第14話 潮鳴の法螺
【生きてよかった」
正雪が再び意識を取り戻したとき、まず感じたのは、まるで鉛を呑み込んだかのような全身の重さだった。鼻腔には、苦みのある濃密な薬草の匂いが充満し、空気そのものが粘りついているように思える。皮膚の一枚一枚が焼けつくように疼き、わずかに身じろぎするだけで、内側から激しい痛みが走った。
「壺は……」
指一本動かぬまま、視線だけを横に滑らせる。簡素な木机の上に、見慣れた古びた小さな壺が鎮座していた。それを目にした瞬間、正雪は浅く息を吐いた。
(良かった。無事だ……)
安堵が胸を満たすと同時に、深い疲労が新たに押し寄せた。見慣れた梁と天井の木目が視界に入り、ここが自分の部屋であることを悟る。どうやってここに戻ったのか――その記憶は霞の向こう側だった。
正雪は、まだ朦朧とする頭で、あの日の出来事を必死にたどり始めた。
あれは、生死の境をさまよう壮絶な戦いだった。敵の弓使いが刀を振り下ろした瞬間、体内の霊力は完全に枯れ果てていた。避けられない。死が迫っていた。
本能が最後に選んだのは、宝珠「潮音珠」だった。制御の限界を超え、核にある純粋な霊力を直接引き出そうとしたその刹那――
胸の内側で、何かが裂けるような音がした。
続いて、膨大な霊力が奔流となって身体を貫き、そのまま一気に外へと噴き出した。五感が光に呑まれ、意識が途絶える直前――正雪は、確かに見たのだ。
天より降り立ったかのような、白く輝く女の姿を。
常世の国に住む天女の伝承そのままに、月光を透かす白い肌、流れるような黒髪。人の理を超えた美しさがそこにあった。それは一瞬の幻影であったはずなのに、魂に刻みつけられるほど鮮烈だった。
――あれは夢だったのか。それとも……。
身を起こそうとした瞬間、左腕に激痛が走り、正雪は思わず呻いた。
「目が覚めたのか。よかった」
静かに扉が開き、早波川朔夜が盆を手に入ってきた。どこかほっとしたような表情を浮かべている。
「朔夜……助けてくれたのか。ありがとう」
「いや、運んだだけだよ。あとは君の生命力だ。すぐ医者も呼んだ。霊力爆発で筋組織はひどく損傷していたが、後遺症は残らないらしい。ひと月もすれば元どおりだ」
朔夜は盆を机に置くと、正雪の背に枕を差し入れ、姿勢を整えてくれた。
「紗綾さんは? 無事なのか」
「紗綾さんも大丈夫だ。彼女も重傷を負ったが、命に別状はない。敵の二人についてだが、一人は爆発で弓しか残っていなかった。もう一人は身体が原形を留めぬほど損壊していた。身元を示す物は何も所持していなかった。どうやら組織の者ではないらしい」
淡々と説明する朔夜をよそに、正雪の心は別の一点に縛られていた。
「あの時……長い黒髪の女を見たんだ。天女のように美しい少女で――」
言うと、朔夜は眉をひそめ、すぐに怪しい笑みを浮かべた。
「こんな大怪我で、最初に話すのが女のことか。意外だな。もっと色気とは無縁な奴だと思っていた」
「違う! 本当に見たんだ……」
「見たさ。女仙が七彩の虹に乗り、空へ舞い上がって常世へ帰っていくのをな」
朔夜は芝居がかった動作で言ってみせる。
「嘘つけ。夜だぞ。虹なんか出るか」
「嘘だよ。君と紗綾さん以外、誰もそんなのは見ていない」
「……そうか」
正雪は、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。
やはり死の間際の幻影だったのか――。
【弐階から参階へ】
月がふたたび円を描く頃、正雪の身体はすでに完全に回復していた。失われた霊力もゆるやかに満ち、以前よりも遥かに強靭で、澄んだ気の通る肉体へと変わっていた。しかしその反面、ひとつだけ決定的な異変に気づく。
――体内に宿っていたはずの霊宝、潮音珠の気配が、どこにもない。
毎夜、月光の下で淡く脈動していたはずのあの光は、どれほど意識を研ぎ澄ませても、かすかな波紋すら感じられない。
……あの暴走の瞬間、潮音珠は肉体の奥深くへと吸収されたのだろうか。
確証はない。だが、身体の内側はこれまでになく透き通っていた。雑念の澱は消え、丹田には柔らかな光が静かにたゆたっている。
――弐階、中伝。
修羅場を生き延びた正雪は、確かに壱階から弐階の中伝へと昇進していた。それは疑いようのない事実であった。
修仙の道において、壱階から弐階への突破は、肉体そのものを変革し、霊力の器を鍛える「体作り」の段階だ。潮音珠がもたらした純粋な霊力は、正雪の肉体と経絡を清め、限界をはるかに越えて引き上げてくれた。その結果としての昇進だった。
しかし、参階に至る道は、弐階とは比べものにならないほど険しい。
壱階から弐階へは、潮音珠という外物の恩恵があった。だが参階を越えるには、一切の外物に頼れない。
内なる霊を凝縮し、丹田に自らの霊力の核――「内丹」を築かなければならない。
内丹の形成とは、修仙者が真に“己という宇宙”を形づくり始める第一歩である。外からの霊力を蓄えるだけでなく、自らの内側から霊力が生まれ続ける存在へと変わる。それは修仙における最も根源的な進化であり、魂の構造そのものを変える過程といってよかった。
ゆえに、その難度は桁外れに高い。多くの修行者がこの壁を越えられず、生涯弐階に留まるといわれている。
正雪は、自分の中に宿った静かな光を感じながら、深く息を吐いた。――参階。そこに至る道は遠く険しい。
【潮鳴法螺】
「正雪、大変だ! 阿古屋貝と魚が大量に死んでいる!」
壺の中から、貝の妖・梨花が焦りの声で叫び、正雪は思索から現実へ引き戻された。
正雪は回復後すぐに、翠夏と梨花にあの日の状況を聞き取っていた。二人の証言は朔夜と同じだった。霊力爆発の直後、強烈な光がすべてを覆い、壺の内側は完全に遮断され、二人は何も知ることができなかったという。
そして、その激戦の日から、阿古屋貝と魚が徐々に死に始めたのだ。
「潮音珠をなくしたせいか。霊力の不足かもしれない。」正雪は考えを巡らせた。
「正雪、やはり潮波だ。」
翠夏が冷静に状況を分析した。彼らは水界の生命であり、水気の変化には敏感だ。
「壺の中には、今、波がない。水気の巡りが完全に止まっている。そのため、水が淀み、酸素不足が深刻化している。」
梨花は膝をつき、嗚咽を漏らしていた。「このままでは、皆、死んでしまう……」
蛙の翠夏も、不安げに覗き込みながら言った。
「壺の中の水を動かす波。潮音珠があったときは霊力の波が自然に生まれていたけど、今は何もない」
「そうだ!」
梨花が突如、顔を上げ、何かを思い出したように叫んだ。その瞳には、一筋の光が灯っていた。「潮鳴法螺だ!霊宝ーー潮鳴法螺!」
梨花は興奮気味に言った。
「潮鳴法螺は『波』を生み出し、水界の万物を循環させる霊宝だ!潮音珠を失った今、水界を救うには、その潮鳴法螺を見つけるしかない!」
正雪は立ち上がった。壺の中の水界を救うために、正雪は新たな旅に出ることを決意した。




