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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第29話 安道成の痕跡を追う

【別れ】


 早波川朔夜と朔月の兄妹の話によれば、熊野渡に足を踏み入れた直後、二人は黒衣の者たちに襲撃されたという。


 霧の立ちこめる渡し場で、兄妹は背中合わせに陣を取り、符と剣を交えて応戦した。連携は見事で、数名を退けることには成功したものの、戦いの余韻が冷めきらぬうちに――あの悪猿が姿を現した。


 油断も隙も許されなかった。

 霊力を削られ、意識は闇へと沈み、次に目を覚ましたときには小屋の中だった。


 そう語る朔夜の声は低く、悔しさを噛み殺した硬さを帯びていた。


 「黒衣の連中……まだ動いている。霧獣法流を狙っている可能性が高い」

 「幽世の門を、急がなきゃ」


 兄妹は短く言葉を交わし、迷いなく再び歩き出した。目指すは今回の目的――幽世と現世の境に裂けた門。


 「正雪」


 別れ際、朔月が足を止めて振り返る。


 「必ず、向こうで会おう」


 正雪は一度、強くうなずいた。


 「清代姫の件が片付いたら、僕もすぐに行く。死ぬなよ」


 ぶっきらぼうな言葉だったが、その裏には確かな信頼があった。約束は簡潔だったが、胸に残る重みは深かった。


 やがて一行は別れ、蟹の子たちとも別離の時が訪れる。小さな鋏を振り、深々と頭を下げるその姿に、清代姫は静かに蛇尾を揺らして応えた。


 「……強く、生きなさい」


 それは命令ではなく、祈りだった。


 こうして正雪と清代姫は、安道成の向かった方角へと歩き出す。



【冬を作る】


 森は深く、道は細い。だが、二人の足取りに迷いはなかった。


 雪女から得た深青の雪結晶は、仙蛙の翠夏と貝の妖・梨花に託した。二人は目を輝かせ、河童の壺の中に冬を生み出すのだと口々に語った。


 「水の世界に、季節を」

 「止まった時間に、変化を」


 河童の壺の中は、常に一定の温度を保つ閉じた世界だ。そこに冬が生まれれば、雪が降り、氷が張り、やがて溶け、循環が芽吹く。


 ――ひとつの、小さな世界。


 だが正雪は知っている。壺の内は水に満ち、人の身では生きて入ることなど到底できなかった。


 それでも翠夏と梨花にとっては、忙しくも幸福な営みなのだろう。壺の奥からは、かすかな水音と霊気のざわめきが絶え間なく伝わってきた。



【沈黙】


 正雪はその壺を背負い、清代姫と並んで歩いていた。


 言葉は、なかった。


 安道成の痕跡を追い、目的地に近づくにつれ、清代姫の沈黙は深まっていった。彼女の下半身は蛇の姿だが、地を這うことはない。上半身をまっすぐに保ち、人と同じ高さで視線を前に据えたまま、尾で地を滑るように進む。


 尾の揺れは小さく、歩調は静かで、だがその心は内へと沈み込んでいるようだった。


 ――生きているだろうか。

 ――無事だろうか。


 それとも。


 ――自分は、本当に愛されているのだろうか。


 正雪は、その沈黙を破ることができずにいた。彼女の迷いは、彼女自身にしかほどけないと分かっていたからだ。


 分かっていても、問いかけることはできなかった。言葉を投げた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。


 森の奥、風は止み、葉擦れの音だけが静かに続く。


 二人は並んで歩きながら、それぞれの胸に、言葉にならない思いを抱えていた。そして知っていた――この旅の答えは、まだ先にある。



【地蔵菩薩】


 道の傍らに、小さな地蔵がひっそりと佇んでいた。


 石で刻まれたその像は、幾星霜の風雨にさらされ、角は丸く削れ、表情は静謐で穏やかだった。薄くまとわりつく苔は、悠久の歳月を生き抜いてきた証のようであり、まるでこの世の悲歓離合をすべて見届けてきたかのようだ。


 清代姫はその前で歩みを止め、静かに両手を合わせた。


 祈りの言葉は声とならず、胸の奥に宿る想いだけが、そっと地蔵へと注がれていく。やがて彼女は懐から小さな布の帽子を取り出し、やさしく地蔵の頭にかぶせた。冷たい石に触れた指先はかすかに震えていたが、その仕草には深い慈愛と祈念が宿っていた。


 傍らに立つ正雪は、ただ黙してその光景を見守っていた。


 邪魔をすることも、声を発することもない。ただ静かに、清代姫の背と地蔵の微笑を瞳の奥に刻み込む。


 ――愛とは、何なのだろうか。


 奉仕か、犠牲か、それとも支え合うことか。一時の激しい感情にすぎないのか、それとも水のように淡く、だが欠かすことのできない永遠のものなのか。


 正雪の胸には、答えなき問いが静かに渦を巻いていた。

 ただ、清代姫の背と地蔵の静けさが重なり合い、心の深奥をかすかに震わせていた。


 地蔵は微笑んでいた。


 それは冷たい石の表情でありながら、不思議なほど温かく、人の心を包み込むような優しさを帯びている。正雪の胸の奥で、長く凍りついていた何かが、ゆるやかに溶けていくのを感じた。


 清代姫は振り返り、静かに語った。


 「地蔵様は、小さな神様。大きな神力はないかもしれませんが、この世でいちばん身近で、やさしい神です。私の家の近くにも地蔵様がいて、皆に微笑み、幸せを守ってくれると父に教わりました」


 その言葉は風に溶け、正雪の心の底へと静かに沈み込んでいった。


 ――数年後。


 修行と戦いを重ねた正雪は、孤独な旅の途中でふと足を止めた。


 月明かりの下、かつての光景が脳裏に甦る。地蔵の前で祈る清代姫の姿。帽子をそっとかぶせる、そのやさしい手。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 失われた時間。告げられなかった言葉。理解しきれなかった想い。それらは静かな夜風に溶け、月光の中へと滲んでいった。



【珍鐘寺】


 正雪と清代姫がかつて立っていた地から遥か山奥。


 雲を突き抜けるかのように、一つの大寺がそびえ立っていた。


 寺の中央には、一本の巨大な古木が根を張り、その枝には霊鐘が吊るされている。


 常世より落ちたと伝えられるその鐘は、俗世の音とは異なる深遠な響きを宿していた。鐘が鳴り渡ると、山々は共鳴し、空気そのものが震え、妖邪は近づくことすら叶わない。千年の時を越え、この寺を守り続けてきた聖なる鐘である。


 仏堂は広く、数十名の僧が一斉に経を唱えていた。その声は川の流れのように重なり合い、山を越え、谷を越え、遥か遠くまで届いていく。経の波動は修行者の心を清め、邪念を払い、魂を鎮める霊力を帯びていた。


 その中に、一人の若き僧がいた。


 端正な顔立ち、塵一つない白衣、穏やかな表情。経を読むその姿は、俗世の穢れに触れたことのない高僧のようであった。


 石段を登りかける二つの人影があった。山風に衣を揺らしながら、静かに寺門を目指している。


 門の傍らには大きな石碑が立ち、その上には力強く刻まれた三文字があった。


 ――珍鐘寺。


 次の瞬間、鐘の音が鳴り響いた。


 山々は震え、獣も鳥も動きを止める。世界はただ鐘の余韻のみを残し、深遠なる静寂へと沈み込んでいった。


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