西の森
部屋に帰ってから、窓辺の椅子に沈み込みながら、さっきの事を考えていた。。窓辺から庭園の池で休む一匹の鷺を眺めていると、先程のお告げの紙をくれた、恐らく若い頃は相当の美人だったであろう女性の後ろ姿が浮かんだ。メモを開こうかどうしようかと悩んでいると、スマホにメールが届いたらしく開けてみると問い合わせた不動産屋からだった。幾つかの空き家で内覧が可能らしく、一度事務所まで来て欲しいということだった。スマホを置き、椅子にもたれながら、明日行ってみようかなと思った。先ほどのメモがどうにも気になったので、やっぱり見てみようと思って開いて見た。二つ折りの紙を開いてみるとこう書かれていた。
「あなたは故郷から離れ、西の森を新たな居場所にするであろう。そこで魂を癒やしなさい。あなたが本当の自分を取り戻す日はそう遠くないであろう」
なるほどね。やはり向かうべきは彼の地か。あの女性が受け取ったお告げとお姉さんの霊視と僕の直感の一致。これだけ揃っているなら多分間違いはないかな。僕は明日そちらに伺わせてもらうという旨をメールで送った。
朝、目覚めると珍しく夢を見なかった。すっきりとした目覚めで思考がクリアだった。窓辺で穏やかな陽の光を浴びながら丁寧に歯をブラッシングしつつ、昨日のメモの内容について考える。
(あの西の森っていうのは、やっぱり丁度行くつもりだった国立公園のある場所の事なんだろうな。そこで何が起きるかはわからないけど、素敵な事があるといいな)
口を濯いだ後スマホをチェックすると不動産屋からメールが届いていた。見れば不動産屋が開いている時ならいつでも内覧に行くことが可能と書いてある。今日の16時までなら事務所にいるから待っているということだった。窓からの日光では不十分に感じたので、外に出て陽を浴びようと昨日に続き、今日も朝の散歩に繰り出すことにした。今日の日差しはいつもと少し違う気がした。なんだろう、葉や歩道を照らすというより包み込んでいるような幻想的な日差しだった。やがて交差点の所で背の高い樹木の黄緑色の葉がいい感じに照らされているのを見上げていると、鳥たちが飛びだつ羽ばたき音と同時に足元にどんぐりが落ちてきた。そのまだ綺麗な状態のどんぐりを拾い、そろそろ戻って旅に出る支度をするか、と旅館へと踵を返した。
新地
唐突にあれからチェックアウトを済ませて、電車を乗り継いで、しばらく揺られること数時間。僕は目的地へと辿り着いていた。あの公園のあった所から更に大幅に移動したことになる。電車の窓から見たところ、この土地は昨日の公園よりも更にのどかで緑の多い場所のようだった。いよいよだな、僕はここに住んで、のんびりとした日々を送るんだ。いつかお姉さんの下に大手を振って帰れるように。
到着してみると、国立公園があるこの駅周辺はお洒落なショップが立ち並ぶ通りの素敵な所だった。広々とした人の少ない静かな駅広場のベンチで、開けた青空にゆっくりと流れてゆく雲を眺めながら、全く初めての土地の空気を吸って、新地に来たという実感に包まれて、ワクワクしていた。そうして、しばらく空を眺めて待っていると、後ろから名前を呼ばれた。
振り向くと初老の男性がいつの間にか近くにやってきていた。好々爺と言った感じの老人だった。
彼は「こんにちわ」と言って名刺を差し出してきたのだった。名刺の紙にはただ「白井岳」とだけ書かれていた。
「はじめまして。君が和人君かな?随分若いみたいだけど」
「15歳です」
「そうか。まあ何歳でも構わない。早速家を見に行こうか」
「ええ」
僕と白井さんを乗せた黒いベンツは、駅前の中央広場を静かに滑り出していった。後部座席の背もたれにもたれながら左の方に見える国立公園がやたらと気になっていた。ロータリーから樹木に囲まれた公園の入り口は見えていたのだが、走る車内から眺めていると川ではしゃぐ子供たちの姿が散見された。ちらりと右手を見ると山が見える。この地へ来て早々、何故か自然の中に還りたい、山の土、あの木々の風でささやく音に包まれたいという欲求に胸が締め付けられていた。
僕は家を手に入れる
到着した家はホームページの写真で見た時より更に立派な造りをしていた。こんな所を無料で貰えるなんて、何かの詐欺ではないかと疑ってしまった。勿論そんなことは口に出さなかったけど。シンプルだが全体が明るい色の木材で構成されていることも好感が持てた。白井さんが解錠作業をしている間、僕はひたすらこの新しい住処となる建物を正面から眺めていた。
中に入ると素材として使われている木材は更に明るい色彩を放っていた。その視覚的効果と、匂いと、足の裏で感じる思ったより滑らかな木の床の感触で既に僕はこの家が好きになっていた。見回すと窓から庭が見えた。
近寄って窓越しに見ると庭は想像よりもずっと広くて、個性豊かな樹木と花壇の花達で溢れていた。けれど決して過度に植えられてはいない。この庭を造った人とに好感を持った。植えられているのはパンジーや藤など有り触れた花達だが、色鮮やかな長方形の花壇で、この花壇自体が一つつのアートのようだと感じた。窓を開けて庭に出ようとしたのだが、履き物が無い事に気がついた。振り返ると白井さんが優しい笑みで二人分の靴を持ってきてくれていた。
庭の地面を直に感じて思ったのだが、このような立派な家をなぜ以前の持ち主は手放そうと考えたのだろうか?花壇に近づき、鼻を近づけて匂いを嗅ごうとパンジーに顔を寄せるとミツバチがお尻を此方に向けて潜り込んでいた。邪魔をしてはいけないとそっと離れ、改めて庭全体を観察してみると、左の方になかなかに立派な樹が立っていて至近距離で観察してみると、それ程大木というわけでもないが、この庭で一番大きな植物で何だか大黒柱のような印象を持った。
一頻り庭との最初の対面を終えて、リビングへと戻ってみると、本当に何もなかった。皿の一枚すら先住者が運び去ってしまったらしい。白井氏は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
「すまないね。依頼主が君のような若い子だとは思わなかったものだから。事前に分かっていたら布団くらいは用意しておいたのだけれど・・・」
僕が寝袋があるから平気だと言うと、白井さんはこの近くは店が揃っているからと布団を売っている店の地図まで書いてくれて、明日行ってくるといいと言い、最後まで心配そうにしながら帰って行った。
白井さんが帰った後も、すぐにエアコンをつけて、窓から花壇を眺めていた。そうだ、お姉さんに新居に越した事を報告しないと。僕は居間やお風呂や庭など、家の中の写真を何枚か撮って、メールで送った。
「元気?僕はこっちで一軒家を手に入れたよ。その内お姉さんも遊びにおいでよ。明日は家具とか見繕いに行く予定」
美しい庭で癒やされたためか空調が効いてくると途端に眠くなってきた。僕はさっさと歯を磨いて寝袋を敷いてすぐに横になった。ガランとした家の中は灯りを消すと本当に静かだった。耳を澄ますと、微かに虫の鳴き声だけが心地のいい一定のリズムで聴こえてきた。ああ、とうとう目的地のこの場所までやってきたんだな。明日が楽しみだ。