第24話 熊野渡・日高川
【熊野渡・幽世門探索】
熊野三峯のさらに奥、地図にも名を記されぬ霊域。そこを人は、熊野渡と呼ぶ。
この地には、幽世と現世を繋ぐ「幽世の門」が現れたという。それは妖や怪獣、悪魔たちが現世へ溢れ出す源にほかならなかった。正雪たちに課された任務は、その門の所在を突き止め、封じることにあった。
しかし熊野渡は、古来より伝説の仙人によって強固な結界が張られており、その結界の中はまるで異世界のようであった。
正雪たちが、その結界に足を踏み入れた瞬間、牙が剥かれた。
霞のような境界を越えた刹那――世界が反転した。
空間が歪み、地が裏返り、任務参加者たちはそれぞれ見知らぬ地点へと強制的に転送され、散り散りになっていた。
揚羽紗綾の視界いっぱいに、黒々とした霊峰が聳え立つ。山は生き物のように脈打ち、岩肌から妖気が滲み出していた。
祀花の前には、古木ほどもある巨大な熊が現れ、金色の眼で彼女を見下ろしている。
早波川兄妹は珍しく同じ場所に転送されたが、着地地点は木の上。枝が悲鳴を上げる中、二人は辛うじて落下を免れた。
そして正雪――
「……まずい」
視界の半分が水だった。否、身体が完全に川に沈んでいる。
熊野渡を貫く大河の中央。流れは荒く、霊力を帯びた水が渦を巻く。重い装束が身体を引きずり、息が詰まった。
だが次の瞬間。
「――吸え」
低く澄んだ声と共に、背負っていた河童の壺が輝いた。仙蛙・翠夏が術式を発動する。
壺の口が大きく開き、川水を一瞬で吸い上げた。轟音が止み、流れが断ち切られ、川床が露わになる。
正雪は水を吐き、子鳥のクルルを胸に抱いて岸へと這い上がった。小さく震えるクルルの羽を撫で、正雪は焚火を起こし、濡れた服を替える。
「……初手からこれか」
今回、熊野渡に投入されたのは、試合で優勝、あるいは上位成績を収めた者たちだった。だが正雪の胸には、どうしても引っかかるものがある。
――霧獣法流の参加者が、全員選ばれていることだ。
確かに彼らは二試合以上勝ち抜いている。だが、これほどの好成績を残した例は、今まで一度もなかった。
選ばれたのではない。揃えられた――その感覚が、拭えない。
「罠……か」
正雪は熊野三峯より授かった方位盤を取り出した。盤面は古びているが、刻まれた紋様はいまも脈動している。
中央に、淡く輝く青い点。
幽世の門の方角を示す印だという。しかし点は遠い。盤の縁近くにあり、その距離の長さを物語っていた。
さらに、青い点の周囲には微細な揺らぎが走っている。幽世側から、妖気が流れ込んでいる証だ。
森の奥から、獣の唸り声。空気が歪み、影が蠢く。
正雪は壺の紐を締め直し、翠夏と梨花の気配を確かめる。クルルは傍に止まり、静かに鳴いた。
「行くぞ」
熊野渡は、ただの霊地ではない。生と死、現世と幽世の境界。門を求める旅は、そのまま己の心を試される道でもあった。
正雪は一歩を踏み出した。青い点の示す先へ。
その霧の奥で、幽世の門が、静かに目を開こうとしていることを――いまの正雪は、まだ知らなかった。
【日高川、約束の岸】
清代姫は、冷たい地面の感触で目を覚ました。湿った苔の匂い。木々の隙間から差し込む薄い光。――ここがどこなのか、分からない。
「……安道成さま!」
声は森に吸い込まれるように消え、返事はなかった。
なぜ、自分がここにいるのだろうか。思い出そうとすると、胸の奥が痛む。
約束していたのだ。迎えに来ると、安道成さまは言った。熊野へ向かう前、確かにそう言った。清代姫は信じ、家を出ず、門の前で待ち続けた。
一日。
二日。
やがて、季節がひとつ巡っても、彼の姿は現れなかった。
事故か。病か。不安と心配が、心を食い尽くす。
――探しに行く。
そう決めた瞬間から、清代姫は走った。安道成が去った方向へ。山を越え、森を抜け、昼も夜も分からぬほど走り続けた。
水を飲むことも忘れ、食を口にすることさえ忘れ、ただ走った。身体は悲鳴を上げていたが、足だけは止まらなかった。
そして――ある瞬間、視界が暗転した。
そこから先の記憶は、ない。
今、清代姫の目の前には、大きな川があった。幅広く、流れは深く、底は見えない。
「……日高川?」
噂に聞いた名が、自然と口をついた。熊野へ至る者が、必ず越えねばならぬ川。
清代姫は、ふらつく身体で川辺まで這い寄った。渡れば、安道成さまに会える。なぜか、そう信じて疑わなかった。
だが、足は動かない。立ち上がる力すら、残っていなかった。
全身を支配しているのは疲労だけではない。走り続けた身体に刻まれた痛みが、骨の奥にまで染み込んでいる。
――そのとき。
「……ん?」
別の足音が近づいた。
【川守者】
正雪は、手にした方位盤を見下ろしながら歩いていた。盤面の青い点は、確実にこちらを導いている。幽世の門へ至る道標。
足下の感触が、不意に変わった。
「……?」
ぐにり、と何か柔らかいものを踏んだ。
「きゃああああっ!!」
鋭い悲鳴が、空気を震わせた。
「ごめんなさい! すみません! 本当に申し訳ない!」
正雪は慌てて飛び退いた。足元にいたのは、倒れ込むように横たわった一人の少女――否、若い女だった。
「大丈夫ですか!?」
返事はなく、女は荒い息を吐くだけだった。
正雪は荷を下ろし、水筒を差し出そうとして、思い直した。代わりに、腰の袋から握り飯を一つ取り出し、そっと差し出す。
「……食べられますか」
女は一瞬、警戒するように見たが、やがて震える手で受け取った。涙をこぼしながら、貪るように口に運ぶ。
少し落ち着いたところで、正雪は名を尋ねた。
「清代姫……です」
彼女はそう名乗り、途切れ途切れに語り始めた。
安道成という僧のこと。迎えに来るという約束。待ち続けた日々。心配と不安。探し、走り、倒れたこと。
正雪は黙って聞いていた。胸の奥に、言葉にできぬ感情が広がっていく。
「……川を渡りたいのです」
清代姫は、日高川を見つめた。
「向こうに、安道成さまがいる気がして」
正雪はうなずいた。
「分かりました。一緒に渡りましょう」
彼は川へと歩み出し、避水訣を低く詠じた。水を避け、霊力で身体を浮かせる術だ。
だが――
足先が水に触れた瞬間、術式が霧散した。
「……霊気が、吸われる?」
日高川は、ただ流れる川ではない。周囲の霊気を飲み込み、術を拒む性質を持っていた。
正雪は眉をひそめ、背負っていた河童の壺を下ろした。
「これなら……」
壺の蓋を開けた、その瞬間。
「――やめろ」
川面が揺らぎ、人影が立ち上がった。水と同化したかのような存在――川守者。
「先ほどは、命を救うためであったゆえ、見逃した。だが今回は違う」
川守者の声は冷たかった。
「川を渡るために水を奪うことは、許されぬ」
「……理不尽だな」
正雪は静かに言った。
「救命なら許すが、渡河は許さない。基準は何だ?」
「それが、我の定めた理だ」
川守者の目が、鋭く光る。
正雪は、清代姫を背後に庇った。
「なら――力で通す」
河童の壺が唸りを上げ、霊水が渦を巻く。川守者もまた、水流を刃のように尖らせた。
日高川の中央で、二つの力が激突しようとしていた。
その背後で、清代姫は気づいていなかった。自らの影が、ゆっくりと蛇の形を帯び始めていることに。
約束を信じた心が、怒りと執念へ変わりつつあることを――。
川は、今日も静かに流れていた。




