第74話 北岳の山頂――新たな同行者
【北岳の山頂――嵐の前の静寂】
火狼。火蛇。火鴉。
火鳥王が放った三体の火霊を退けた正雪たちは、幾度もの死闘を越え、ついに北岳の頂へと辿り着いた。
最後の岩場を踏み越えた、その瞬間――。視界が、一気に開ける。
「……!」
正雪は思わず息を呑んだ。眼前に広がるのは、果てなき蒼穹。雲海を突き抜けるように桜島の峰々が連なり、その彼方には、陽光を映した錦江湾が鏡のように輝いている。
さらに遠く、薩摩の山並みは幾重にも連なり、青き空と大地の境界は淡く溶け合い、一幅の仙境画巻を織り成していた。
山頂を吹き抜ける風は、火山の熱を帯びながらもどこか清々しい。火山灰の匂いと濃密な天地霊気を運び、疲弊した身体を静かに撫でていく。
つい先ほどまで、生死の境をさまよっていたことさえ忘れさせるほどの絶景だった。
「……綺麗。」
月依が、思わず息を漏らす。その澄んだ瞳には、眼下へ広がる壮大な世界が映り込んでいた。
斎姫も両腕をいっぱいに広げ、山頂の風を胸いっぱいに吸い込む。
「わぁ……すごい!」
「桜島って、こんな景色が見られるんですね!」
その無邪気な歓声に、正雪も自然と口元を緩めた。
「なるほどな……。山に魅せられる者が多い理由が、少し分かった気がする。」
険しい道を登り切った者だけが見ることのできる景色。極限まで身体を酷使した末に得られる達成感。
だから人は、何度でも山へ挑むのだろう。しばし三人は言葉もなく、その雄大な景色を眺め続けた。
正雪はゆっくりと南へ視線を向ける。その穏やかな表情から、笑みが静かに消えた。そこには、絶え間なく黒煙を噴き上げる南岳火口が、巨大な魔獣の口を開くように大地を裂き、静かに待ち構えていた。
噴煙は空を覆い、赤黒い霊気が渦を巻いている。その地下深くにこそ、この桜島の異変の根源が眠っている。
月依も神妙な面持ちで口を開いた。
「昔、この北岳には地下霊脈へ通じる霊道がありました。歴代の退魔師や斎姫は、その道を通り、封印の祭壇へ赴いていたと伝えられています。」
斎姫も静かに頷く。
「ですが、大噴火によって霊道は崩壊しました。今では地下へ入る道は、南岳火口だけです。」
三人は同時に巨大な火口を見つめた。赤黒い噴煙を吐き続けるその姿は、まるで九幽へ通じる奈落の門。
「あそこか……。」
正雪が静かに呟く。
「はい。」
月依は力強く頷いた。
「封印の地へ至る、唯一の入口です。ここから先は、人の踏み入ることのない未知の領域になります。」
その時、不意に山頂を吹き抜ける風が強さを増した。轟、と唸る風音は、まるで天地そのものが三人の覚悟を試しているかのようだった。
正雪は深く息を吸い、河童の壺を静かに地へ下ろす。腰の法具を一つひとつ確かめ、背負った山神斧の柄を握り直した。
月依は霊符を整え、静かに霊力を巡らせる。
斎姫も祭具を胸に抱き、目を閉じて短く祝詞を唱えた。
誰一人、言葉を発しない。これより先が、生半可な覚悟では決して生きて帰れぬ死地であることを、三人とも理解していたからだ。
やがて正雪は静かに立ち上がる。その双眸に、もはや迷いはなかった。
「……準備はいいか。」
「はい。」
「もちろんです!」
二人の声が、力強く重なる。
正雪はもう一度だけ北岳の頂から世界を見渡した。蒼穹。連なる霊峰。陽光に輝く錦江湾。この穏やかな世界。
――この景色を守るため、俺は戦う。その決意を胸に刻み、ゆっくりと南岳へ向き直る。
待ち受けるのは、灼熱の火口。封印の最深部。そして――数万年の眠りから目覚めようとする鬼王・鬼八の魔魂。
三人は歩みを進めた。死地へ向かうその背に、一片の迷いもなかった。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「月依姉ちゃん! 斎姫姉ちゃん! 待ってくれ!」
若い男の声が、山風に乗って響いた。三人が振り返ると、一人の青年が岩場を駆け上がってくる。
黒き狩衣をまとい、腰には霊刀。額には汗を浮かべながらも、その歩みは乱れず、鍛え抜かれた退魔師であることが一目で知れた。
「紬彦!」
月依が驚きの声を上げる。
青年――緒方紬彦は三人の前まで辿り着くと、大きく息を吐き、ようやく笑みを浮かべた
「はぁ……はぁ……ようやく追いついた。」
額の汗を拭いながら苦笑する。
「月詠神宮へ向かったら、宮司様から『月依姉ちゃんたちは南岳へ向かった』って聞いてね。急いで追いかけてきたんだ」
「紬彦兄ちゃん!」
斎姫は満面の笑みで手を振った。
「久しぶり!」
その時、紬彦の視線が正雪へ向けられる。見慣れぬ青年。だが、その身に宿る霊気は深く澄み、幾多の死線を越えてきた者だけが纏う静かな威圧を帯びていた。
「……こちらの方は?」
正雪は一歩前へ進み、静かに抱拳した。
「初めまして。常盤正雪と申します。縁あって月依殿、斎姫殿と共に、桜島の異変を調べています。以後、お見知りおきを。」
紬彦もまた抱拳して礼を返す。
「緒方紬彦です。月依姉ちゃんと斎姫には、幼い頃から世話になっています。」
二人は静かに視線を交わした。互いの瞳に宿るのは、敵意でも警戒でもない。死地へ赴く覚悟を持つ修仙者だけが理解し合える、無言の敬意であった。
その一瞬で、互いに相手が信頼に足る人物であることを悟る。
こうして一行は四人となった。
誰もまだ知らない。この邂逅こそが、やがて鬼王復活を巡る天地大戦において、運命の歯車を大きく回し始める最初の一歩となることを。
【北岳の山頂――新たな同行者】
紬彦を加えた一行は、束の間の休息を終え、南岳火口へ向けて歩み出そうとしていた。その時――
「よう、月依。久しぶりだな。」
どこか気の抜けた声が、岩陰の向こうから響いた。
四人が振り返る。一人の青年が、両手を後頭部で組みながら、ゆっくりと姿を現した。
風に遊ぶ黒髪。人を食ったような笑み。
その双眸は軽薄そうに細められているにもかかわらず、その奥底には、底知れぬ知略と、決して他人には見せぬ深い影が潜んでいる。
木御門仁翔――。その姿を認めた瞬間、月依の柳眉が真ん中に寄った。
「……仁翔。」
仁翔は肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
「この前はいろいろ世話になったな。おかげで親父には、ずいぶん絞られた。」
そう言って頭を掻くと、何事もなかったかのように笑った。
「まあ、その話はもう終わりだ。」
彼は視線を南岳火口へ移す。黒煙を噴き上げる巨大な火口を見据えながら、淡々と言った。
「お前たちも、あそこへ向かうんだろ。だったら、俺も同行させてもらう。」
その言葉が落ちた瞬間だった。紬彦が前へ一歩踏み出す。その瞳には、隠そうともしない敵意が宿っていた。
「……よくも、ここへ姿を見せられたな。」
低く響く声。山頂の空気が、一瞬で張り詰める。
しかし仁翔は、意に介さず肩をすくめた。
「そんな怖い顔をするなよ。久しぶりの再会なんだからさ。」
紬彦の眼差しは、さらに鋭くなる。
「恒一様の石棺を壊した張本人が、何を言う。」
その一言で、場の空気は凍りついた。
だが仁翔は鼻で笑う。
「おいおい。その言い方じゃ、まるで俺一人が壊したみたいじゃないか。壊したのは、お前も同じだろう?」
「……」
紬彦は黙したまま拳を握る。霊力が静かに揺らぎ、足元の小石が震えた。
その時だった。
「ちょっと待ってください」
二人の間へ斎姫が割って入り、不思議そうに首を傾げる。
「恒一様の石棺って……どうして壊れてしまったんですか」
紬彦はしばらく黙っていた。やがて静かに目を伏せ、重い口を開く。
「……私の責任でもあります。仁翔は、恒一様の御遺体を利用して斎姫様を従わせようとしました。それを止めようとして争いになり……戦いの余波で、石棺を破壊してしまったのです。」
その言葉を聞き、斎姫の表情が曇る。
「そんなことが……。」
仁翔は困ったように頭を掻いた。
「だから、そんな顔をするな。確かに褒められたやり方じゃなかった。今さら言い訳するつもりもない。」
そう言って再び南岳火口へ視線を向ける。
その横顔からは、いつもの軽薄さが少しだけ消えていた。
「だが、この異変だけは放っておけない。お前たちも火口へ入るんだろ。だったら人手は多い方がいい。俺も力を貸す。」
簡潔な言葉だった。だが、その真意は読めない。
月依は冷たい眼差しを向けた。
「信用できません。途中で裏切るつもりではないのですか。」
仁翔は苦笑しながら両手を広げる。
「疑われるのは当然だ。でも考えてみろ。俺は一人。お前たちは四人だ。監視でも拘束でも好きにすればいい。」
その飄々とした態度に、紬彦は眉をひそめる。
「……なぜ、そこまでして同行したい。」
月依も続けた。
「あなたの目的は何ですか。」
仁翔はしばらく黙っていた。やがて大きく息を吐き、苦笑しながら頭を掻く。
「……親父にさ。散々説教されたんだ。『平和を守れ』。『現世を守れ』。『九州を守れ』。耳にたこができるくらい聞かされた。」
肩をすくめる。
「そこまで言われたら、少しくらい親孝行してやるしかないだろ。」
ぶっきらぼうに言い終えると、近くの岩へ腰を下ろした。誰も、すぐには言葉を返せなかった。流れる沈黙。
その静寂を破ったのは、斎姫だった。
「私は……一緒に来てもいいと思います。」
「え?」
月依と紬彦が同時に振り向く。斎姫は真っ直ぐ仁翔を見つめた。
「確かに、まだ信用はできません。でも――、」
彼女はにっこりと微笑む。
「もし悪いことをしたら、その時は私が斬ります。」
口元には柔らかな笑み。だが、その瞳には一切の揺らぎがなかった。それは冗談のようでいて、決して冗談ではない。
退魔師としての覚悟そのものだった。仁翔は一瞬だけ目を丸くすると、やがて肩を揺らして笑った。
「……いいさ。その時は遠慮なくやってくれ。」
笑いながら答える。しかし、その笑みの奥底に何を秘めているのかを読み切れる者はいない。
その一部始終を、正雪は終始黙したまま見つめていた。誰の話にも口を挟まず。
五人それぞれの表情。呼吸の乱れ。視線の動き。霊力の揺らぎ。そのすべてを静かに観察する。
(仁翔は、本当に敵なのか。)
(紬彦は、疑う余地のない味方なのか。)
(斎姫は、なぜあえてあの言葉を口にした。)
答えは、まだ見えない。
正雪は胸中で静かに結論を下した。――今、判断するには早すぎる。人は言葉で己を飾ることができる。
だが、生死の狭間では、その本性は必ず行動となって現れる。見極めるべきは言葉ではない。これから先、彼らが何を選び、何を守るのか――その一点だけだ。
そして、もう一つ。
正雪は月依の横顔へ静かに視線を向けた。彼女は誰よりも真っ直ぐで、誰よりも誠実だった。だからこそ、人を疑うことに慣れていない。
その清らかさは美徳であり、同時に最大の弱さにもなり得る。
(……俺が見ていよう。)
誰にも聞こえぬほど小さく、胸の内で呟く。灼熱の山風が五人の間を吹き抜け、黒衣の裾を静かに揺らした。
こうして一行は、新たな同行者を迎えることとなる。互いを完全には信じぬまま。互いの本心を探り合いながら。五人は鬼王が眠る封印の地――南岳火口へ向け、再び歩みを進めた。
その先で待つのは、灼熱の地獄か、それとも数万年の時を超えた神代の真実か。誰一人、その答えを知る者はいなかった。




