第34話 空間転移
【愛してくれた者】
珍鐘寺の山門は、すでに炎に包まれていた。
夜空を焦がすように妖火が燃え上がり、黒煙は渦を巻きながら天へと昇っていく。寺内では悲鳴と怒号が入り混じり、瓦が砕け、石畳が裂け、霊気は狂ったように乱れていた。
その混乱のただ中――
山門の向こうに、二つの影が現れた。
老いた男女だった。
背は深く曲がり、白髪は風に乱れ、衣は長旅の塵に汚れている。足取りは覚束なく、今にも倒れそうであった。それでも二人は止まらない。互いに肩を支え合いながら、転ぶような歩みで必死に山門をくぐった。
その瞳に宿るのは、ただ一つの願いだけ。――娘を、止めなければ。清代姫の父と母であった。
やがて二人は、炎の向こうに立つ存在を見上げた。それは、もう人の姿ではない。天を仰ぐほどの巨大な蛇であった。
黒曜石のように輝く鱗が夜の炎を映し、巨体は寺の屋根を越えて蜿蜒と延びている。口元から漏れる妖火が、蛇の身を舐めるように揺らめき、周囲の空気すら歪ませていた。
だが、二人は、すぐに分かった。どれほど姿が変わろうとも。血の絆は、決して隠せない。
母の唇が震えた。
「……清代姫……」
その声は、炎の中でも確かに届いた。頬を伝う涙が、火の光を受けてきらめく。
その瞬間。巨大な蛇の瞳が、大きく揺れた。紅く燃えていた瞳の奥に、わずかな迷いが生まれる。蛇の喉の奥から、かすれた声が絞り出された。
「……父さま……母さま……」
巨体が震えた。怒りと絶望に満ちていた心の奥底から、遠い記憶がゆっくりと浮かび上がる。
幼い日の庭。
優しく頭を撫でてくれた父の手。
台所から立ち上る湯気と、母の温かな笑顔。
夕暮れの庭に響いた、家族の笑い声。
この世で――
無条件に、自分を愛してくれた者。それは父と母だけだった。
その記憶に触れた瞬間。燃え盛っていた妖火が、わずかに弱まった。鐘を絞め上げていた蛇の力が、ほんの一瞬、緩む。
【安道成の一撃】
――その刹那。轟、と鐘の内側から影が飛び出した。
安道成。
彼は、その一瞬の隙を決して逃さなかった。まるで最初からその隙を狙っていたようだ。伸ばされた手。その手には、黒い手袋がはめられている。それは彼が秘めていた霊宝だった。
剣も炎も傷つけることができぬ。しかしその霊具は、持ち主の霊力を増幅し、掴んだ生き物から霊力を吸い上げる邪異の宝具である。
今、その手が――
蛇の首を、掴んだ。霊力が一気に凝縮される。締め上げる力は、鋼の枷のようだった。
清代姫の巨体が激しく痙攣する。妖火が乱れ、空気が震えた。
「やめろ!」
鋭い叫びが、戦場に響いた。正雪は、迷いなく駆け出していた。
理もない。策もない。
ただ――彼女を救いたい。その一心だけで。足は石畳を蹴り、炎を越え、まっすぐ安道成へと向かう。
だが、その瞬間。背後から、獣じみた笑い声が響いた。
「ヒヒヒ……」
不気味な気配。振り向く暇すらない。鋭い爪が、背を裂いた。悪猿だった。人混みに紛れて潜んでいた妖が、この瞬間を待ち続けていたのだ。
爪が肉を裂き、骨を削る。衝撃が背骨を貫いた。内臓が裂ける感覚が、全身を駆け抜ける。
視界が赤に染まる。膝が崩れ落ちた。血が石畳に滴る。終わるのか。
意識が闇へと沈みかけた、そのとき。胸元が、突然熱を帯びた。灼けるような熱。
六羽蝶衣。
六枚の霊羽が、主の危機に応じて自動で展開した。
次の瞬間――
白い光が轟然と爆ぜた。衝撃波が周囲を薙ぎ払い、悪猿の身体を吹き飛ばす。光が正雪を包み込む。
六枚の羽が重なり合い、柔らかな光の繭を形作っていく。霊気が渦を巻き、空間が歪む。六羽蝶衣は、主の命を守るため、強制的に空間転移を発動したのだ。
炎の轟き。悲鳴。怒号。すべてが遠ざかっていく。
戦場の喧騒は、やがて完全に消えた。正雪の意識は、深い昏睡へと沈んでいく。
そして今――
闇の中で、彼はただ後悔に沈んでいた。守れなかった。清代姫の涙も。怒りも。孤独も。
繭の奥で、かすかな鼓動が響く。とくん。とくん。深い闇の中で、時間だけが流れていく。
絶望は深い。だが――
その闇の中で、六枚の霊羽は静かに輝きを増していた。まだ終わっていない。守れなかった過去を、二度と繰り返さぬために。
【谷】
山深い谷に、淡い霧が静かに流れていた。
霧は地を這うようにゆっくりと広がり、草の先端を濡らし、岩の隙間に溜まり、世界を柔らかな白に包んでいる。風はほとんどなく、ただ遠くで水の流れる音だけが微かに聞こえていた。
谷の中央――そこに、白く光る繭がひとつ横たわっていた。
人の背丈ほどもある大きな繭である。
六枚の霊羽が幾重にも重なり合い、柔らかな殻を形作っていた。羽は透き通るような白で、内側から淡い光が脈打つように流れている。
とくん。とくん。
まるで命の鼓動のように、光はゆっくりと明滅していた。その繭のそばに、一人の少女が座っている。
揚羽紗綾だった。
黒い長髪を背に流し、白い衣をまとったその姿は、霧の中に溶け込むように静かだった。彼女は膝を抱え、少し前かがみになりながら、じっと繭を見つめている。
表情は穏やかで落ち着いている。しかしその瞳の奥には、複雑な思索の影が揺れていた。
少し離れた場所では、一羽の小鳥が地面をつついている。
小さな体をぴょんぴょんと跳ねさせながら、石の隙間を嘴で突き、虫を引きずり出しては、ぱくりと飲み込んでいる。
どう見ても緊張感はない。紗綾はその様子をちらりと見て、小さく息を吐いた。
「……本当に呑気ね」
鳥は首を傾げ、また地面をつつく。
紗綾は目を細めた。
「この世に妖さえいなければ……」
言葉は、霧の中に静かに溶けていった。時間はゆっくりと流れる。この場所に来てから、もう何日も経っていた。紗綾の記憶は、自然と数日前へと戻る。
【空間転移】
――あの日。
珍鐘寺の炎が天に届いた瞬間だった。妖火が夜空を焼き、戦いの気配が天地を満たしていた。その混乱の中で、ひとつの異変が起きた。
空間が、歪んだ。そして現れたのが、この繭だった。白く輝く六枚の羽。紗綾はそれを見た瞬間、理解した。
――揚羽家の宝。
しかも、ただの宝ではない。伝説にしか残らない至宝。六羽蝶衣。
揚羽家の歴史の中でも、数えるほどしか現れない守護霊器。主が死の淵に立ったとき、自ら羽を展開し、繭を作り、命を守る。
その瞬間。紗綾は反射的に術を発動していた。宗家にのみ伝わる秘術。
――血脈共鳴。
揚羽家の霊宝は、宗家の血に反応する。
繭が空間転移を起こす瞬間、紗綾はその流れに自分の術を重ねた。結果――
彼女自身も、繭と共に転移した。
そして今に至る。繭を強引に解くこともできる。宗家の術ならば、不可能ではない。だが紗綾は躊躇していた。
中の様子が分からない。無理に破れば、命を危険にさらす可能性がある。だから彼女は待った。ただ静かに。
繭が自ら開く、その時を。
そのときだった。
ぱきり。小さな音が谷に響いた。
紗綾の瞳が、わずかに動く。繭の表面に、細い亀裂が走っていた。
次の瞬間。光が溢れ出した。六枚の霊羽が、静かにほどけていく。
そして――
繭の中から、一人の青年がゆっくりと起き上がった。正雪だった。繭が完全に破れると同時に、彼の瞼が開いた。
眩しい光。青い空。長く闇の中にいた目には、あまりにも強い。正雪はすぐに目を閉じた。だがその眩しい空を背景に――
何かが立っていた。少女の顔。敵か。だが、その敵は――美しい。
正雪は眉をひそめた。再び目を開く。そして、驚いた。
「……紗綾さん?」
知っている顔だった。
「ここは……なぜあなたがここに……」
視線が周囲へ動く。谷。川。見慣れた山。心臓が一瞬止まりそうになった。
「ここ……霧獣法流の裏山か?」
数か月前、自分は熊野三峯へ向かったはずだった。
「なぜ……ここにいるんだ……」
声はまだかすれていた。紗綾は腕を組み、静かに答えた。
「質問は、私の方が先よ」
【揚羽家】
その視線が、正雪の胸元に落ちる。そこには、まだ淡く光る霊羽があった。
「揚羽家の伝説の宝――六羽蝶衣」紗綾の声は落ち着いている。「どうして、それが君の手にあるの?」
正雪は少し考えた。そして、短く答えた。
「師匠からもらった」
紗綾の眉が動く。
「師匠の名は?」
「揚羽道斎」
紗綾の瞳が、わずかに見開かれた。そして小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「揚羽道斎。確かに我が一族の者ね」
正雪は黙って聞く。紗綾は谷を見渡しながら言った。
「私は揚羽家宗家の者よ」
その言葉に、正雪の表情がわずかに変わった。宗家。それは、揚羽一族の頂点だった。紗綾は続ける。
「六羽蝶衣は揚羽家の至宝。道斎さんから受け継いだなら問題ない」
少し間を置いて言う。
「ただし、この蝶衣は三回しか使えない」
正雪は苦笑した。
「……もう二回使った」
紗綾は目を丸くした。
「残り一回だ」
正雪は恥ずかしそうに言った。紗綾は額を押さえた。
「勿体ない……」
小さくため息をつく。
「この世で六羽蝶衣を作れる者は、もういないのに」
そして肩をすくめた。
「まぁ、あなたの物なら勝手に使いなさい」
正雪は何も言えなかった。揚羽家。かつて大戦で笹林家に敗れ、多くの族人が戦死した一族。その歴史を、彼も知っていた。
紗綾は一枚の巻物を取り出した。
「これは六羽蝶衣の術」
正雪に差し出す。
「この宝は、危機の時に自動で発動する。でも――」
彼女は少し笑った。
「主動でも発動できる」
正雪は驚いて巻物を受け取った。その後、紗綾はここに来た経緯を説明した。ここは霧獣法流の裏山、その奥の谷だった。話が終わる頃、谷には再び静寂が戻っていた。
珍鐘寺。清代姫。安道成。そしてクルル。気になることは多い。
だが――二人は一度宗門へ戻ることにした。すべては、まだ終わっていない。
正雪の胸の奥には、消えないものが残っている。その炎は、まだ静かに燃え続けていた。




