第26話 蛇の尾
【葉影の下】
木々の葉を透かして落ちる陽光が、揺れる緑の隙間からこぼれ落ちる。それは清代姫の衣に淡い光の文様を描き、彼女の歩みに合わせて静かに形を変えていた。
彼女は歩きながら、何度も足元へ視線を落とす。長い裙の下――そこに隠された蛇の尾が、かすかにのたうっている。その事実を知っているのは、この場では彼女自身だけだった。
「……こんな姿で、安道成さまに会って……大丈夫なのでしょうか」
声は小さく、風に溶けて消えそうだった。
「妖の姿を見て……怖がって、逃げてしまうのではないかと……」
正雪は足を止め、彼女の隣に並んだ。森の静寂に響く彼の声は、驚くほど穏やかだった。
「真の愛があるならば、必ず受け入れるはずだ」
そこには、一点の迷いもなかった。
「確かに初めは驚きもあろう。だが幸い、上半身は人のままだ。下半身も衣に隠れている。対面するだけであれば、何ら問題はない」
清代姫の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「……そう信じます。ですが、私……いつか、人の姿に戻れるのでしょうか」
正雪は、ゆっくりと、だが力強くうなずいた。
「戻れる。執念を捨て去ることができれば、必ずな」
清代姫は歩きながら、そっと胸に手を当てた。
「理屈では、分かっています。けれど……感情が、どうしても言うことを聞いてくれないのです」
正雪は前を向いたまま、低く言った。
「それでいい。感情とは水の流れのようなものだ。抑え込めば圧力は増し、やがて決壊して噴き出す。制するのではなく、あるべき方へ導くのだ」
一拍置いて、彼は続けた。
「時間は、すべてを癒す。急ぐ必要はない」
その言葉に呼応するように、清代姫の尾の動きが、わずかに滑らかさを帯びた。 彼女は己を試すように、尾の力を分散させていく。地面を滑るように、あるいは浮遊するかのように重心を調整する。
人としての歩法には、まだ僅かな違和感が残る。だが、注意深く見なければそれとは気づかぬほど、その足取りは洗練されていった。 いつの間にか、彼女の歩調は正雪のそれと完全に重なっていた。
「……歩けます。私、自然に歩けます」
驚きに満ちた声に、正雪は静かに微笑んだ。
「ほらな」
その時だった。
【黒衣の男たち】
先を歩いていたクルルが、突然立ち止まった。首を伸ばし、喉を震わせるような鋭い警戒音を発した。
「キュルルルッ!」
空気が、一瞬で冷えた。
前方の高草が左右に割れ、二つの影が姿を現す。黒衣を身に纏い、顔の半分を覆った男たち。だが、放たれる気配は人のものではない。粘りつくような、吐き気を催すほど異質な「濁り」が漂っていた。
黒衣の一人が、舌打ちする。
「……厄介な鳥だな。完璧に隠れたと思ったが」
もう一人が、冷酷な笑みを浮かべた。
「構わん。相手は『二階』の一人だ」
正雪は清代姫を背後にかばい、一歩前へ踏み出す。
「お前ら……誰だ」
黒衣の男は、答えようとしなかった。
「霧獣法流の構えだ。間違いない」
次の瞬間、殺気が解き放たれる。
「すべて殺せ。女も霧獣法流の関わり者だ。まとめて仕留めろ」
二人の黒衣が、同時に踏み込んだ。
正雪は、鞘から剣を抜く。普段、剣を用いぬ彼が――この任務のために、あえて用意した刃だった。
「下がれ!」
清代姫は反射的に後退した。だが、不思議と恐怖はなかった。 黒衣は左右からの挟撃を仕掛ける。だが、先に動いたのは正雪だった。
右側の敵へ一気に踏み込み、鋭い一閃を放つ。半身でかわされたものの、その勢いのまま懐へ肘を叩き込んだ。 霊力が衝撃波となって炸裂し、黒衣の男が目を見開く。だが、異様に強靭なその肉体は、一歩も退かない。
――狙いは、そこではない。衝撃の反動を利用し、想定を超える速度で左へ転じる。
至近距離で、法螺貝の音が鳴り響いた。不可視の音波を至近で受け、左の男の意識が一瞬、白く染まる。その刹那を逃さず、正雪の刃が男の胸を深く貫いた。
残る一人が怒りに吠え、その身体を異形へと巨大化させる。しかし、その咆哮が止まぬうちに――男の胸元から、鋭い「蛇の尾」が突き出た。
男は己の胸を見下ろし、信じがたいものを見たという表情で硬直する。蛇の尾は、音もなく静かに引き抜かれた。 崩れ落ちる巨体が、森の静寂を乱す。
清代姫は、何事もなかったかのように再び尾を隠し、静かに佇んでいた。
風が吹き抜け、木の葉がざわめく。葉影は再び、彼女の衣に淡い模様を落とした。
彼女の修行は、すでに始まっていた。 それは単に人に戻るための道ではない。己の感情と、その身に宿る力と共に生きるための、険しくも尊い修行であった。
【生き延びるための本能】
正雪は、地面に伏した黒衣の残骸を一瞥してから、清代姫へと視線を向けた。
「……よくやったね」
その声は穏やかだったが、どこか慎重に言葉を選んでいるようでもあった。 対する清代姫は、痛ましげにわずかに眉を寄せる。
「褒めないでください。自分でも、何が起きたのかよく分からないのです……。本能、なのでしょうか。この姿で危機に直面した瞬間……抗う間もなく、尾が伸びていました」
彼女は震える両手を強く握りしめた。
「今の自分が……ひどく、憎いのです」
正雪はすぐには答えなかった。短い沈黙が流れた後、彼は低く、だが断固とした口調で告げた。
「君のせいじゃない。この世界が、変質してしまったんだ」
清代姫が、顔を上げる。
「幽世と現世の壁が薄くなって以来、世界は変わった。妖怪や妖が姿を現し、力の弱いものから淘汰される……残酷な弱肉強食の世界となった」
彼は森の深淵を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「生き延びるために、本能が表に引きずり出される。それは決して、恥じるべきことではない」
清代姫は黙って聞いていたが、やがて不安を押し殺すように口を開いた。
「……安道成さまは、大丈夫でしょうか。妖に……遭っていないでしょうね」
正雪は、答える前に視線をそらす。誰にも気づかれぬよう、小さく息を吐いた。
――川守者は、きっと何かを知っている。あの言い回し……安道成が生きていることは、ほぼ間違いない。だが、それを今、清代姫に告げることはできなかった。
「……きっと、安道成さんは大丈夫だ」
そう言って、話題を切り替える。
「今は、黒衣の男たちの身分を確認しよう」
二人で、先ほどまで死闘が繰り広げられていた場所を見回す。だが、そこに倒れているはずの死体は――なかった。残されていたのは、地面に広がる黒い粘着状の液体と、脱ぎ捨てられたような黒衣だけだった。
清代姫は、息をのむ。
「……消えた、というのですか?」
正雪は液体の一部を指先で確かめ、眉をひそめる。
「術で作り上げられた擬体だろう。だが……」
彼は確信を込めて断じた。
「我ら霧獣法流を狙っているのは、間違いない」
胸の奥に、拭えない嫌な予感が広がっていく。
【仲間の危険】
他の同門たちは無事だろうか。幽世の門を追うよりも、まずは散り散りになった仲間を探すべきではないか。 正雪は思案を巡らせ、その懸念を隠さず清代姫に打ち明けた。
彼女はしばし考え込んだ後、静かに、だが凛とした声で言った。
「……わかりました。安道成さまを、既に百日以上待ち続けてきたのです。それが一日や二日増えたところで、今さら変わりはしません」
彼女は前を見据えた。
「まずは、正雪の仲間たちを探しましょう」
正雪は意外そうに目を見開いたが、すぐに小さく首を振った。
「いや……いいんだ。仲間がどこに飛ばされたかも分からない現状では、闇雲に動くのは得策じゃない」
彼は進むべき方角を指し示した。
「まずは、安道成さんのいるはずの方向へ向かおう。その道中で、仲間の手がかりが見つかる可能性も高い」
清代姫は少し驚いたように正雪を見つめたが、やがて深くうなずいた。
「……左様でございますね。貴方様に従います」
方針は決まった。 二人は歩みを再開する。傍らには、変わらずクルルが付き添っていた。
木々の合間を抜ける風が、彼女の衣と鳥の羽毛を静かに揺らす。やがて日が落ち、静かに夜が訪れようとしていた。




