第30話 父さん、母さん
【父さん、母さん】
清代姫の邸宅は、かつてないほどの騒然さに包まれていた。庭先の梅は静かに香を漂わせ、薄紅の花びらが風に揺れるというのに、屋敷の内には不安と焦燥が渦巻き、まるで静かだった風が突然嵐へと変わったかのようだった。
愛娘・清代姫が、忽然と姿を消したのである。
父・文雄は書斎から廊下へ、廊下から中庭へと幾度も歩き回る。心を落ち着けようとしても足取りは乱れ、普段理知的で沈着な顔立ちには深い悔恨と恐怖が刻まれていた。
「清代……どこへ行ったのだ……」
母・幸子は座敷に伏し、涙が止まらず床を濡らしていた。娘の寝所にはまだ淡い香粉の香りが漂い、机の上には未完の画が置かれている。墨の跡は乾ききっておらず、その生々しい存在感が、かえって胸を締めつけた。
家人総出で捜索が行われた。町外れの川、裏山の古道、廃れた祠、思いつく限りの場所を巡ったが、娘の影はどこにもなかった。夜が更けるにつれ空気は重く、星々さえ沈黙しているかのように見えた。
陰陽師が呼ばれ、線香が焚かれ、護符が貼られたが、天地は答えを示さなかった。
疲労と悲嘆に押しつぶされ、父と母はそれぞれ夢の中に落ちていった。
夢の中で、二人は同じ光景を見た。
深い霧の中、古びた山道が天に向かって続き、その先に巨大な寺が聳え立つ。鐘楼は雲を裂き、石段には長い歳月の跡が刻まれている。
娘・清代姫が、見知らぬ人影と共にその寺を目指して登っている。風が衣を揺らし、鈴の音が遠くでかすかに響く。
「父上、母上……」
かすかな呼び声が霧の奥から届いた瞬間、夢は途切れた。
目覚めた父は息を呑み、すぐ母のもとへ向かう。互いに語り合い、同じ夢を見たことを知ると、背筋に戦慄が走った。
「寺の名は……珍鐘寺だ」
かつて霊鐘が鳴り、天命を告げたと伝えられる古刹。だが、娘を救うためなら、どのような禁忌があろうと恐れはない。
二人は夜明け前に旅支度を整えた。護符と香、乾糧を携え、珍鐘寺へと歩みを進める。
【地蔵と子蟹】
その時、屋敷の門脇にある古い地蔵像にかすかな変化が生じていた。
動くはずのない石の顔が、どこか満ち足りた穏やかな表情へと変わっている。
その足元に、一匹の小さな子蟹がそっと山果を供えた。小さな鋏を胸の前で合わせ、まるで人のように祈りを捧げる。
隣にはさらに数匹の子蟹が集まり、同じ仕草で静かに頭を垂れた。
誰も気づくことはないが、そのかすかな祈りは、天地の霊脈に溶け込み、遠く珍鐘寺へと流れ込んでいった。
道を進むにつれ、所々に佇む地蔵像の石の眼にかすかな光が宿り、善念は道を照らしていく。子蟹たちの純粋な祈りと地蔵の静かな守護が、暗き道の先にかすかな灯をともしていた。
森は深く、風は止み、葉擦れの音だけが二人の足音に混じる。遠く、寺の鐘の音がかすかに届く。聖なる鐘の音は山を震わせ、獣や鳥もその場で息を止め、世界の空気を一瞬だけ凍らせる。
珍鐘寺の鐘は、今も静かに鳴り続けている——
【死んだ鰐】
「グルルルル……」
子鳥のグルルが喉奥を震わせ、低く不安げな警戒音を漏らした。その異変に、正雪と清代姫は同時に足を止め、周囲の気配へと意識を研ぎ澄ます。
荒れた大地の彼方、薄く漂う霧の向こうに、巨大な影が横たわっていた。
近づくにつれ、それが一体の鰐の死骸であると知れる。だが、ただの野獣ではない。
慎重に足を運びながら、正雪の胸に嫌な記憶がよみがえった。
「……花鰐か」
霧獣法流の宗内試合で刃を交えた相手の霊獣。鋼鉄のごとき尾と、妖気を宿す牙を誇る、誇り高き霊獣だった。
だが今、その威容は見る影もない。下顎は異様な角度にねじれ、尾は根元から断たれ、跡形もなく消え去っている。
正雪は息を詰めた。
――こんな殺され方は、あり得ない。
さらに目を凝らすと、胴に深く突き刺さった折れ刃が目に入った。見覚えのある鍛え口、刻まれた霊紋。そして柄には、獣主――廉之助の名が刻まれている。
自らの霊獣に刃を向けるなど、あり得ぬ行為だ。剣が奪われたと考えるほかない。すなわち、廉之助はすでに命を落としているということだ。
胸の奥で、かつての敗北の記憶が疼く。一度は自分を打ち破った男。その彼が殺されたという事実は、計り知れぬ強敵の存在を物語っていた。
「この鰐を倒した者……相当な手練れだ」
清代姫も静かに尾を揺らし、死骸を見下ろした。だが、その瞬間――正雪の視界が微かに揺らぐ。
「……しまった」
死骸の周囲に漂う淡い靄。腐臭ではない。妖毒の気配だ。
気づいた時にはすでに遅かった。肺に染み込む冷たい毒が経脈を侵し、霊力の巡りを鈍らせる。
【現れた敵】
その刹那、空気が裂けた。
森の奥から、四つの影が浮かび上がる。全身を黒衣に包み、顔は仮面に覆われている。
――黒衣の者。
「標的、確認」
低く、無機質な声。次の瞬間、殺意が爆ぜた。
正雪は即座に剣を抜き、清代姫も一歩前へと踏み出す。毒の影響で身体は重いが、退くという選択肢はない。
「清代姫、下がれ!」
「いいえ。共に戦います」
清代姫の瞳が鋭く光り、尾が地を打つ。妖力が波紋のように広がり、毒霧を押しのけた。
黒衣の一人が瞬身し、正雪の死角へ回り込む。閃光のような刃が夜気を裂く。正雪は半歩遅れて防ぎ、剣同士が衝突して火花を散らした。その背後から、さらに二人が迫る。
「連携が洗練されている……!」
単なる刺客ではない。どこかの宗門の暗部か、それとも、さらに深い闇に属する者たちか。
清代姫は尾を振るい、両手にそれぞれ剣を構える。だが黒衣の一人が嗤った。
「毒はすでに回っている。抵抗しても、長くは持たぬ」
正雪は歯を食いしばる。胸の奥で、怒りと焦燥が燃え上がった。花鰐の死。同門の廉之助の死。そして、自分たちを狙う黒衣の影。
すべてが一本の線で繋がり始めている。
――逃げ場はない。
――ここで折れれば、次はない。
右手で剣を強く握り、左手に符を掲げ、正雪は一歩踏み出した。相手が強くとも、こちらにも切り札がある。ならば――ここで斬り伏せるまでだ。
刃と妖力が交錯し、霧を裂き、死骸の眠る地に血の花が散る。この場所で、新たな戦いの幕が切って落とされた。




