第15話 三重海
【三重海】
三重海――古よりそう呼ばれてきたその海域は、三つの層を持つと言われてきた。
第一重は、凡人でも舟を浮かべられるほど穏やかな浅海。陽光が射し、魚群が戯れ、潮風は清らか。人々はここを安全な海として恐れず、島と島を渡るために利用する。
第二重は一転、陰りを帯びる。海妖、海獣が蠢き、修仙者でなければ命を繋げぬ危険の領域。霊気が濃く、海水そのものが意志を宿したかのように重い。
そして第三重――巨大な禁忌の王、大あわびが棲む場所。古伝には、「怒りに触れれば嵐が起き、雷が走り、舟は骨ごと沈む」と記される。もはや海ではなく、ひとつの異界。
正雪がこの海へ至るまで、半月を要した。今、彼が立つのは三重海の孤島――日賀島。宗門「霧獣法流」が拠点として設けた修練・討伐の前線地である。
彼の今回の任務は―― 参階海獣・長角魚鱗獣を捕獲すること。
同行者は二人。冷静沈着で仲間思いの朔夜、その妹で快活な朔月であった。
「いいか正雪、長角魚鱗獣は参階。油断すれば噛み砕かれる。」朔夜の声は低い。
「参階の海獣は智慧が生じ、戦術を理解する。その特有の長い角が鋭く、何より動きが速い。正面から衝突すれば、勝ち目がない。実戦が少ない者には厄介な相手だ。」
「お兄ちゃん、驚かないで。こっち、三人いるし、策どおりに動けば、楽勝じゃないか。」
朔月は笑いながら言う。
「甘く見るな。」朔夜は眉を寄せた。
「朔夜さんの言う通りだ。慎重に越したことはない。」正雪もまた、淡々と応じる。
「はいはい、わかったよ。二人とも真面目なんだから。」朔月は肩をすくめ、三人は思わず笑い合った。
「そういえば正雪、お前あの死にかけた戦いのせいで、弐階に突破したんだってな。極限の状態で昇階する噂は聞くが、実際に見たのは初めてだ。」
「そうよそうよ。私も昇階したいけど、極限の状態での昇階は遠慮したわ。」朔月が頬を膨らませる。
「望んだわけではないよ......。」
他愛もない雑談は、緊張をほどよくほぐしていった。
三人の作戦は単純。長角魚鱗獣の好物――朧月藤果を餌にし、囲い法陣に誘い込み捕獲すること。だが、果実は未成熟で、収穫まであと半月かかるという。
法陣を設置した三人は、しばらく待ちの体勢に入った。
【潮鳴法螺を求めて】
待ちの間、正雪には別の目的があった。
――潮鳴法螺貝の入手。
貝の妖・梨花によれば、潮鳴法螺には個体の差が大きく、上位品は海の深層に眠るという。
「第一重にもあるが質が悪い。良品は第二重。だが、絶対に第三重には近づくな。」
梨花は壺の中で震える声を出した。
「そうだ。第三重は“大あわび”の領域だ。お前のような修為じゃ塵か餌かのどっちかだ。」
翠夏が呆れた口調で続けた。
「分かってる……慎重に潜る。」正雪は静かに答え、海へ身を沈めた。
第一重の静けさを抜け、第二重へ進む。
そこは――圧が違った。
海水が霊気を帯び、重く、意志を持つかのようだ。光る魚影、岩の甲冑を纏った蟹妖、深緑色の海藻――どれも異界の生物のようだった。
やがて――梨花が叫んだ。
「ここよ!この先に強い霊波動がある!」
「待て、正雪。嫌な気配だ。」壺の中の翠夏が警告する。「戻るなら今だぞ。」
「……いや。行く。」
正雪は珊瑚の洞窟に潜り、ついに海草の裏にそれを見つけた。
巨大な潮鳴法螺。
黄金の艶、赤と白の波紋様。脈動する霊力は海の鼓動そのものだった。
「よし、これだ……!」
両手で掴むが、岩に吸着してびくともしない。正雪は歯を食いしめ、霊気を全身に巡らせ、腕を震わせる。
「……抜けろッ!」
岩が砕け、潮鳴法螺貝が外れた――その瞬間。
影が走った。――シュッ!
【海霊蛇】
「海霊蛇ッ!?」
無数の黒い蛇が牙をむき、水を裂いて迫る。正雪は即座に潮鳴法螺貝を壺へ放り込み、刀を抜いた。
斬る。一匹、また一匹。
だが――切っても切っても湧いてくる。
青い紋様が黒い体表に光り、牙が霊気を溶かす毒を帯びている。一匹、一匹だと強くないが、数が多い。すべて切り落とすのは不可能だ。
「くそっ……多すぎる!!」
「退け!正雪ッ!!」翠夏の叫び。
「分かってる!」正雪は後退しながら斬り続けた。
切られた海霊蛇がすぐにほかの仲間に食われ、海はどんどん赤く染まっていく。海霊蛇が仲間の死体を奪う一瞬のみ追跡の動きが止まるが、それでもすごい速さで、正雪を追いかけてくる。
海の中にまるで、血の道ができているように見えた。
「潮鳴法螺貝を追いかけているに違いない。法螺貝を捨てたらどうか。」翠夏がいう。
「ダメだ。俺は何とかなる。」正雪は歯を食いしばって言う。
「梨花、あなたは海の生物だ。何とか方法がないか。」
「方法があるけど、海を怒らせるかもしれない。」梨花が答える。
「すぐやれ。とりあえず今の状況から脱出しないと今後の話は無駄だ。」正雪が決断した。
「わかった。」梨花は、潮鳴法螺貝を手にして、貝肉を殻から引っ張り出した。
海霊蛇は、迫ってくる。ついに正雪を包囲し、逃げ道を塞いだ。
そのとき――
――ボォォオ――……
潮鳴法螺の、深く澄んだ音色が響いた。梨花だ。梨花は潮鳴法螺を吹いた。
海霊蛇たちが混乱し、道が開く。
「今だ……!」
正雪は第二層から第一層へ出ようとした――
【第三重 ― 眠れる王】
突然、海が震えた。
潮流が逆巻き、海底が呻き声をあげる。
第三重――その奥底から、吸い込むような巨大な力が現れた。
「まずいッ――引き戻される……!?」
正雪は必死に水をかき分けるが、身体は深く、深く――第三重へ落ちていく。
圧力が骨を軋ませる。霊脈が悲鳴を上げる。
深闇の中――巨大な影が動いた。
殻。否、山。
螺旋模様が稲妻に照らされ一瞬浮かぶ。
――大あわび。
古伝の存在。海の王。
その殻の片側がゆっくりと開き、闇のような眼が正雪を映す。
声ではない。海そのものの振動が語る。
「我ノ眠リヲ破リ、我が子ヲ奪ウ者。其ノ命――海ニ返セ。」
世界が震えた。海流が竜巻となり、正雪を呑み込む。呼吸は潰れ、視界が暗くなる。
――終わりか。




