第31話 毒を以て毒を制す
【濃紫の妖毒】
森は紫に沈んでいた。
花鰐の巨体は、冷えきった山塊のように大地に横たわる。砕けた鱗は鈍く光を失い、裂けた腹腔から滲み出るのは鮮血ではない。濃紫の妖毒――それは煙の姿を取り、まるで意思を持つ生き物のように、ゆるやかに蠢いていた。
毒は目に見えるほど濃く、冷光を帯びて死骸を中心に渦を巻く。地に触れた草は瞬く間に萎れ、石すらも黒く侵される。吸えば肺腑を蝕み、触れれば経脈を腐らせる凶毒。これが自然に生じたものでないことは明らかだった。――仕組まれた陣。
東西南北、四方の位に黒衣の修士が立つ。
衣は風に揺れず、仮面は一切の表情を拒む。だが四人の間に張り巡らされた気は、氷の刃のような殺意で固く結ばれていた。
ひゅ、と空が裂ける。
霊力を凝縮した矢が青白い尾を引き、一直線に走る。正雪の頬をかすめ、背後の花鰐の死骸へ突き刺さった。
――轟。
幹が爆ぜるかのごとき衝撃。巨体が震え、その裂け目からさらに濃い毒煙が噴き上がる。刺激に応じて怒り狂うかのように、毒は勢いを増した。
「近づくな」
押し殺した低い声が響く。
「奴らを死骸から離れさせるな。毒が骨髄に至るまで、静観せよ」
円が、静かに閉じる。
四人は一定の距離を保ちつつ、正雪と清代姫を包囲した。接近はしない。ただ霊矢を放ち、霊力で形作った長剣を投げ、退路を絶つのみ。
正雪が毒域から抜け出そうと踏み出すたび、鋭い一閃が足を止める。清代姫が尾を翻して跳躍すれば、次の一矢が地面を穿った。
彼らの狙いは明白だった。――刻を稼いでいるのだ。
毒が体内を巡り、霊海を完全に侵食するその瞬間を。
正雪は歯を食いしばり、剣を振るって飛来する光刃を弾いた。だが腕が重い。
吸い込んだ妖毒がじわじわと経脈を巡り、丹田の霊海を濁らせていく。霊力の流れは鈍く滞り、視界の端が暗く揺れ、音が遠のく。
「くっ……」
咄嗟に霊符を放つが、灯った霊火はいつもの半分にも満たず、虚しく霧に消えた。
黒衣の一人が、冷笑を漏らす。
「もはや術も結べぬか」
三条の霊矢が同時に放たれる。正雪は辛うじて二本を弾き、一本を身をひねってかわしたが、もつれた足が大地を捉えきれなかった。
その瞬間、しなやかな尾が彼の腰を支えた。
「大丈夫か」
「……駄目だ。鈍る一方だ」
正雪の心臓が早鐘を打つ。霊力は泥のように重く沈み、思うように巡らない。その傍らで、清代姫の瞳が揺れた。黒曜石の如き瞳孔が、妖しく白濁していく。
正雪が異変に気づくよりも早く、彼女は身を翻し、背後から寄り添う。
血に濡れた唇が開き――
鋭い牙が、正雪の胸へと突き立てられた。
「あ……がっ……!」
焼けるような激痛。
正雪は反射的に身を引こうとするが、足は鉛のごとく重い。かろうじて腕を上げて防ぐも、牙はその腕に深く食い込んだ。
刹那。熱い「何か」が血脈へと逆流し、猛烈な勢いで全身を駆け抜ける。
清代姫は牙を離さぬまま、彼を抱き込むようにして倒れ伏した。二人の意識が途切れたかのように、森に静寂が戻る。
黒衣の修士たちが動きを止めた。
「毒が回ったか」
「精神を侵されたな。仲間を敵と誤認したのだろう」
二人が剣を構え、慎重に歩み寄る。残る二人は距離を保ち、仮面の奥で忍び笑う。
「とどめを刺せ」
草を分ける足音が近づく。
――その瞬間。
伏していた正雪の瞳が、鋭く開いた。腕の傷口から淡緑の霊光が走り、経脈を縛っていた黒い毒気が、陽光に晒された霧の如く蒸発していく。
清代姫の血。半蛇の血脈は常の妖毒を拒まず、むしろ――呑み込む。異なる毒を体内で衝突させ、互いを食らわせ、消滅へ導く。
毒をもって毒を制す。
彼女が噛んだのは裏切りではない。解毒だった。
「馬鹿な……」
気づいた時には、すでに死神が鎌を振るっていた。正雪が跳ね起きる。地を裂く抜剣。青白い霊光が奔流となって迸る。
一閃。
胸を貫かれた黒衣は悲鳴を上げる間もなく崩れ、灰のように溶けた。
同時に清代姫の尾が唸る。
しなやかな蛇尾がもう一人の脚を絡め取り、地へ叩きつける。両手に生じた霊刃が閃き、喉元を断った。血の弧が紫霧に溶ける。
残る二人の気配が凍りついた。先ほどまでの余裕は跡形もない。
「退け!」
躊躇はなかった。二つの黒影は森奥へ跳躍し、闇に消える。
追撃の構えを見せた正雪だったが、二人の姿が完全に消えたのを確認した途端、膝が崩れ落ちた。清代姫も肩で荒く息をしている。
毒は消えた。だが、霊力の消耗は甚大だ。経脈はなお焼けるように痛む。追撃どころか、立っているだけで精一杯だった。
「……逃げてくれて良かった」
正雪が苦く笑い、清代姫は静かにうなずく。
「我らも……ここを離れねば」
二人は花鰐の死骸を振り返らず、森の奥へと退いた。巨岩の陰、霊気の薄い窪地に身を潜める。正雪は腕を押さえた。深い牙痕が残る。しかしそこから漂うのは毒ではない。澄んだ蛇の霊気。
清代姫がそっと手を重ねる。
「痛みますか」
「いや……助かった」
その指先は、わずかに震えていた。
【強がりだった】
激戦の地へ、黒衣の二人が戻ってきた。
花鰐の巨体はなお横たわり、その裂けた腹から滲み出る濃紫の毒煙が、ゆらり、ゆらりと渦を巻いている。
先の衝撃で焼け焦げた地は黒くひび割れ、霊力の残滓が空気を刺すように震えていた。目に見えぬはずの霊圧が、いまだ重く場を支配している。
二人はその只中に立ち尽くす。
黒衣は毒煙に侵されぬよう結界をまとっているが、仮面の奥の呼吸はわずかに乱れていた。
「……やはり騙されたか」
低く押し殺した声が、紫霧に吸い込まれる。
「最後の攻撃姿勢は偽りだった」
もう一人が苦く吐き捨てる。
あの瞬間――正雪と清代姫は確かに追撃の構えを見せた。霊力を高め、踏み出す寸前の姿勢。あれを見て、二人は退却を決断した。
だが実際には、彼らに追う余力はなかった。あれは余力を誇示するための虚勢。命を守るための強がりに過ぎなかったのだ。
見破れたはずだった。
ほんの刹那、踏みとどまっていれば。もう一歩、前へ出ていれば。その躊躇が、二人の同胞の命を無為に散らせた。
紫煙の向こう、溶け崩れた仲間の痕跡がかすかに残っている。霊核すら砕かれ、再生の道は閉ざされた。修士にとって最も重い死である。
悔恨は胸を灼く。だが、もはや遅い。
【聞こえる鐘の音】
そのとき――
遠くから、微かに鐘の音が響いた。
ごぉん……
低く、長く、森を渡る音。空気が震え、毒霧さえ波打つ。重い余韻が幾重にも連なり、山の稜線へと吸い込まれていく。
二人は同時に顔を上げた。
「……珍鐘寺」
鐘は一打、また一打と、規則正しく鳴り続ける。
呼びかけるように。あるいは、警告するように。
その音は、ただの鐘声ではない。霊脈を震わせ、天地の気を律する響きだった。
森の奥――
巨岩の陰に身を潜めていた正雪と清代姫も、同じ音を聞いていた。
正雪はゆっくりと目を開く。霊海の波は徐々に静まり、霊力は確実に戻りつつある。だが経脈はまだ痛む。蛇血によって毒は祓われたが、損耗した真気が完全に満ちるには時を要する。
深く息を吐き、彼は立ち上がろうとする。
清代姫もまた顔を上げた。黒い瞳が、木々の隙間を越え、遠くの山腹を見据える。
珍鐘寺の方角。
「あの伝説の寺も、もう遠くないな」
正雪が低く呟く。声には疲労が滲むが、意志は揺らがない。
清代姫は静かに頷いた。
「ええ……安道成様は、あの寺におられるのでしょうか」
名を口にした瞬間、二人の間に微かな緊張が走る。
鐘はなお鳴り続ける。
ごぉん……
その音は森を越え、山を越え、修士たちの胸奥へと響く。
まるで運命が歩みを進めるたびに、拍を刻むかのように。紫に沈む森の中で、見えぬ糸が静かに結ばれていく。
珍鐘寺は、もうすぐそこだった。




