Ⅳ 毒
……ここは、本当に汚い。
エルトゥはいつもそう思う。少し家を出ただけで、汚れた空気が体中を侵すのがすぐに分かるぐらいだ。……そしてその『汚い』という表現は、このハンギランという国だけでなく、恐らくここに住む『人』にも使えるものなのだろう。
カッカッカッという足音がいつもより少し重いような気がした。
彼女のそばを通り過ぎるものは、皆そろって悪魔だ、汚されるなどと悪口を吐いていく。だが、それに関しては彼女はもう慣れっ子だった。幼いころからずっと、その『ヴェティオ|《悪魔》』という種族の娘、という事実だけが尾を引いているせいだろう。
ふらふらと歩いていると、急に額に痛みが走った。
「痛っ!」
額から目へと流れる液体を拭う。その手には真っ赤な血がついていた。足元には、血で赤く染まった小石が落ちている。
辺りを見回すと、エルトゥより少し年下くらいの少年がこっちを見ながらにやにやしているのが視界に入った。普通ここの住人ならば、すぐに飛びかかって殴り合いを始めるところだが、あいにく彼女はそんな面倒なことをしたい気分ではない。
「ふざけるな」
しょうがなくそう言って少年を睨み付ける。すると少年はさっきまでのあの表情が嘘だったかのように顔を引きつらせ、そしてあっという間に路地裏へと逃げていった。
彼女は普通の人間に比べて圧倒的に威圧が大きい。きっとこれも悪魔の能力なのだろうが。――有っても別段嬉しくない能力だ。
……少年が逃げ、辺りに誰もいなくなったのを確認すると、エルトゥは漆黒の翼を繭のようにして体を包み込んだ。――誰かに見られると、またごちゃごちゃとうるさいだろうから。
そして、繭の中で呟く。
「ハルル・フォーダ・ディン・シュレリス」
途端、彼女の周りには風が巻き始めた。しばらくするとシュウッという風の音とともに、エルトゥの体もふわりと宙に浮く。そのままの状態で彼女は自らを覆う両翼を開け放った。空を切り裂く音が辺りに響き渡る。
――次の瞬間、さっきまで渦巻いていた風はぴたりと止み、そこにエルトゥの姿は無かった。
「……はぁ」
自分の家に戻った彼女は、冷たい床に座してため息をつく。
もう、嫌になったのだ。このハンギランは汚すぎる。
己の『自由』を貪欲なまでに渇望し、愛しすぎたために。
愛は、時として凶悪な憎悪や嫉妬心を生み、そして争いを引き起こす。ハンギランはその憎悪の果ての姿なのだろう。人間――アレスとはなんと醜い種族なのだろうか。
だから、もう嫌になったのだ。
エルトゥは、シーツ以外何も乗っていないベッドに倒れこんだ。精神、肉体共に疲れているときは、寝てしまうのが一番いい。
外出するために着ていた上着を脱ぎ捨てる。
と、ある思いがふと現れた。
あたしは、さっき『愛』についてなんと述べたか。
そう、争いや憎悪を生む毒だと言った。
しかしあたしは今、消息も判らぬ身内を探そうとしている。これもその『愛』という毒なのだろうか。それとも、もっと別の『何か』なのだろうか。――だが、仮にそれ以外の『何か』だったとして、それは愛以外の何なのだろうか……?
所詮、あたしも人間の血を引いているのだ。そして、愛という名の毒に侵されて一生を終えるのか。
――彼女の口から、はっと笑いが漏れた。
なんて下らないことを考えているんだ、あたしは。
先ほど脱いだ上着に加え、その下に着ていたレザーのタンクトップも脱ぎ捨てる。そしてシーツを引き寄せ、中に潜り込んで目を閉じた。裸の上半身にふれるシーツがくすぐったく心地いい。
次に目を開けるときには、新しい太陽が昇っているだろう。それまでしばらく眠って待とう。




