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ターニングポイント

パン屋さんと出会う


食事を終えると外出したくなった。フロントに鍵を預けて散歩に繰り出すことにした。この旅館にいつまでいられるんだろうと思いながら、空を見上げた。今日もいい天気だ。


大通りから少し外れて、路地を歩いていると、パン屋があるのが見えた。さっき朝食を食べたばかりだけどちょっと見てみようかと思って入ってみた。棚に並んだパンを見てゆくと、アップルパイが新鮮で美味しそうな気がしたので、購入しようとレジの方を見るが誰もいなかった。


厨房が窓越しに見えるようになっていたのだけれど、そこでは女の子が一人で作業をしていた。他に店員はいないのだろうか?どうしたものかなとしばし手持ち無沙汰になっていたが、ふとレジ台に呼び鈴があることに気づいて「チリン」と鳴らしてみた。その店員の少女はせかせかと会計を済ませパンを袋に入れてくれた。


パンを手に入れて、早速どこかで食べようと、食事ができそうな場所を探すことにした。なんとなく旅館の部屋で食べる気になれなくて、結局歩きながら食べることにした。パンは作られて間もないのだろう。生地はサクッとしていて中のりんごも柔らかくて温かった。あの店も良い店だと思った。

 

新地への希望

 

どこに行こうかしばし考えてみた。やはり美しい自然のあるところがいい。それでいて、人気があまりなければ尚良い。僕は故郷にいる頃、トラウマに苦しめられていたんだけど、そこから解き放たれるような新しい体験を求めて旅に出た。


そうしたら、僕は本当に意味で自由になれるはずだと思ったんだ。いっそのこと日本という国から離れて、新しい場所で新生活を始めてみるのも悪くないんじゃないだろうか。と大それた考えがチラリと頭をよぎる。


例えば北欧の森は美しいと聞くし本で写真を見て綺麗だと思ったことがある。場所が海外ということなら、それこそ未知の体験で溢れかえっているはずだし、いつか行けるといいなと思った。だけどさすがに今すぐ海外に行くのは無理だと思った。言葉も分からないし、見知らぬ土地でやっていける程成熟している訳でもない。まあ、焦ることはない。

 

喉が乾いたので、一階の自販機まで行こうと階段を降りてゆくと、二人の若い女性が卓球を繰り広げていた。卓球はやるのは好きなんだけど、誰かがやっているのを見ると、騒がしいなと感じた。お茶だけさっと購入してさっさとその場を離れて自室に戻ろうと思った。チラリと廊下の窓から外を見てみると小雨が降っているらしい。


雨の中歩くのは嫌いなので止むまで外出が出来なさそうだ。どうしよう。本も持っているのは読み尽くしてしまったしな。買ってきたお茶を卓袱台に置いて、再度ロビーの受付に降りていった。老婦人が女将と何やら話し込んでいたが、後方の方で少し待っていると、若い仲居さんが応対してくれた。「あの、ノートパソコンを使いたいのですがありますか?」

期待はしていなかったけど意外に最近の旅館は無料でパソコンが借りらるらしい。


早速、部屋に戻って電源を入れてみると静かな駆動音でパソコンは起動し始めた。ネットバンクの残高を確認してみたところ、預金残高的にはまだまだ余裕はあるものの長い目で見るとそれほど沢山あるという訳でもなかった。なので、どうせなら住居と一緒にお金も入ってくればいいと思い自分に何が出来るかを再び考えてみた。やっぱり絵だろうか。向こうで、公園で写生とかしてたら、いい絵が描けるようにならないだろうか。もしくは植物の研究でもして本を書いてみるとか?


それからしばらく、うんうんと悩んでみたけど、それ以上の案は浮かばなかった。


まあいいや。お金のことは何とかなるだろう。


窓際の椅子で一休みしながら、外を見ると小雨が止んで日が差し始めていた。いい天気だ。そうだ、この間散歩している時に見かけた神社に行ってみるか。特に理由はない。だけど、何となく、神社の方角に視線をやると、話があるからこっちへおいでよという神様からのメッセージを受け取った気がしたのだ。こんな時は何かいいお告げでも貰えたりするかもれない。


受付でパソコンを返して、外を見ると、雨は止んでいた。薄く鱗雲が伸びている空模様の中を神社を目指しながら散歩に出かけることにした。道中、スマホで軽く調べたところ、あの神社は龍神を祀っているらしい。いいな、龍の神様。龍にはご利益がありそうだから好きだった。


到着するとそれ程人がいる訳でもなかった。そこそこの広さとあまり人がいないため静けさがあっていいところだと思った。神水と呼ばれる湧き水が飲めるらしい。砂利道を歩き、拝殿に辿り着いて、先の人が拝み終わるまで、自分の中のささやかな霊性を少し高めるようなイメージで2,3回深呼吸を繰り返した。


目を開けると既に前の人はいなくなっていて、僕の番だった。取り敢えず2礼2拍手して神様からのメッセージを聞き入るような感じで、目を閉じて、精神を研ぎ澄ませた。神社に来る時はいつもこんな感じだ。このやり方で地元の神社で以前にも啓示のようなものを受け取ったことがある。その時は心の中にメッセージが浮かんだ。


だから今回もきっと神様から何か良いアドバイスが受けとれると思って目を閉じたまま待っていた。そうすると今回はメッセージではなく、イメージが浮かんだ。そのイメージを記憶したまま、一礼して、手水舎の所で神水を飲むと、そのまま旅館に帰った。


部屋に戻ると既に布団が敷かれていた。結構歩いたから思ったより疲れていたので丁度良い。そのまま部屋から動く気になれず、夕食が来ても変わらず寝転がったままだった。


さっきのイメージは何だったのだろう?うかうかしていると忘れてしまいそうだ。ええと、確か緑、そう、何かの植物が頭の中に浮かんだんだった。多分間違ってはいないと思う。自分でも考えていた事だが、やはり植物に関することをせよというお告げだったんだと思う。考え事をしている間にすっかり冷めていた料理に少しだけ手をつけながら、更に考える。神様からのお墨付きなら植物で決まりだなと思った。


知識がそれ程ないからもっと花や樹に関して勉強しないといけないけど、ともかく、これから行く先で、落ち着いたら実際に幾つか育ててみて、研究してみようと思った。きっと上手くいくはずだ。最近巷ではハーブが注目されはじめていると聞いたことがあるけど、ハーブティーとかアロマオイルとかもいいかもしれない。やりたいことは沢山あった。

 

ぐるぐると頭の中で思考が巡ってゆく。ポツポツと料理を三分の一程食べ終えて、窓から庭園を眺めつつ、新地への期待が増していることに気づいた。これから行こうとしている場所は、無事借りられたら一軒家で土地が広いし、育てる植物の数を増やすことも可能なはずだ。後はブログで育成日記なり、描いた絵を載せたりすれば何とかなるのではないだろうかと、我ながらかなり大雑把で無謀な計画だと思ったが、既に気持ちは彼の地へと向かっていた。


黒猫と夢


翌朝の目覚めはぼんやりとしていて、どこか夢の世界の残滓を感じさせた。何だか太陽が高いなと思って時計を見ると既に9時を回っていた。布団に包まったまま、今見ていた夢の内容を思い出そうとした。どうも黒い猫が登場した夢だった事は覚えていたが、そのくらいしか思い出せなかった。気になりつつも浴衣から普段着に着替え、水道水を2杯ほど飲んで一階のロビーに降りていった。


どこで朝食を摂ろうかな。そう言えば、昨日のパン屋さんは確かサンドイッチも置いてあった。そこで買って公園で食べる事にしよう。

 

外の空気と程良い日光で脳が覚めてゆくのを感じながら、目の前の通りを右に曲がって陽気に歩いてゆく。なんだか最近調子が良くなりつつあるような気がする。歩いていても心が軽いような。元々精神を癒やすのがこの旅に出た目的の一つだから、上手くいっていると喜ぶべきなのだろう。


さて、やってきたパン屋。初めてやってきたのだが、結構分かりくい立地で、柿の木が生えているのが唯一目印だった。店内に入って、並べられた品物を物色するのだが、やはりこの時間帯は品揃えが良く、ついつい余計な買い物もしてしまいそうになる。結局トマトのサンドイッチとハニートーストを買って、来た道を公園の方に向かって戻っていった。

 

公園内は平日のこの時間帯なので、老人やジョギングするお姉さんくらいしか居なかった。皆が思い思い過ごしているところが公園のいいところだと個人的には思っている。朝の爽やかな空気を吸い込みながら、座りやすそうなベンチに腰掛けて少し休憩していると、小鳥が何羽か足元に舞い降りて恐らく木の実か何かをついばみ始めた。


僕の足元を無警戒に通り過ぎてゆくのもいて、彼等の動きや一体一体の異なる個性を餌をやりながらしばらく興味深く観察していた。やがて小鳥達は飛び去っていき、僕はサンドイッチをもぐもぐと頬張っていた。


ふと左の方に視界を移すと一匹の黒い猫が先程のお姉さんからもらった水をペロペロと飲んでいた。お姉さんは慈しむような表情で時折、猫の背中を優しく撫でていた。猫はミャーと呟くように鳴いた。その光景に僕は一瞬当惑した。あの猫は多分首輪を着けていないから野良猫なんだろうけど、あのお姉さんはわざわざ水の入った皿を家から持ってきたんだろうか?いつもこの公園で水をあげているんだろうか。そして何より、あの黒猫はどうもどこかで見た気がする。


今日夢で見た猫なのだろうか?そうだとすると、一体何が起きているのだろう?何か超常的な暗示だろうか?それとも、僕の考えすぎで、ただ普通にお姉さんと猫が戯れているだけか?


サンドイッチを食べるのも忘れて、猫と女性をじっと見ていると、やがて猫は飲み終えたのかトコトコと離れて行き、伸びをしながら欠伸をすると、丸くなって目を閉じていた。お姉さんは猫に「またね」と微笑みながら手を振るとストレッチに戻っていった。


やがて僕と猫は目が合った。その瞳は何か訴えかけるような目だった。やっぱりあの黒猫、僕に何か用があるみたいだな。丸い目でこちらをじっと見ているもの。僕は少しだけ食事を再開しつつも、丸くなっている黒猫をじっと見ていた。


猫の容姿自体はこれと言った特徴のないよく見かける普通の黒猫に過ぎなかった。模様とか傷とかもなく、綺麗な毛並みだ。黒猫は不吉だというが、僕にはむしろ吉兆に思えた。僕には視ただけであの猫の声が聴こえたり、あの猫の気持ちが分かったり、またこの黒猫の出現に何か重要な意味があるのかどうかさえ分からなかった。だから、サンドイッチを放置して取り敢えず猫の方に少しずつ忍び寄ってみることにした。本当に何となくだけど、この黒猫との出会いがとても大切なもだという気がした。慎重に一歩ずつ猫の反応を伺いながら僕は近づいていった。 


ある地点で黒猫はその目を開いた。僕はしばらく立ち止まり黒猫と正面からじっと見つめ合った。やがて猫は伸びをして立ち上がると、ふいと横を向いた。そして公園の出口の方で立ち止まって振り返った。どうやらついて来いと言っているようだ。そして、まるで意思が通じ合ったかのように猫は外へと歩き出していった。僕も黒猫の後を歩いていく。まるで自分が親猫の後に続く子猫になったような気がした。マイペースに路地を歩いてゆく猫の後を追い歩いてゆく。その間、一人の女性とすれ違ったが、猫とその後を歩く僕のことは全く気にならないようだった。周りからは別に変な光景でもないようだ。

そして、猫に導かれながら、広い庭のある白い洋館に辿り着いた。この辺りでは目立つ程大きな邸宅だった。どことなく小さな西洋の城を感じさせる。それでいてお洒落なデザインでしばしその家をぼうっと見詰めたまま立ち止まっていた。ふと気がつくと先程まで足元にいた黒猫はトコトコと邸宅の庭の真ん中に入っていき、そこでごろりと丸くなってしまった。


僕がどうしたものか思い、2,3分ほど庭に植えられている個性的な植物達を観察しているとガラリと窓が開き家の中から一人の初老の女性が木箱を抱えて現れた。彼女が姿を現した途端、まるで見計らったように小鳥たちが一斉に木箱のパン屑や木の実を目掛けて羽ばたき降りてきた。女性は小鳥達が啄む様子を慈しむような微笑みで見守っていた。黒猫はその間も庭で丸くなったまま目を閉じていた。少しして彼女は小鳥達から目を移してそのままの微笑みで僕の方を見た。まるで何もかも最初から知っているような眼差しで。そして家の中へと引き返していき、5分ほどしてから今度はある緑色の紙に書かれたメモを持って現れ、庭の門扉を開き僕にそのメモを渡してこう言った。


「昨夜、夢の中で女神のような女性からお告げがあったのよ。今日一人の少年がやって来るから、その子にこのメモを渡しなさいってね」

僕は慎重に壊れ物のようにそっとそのメモを手に取った。中を開こうか少し逡巡していると、女性はうっとりと感動するように空を見上げながらこう言った。


「私は君のことよく知らないけどね。とりあえず、この時点があなたの一つのターニングポイントなるのでしょうね。そんな風に流れが変わるのを私も感じたわ」


そして、ニコリと笑った。僕には何が何だかさっぱり分からなかったが、不思議な流れに乗っているという感覚は僕も同感だ。この旅は僕にとって不思議さを教える旅なんだ。この人が言うようにここが僕の人生における転換点なのかもしれない。僕の人生はここから変わりはじめるのだろう。この女性がどこまで僕の事を知っていて、このアドバイスにどこまで信憑性があるのかは分からないけど、この一連の出来事は僕にとってとても大切なものだという確信があった。


結局その場ではメモは開かず、名乗りもせず、ただ頷いてメモを受け取るだけにとどめた。女性は特に気にする事なく庭へと戻ってゆき、僕に手を振ると家の中へ入っていった。黒猫は相変わらず庭の真ん中で欠伸をしていた。メモを気にしながらも僕は歩いて公園へと戻り、先程の食べかけのサンドイッチを回収して、メモは取り敢えず財布に丁寧にしまい込んで、旅館の部屋へと戻った。

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