第25話 清代姫と常盤橋
【半蛇の清代姫】
川守者は冷たく川面を指さした。
「ほら、見ろ。蛇になっているぞ。妖者め。日高川を渡せるものか」
その言葉に、正雪は一瞬、呼吸を忘れた。
清代姫の下半身は、いつの間にか淡い青緑の鱗に覆われ、長くしなやかな蛇の尾へと変じていた。水面に触れるたび、円紋のような霊波が静かに広がる。しかし当の本人は、それに気づいていない。ただ額を押さえ、苦しげに息を吐いていた。
「……頭が、痛い……」
その呟きとともに、彼女の意識は深く沈み、遠い日の光へと引き戻された。
あの日は、晴れていた。
春の風はやわらかく、桜の花びらを巻き上げ、ひとひらが清代姫の手のひらに舞い降りた。陽光に透ける花弁を見つめていると、静かな音が響いた。
――とん、とん。
扉を叩く音。父が応対に出る。
そこに立っていたのは、一人の若い旅の僧だった。
「熊野詣の途中にございます。道が長く、疲れ果ててしまい……一夜、宿を貸していただけませぬでしょうか」
僧の声は落ち着いており、目には濁りがなかった。父は一目で害意のなさを悟り、うなずいた。そしてその夜の世話を、清代姫に任せた。
僧は、優しかった。
言葉は穏やかで、振る舞いは丁寧。経の話をすれば静かに語り、清代姫の拙い問いにも、笑みを浮かべて答えた。
時には笑い話をして彼女を笑わせ、時には怪談を語って驚かせ、また時には旅先での緊張に満ちた体験を語って、彼女の心を強く掴み、そして優しく緩めた。
その姿を見つめるうち、清代姫は悟ってしまった。
――ああ、私は、この方に恋をしたのだ。
胸の奥が熱くなり、鼓動が速くなる。夜更け、彼女は勇気を振り絞り、想いを口にした。
僧は拒むことなく微笑み、首を縦に振った。
「私は僧。熊野詣の身です。数日しか、ここには泊まれません。だが……帰りには、また立ち寄りましょう」
その名を、安道成と言った。
安道成が泊まった数日間は、清代姫の人生で最も幸せな日々だった。一度も家の外へ出たことのなかった彼女にとって、彼の語る言葉こそが世界のすべてとなった。
「戻ったら……私も連れて、安道成さまと一緒に旅をさせましょう」
「ええ、約束しましょう」
その言葉を、彼女は信じた。疑う理由など、なかった。
それからの日々、清代姫は待ち続けた。一日一つ、愛しい人の姿を模した小さな人形を、祈るように作りながら。
十個を数えても、彼は戻らない。 ――何か、不測の事態でもあったのだろうか。
二十個を数えても、彼は戻らない。 ――病に伏せているのかもしれない。どうか、軽いものでありますように。
三十個を数えても、彼は戻らない。 ――近頃は妖が出ると聞く。けれど、あのお方の徳ならば、きっと守られているはず。
五十個を数えても、彼は戻らない。 ――私のことなど、忘れてしまったのか。……いや、あのお方が嘘を吐くはずがない。
そして――百個目の人形を作り終えた日。 胸の奥に、すとんと冷たい塊が落ちた。
――なぜ、戻らぬ。
それでも、待つことをやめられなかった。膨れ上がった不安は疑念へと、疑念は怒りへと、そして怒りは逃げられぬ執念へと姿を変えた。
気づけば、家を飛び出し、山を越え、森を抜け、ただ愛しい男が向かったはずの方角へと、狂ったように駆け出した。
飲まず、食わず、走り続けて――。
そして、意識は闇に沈んだ。
「……あ」
現在へ戻った清代姫は、震える目で自分の身体を見下ろした。蛇の尾が、水辺に横たわっている。
「私……は……」
川守者は吐き捨てるように言い放った。
「情欲に溺れ、人の理を捨てた者の末路だ」
だが正雪は、一歩前へ踏み出し、それを遮った。
「違う」
川守の鋭い視線を真っ向から受け止め、正雪は叫ぶ。
「彼女はただ、約束を信じ抜いただけだ! 信じる心の、どこに非があるというのだ!」
「信じる心が悪くないことは知っている」
川守者は低く唸った。
「だが、妖に堕ちたものは、もはや妖なのだ。秩序を乱す妖は、討たねばならぬ」
そのとき、河童の壺の中から、貝の妖・梨花の怒りの声が響いた。
「妖だというだけで罪だと? どこの理だ! 罪は行いによって裁かれるものだ。人であろうと妖であろうと同じだ。姿形だけで断罪するなど、ただの理不尽だ!」
清代姫の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。 それは激しい怒りでも、煮え繰り返るような憎しみでもない。
ただ――信じ続けた心が、砕ける音だった。
日高川の流れが、わずかに揺らいだ。
その揺らぎは、川そのものが「理」を問われている証のようだった。
【川守者の情】
清代姫は、異形と化した蛇の尾を折り曲げ、人の膝をつくようにその場に崩れ落ちた。溢れ出す涙を堪えることもせず、震える声を絞り出し、川面へと訴えかける。
「川守者よ……どうかお願いします。この川を渡らせてください」
揺れる水面に、こぼれた涙が落ち、淡い輪紋が静かに広がる。
「安道成さまが……生きておられるのか。ただ、それだけを確かめたいのです」
川守者は無言のまま彼女を見下ろしていた。その視線は冷たく、情を拒む“川の理”そのものだった。
「生きていたなら、どうするつもりだ」
低く、試すような声が落ちる。
清代姫は唇を震わせながらも、はっきりと答えを紡いだ。
「彼の……心の本音を聞きたいのです」
短い沈黙。
「もし断られたなら、私は静かに立ち去ります。恨みも抱きません。決して、悪しきことはいたしません」
蛇の尾がかすかに震えたが、その声には怒りも怨嗟もなかった。あったのは、ただ確かめたいという切実な願いのみだった。
川守者は長い沈黙ののち、深く息を吐いた。
「……哀れな女よ」
その声には、理を司る者の諦念と、わずかな人間味が滲んでいた。
「恋とは、人の目を奪い、理を曇らせ、心を縛るものだ」
川面が静かに揺れ、流れが緩やかに変わっていく。
「よい。渡るがいい」
清代姫は顔を上げた。
「ただし――決して悪しきを行うな。約束を破れば、即座に天罰が下ると思え」
彼女は深く頭を垂れた。
「はい……必ず」
【常盤橋】
川守者は次に正雪へと視線を向ける。
「人の因果に介入した罰として、お前が、その顛末を見届け、見張れ」
正雪は一瞬驚いたが、すぐにうなずいた。
「分かりました。約束します」
川守者は正雪をじっと見つめる。
「……名は」
「常盤正雪です」
「常盤、か」
その名を口の中で転がすように呟くと、川守者は川面へ手を差し伸べた。
次の瞬間――
日高川の流れが音もなく割れた。
水が左右へ退き、霊光が地上を走る。霧の奥から、古びた石橋がゆっくりと姿を現した。苔むした欄干、刻まれた符文。橋の中央には「常盤」と読める古い文字が淡く輝いている。
「渡れ」
その声が霧に溶けた。
正雪は清代姫の傍らに歩み寄った。半ば蛇となったその身は、もはや人の歩みに慣れてはいない。正雪はためらいなく彼女の腕を支えた。子鳥のクルルは、蛇の姿となった姫に怯えつつも、正雪の側へ寄り添う。
「ゆっくりでいい」
清代姫は小さくうなずいた。
二人と一羽の子鳥は並んで、日高川に架かる――常盤橋を渡り始めた。
橋の下では水が再び流れ出していた。しかしその音は穏やかで、まるで彼女の決意を見届けるかのようだった。
橋の中央で、清代姫は一度だけ振り返る。
川守者はすでに水と同化し、その姿を失いつつあった。
「……ありがとうございます」
その声が届いたかどうかは、誰にも分からない。
正雪は前を見据えた。
この橋の先にこそ、答えがある。救いか、断絶か、あるいはさらなる因果か。
だが彼は知っていた。この一歩は、清代姫の魂を救うためだけではない。己自身の「道」を切り拓くための、避けては通れぬ修行なのだと。
霧の向こうで、対岸の大地が静かに二人を待っていた。




