タクシードライバー
「北の果てまで」
六時ごろの客だった。若い女のその客は、行き先を一言私にそう告げた。
「お金はあるの」
手に持った封筒から札束を取り出す。
「それで行けるところまで行って」
そう言うと窓の外を眺めて黙ってしまった。私は仕方ないのでタクシーを走らせた。
私はおおいに戸惑った。怪しい客である。
「北ってどのあたりへ行けばよろしいんですか?」
「行けるところまでならどこまでも。宗谷岬まで行ってもいいですよ」
女は投げ遣りに告げた。そう言われても困る。乗車拒否でもすればよかったか。しかし今更である。タクシーは走り出しメーターは回転を始めていた。流れる街の明かりの景色の端に高速入口の標識を認める。会話の途絶えを恐れた私はとりあえず聞いてみる。
「高速には乗ります?」
「下でいいわ」
理由を訊く前に女は続けた。
「信号があると止まったり進んだりするじゃない? そんな感じが好きなの」
「はぁ……」
そう言われれば従うしかない。
「と、話しているそばから赤信号」
「おおっと」
ブレーキ。
交差点で止まった。前の道路を車がライトを引きながら左右に流れていく。
「このね、ちょっと焦らされるところがいいのよ」
「そんなものですか」
冷えた空気が両側の窓を曇らせている。明かりの滲んだ景色。ヒーターの音。
「私はガーと一気に行くのがいいですけどね」
行き交う車は絶え間ない。
「やっぱ走ってるとき、気分の流れみたいなものがあるじゃないですか。それが途切れるみたいであまり好きにはなれませんね、私は」
客はうなずきながら言った。
「でもタクシーってそれで儲けているところもあるんでしょう?」
「そう言われないために、私たちもいろいろと努力はしているんですがね」
「それは失礼」
車の流れが途絶えた。
「お、青だ」
再び動き出す。
「では高速沿いを北へ行きますね」
「ええ、よろしく」
そういうことになった。
しかしどうにも怪しい客である。
変わった客で服装はセーターにジーパン。そこに薄手のコート。着の身着のままという感じの軽装で、旅行カバンどころかハンドバッグすら持っていない。しかし札束は持っている。
ヤクザの女が金を盗んで逃げてきた。
私の頭にそんな想像が浮かぶ。
もしくはお金はもう必要なくて、行く当てもなく北へ。そして冷たい北の海に……。
夜景を眺める横顔。
屈託。
何にしろ面倒は嫌である。
「ねぇ」
女はバックミラー越しに私の顔を見ていた。
「何も訊かないのね」
その目を見る。
「夜に若い女性が大金を持ってタクシーで北の果てへ向かう。訊きたいことがいっぱいあると思いません?」
女は薄い微笑を湛えている。
「……訊いていいんですか?」
「どうぞ」
恐怖心と好奇心のせめぎ合い。
私は恐る恐る訊ねた。
「何かあったんですか?」
「いろいろあったの」
沈黙。
車の走る音。
女は窓の外に目を移した。
「こういうことをしてみたくなる気分になったの」
「はぁ……」
何の答えにもなっていない。
「怒りました?」
「あ、や、そんなことは……」
「このお金、別に危ないお金じゃないですよ」
コートのポケットから札束の入った封筒をちらつかす。
「このお金はちゃんとした理由で私のところにある、けがれを知らないキレイなお金。こんな客まさにカモネギでしょう」
「うまい話には裏があるとも言いますから」
「はは、そうね」
女は笑った。私は裏のない話であることを願った。
渋滞。
再び沈黙。
「ところでお名前は?」
「知りたい?」
女の微笑。
「ハナコ」
「ハナコさん?」
若いに似ずなんともベタな名前だ。親はもう少し考えなかったのだろうかと思っていると、
「嘘」
面を食らった。女は歯を見せて笑った。からかわれているらしい。
「怒りました?」
「……いえ」
微笑む。
「いい人ですね」
「そうですか?」
うなずく。
「きっとそうでしょう。……ごめんなさいね。今は嘘の名前を使いたい気分なの。だから……そうですね、私を名前で呼びたいときは、好きな名前で呼んでくれて結構ですよ。好きな女優とか、昔の彼女とか……」
そう言われたらそうするしかないので、私は彼女をシズと呼ぶことにした。
「シズさんと言うんですか? 昔の恋人は」
「死んでしまった恋人です」
「まぁ」
「小学生のときの恋人ですよ。私が生まれたときから家にいましてね。いつも庭で跳ね回っていて、彼女の家で一緒に寝たこともある」
「それって……もしかしてその恋人の家は庭先におありとか?」
「そう、彼女は可愛い犬でした」
シズさんということになった女は笑った。
「それは大事な名前をいただきましたね。ありがとうございます。瀬崎さん」
シズさんは運転席のシートの後ろに書いてあるネームプレートを見て言った。
「はい。大事にしてください」
「瀬崎亮介さんですか。何かずるいですね。私は瀬崎さんの名前を知っているのにこちらは明かさないなんて。……何か呼んでもらいたい名前はありますか?」
「そうですね。亮ちゃんとかどうでしょう?」
「いいですね」
なんとなく調子の合わせ方がわかってきた。
まあ、なるようになるさ。
前の車が動き出した。
アクセルを軽く踏んだ。
どれほど走ったか、時計の針は十二時を指していた。
タクシーは幹線道路沿いにある深夜営業のラーメン屋に止まった。
かなり遅い夕飯となる。
私は醤油ラーメン。シズさんは味噌ラーメン。
そこのラーメンはやけにもやしが多かった。もやしを除去しないと麺にたどりつけない構造になっている。
シズさんはせっせともやしを食べながら私に言った。
「喜多方ラーメンって有名らしいですね」
「そうなんですか? ラーメンにはうといもので」
「私もよく知りませんけど」
店長が割って入った。
「有名だよ。麺がね、特徴あるんだよ」
太くてコシのあるちぢれ麺だ。スープがよくからむ。
「うん。おいしい」
「当然さね」
ラーメンをすする音。
「お客さんはここらじゃ見ないタクシーだけど、どこから来たの?」
店長が訊いた。
「東京から」
「東京! タクシーで?」
「そう」
店長はへぇへぇとしきりにうなずいて、やたらと驚いた様子だった。
「お手洗いはどちらですか?」
「あっちだよ」
私と店長が話し込んでいる間に、シズさんはそうそうにラーメンを食べ終わっていた。
「行ってきますね、亮ちゃん」
「はい、ごゆっくり」
シズさんが手洗いに消えると、店長が首を伸ばしてきた。
「おたくら、どんな関係だい?」
「客と運転手だよ」
「リョウちゃんだって」
「軽いお遊びですよ」
店長はどうやら好奇心が旺盛らしく、いろいろと訊いてくる。
「服装もさ」
「でもお金は持っているんですよ」
「傷心旅行とか」
「それにしては余裕があるんですよね」
結局ここに落ち着いた。
「怪しいね」
「そう思います」
水の流れる音。シズさんが手洗いから出てきた。
慌てて店長は首を引く。
「あら、内緒話ですか?」
席に戻る。
「何を話していたんです?」
「内緒です」
「あら冷たい。でも私に内緒ということは私の話なのでしょう?」
「そこは内緒話ですから」
「ふふ。おじさん二人で楽しいわね」
会計となった。シズさんが訊く。
「おごりましょうか?」
「カモのネギがありますから」
「なるほど」
外の風は冷たかった。
駐車場には一本の外灯。その下に一台きりのタクシーに向かう。
ドアの鍵を開けていると、シズさんは少し離れた場所で空を見ていた。
月。
このあたりまで来ると空気もきれいで、星もたくさん見える。
月はいくらか欠けていた。
「いい月ですね」
「ええ、いい月」
シズさんはしばらくその月を眺めていたので、私も一緒に眺めた。
悪くない。
なかなかいい気分になった。こんな遠くまで来たのはいつ以来だろう。しばらく忙しかったので、月を見上げることもあまりなかった。
月はぼんやりしている。
「月は久しぶりに見ましたね」
「きれいですね」
そうシズさんは言うと、まだしばらく夜空を眺めていた。
息が白い。
薄手のコートでは寒いのか、シズさんは自分の肩を抱いた。
「寒くないですか」
シズさんに近づく。
「上着、使います?」
それには答えず、シズさんは私に振り向いて訊いた。
「夜通しの運転は大変ですか?」
「まあ、そりゃそうですが、多少仮眠でもさせていただければ、どうということはないですけど」
シズさんはうなずく。
「それじゃあ、今夜はどこかに泊まりましょう」
「え?」
そう言うと、シズさんはタクシーに乗り込んでしまった。
泊まるのか?
「そういうわけで、帰るのは明日以降というわけで……うん? だから北の果てだって。大丈夫だよ。怪しいけど、怖くはないから。……うん。また電話するよ。悪いね起こして。じゃあ、早く寝ろよ、おやすみ」
電話を切る。携帯の画面は待受画面となった。
一息。
妙なことになってしまった。
私は窓際のテーブルでタバコをくゆらせながらそう思った。
まあ、もともとがかなり妙な話であったのだから、それがさらに妙になってもたいした問題ではない気もする。
しかしやはり妙なことになってしまった。
相部屋である。
扉の開く音。
「あら、そちらの方が早かったですか」
浴衣を湯気が包む。
「なかなか、いいお湯でしたね」
前を通る。風呂上りのシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
「一杯いかがですか?」
シズさんは四本の缶ビールを抱えていた。
宿はすぐに見つかった。
しかし空き部屋はひとつしかないという。
私は別の宿を探そうとしたが、シズさんは遮った。
「いいじゃないですか。相部屋で」
そういう次第である。
タバコの煙の向こうにシズさんの顔がある。
「ビールはお嫌いでしたか?」
「……そのですね」
「なにか?」
「同じ部屋と言うのは何かと問題では?」
「仕方ないじゃないですか、一部屋しか空いていなかったんですから」
私の前に缶ビールが置かれた。
冷たい光沢にうっすらと汗。
「亮ちゃんは結婚なさっているんですか?」
不意に訊かれた。灰皿にタバコを置く。
「昔は」
「離婚ですか?」
「死別です」
シズさんは少し目を開いた。
「だいぶ前の話ですがね」
「お子さんは?」
「娘が一人」
私は携帯電話を取り上げる。
「さっき電話してました」
「おいくつですか?」
「十八です」
「へぇ、以外ですね」
「なにがです?」
「もっと若いと思っていました」
「私、四十四です。確かに若いとはよく言われますね」
「若いです」
「ありがとうございます」
「奥さんはいつ?」
「十八年前です」
シズさんが息を飲む。
「……大変でしたでしょう」
うなずく。
「いろいろありましたけれど、今はいい思い出です。苦労も越えれば楽しいものですよ」
シズさんはじっと私を見ていた。
私は缶ビールのプルコックを起こす。
泡の弾ける音。
シズさんも缶ビールを開けた。
泡の弾ける音。
一口。
ビールから口を離す。
「それじゃあ、亮ちゃんは立派なお父さんなんですね」
「そうでもないですよ。娘に怒られてばかりだ」
タバコを手に戻す。娘の顔がタバコの煙の中に浮かんだ。タバコをやめろと何度も言われているが、隙を探して吸うのを高校生みたいに楽しんでいる私は悪いお父さんである。
自然と笑みがこぼれた。
「……いい娘さんみたいですね」
「ええ。親バカですがね」
シズさんも笑みをこぼした。
二口目のビールがシズさんの喉をゆっくり動かす。
私も二口目。
「……それで、結局亮ちゃんは独身ということでいいんですね?」
話が戻った。
「そうですね」
「ということは、二人とも独身」
私はうなずく。
「それでは誤解は生んでも、問題は生まないということですね」
「そうなりますか」
「そうなります」
私は背もたれによりかかった。
椅子の軋み。
「……でも娘は怒るかもなぁ」
「一本くれません?」
「え、ああ、はい」
タバコを一本取り出した。
シズさんがくわえる。
私は火をつけてやった。
「ありがとう」
白い息。
夜を漂う。
「たまにね、一本がいいんです」
「そうなんですか?」
「いえね、クラッとくるのが」
「そんなものですか」
私は二本目に火をつける。
「若い女性と同じ部屋は後ろめたいですか?」
死んだ妻は中途半端が大嫌いだった。
「責任を取らないつもりなら、妻には祟られますかね」
紫煙。
「それなら安心ですね」
降参した。
「そうですね」
しばらく酒飲みが続いた。
窓の外に月がまだ見える。
月光。
月見酒となった。
シズさんの頬に桜が散った。
浴衣の着崩れ。
「少し酔ってきました」
「酒を飲んでいますから」
二本目の缶ビール。
「私ね、お酒が好きなんです」
「そうなんですか」
「そうなんです」
ゆっくりと缶を傾ける。
喉が動く。
甘い息。
シズさんはビールのラベルを眺めた。
「……知章は、馬に騎ること船に乗るに似たり」
呟く。
「眼は花し、井に落ちて、水底に眠る」
「なんですか、それ?」
「飲中八仙歌」
「はぁ」
「誰だっけ……確か杜甫だったかな? 昔のね、飲平の歌なの」
シズさんは続けてそらんじる。
汝陽は三斗にして 始めて天に朝す
道に麹車に逢ひて 口に涎を流し
酒泉に移封せられざるを恨む
左相は 日興に万銭を費やし
飲むこと 長鯨の百川を吸ふがごとし
杯を銜み聖を楽しみ 賢を避くと称す
宗之は瀟灑たる美少年
觴を挙げ 白眼をもて晴天を望めば
皎として 玉樹の風前に臨むがごとし
「このね、宗之っていうのが私の理想なの。酒は飲んでも飲まれないってこと」
「お詳しいんですね」
「昔ね、覚えたの。おもしろいから」
シズさんはクスクスと笑う。
「でも使うところないの。おもしろいのにね」
「そうですね。おもしろいのに」
笑いが止まる。
「私って変わっています?」
脈絡もなく。
けれど眼は動かない。
「……いいんじゃないですか? おもしろいから」
「おもしろいですか?」
「おもしろいです。百万円でタクシー乗って北の果てまで。おもしろすぎです」
シズさんの顔が弛んでいく。
「ふふふ、確かに。……ははは」
シズさんはおかしくてしょうがないようだった。
笑いを抑えるのにしばらく。
私はタバコに火をつけて待つ。
「今日はお酒が美味しいです」
「それはよかった」
薫るタバコ。
「もう一本いきます?」
卓上の最後の一本。
「コップあります?」
「注いで飲むのもいいですね」
二つのコップが黄金色で満ちる。
溢れる白い泡。
「注ぎすぎた」
「ビールはこぼれてもいいお酒です」
「そうですね」
少しぬるくなったビール。
「乾杯」
コップは小さく響いた。
ビールはゆるゆると喉に。
虫の声。
月明かりにシズさんは嬉しそうだった。
私も気持ちいい。
ここがどこでもないような雰囲気。
楽しかった。
時計の刻む音。
「続けます?」
外を眺めていたシズさんは呼び戻されたかのように私に振り向く。
しばらく私を見る。
やがて目を細めた。
「……寝ましょう」
そして笑う。
「亮ちゃんの問題意識を信用して」
「任せてください」
私も笑った。
二人で別々に布団を敷く。
私が布団を敷くのを見ながらシズさんは言った。
「布団が一組しかなかったらどうしました?」
「そのときは椅子の上で毛布でもひっかぶって寝てますよ」
シズさんはしばらく私を見つめていた。
「……私ってそんなに魅力ないですか?」
笑った。
「おじさんに意気地がないだけですよ」
「そうなんですか?」
「意気地をなくすからおじさんになれるんですよ」
気分が良かったので良く眠れた。
順調に北に進む。
今日もいい天気だ。
空は高い。
ラジオから音楽。
「♪ルル~ル~♪ ルル~ル~♪ ラ~ラ~♪」
シズさんは陽気だ。
私も陽気だ。
田園。
見晴るかす山嶺。
紅葉。
赤と黄色の織る錦。
日射しは柔らかい。
「トンボがいっぱい」
ガソリンスタンドで小休止。
シズさんはトンボを追いかけてみたりしていた。
赤トンボ。
空を飛び交う。
「逃げられちゃった」
トンボは高く飛んでいった。
高く。
「どこまで行きます?」
私は地図を広げてシズさんに見せた。
「う~ん」
シズさんは一考して指差した。
「下北半島」
目的地は決まった。
ゆるゆるとタクシーは進む。
道が続いている。
遠くまでいけるものだ。
新鮮な驚きだった。
国道四号線をひた走る。
仙台を過ぎて盛岡。
盛岡を過ぎて十和田。
青森県だ。
「青森ですね」
左手に八甲田山。
シズさんはうなずく。
「青森です」
「思えば遠くまで来たもんだ」
シズさんは笑った。
斜陽。
「今夜はどうします?」
後部座席から身を乗り出したシズさんは私の耳元で聞いた。
「どちらでも」
「お酒が飲みたいです」
「なら泊まりましょうか」
「温泉とかないかしら」
地図を見る。
「下北半島には温泉がありますね」
「ちょうどよかった」
国道二七九号線に乗り換える。
左手の景色は陸奥湾に変わる。
終着点は大間崎。
日没。
海は赤く。
境界線。
海は黒く。
月の出。
波が白くかすかな線を横たえた。
ライトが道を照らす。
温泉宿に着いたのは七時ごろのことだった。
オフシーズンの温泉は空いていた。
「では湯上りに」
「はい、一杯」
露天風呂に先客が一名。
「いいお湯ですね」
熱めのお湯。
「どちらから?」
先客は四十ぐらい。きれいな標準語だった。
「東京からです」
「そうですか。私も東京です」
無精髭の男は笑った。男は楠田と名乗った。
「お一人ですか?」
「いえ、客が一名」
「客?」
「実は……」
昨日からのことを話してみた。
「それはおもしろい話だ」
楠田さんはしきりにうなずいてみせた。
「そうでしょう」
「うらやましい話です」
「うらやましいですか?」
「謎の女性と二人旅。うらやましいです」
楠田さんはタオルで首をぬぐう。
「私は一人旅でして」
「一人旅ですか」
「ええ」
楠田さんはうなずいた。
「ちょっとふらりと」
「ふらりと?」
楠田さんは湯をすくって顔を洗う。
「仕事をサボって来てしまったのです」
楠田さんは笑った。
「サボって」
「ええ、サボって」
私は訊いた。
「大丈夫なのですか?」
「駄目でしょう」
けれど楠田さんに屈託はない。
「でも温泉が気持ちいいので、もうどうでもいいのです」
「そうですか」
露天には星空。
「ああ、旅はいいですね。旅をしながら生きてはいけないものでしょうか」
「いいですね」
湯気。
夜空へ昇る。
「実はね、女房にも黙って来てしまったのです」
「怒られますね」
「明日はフェリーで北海道にまで行くつもりです」
「ほう」
「カニを買えばどうでしょう?」
「なるほど」
私は少し計算した。
「一割程度といったところでしょうね」
「一割ですか」
「アクセサリーなどのほうが効果は高いのでは?」
「なるほど」
楠田さんは考えてみると言った。
露天風呂から上がって部屋に戻ると、シズさんが酒盛りの用意をして待っていた。
「今日は私が先でしたね」
「そうですね」
酒盛りが始まった。
今日もビール。
でもつまみが付いていた。
さきいか。
「よく考えると無残な姿ですね」
さきいかをつまみながらシズさんが言った。
「確かに」
私はさきいかをつまみながらうなずいた。
「でも、こんな姿に変われるんですね」
シズさんはさきいかを取り上げてじろじろと観察する。
「それでもイカですよ」
「イカですか?」
「イカです」
一噛みする。
「イカの味がします」
シズさんもさきいかをくわえた。
一噛み。
「そうですね」
イカとビールの夜。
そこにタバコも加えた。
ゆらゆらとしてくる。
静かに。
ゆっくりと。
陽気に。
漂う紫煙。
「さっき温泉でこんな人に」
私は楠田さんのことを話してみた。
「なるほど」
シズさんの顔は赤かった。
「旅はいいです」
シズさんはしきりにうなずいた。
「旅に出てよかったです」
しきりにうなずく。
「楽しいです」
うなずく。
「でも、楠田さんは帰るんですね」
首は止まった。
「奥さんがいますからね」
「カニを持って帰るんですか?」
「北海道ですからね~」
「私はネックレスが欲しいです」
「それなら許します?」
「許しません」
即答だった。
「なぜ?」
「私を連れてってくれなかったからです」
なるほどと思った。
娘はどうだろう?
今度は家族旅行でもするかな。
「でも私だったら知ってる人なんて連れて行きませんけどね」
シズさんは続けた。
「なぜ?」
「知ってる人だから」
なるほどと思った。
一人旅もしようかな。
そのとき私はカニを買って帰ることだろう。
そして怒られるのだろうな。
笑えた。
「ああ、お酒が美味しい」
シズさんのグラスが空いた。白いビールの名残がしたたる。
私は思いついた。
「地酒というのもありですね」
シズさんもはっとする。
「そうでした。忘れていました」
「それなら許せますか?」
「許せます」
即答だった。
二人で笑った。
昨夜の酒が抜けるのには、昼頃まで待たなければいけなかった。
「弱くなったかな~」
そのため出発は正午過ぎになってしまった。
「今日もいい天気ですね」
秋晴れだった。
「もうすぐ本州最北端ですね」
タクシーは右手に津軽海峡を望みながら、最後の道程を消化していく。
「旅も終わりですね」
私は言った。
「終わりですか」
シズさんは寂しげだった。
「続けます?」
大間崎からはフェリーが出ている。
「……いえ、いいです」
大間崎にはすぐに着いた。
津軽海峡。
天気がいいので対岸がよく見えた。
北海道。
「本州最北端の碑」
「マグロ」
本州最北端の碑とマグロの巨大な像が立っていた。
津軽海峡ではマグロの一本釣りが有名だった。
マグロ像の向こうに灯台。
弁天島という島の上に建っている。
岩の岸辺。
フェリーが力強く波をかき分けている。
楠田さんは海を越えたのだろうか。
昼なので漁船はいない。
観光客はまばら。
カモメが飛び交う。
波の音。
うろこ雲。
私はタバコに火をつける。
「着きましたね」
波の音。
「一本ください」
シズさんの口にタバコ。
煙。
風が吹き乱す。
冬の風。
シズさんの髪がなびく。
「北海道も近いですね」
「でも潮は速いですよ」
「泳げそうで泳げない」
二人、柵に寄りかかり海を眺める。
波の音。
カモメの声。
シズさんの声。
「お腹空きません?」
「空きました」
土産物屋は多い。
どの店も本州最北端の店という看板を掲げている。
どれが本当の最北端なのだろう。
「観光戦略なんでしょう」
シズさんの答え。
まぐろラーメンなるものがあった。
味噌味だ。
土産屋にも置いてある。
これも観光戦略か。
節操がないだけのような気もするが。
気にはなるが、やっぱりマグロが有名なら刺身だろう。
こっちのほうがきっと美味しい。
海鮮丼が二つ。
「お酒も欲しいな」
シズさんには日本酒。
美味しかった。
「旅には美味しい食べ物は欠かせないわね」
シズさんも満足。
「お土産でも見ます?」
大間崎観光土産センター。
マグロ漁船。
灯台。
木彫りマグロ。
各種置物。
まぐろラーメン。
マグロの塩辛。
リンゴキャラメル。
ご当地限定販売のお菓子群。
饅頭各種。
大漁旗キーホルダーにまぐろストラップ。
謎の十手、木刀。
マグロの爪楊枝立てが人気らしい。
結局マグロの塩辛を買った。
七百円。
二瓶買ったので千四百円。
ご飯の他にも、冷奴の上にのせたりするといいらしい。
まぐろストラップも買った。
目が丸くてかわいい。
五百円。
「こっちこっち」
塩辛とまぐろストラップを買っているとシズさんに呼ばれた。
「本州最北端大間崎到着証明書だって」
「へぇー」
せっかくなので発行してもらう。
名前にシズさんと亮ちゃんと入れる。
シズさんは証明書を掲げてみせる。
「最果ての女」
笑えた。
「夜行列車で来てたらもっと気分が出ましたかね」
「ふふっ、冬には少し早かったね」
お酒のせいかシズさんは上機嫌だ。
酒に薫るシズさんの頬。
さっきも何か試飲をしていた。
プリクラなどを撮って一通り土産物で遊ぶと、また海に戻る。
波の音。
私の手にはマグロの塩辛が二瓶入ったビニール袋がぶら下がっている。
シズさんはなにやら酒を買ったらしい。地酒か。
二人で手すりに寄りかかり海を眺める。
波の音。
二人でまたタバコ。
波の音。
風の冷たさ、日の暖かさ。
波。
カモメ。
波。
「亮ちゃん」
「はい」
「話していいですか?」
「話したいのなら」
「いろいろあったんですけれど」
「そうですか」
「亮ちゃんはそうですかばっかり」
「そうですか?」
「ほら」
「そうですね」
笑う。
波。
「聞きたいですか?」
弁天島にカモメの群れ。
灯台と鉄塔が建っている。
あの灯台のところに昔、弁天様のお宮があったそうだ。
だから弁天島。
今も島の北側にあるという。
「聞きたい気もしますし、聞きたくない気もします」
シズさんは重ねる。
「なぜ?」
私は答える。
「シズさんの話ではないじゃないですか」
シズさんはしばし私の横顔を見つめた。
波。
「なるほど」
そして納得した。
タバコの灰。
「でも、それだと旅が終ればシズさんは死んでしまいますね」
「亮ちゃんもです」
「悲しいですね」
「仕方のないことです」
旅は必ず終る。
「私も明日からは瀬崎亮介です」
波。
灯台にカモメ。
弁天島の弁天様が今の位置に移るまでに、少しばかりのいきさつがある。
灯台が建つというので弁天様は島から四十八館という丘の上の祠に移された。
それから間もなく、大間の村人達は同じような夢を見るようになった。
「私は蛇が嫌いなのに四十八館には蛇がたくさんいて困る。すぐ元の島に移せよ」
弁天様は泣いていた。
それからしばらく雨が降り続けた。
毎日毎日。
困り果てた村人は和尚さんにおみくじを引いてもらう。
「島に移してくれと頼んでも移してくれないので、夜も安心して眠れない。雨降りには私の嫌いな蛇が出ないので、毎日毎晩雨ばかり降らしている」
そこで島に弁天様を祀り戻した。
だから弁天島。
という話をさっき土産屋に置いてあったパンフレットで読んだ。
別に興味のある話というわけでもない。
けれど一応読む。
なぜ読むのか。
家に帰ったらきっと読まないからだ。
家で読まないから、ここで読む。
そういうことだ。
波。
「私も明日からは……」
シズさんは海を見る。
その横顔がシズさんであるのか、そうでないのか、私にはわからなかった。
波。
お土産も買ってしまった。
もうすぐ旅は終る。
「もうすぐ着きますね」
帰りは電車で帰るという。
青森市街。
「実は偽名を使ったのは今回だけではないのです」
「そうなんですか」
最後の交差点。
赤信号。
「これって家出ですかね」
横断歩道に歩行者が行き交う。
「帰りますか?」
「ただいまを言ってみようと」
青森駅。
ロータリーの一角。
ハザードランプ。
「ありがとうございました」
支払いを済ます。
領収書を渡す。
「いい旅でした、瀬崎さん」
「こちらこそ」
タクシーを降りて見送ることにする。
彼女は土産の酒を手にぶらさげて、しばらく私の前に立っていた。
私の目を見て口を開く。
「瀬崎さんはいい人ですね」
「ありがとうございます」
笑顔。
「本当にいい人です」
彼女は一歩前に出る。
「ちょっとこっちへ……」
私の顔を招く。
耳元で。
「私の名前は……」
「さようなら~」
「またのご利用を~」
彼女は駅に消えた。
街の音が残る。
ふと思った。
月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり。
余韻が残る。
秋晴れ。
旅の中にも旅がある。
「いろんな人がいるなぁ~」
肩を回して、体を伸ばす。
「さて、帰るか」
携帯電話を取り出す。
「あ、江美? 今、青森。これから帰るよ。うん。それでさ、お土産にマグロの塩辛買ったんだけど、他になんかいる? 痛むから生ものは……ああ、冷凍パックで宅配という手があるか……」
話しながらタクシーに乗り込む。
帰りは高速だ。
かれこれ十年近く前に書いたのが古いフロッピーから見つかったので、せっかくだから載せてみました。改めて読むと恥ずかしい。いやー、趣味だわ。
よかったら感想ください。
一応、以下連作となっております。よろしければお読みください。
「歩道橋の上で」http://ncode.syosetu.com/n8046l/
「昼と夜」 http://ncode.syosetu.com/n0204n/