かやっていないような気が……。
写真だ。
……そうだ、さっき伏せたあの写真。まだ「おはよう」しか言っていない。
彼女はきびすを返すと、あの写真をもう一度立て直した。
「行ってきます……さよなら」
写真は立てたままにしとくね。最後まで顔を合わせていられないのは、あたしには耐えることができないだろうから。
かぎは閉めたままにしておこう。もう出て行くとはいえ、自分の部屋を勝手に使われるのは気に食わない。
呪文を唱え、部屋の壁を通り抜けて外に出た。
自分にふりかかる視線とも、今日で別れられるのだろうか? それとも、種族の違いとやらで、これからもこの視線を浴び続けなければならないのだろうか。
……くだらない。
どうせ、後者だろう。人なんて、そんな種族だ。
己と見た目や性質が少し異なるというだけでそれを避け、忌み嫌う。エルトゥ自身も人間外の種族だ。人は悪魔を残酷でみにくい種族だという。だが、周りを自分と同じ種族に囲まれて育ったわけではないが、きっと人とは悪魔の何倍も残酷な種族なのだろうと彼女は思っている。
――あの、写真の少年はどうなのだろうか。
十五年以上も前のことなのでうろ覚えだが、これだけは確実に覚えている。
あの写真は、母にもらったということ。そして、それをエルトゥに渡すときに交わした会話を。
「エルトゥ、この人、誰かわかる?」
「わかるよ、お兄ちゃんでしょ? 毎日見てるんだから、わかるに決まってるよ!」
「そう。あなたのお兄さん。お兄さんのこと、好き?」
「うん、だーい好き! やさしいし、いつも笑ってるもん」
「……でもね、エルトゥ。もしかしたらお兄さんとしばらく会えなくなるかも知れないの」
――母の、いきなりの告白。さっきまでの明るい話題からの急な変化についていけない少女。
「……え?」
少しためらったあと、再び話しを始める母の瞳。
「そろそろ、あなたや私たちの住むドゥネッレと、ヒュランっていう国で、戦争が始まりそうなの。それで、お兄さんは軍の兵士になる訓練を受けに行かなくちゃいけないの」
……兵士って、なに? 軍って、なに? なんで戦争なんかしなくちゃいけないの……?
一つ一つの単語すらもよく解らない少女にさえ感じられる、今の話題の緊迫感。
「だから、しばらく会えなくても大丈夫なように、この写真をあげる。だいじに持ってるのよ」
そう言って、差し出された写真。
――その写真が、今、あたしが持っている写真だ。
あれから、その兄さんには一度も会えなかった。もし、本当に自分に肉親がいるなら、それはきっと母か兄だろう。きっと。
気が付くと、すでにエルトゥの足はすでにハンギランの国境門に来ていた。
誰も、見送りのいない出発。
そんな中、エルトゥは心の中で呟いた。
さようなら、お兄さん。
今からあたしは、あなたを探しに行くため、ここを出ます。しばらくのお別れです。
写真なんかじゃなくて、本当の、命のあるあなたに会うまで。
彼女は地面を軽く蹴った。広げた翼が他人のものであるかのような感覚がする。しばらく飛ぶこともなかったからだろう。魔法で身は隠した。あとは、やり残したことはないはずだ。
さあ、旅立とう。
最後に一言だけ残し、エルトゥは北へと旅立った。
「さよなら」
……それと同時に、木の陰から彼女を眺めていた男がにやりと笑みを浮かべ、こっそりと呟く。
「――見いつけた」




