第28話 雪女
【猿ともう一人】
夕刻。
深緑の森は沈みゆく残陽を呑み込み、巨木の枝葉の隙間からは、血のように赤く染まった光が細い糸となって差し込んでいた。
――来た。
小屋の外で、古枝を押し折る重い足音が響く。 一瞬にして、張り詰めた殺気が室内の空気を凝固させた。
戸板が乱暴に押し開けられ、姿を現したのは例の悪猿――だが、その背後にはもう一つの影があった。
白い。 異様なまでに白い肌を持つ女。それは雪を削り出したかのように均一で、生者特有の血の気が一切感じられない。
呼吸の気配は希薄であり、彼女の足元からは、床板を白く凍てつかせるほどの冷気が静かに這い出していた。
悪猿は愉快そうに歯を剥き、背後を振り返る。
「へへ……人間を捕まえたんだ。今夜は焼肉だぞ。どうだ、雪さんも一緒に食わねえか?」
その言葉に、白衣の女――雪女は、微かに眉を動かした。
「……熱いものは嫌いだと、知っているでしょう」
声音は低く、万年雪の氷河のごとく冷たい。 吐き出す息すら霧にならぬほど、その身は冷え切っている。
「私が欲しいのは、魂。肉体など、ただの空殻に過ぎません」
悪猿は頭をかきながら、野卑な声を上げて笑った。
「そうか、そうか。忘れてたところだった。だからよ――生きたまま、残しておいてやったのさ」
その瞬間。小屋の空気が、ぎしりと軋んだ。
――来る。
正雪は床に倒れ、意識を失った朔夜の真似をしたまま、気配を殺す。厄介だ。あの猿だけでも面倒だが、あの雪女……霊気の質が違いすぎる。)
だが、退くわけにはいかない。人数ではこちらが勝る。だが、相手の戦闘力は未知数だ。
次の瞬間。正雪の胸の奥が冷水に沈められたように揺らいだ。 ――魂魄が、引かれる。
見えぬ糸が正雪の魂に絡みつき、意識が霧散しかける。雪女の冷徹な視線は、床に伏せた正雪を捉えていた。
「……ふふ」
わずかな嘲笑。 氷の刺青が刻まれるような寒気が正雪の五臓六腑を撫でる。魂を探り当て、根こそぎ引き抜こうとする禁忌の術法だ。
正雪は身じろぎもせず、倒れたまま、心の中で詠唱した。
――【清心訣】。
丹田に澄み渡る霊気が満ち、揺らぐ魂を強固な鎖で繋ぎ止める。 荒れかけた心湖が静まり、魂を絡め取ろうとした糸が、音もなく弾き飛ばされた。
だが、長くは保たない。正雪は、直感的にそう悟った。
その様子を梁の上から見下ろしていた清代姫は、敵が放つ術の正体こそ知る由もなかったが、本能が鋭く警鐘を鳴らしていた。 (――これ以上、正雪様を危険に晒すわけにはいかない!)
清代姫は、隠れるのをやめた。次の瞬間、蛇尾を強くしならせ、梁から雪女の脳天へと躍り掛かる。
「――離れなさい!」
空気を切り裂く咆哮。 鋼のごとき尾が刃となって振り下ろされ、雪女の肩口を強襲した。
同時に――
ドンッ!!
床板が内側から突き破られ、木片が飛散する。
「今だ!」
床下に潜んでいた朔夜が、霊気を纏わせた符剣を手に跳ね上がり、悪猿の腹部を一文字に斬り裂く。 朔月もその影から続き、封印の霊符を矢継ぎ早に投げ放った。
「この、人間どもがぁッ!」
悪猿が咆哮し、後方へと跳ね退く。
その混乱の渦中で、正雪は完全に目を開いた。 立ち上がる彼の視線が、雪女の瞳と正面から衝突する。
氷のように冷たい瞳。だがその奥底には、底知れぬ深い青が潜んでいた。
再び、魂が激しく揺さぶられる。
――まずい。
正雪は即座に視線を逸らし、剣を抜いた。霊気が刃へと集まり、低く唸りを上げる。
雪女は、静かに微笑む。
「……ほう。これほど魂の格が強い人間がいるとはね」
次の瞬間。小屋の内部は妖魔の瘴気と修仙者の霊光が激突する、凄絶な戦場へと化した。
夕暮れの静けさは、今、完全に引き裂かれた。
【厄介な雪女】
雪女は、正雪の想像を遥かに超える厄介な強敵であった。正雪は剣を構えながら、決して正面からその顔を直視しようとはしなかった。
視線が合えば、たちまち心が揺らぐ。否――心だけではない。魂そのものが、極寒の深淵に引きずり込まれ、凍土へと埋葬されるような感覚に襲われるのだ。
(目を見るな……)
正雪は半眼に近い視界で、雪女の気配だけを追う。剣の切っ先ではなく、霊気の流れで位置を測る戦いだ。
一方、蟹の子たちは歯ぎしりしていた。父の仇を前にして、何もできずにいる自分たちが、もどかしい。
「……ぼくたちも、戦うんだ……」
だが、その体格と霊力では、戦場に踏み込めば瞬時に凍りつくだろう。清代姫は一瞬だけ視線を向け、首を振った。
「下がって。これは、命を賭ける戦いよ」
その時、霊鳥クルルが翼を烈風のごとく震わせ、最前へと進み出た。 その喉奥に凝縮された霊火が、紅蓮の火玉となって放たれる。
「キュルルルッ!」
赤い火球が弧を描き、雪女を呑み込もうとした。 だが――。
「……無駄だ」
雪女が袖を一閃させる。 瞬時に白銀の吹雪が吹き荒れ、猛烈な霊火は音もなく凍結し、霧散した。 極低温の霊気が小屋を充満し、床板は悲鳴を上げ、一面に白濁した霜が這い広がっていく。
その瞬間だった。
――ギィィ……ッ。
不気味な軋み音が、小屋全体を震わせる。
「……何だと?」
悪猿が驚愕に目を見開いた。小屋を護るはずの自身の結界が、突如として逆回転を始めたのだ。
蜘蛛の巣状に展開していた光の網が反転し、中心へと猛烈な勢いで収束していく。それは既に「護り」ではなく、内側の者を圧殺する「拘束の陣」へと変貌していた。
「なっ……!? 俺の結界が!?」
早波川朔夜と朔月が、好機を逃さず、同時に禁制の霊符を叩きつける。
「今だ!」
「封鎖、完了!」
逆転した結界の光条が、悪猿の四肢を無慈悲に絡め取る。 その強靭な巨体が軋み、身動きが封じられた。
「ちっ……小賢しい!」
正雪は、その隙を逃さなかった。
「――翻海印!」
両掌で複雑な印を結び、丹田から練り上げた霊気を一気に解放する。 空間が歪むほどの波動に呼応し、腰に下げた河童の壺が激しく共鳴した。
「翠夏!」
「任せて!」
仙蛙・翠夏が壺から躍り出て、肺部いっぱいに霊気を吸い込む。 次の瞬間、滝のごとき激流が噴出した。水流は正雪の放った印に導かれ、巨大な水龍となって雪女へと牙を剥く。
「……っ!」
雪で成る雪女の法身にとって、大量の水は致命的な重荷となる。 冷たかった白い肌が湿り気を帯び、その優雅な動きがわずかに、だが確実に鈍った。
「今よ!」
清代姫が地を蹴り、躍動する。 しなやかな蛇尾が鞭のごとくしなり、雪女の身体を逃さぬよう固く締め上げた。
「クルル!」
再び、クルルが霊火を灯す。 火は清代姫の尾を導火線として伝い、雪女を紅蓮の包囲網の中に封じ込めた。
雪は溶けて水となり、水は瞬時に熱を帯びて蒸気へと転じる。 崩壊していく白い法身が、空間を切り裂くような悲鳴を上げた。
「――ああああっ!!」
立ち昇る蒸気が晴れた時、そこに雪女の姿は既になかった。
ただ一つ。深く、深く青い雪の結晶が、床に落ちていた。
正雪はそれを拾い上げる。拾い上げると、芯まで冷えるような冷気と共に、純粋で澄み渡った霊気が手のひらに伝わってきた。
一方。
結界と兄妹の霊符に封じられた悪猿は、雪女の消滅を目の当たりにし、その凶相を激しく歪ませた。
「……チッ、ここまでか」
その身体が、急激に縮む。筋肉が凝縮され、小さな猿の姿へ。同時に、爆霊符がばら撒かれた。
「下がれ!」
凄まじい爆炎。 白煙と霊圧が爆ぜ、視界が遮られる。
次の瞬間、小さな影が疾風となって、森の暗がりへと消えていった。
「覚えてろよ、人間ども……! 必ず、この報いを受けさせてやる……!」
怨嗟の声を残し、悪猿の気配は完全に途絶えた。 残されたのは、静まり返った小屋と、白く漂う蒸気の名残り。
正雪は手中の青い結晶を強く握りしめ、深く、長く息を吐いた。
――戦いは、まだ終わっていない。この霊域の奥深く、幽世の門の影は、今なお色濃く横たわっているのだ。




