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ノシシの分娩

作者: 小林
掲載日:2026/10/25

 麓(ふもと)の村人曰く、その咆哮は野山の形をまるっきり変えてしまったといいます。また、大唐(だいとう)より来た旅の僧が遠くにその声を聞いたとき、日の本にも獅子が棲んでいたのかと驚いたそうです。野山の獅子、のちに野獅子(ノシシ)と呼ばれるその猪が、胎(はら)の中にいたときのお話です。


 ◯


 兄が光に落ちて死んだ。


 何も見えない世界で、僕の爪と兄の爪をぶつけるのが好きだった。僕がかっかっとぶつけると、兄はかっかっかっと、一つ増やして返事をしてきた。ふすふす笑いながらもう一つ増やすと、兄はかぞえ間違えて、二つ多くぶつけてくるものだから、今度はぷすぷすと笑ってしまったんだ。


 何も見えない世界で、兄の首の匂いを嗅ぐのが好きだった。気づいたときから僕の鼻はその位置にあって、その場所から動かすことはできなかったんだ。

 例えば、土の匂いがした。

 例えば、青の匂いがした。

 例えば、光の匂いがした。

 例えば、兎の匂いがした。

 ちっともお腹が空かないのに、匂いを嗅ぐことができるのは、いつか僕が兄を食べて、僕たちが一つに戻るためだと思っていた。僕も同じ匂いがしていればいいなと思った。


 兄が、兄が光に落ちて死んだ。

 最後に手を伸ばしたとき、がっと蹄(ひづめ)がぶつかって強い痛みを覚えた。蹴られたようにも思えた。怒らせてしまったんだな。それか、僕といるのにあきあきして、逝ってしまったんだな。戻ってきておくれ。兄の名前を呼んだ。兄の名前なんて知らないけど、僕はたしかに兄の名前を叫び続けたんだ。

 兄のいた場所はぽっかりと空いていて、僕は初めて手脚を自由に動かすことができた。世界を殴り続けて光を探した。二匹でいられないのなら、一つに融(と)けることができないのなら、死んで零(ぜろ)になりたかった。世界は僕の汗の匂いで満ちていた。それは、例えば、人間の匂いがした。


  ◯


 母猪の腹を破り割いて這い出てきた野獅子(ノシシ)は、兄と一緒に母乳を飲み干して、どこかに消えてしまいました。母親を失った兄弟は、食い物を見つける方法も分からず飢えてしまったという話もありますし、賊に拾われたという噂もあります。

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