冴えない地図屋のおっさん、実は迷宮では最強でした
「お嬢ちゃん。俺みたいな軽い男を、あんまり信用しちゃいけないよ」
そう言って笑ったグレンは四十六歳、無精髭を生やし、くたびれた革の外套をまとい、腰にはどこにでもありそうな安物の剣を一本下げていた。
酒場の女給に軽口を叩いては笑ってあしらわれ、それを気にした様子もなく昼間から薄い酒を飲んでいる姿だけを見れば、どう贔屓目に見ても、ろくでもない中年男だった。
「でも、あなたがこの街で一番の地図屋なんでしょう?」
向かいに座った少女が、少し疑うような目でグレンを見ながら言った。
十七、八といったところだろうか。魔術師らしい青い外套を着ており、名前をリタといった。
「昔の話だよ」
グレンはそう答えて酒を一口飲むと、たいして興味もなさそうに杯の中を眺めた。
「今は一枚銀貨三枚。美人なら二枚」
「じゃあ三枚払います」
「そこは二枚にしてくれって怒るところだろ」
「兄を探してほしいんです」
その言葉を聞いた瞬間、グレンの顔から笑みが消えたが、それはほんの一瞬のことで、リタが気づいたかどうかも分からなかった。
「場所は?」
「地下迷宮、第十三封鎖区画」
その名が口にされた途端、それまで酒と話し声で満ちていた店内が静まり、周囲にいた冒険者たちが一斉にこちらへ視線を向けた。
第十三封鎖区画。
半年前、四十二名の冒険者からなる調査隊がそこへ入り、帰還できたのはわずか二人で、その二人も三日後には相次いで死んだため、それ以来、冒険者ギルドが立ち入りを禁じている場所だった。
グレンは杯に残っていた酒を飲み干すと、空になった器を静かにテーブルへ置いた。
「帰りな、お嬢ちゃん」
「お願いします」
「嫌だね」
「兄は生きています」
「普通なら死んでるよ」
あまりにも平然と言われ、リタは唇を噛んだ。
「……どうして、そんなことが言えるんですか」
「半年だ」
グレンは淡々と言った。
「水なしで三日。食料なしなら、まあ三週間。水と食い物を確保できても、十三階層で半年となれば普通はもたない。生きていると考えるほうが難しい」
「でも」
「死んだ奴を探しに行って、生きてる奴まで死ぬ。迷宮じゃよくある話だ」
リタは返す言葉を失って俯いたが、やがて意を決したように鞄を開き、テーブルの上へ一枚の紙を置いた。
「兄が迷宮へ入る直前に送ってきた、最後の手紙です」
グレンはそれを見ようともしなかった。
「興味ないね」
「裏を見てください」
「だから」
「地図があります」
その一言で、杯へ伸びかけていたグレンの手が止まった。
紙を取り上げて裏返すと、そこには粗い線で迷宮の一部が描かれていたが、地図として見れば下手なもので、縮尺は滅茶苦茶、方角も微妙にずれている。
だが、その隅にだけ、妙に目を引く小さな記号があった。
三本の線と、その中央を横切る一本の斜線。
グレンはしばらく無言でその印を見つめていた。
「……誰に教わった」
「え?」
「この印だ」
「知りません。兄が描いたものです」
「兄貴の名前は?」
「エリオット・ハルバート」
それを聞いたグレンは何も言わずに立ち上がり、壁に立てかけてあった古い鞄を手に取った。
「銀貨三枚」
「え?」
「案内料だよ」
「行ってくれるんですか?」
グレンは振り返ると、さっきまでと変わらない軽薄な笑みを浮かべた。
「女の頼みを断れないだけさ」
「どうして急に……」
「俺はただスケベなだけだから」
そう言って、地図屋のおっさんはそれ以上何も説明せず、酒場を出た。
◇
地下迷宮へ入って三時間ほど経ったころ、グレンの後ろを歩いていたリタは、ようやく一つの奇妙な事実に気がついた。
彼は迷宮へ入ってから、一度も地図を見ていない。
「左」
分かれ道に差しかかるたび、グレンは迷う素振りすら見せず、その場で進む方向を即答した。
「どうして分かるんですか?」
「何が?」
「道です」
「地図屋だから」
「地図、見てないじゃないですか」
「見てるよ」
「どこに?」
グレンは歩みを止めることなく、自分の頭を指差した。
「ここ」
リタは冗談だと思った。
しかし、そこからさらにしばらく歩くうちに、グレンが曲がり角の数を数えているわけでもなければ、壁へ目印を付けているわけでもないことに気づき、それでも彼が一度たりとも進路に迷っていないことが、だんだん気味悪く思えてきた。
それどころか。
「止まれ」
不意にグレンが言った。
「何ですか?」
「三十歩先。右の横穴に四人いる」
リタは思わず息を呑み、暗闇の向こうへ目を凝らしたが、人の姿はもちろん、足音ひとつ聞こえなかった。
「人間ですか?」
「たぶんな」
「どうして……」
グレンは答えず、足元から石を一つ拾うと、それを前方の暗闇へ向かって軽く投げた。
石が床を跳ねる乾いた音が迷宮の奥へ響き、その反響を聞くようにグレンは目を閉じた。
「……いや、五人か」
「音だけで?」
「横穴に四人。その奥にもう一人寝てる」
その直後、まるでその言葉を証明するように、暗闇の奥から五人の男たちが姿を現した。
「こいつは驚いた」
先頭にいた男が笑う。
格好だけなら冒険者に見えたが、胸には本来あるはずのギルド証がなく、彼らが迷宮荒らしであることは明らかだった。
他の冒険者を人目のない場所で殺し、荷物や装備を奪って暮らしている連中だ。
「じじい。荷物を置いていけ」
「四十六だ」
グレンは少し不満そうに言った。
「まだじじいじゃない」
その返事を聞き、男たちが笑った。
「それと女も置いていけ」
その言葉にリタの顔が強張ると、グレンは面倒そうにため息をついた。
「兄ちゃん」
「あ?」
「それは駄目だ」
声も表情も穏やかで、グレンはまだ笑っていた。
「俺みたいなスケベならともかく、お嬢ちゃんが嫌がってる」
「何言ってやがる」
男が苛立ったように剣を抜いた、その瞬間だった。
グレンの姿が消えたように見えた。
実際には、ただ一歩だけ前へ出ただけだったのだろうが、次にリタが認識したときには、先ほどまで立っていた男の身体が力を失って崩れ落ちていた。
何が起きたのか、リタには分からなかった。
しかも、グレンの剣はまだ鞘に収まったままだった。
「な……」
二人目の男が声を上げると、グレンは足元にあった小石を軽く蹴った。
男が反射的にそちらへ視線を向けた次の瞬間には、グレンの袖から滑り出した短剣が、その喉元へ突き刺さっていた。
三人目が背後から斬りかかったが、グレンは振り返ることさえせず、半歩だけ身体をずらして振り下ろされた剣をかわすと、肘、顎、首へと淀みなく三つの動きを繋げた。
男がその場に倒れた。
残った二人はようやく勝てないと悟ったのか、悲鳴を上げることもなく背を向けて逃げ出したが、グレンは追おうとしなかった。
「逃がすんですか?」
リタが震える声で聞く。
「いや」
グレンは短剣を抜きながら、男たちの消えた方向を指差した。
「そっちは行き止まりだ」
十数秒も経たないうちに、暗い通路の向こうから二つの悲鳴が続けて聞こえた。
「……何がいるんですか?」
「甲殻喰い。三匹」
「分かってたんですか?」
「地図屋だからな」
グレンは倒れた男の服で短剣についた血を拭いながらも、表情をほとんど変えず、いつもの気の抜けた中年男の顔をしていた。
それが、かえって怖かった。
「あなた……何者なんですか」
リタにそう問われたグレンは、少しおかしそうに笑った。
「だから言ったろ」
そして血を拭き終えた短剣をしまいながら、何でもないことのように言った。
「ただのスケベな地図屋だよ」
◇
十三階層へ降りたあたりから、グレンの様子が少しずつ変わった。
それまでほとんど足を止めることのなかった彼が、ときおり立ち止まって壁へ触れ、かすかな風の流れに耳を澄ませるように顔を上げ、床を靴の先で蹴っては、時折小さな石を暗闇へ投げるようになった。
「何をしてるんですか?」
リタが尋ねる。
「描いてる」
「地図を?」
「ああ」
その頃にはすでに、グレンの頭の中に迷宮の姿が組み上がり始めていた。
壁と通路、目に見えない空洞、高低差、水路の位置、魔物や人間の居場所、空気の流れ、そして音の反響まで、彼が拾い上げたあらゆる情報が線になり、線が面を作り、やがてそれらが一つの立体として結びついていく。
グレンにとって、この世界そのものが巨大な地図だった。
そして彼にとっての地図とは、単に道順を紙へ書き写すためのものではなく、どこに立てば生き残り、どこに立てば死ぬのかを示すためのものだった。
「リタ」
「はい」
「今から俺の足跡だけ踏め」
「え?」
「絶対に外れるな」
そう言うと、グレンは右へ二歩、左へ一歩、そこから大きく前へ出るという、一見すると意味の分からない歩き方を始めた。
リタは疑問を口にすることなく、言われた通りにその足跡を一つずつ踏んでいった。
しばらく進んだところで、通路の向こうから巨大な影が姿を現した。
六本の脚を持つ黒い獣、迷宮狼が三頭、こちらへ向かって低く唸りながら近づいてくる。
リタは反射的に杖を構えた。
「動くな」
グレンが言った。
「でも!」
「三」
狼たちが一斉に走り出す。
「二」
見る間に距離が縮まっていく。
「一」
グレンが軽く指を鳴らした瞬間、狼たちが踏み込んだ床がまとめて崩れ落ち、その身体が暗い穴の底へ吸い込まれていった。
「……罠?」
「昔のな」
「どうして分かったんですか?」
「床の厚さが違う」
「そんなの……」
リタが絶句している横で、グレンはたいしたことでもないように肩をすくめた。
「分かれば簡単だろ」
違う、とリタは思った。
簡単ではない。
この男には、自分たちが見ているものとは、まるで違う世界が見えているのだ。
◇
それからさらに五時間ほど進み、二人はようやく封鎖区画の最深部へ辿り着いた。
そこには一人の男がいて、石壁にもたれかかるようにして、浅い眠りに落ちていた。
「兄さん!」
男の姿を認めたリタが駆け出す。
「待て!」
グレンが叫んだが、すでに遅かった。
リタが踏み込んだ瞬間、床に刻まれていた魔法陣が青白く光り、グレンは考えるより早く彼女を横へ突き飛ばした。
次の瞬間、耳をつんざくような轟音とともに壁の一部が吹き飛び、爆風に煽られたグレンの外套が大きく裂けた。
「グレンさん!」
「痛えなあ」
煙の中から、グレンが何事もなかったようにゆっくり立ち上がる。
左腕からは血が流れていた。
すると、壁際にいたリタの兄――エリオットが、重そうに瞼を上げた。
「……グレン?」
「久しぶりだな」
そのやり取りを聞いたリタが、戸惑いながら二人を見比べる。
「知り合い……?」
エリオットは弱々しく、それでもどこか満足そうに笑った。
「やっぱり来たか」
「俺がこの印に気づくと分かってて、手紙に描いたのか」
「ああ。妹が本当に探しに来るなら、最後はあなたのところへ行くと思ってた」
「趣味が悪いな」
「あなたほどじゃない」
グレンの顔から笑みが消えた。
「それにしても、よく半年も生きてたな」
「あれのおかげですよ」
エリオットが顎で、自分の背後を示した。
その直後、それまで何の変哲もない石壁にしか見えなかった場所が、地鳴りのような低い音を立てながら、ゆっくりと開いていった。
その先にあったのは、街だった。
地下に存在するはずのない巨大な街が、青い灯りに照らされながら広がり、無数の塔や道が暗闇の奥へ向かって、どこまでも続いている。
入口の近くには澄んだ水が流れ、壁際には淡い光を放つ実をつけた植物が群生していた。
グレンはそれを一目見て、エリオットが半年を生き延びた理由を悟った。
「……なるほどな」
「水も食料もあります。俺は、ここから離れられなかった」
エリオットが言った。
「離れられなかった?」
「一度奥へ入ると、帰る道が分からなくなるんです」
その言葉に、グレンが初めて地下都市を真正面から見据えた。
彼にとって、それは初めてのことだった。
何を見ても、どこへ行っても、頭の中に自然と形が生まれ、線がつながってきたはずなのに、目の前に広がるその場所についてだけは、何ひとつ描くことができなかった。
完全な空白だった。
エリオットが静かに口を開く。
「王国最高の地図屋」
グレンの目がわずかに細くなった。
「二十年前、世界の果てまで地図にした男」
リタが息を呑む。
エリオットは、昔を懐かしむように笑った。
「――《灰色の測量士》グレン・ヴァレリー」
しばらく沈黙が続いた。
やがてグレンは面倒そうに頭を掻いた。
「昔の名前を出すなよ」
そう言うと、いつものように気の抜けた笑みを浮かべる。
「女にモテなくなる」
「今でもモテてないでしょう」
「お前、昔から一言多いな」
二人のやり取りを聞きながら、リタは改めてグレンを見た。
「グレンさん」
「ん?」
「あれは何なんですか?」
グレンは答えず、もう一度地下の街へ視線を向けた。
長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「知らん」
「え?」
グレンは笑った。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
「だから面白い」
そう言うと鞄を開き、中から一枚の白紙の地図を取り出した。
何も描かれていない場所を前にするのは、実に二十年ぶりのことだった。
グレンは羽根ペンを手に取り、地下都市から吹き上げてくる風に白髪混じりの髪を揺らしながら、しばらく目の前の景色を眺めた。
「さて」
そして、わずかに口元を上げる。
「地図屋の仕事を始めるか」
その日、世界で最も正確な地図に、誰も知らなかった新しい一枚が加わり始めた。




